私は幼い頃から、不思議な話や怖い話が大好きで、それは今も変わりません。
考えてみれば、文学の祖とも言うべき神話は、洋の東西を問わず、不思議な物語の連続です。
また、源氏物語にしても、お能の曲にしても、古典文学の場合、多くが、死霊や生霊、化け物が登場します。
物語の本質は、この世ならぬものへの憧れや予感にあると言ってもよいでしょう。
明治維新以降、わが国文学は西洋の影響もあってか、不可思議なお話よりもシリアスな物語が増え、特に私小説などと呼ばれる分野は、貧乏自慢や自己憐憫のようなもので、文学の正統性が失われた感があります。
現在はシリアスなものから不思議なものまで様々あり、何が文学の正統かなんて、考える意味もなくなりました。
良い時代なんだろうと思います。
お好みの物語を堪能すれば良いのですから。
私がどうしてこれほど不思議な話や怖い話を好むのか、よく分かりません。
しかし、不思議な話や怖い話にこそ、人間の本質である、欲望や願望、恐怖、祈りなど、が隠されているように思うのです。
優れた物語に接すると、本当に幸せな気持ちになります。
だから私は、本であれば小説ばかり読みますし、映画であればドキュメンタリーみたいなものは敬遠してしまいます。
三つ子の魂百まで、とはよく言ったもので、思い起こしてみれば私が7歳の時、広告の裏に初めて書いた物語は、「ドラキュラの歯はない」というタイトルでした。
年を取りすぎて鋭い歯を失った吸血鬼が、それでも生き血を吸いたいと、フォークを使って美女を襲う、という、結構悲哀に満ちた物語だったように覚えています。
しかし、筒井康隆が言っていたように、超自然現象とか超能力というものは、この世に存在し得ないものなのだろうと思います。
もし存在すれば、それは単なる自然現象であり、能力です。
幽霊が存在するのなら、それは自然界に当然に存在しているものであり、単にそれを認知する能力が人間に備わっていないだけでしょう。
超能力もしかり。
スプーンをにらむだけで曲げられるなら、それは単なる能力です。
むしろイチローや今話題の少年棋士の能力のほうが、驚異的で超能力っぽく感じます。
今ここに私が存在している不思議を思えば、何が起きてもさしたる不思議はありません。
それでもなお、私は不思議なお話や怖いお話を求め続けていくのでしょうね。
それらはまた、美的であればあるほど、より一層怖ろしく、不思議なのですから、一種の美的探究と言えるかもしれません。