私が初めて宗教ということを意識したのは、「オーメン」シリーズや「エクソシスト」シリーズなど、キリスト教を題材としたオカルト映画でしたねぇ。
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でもキリスト教を深く知ろうとは思いませんでした。
何しろ小学生でしたから。
私は日蓮宗の寺に生まれ育ちましたが、日蓮宗の教えにさしたる興味は持ちませんでした。
法華経を最高のお経とする日蓮上人の教えが、よく理解できなかったこともあります。
法華経を読んだ時の印象は、なんだか例え話と、観音経や虚空会、二仏並座など、ありえないSF的な演出ばかりで、理論理屈が無いように思えたものです。
スペクタクルとしては面白いですが。
江戸時代の白隠禅師も、27歳で初めて法華経を読んだとき、失望した、と言っています。
ただし、老境にいたって読み返したとき、その素晴らしさが分かったそうですが。
それなら私も、いずれ法華経の素晴らしさに気づくんでしょうかねぇ。
平安時代の二大巨頭、伝教大師=最澄と弘法大師=空海の解説書を読んだ時も、なんだかピンときませんでした。
私が最初に興味を持ったのは、大学生の頃、道元禅師の禅でした。
道元禅師は、成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)、としました。
厳しいですねぇ。
若いうちは厳しいものに憧れる傾向があるものです。
また、道元禅師は、浄土教などの易行に批判的であったことから、自然と、浄土の教えは食わず嫌いになりました。
しかし40歳を超えて、しかも精神障害にも見舞われ、浄土の教えに魅力を感じるようになりました。
弱った心に、慈雨のようにしみこんできたのです。
その一つをもって、修行も出来ず学も無い一般庶民の信仰を集めたことが実感として分かります。
でも浄土の教えは、一般的にはかなり誤解されているように感じます。
例えば他力本願。
その語感から、なんだか努力しないで、他人の力に頼っているように感じるのもやむを得ないことでしょう。
あるいは悪人正機。
悪人こそが極楽往生できるのなら、いくら悪いことをしても良いように感じられます。
「歎異抄」によく知られた言葉があります。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや
これは誤解されるでしょう。
善人ですら往生できるのだから、悪人が往生できないわけがない、というわけです。
その真意は、自力で善をなし、往生しようとする人(善人)は、阿弥陀仏の本願への信心が欠けており、そういう人でも往生できるのならば、煩悩だらけで阿弥陀仏の本願にすがることでしか往生できないと考える人(悪人)が、極楽往生できないわけがない、ということでしょう。
「歎異抄」はすごく短くて、美しい日本語で書かれているので、古文が苦手な人にも簡単に読めると思います。
ご一読をお勧めします。
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歎異抄 (岩波文庫 青318-2) | |
金子 大栄 | |
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つまり善悪という言葉が、一般的な意味とは異なるのですね。
他力本願とは、阿弥陀仏の力(他力)によって、阿弥陀仏の本願(すべての衆生が救われること)を深く信仰し、一心に念仏を唱えるということです。
この考えはさらに進んで、「南無阿弥陀仏」と唱える、念仏という行為そのものが、自力で行っているのではなく、阿弥陀仏の衆生を救いたいという本願が、人々に唱えさせているのだ、というところまで行き着きます。
この易しい教えは、精神病に苦しんでいた私を慰めてくれました。
しかし、その後よくなると、すっかり忘れて、南無阿弥陀仏を念ずることもなく、また実家の日蓮宗で重要視されるお題目、南無妙法蓮華経と唱えることもありません。
当初禅による自力での修行に魅力を覚え、実家の寺で重視される法華経に失望し、他力本願に魅力を覚えたが、今は仏教にさしたる興味が無い、というのが偽らざる心境です。
ではキリスト教だのイスラム教だのに興味があるかと言えば、どうしても一神教は食わず嫌いで、概説書を読んだことはありますが、聖書も読んだことがありません。
あ、でもコーランは詩編みたいな感じだったので、ざっと目をとおしました。
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コーラン 下 (岩波文庫 青 813-3) | |
井筒 俊彦 | |
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はぁ、そうですか、としか思いませんでしたね。
神道は基本的に仏典や聖書に相当するような書物はありません。
概説書くらいでしょうか。
後は日本神話ですかねぇ。
神道は日本人の心の故郷だとは思いますが、宗教として体系づけられたものではなく、スタイリッシュで美しい装束や儀式が本質と言えるかもしれません。
素朴な自然崇拝でしょうねぇ。
今、関心を寄せている特定の宗教はありません。
多分それは不幸なことなのでしょうね。
人間なんて弱いものですから、人智を超えた、何か圧倒的な教えや思想にすがりたいと思うのは自然な情だと思います。
オウム真理教などのカルト教団に限らず、共産社会を夢想した左翼過激派なども、一種の信仰に近い心情だったのだろうと推測します。
私は私が過去の思想や宗教からいいとこ取りした私だけの宗教みたいなものを信じる他ない、とかつてこのブログで書きました。
しかし今は、少し、心境が変化しています。
私が私を拝むのでは、まるで織田信長みたいになってしまいます。
延暦寺を焼き、石山本願寺を焼いたかの武将と異なり、私は既成の宗教にはすべて畏敬の念を抱いています。
信じる信じないは別にして。
過去の人々、そして現代の人々が生きるよすがとした既成宗教は尊重されるべきものと考えています。
日本人の多くがそうであるように、心の底では、私は無宗教なのだろうと思います。
いやむしろ、特定の宗教に拘らず、あらゆる宗教になんとなく畏敬の念を抱いてつまみ食いする、という態度こそ、現代日本人の一般的な信心の形なのかもしれません。
逆説的ですが、私はもしかしたら、日本人の在り様としては、信心深いと言っても良いのかもしれません。
いつかこれこそ私が信じるべき教えだ、と思える宗教に出会いたいものです。
私の宗教遍歴はまだ続きそうです。
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