ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

怖いお話

2017年07月05日 | 文学

  私は幼い頃から、不思議な話や怖い話が大好きで、それは今も変わりません。

 考えてみれば、文学の祖とも言うべき神話は、洋の東西を問わず、不思議な物語の連続です。
 また、源氏物語にしても、お能の曲にしても、古典文学の場合、多くが、死霊や生霊、化け物が登場します。

 物語の本質は、この世ならぬものへの憧れや予感にあると言ってもよいでしょう。

 明治維新以降、わが国文学は西洋の影響もあってか、不可思議なお話よりもシリアスな物語が増え、特に私小説などと呼ばれる分野は、貧乏自慢や自己憐憫のようなもので、文学の正統性が失われた感があります。

 現在はシリアスなものから不思議なものまで様々あり、何が文学の正統かなんて、考える意味もなくなりました。

 良い時代なんだろうと思います。
 お好みの物語を堪能すれば良いのですから。

 私がどうしてこれほど不思議な話や怖い話を好むのか、よく分かりません。
 しかし、不思議な話や怖い話にこそ、人間の本質である、欲望や願望、恐怖、祈りなど、が隠されているように思うのです。

 優れた物語に接すると、本当に幸せな気持ちになります。

 だから私は、本であれば小説ばかり読みますし、映画であればドキュメンタリーみたいなものは敬遠してしまいます。

 三つ子の魂百まで、とはよく言ったもので、思い起こしてみれば私が7歳の時、広告の裏に初めて書いた物語は、「ドラキュラの歯はない」というタイトルでした。
 年を取りすぎて鋭い歯を失った吸血鬼が、それでも生き血を吸いたいと、フォークを使って美女を襲う、という、結構悲哀に満ちた物語だったように覚えています。

 しかし、筒井康隆が言っていたように、超自然現象とか超能力というものは、この世に存在し得ないものなのだろうと思います。
 もし存在すれば、それは単なる自然現象であり、能力です。

 幽霊が存在するのなら、それは自然界に当然に存在しているものであり、単にそれを認知する能力が人間に備わっていないだけでしょう。
 超能力もしかり。
 スプーンをにらむだけで曲げられるなら、それは単なる能力です。

 むしろイチローや今話題の少年棋士の能力のほうが、驚異的で超能力っぽく感じます。

 今ここに私が存在している不思議を思えば、何が起きてもさしたる不思議はありません。

 それでもなお、私は不思議なお話や怖いお話を求め続けていくのでしょうね。
 それらはまた、美的であればあるほど、より一層怖ろしく、不思議なのですから、一種の美的探究と言えるかもしれません。


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