ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

妖怪怪異

2014年07月02日 | 文学

 7月に入って、今日は晴れてずいぶん夏めいた一日でした。

 わが国では、夏と言えば怪談。
 怪談話を聞いて、冷やぁっとして涼もうとは、ずいぶん悠長と言おうか、まどろっこしい話です。

 現代ではエアコンをかければいつでも高原の朝のような涼気を得られます。
 そんな現代でも、夏になると怪談が流行りますね。

 私は幼いころから怖いお話や不思議なお話が大好きでした。
 それが高じて今も幻想文学やホラー映画が大好きです。

 このブログをご愛読くださる方はよくご存知のとおり、私は常軌を逸したホラー映画ファンでもあります。

 幽霊だとか妖怪だとか怪物だとか言う物は、観念上の存在で、物理的には存在しえないことになっています。
 呪術だとか魔術だとかもまたしかり。

 それはそうなのでしょうが、私は言葉が存在するかぎり、それは実体として存在する、もしくは実体として存在するのと同様の確からしさをもって人々から認知されているものと思っています。

 例えば幽霊。
 幽霊という言葉が存在するということは、幽霊なる概念が存在し、それは多くの人からこういう物と認知され、さらにごくわずかの人々はその存在を見たりして、実体を伴う存在と信じています。

 妖怪というと、それを実体を伴う存在と信じている人はぐっと減るものと想像しますが、妖怪という概念自体は、広く人々に認知されています。

 呪術や魔術もそうでしょう。

 人がそういった概念を作り出したのか、何らかの存在に示唆されてそういった概念が生まれたのかは定かではありません。

 重要なのは、そういった不思議な存在の概念が数多くの人々に認知され、例え物語のなかだけにしろ、それらを楽しんでいることです。

 人というもの、怪異や不思議を渇望しているかのごとく、それらの存在をあるいは恐怖し、あるいは喜びつつ、怪異譚に接し続けています。

 私もそうです。
 私がなぜ妖怪怪異の類や奇妙なお話を好むのか、自分でも不思議でなりません。

 現世が基本的に退屈でつまらないものだということを幼いころから予見し、であればこそ、この世ならぬ物への憧れを募らせていったのかもしれません。

 そうだとすると、私は生まれついての厭世家なのかもしれません。

 できることなら、この人間社会に地に足をつけて、くだらぬ予感を感じることもなく、現実主義的に生きたいものです。

 それが叶ったとき、私は私ではなくなり、確固とした社会人として生きられるのかもしれません。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

集団的自衛権

2014年07月02日 | 社会・政治

 安部内閣が集団的自衛権を行使可能とする閣議決定を行ったことが大きく報道されていますね。

 これを歓迎する声、批判する声、様々あって、わが国は健全であるなと頼もしく思います。

 批判する声は、他国の戦争に巻き込まれる、だとか、戦争が出来る国になってしまう、とか言うもの。

 他国の戦争に巻き込まれる、という批判は理解できますが、戦争が出来る国になる、というのは不思議な理屈です。

 わが国はこれまでの長い歴史の中で、戦争が出来ない国であったことなどありません。

 憲法で禁じられているから出来ないというのは、憲法で禁じれば台風も発生しないし地震も起こらない、みたいな話です。

 法律に書いたって、攻撃されれば反撃せざるを得ず、そのためにサンフランシスコ講和条約が成立して独立を勝ち取るや、わが国は直ちに再軍備を行いました。

 もし憲法が禁じているから戦争は出来ないのだとしたら、法律守って国が滅んだみたいな、誠に悲惨なことになってしまいます。

 100歩譲って、法律があるから戦争が出来ない、という幻想が広く信じられていたとしても、おそらくわが国政府は、万やむを得ざる状況に追い込まれれば、超法規的措置によって、戦う道を選ぶでしょう。

 そのような事態は法治国家として望ましくないので、法律によって交戦権について明記すべきでしょうね。


 私としては、今回の閣議決定は緊急避難的なもので、最終的には日本国憲法を全面的に改正するのが正しいやり方だと思っています。

 それは何も憲法9条に限ったことで無く、1条の天皇条項から、全てです。
 
 わが国はあまりにも大きな戦に敗れたため、軍事力ということにあまりにナーバスになってしまいました。

 しかし、現在の世界情勢・アジア情勢に鑑みて、強力な軍事力を保持しなければ、わが国の平和が危うくされることは火を見るより明らか。

 強力な軍事力を保持し、訓練怠りないことを見せつけるだけで、紛争が起きる可能性は著しく低くなるでしょう。

 誰だって強力な国家を敵にまわして戦うことを避けようとするでしょうから。

 第1次・第2次の世界大戦を経て、世界はずいぶん平和になりました。
 少なくとも、軍事大国同士がガチンコで戦うということは、もはや想像できません。

 地域紛争はいつの時代もなくなりませんが。

 それというのも、それぞれの軍事大国が総すくみの状態になって、手が出せないからでしょう。

 しかし、100年以上前の帝国主義的理屈で行動する異形の大国が、わが国のすぐお隣に生まれてしまいました。

 かの国は海軍力が弱く、しかも米軍と手を切ったフィリピンの小さな島を強引に奪い、今また、ベトナムの島を虎視眈々と狙っています。
 ベトナムはフィリピンよりは骨がありますから、まだ島を奪うことに成功はしていませんが。

 そして、尖閣諸島。

 今、わが国の海上兵力はかの国を凌駕し、しかもオバマ大統領が尖閣諸島は日米安保の範囲と公言したことから、一時期ほど挑発的な行動は採らなくなりました。

 それどころか、オバマ大統領の発言後、絶対に受け入れなかったわが国の政府高官や国会議員の訪中を次々に許しています。

 分かりやすい国です。

 わが国と米国の海上兵力に脅威を感じているのでしょう。

 ことほど左様に、世界は力の論理で動いています。
 わが国も十分な力を涵養し、それを存分に活かせるような法制度を整えるのが重要です。

 そういう意味で、このたびの解釈改憲、第一歩としては上々の出来なのではないでしょうか。

 しかし、勝負はこれから。

 日本国憲法の全面改正、もしくは日本国憲法を廃止して新たな憲法を作る気概が政治家の皆さまには求められます。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病みつつ我は

2014年07月02日 | 文学
 5月12日に飲み仲間であった三つ年上の悪友が47歳の若さで果かなくなってしまったことは、その日のうちにこのブログで報告したところです。

 近しい人が亡くなるということは誠にしんどいことですが、ただしんどいだけではなく、おのれの死を考えるきっかけになります。

 「哲学は死の練習である」とソクラテスは言い、「死がなければ哲学もなかったであろう」とショーペンハウアーは言ったそうですね。

 ことほどさように人間にとって死というのは重要で興味深い問題です。

 いつでしたか、テレビで西部邁も「死と宗教」の問題だけが人間にとって唯一の関心事だ、といった意味のことを言っていましたね。

 私が最も死に近づいていたの平成16年から17年にかけて、うつ状態が激しい頃で、最も深く人の死について考えたのは2年3カ月前の父の死から数ヶ月の間でした。

 いずれもかなり直接的な理由があったためで、人間、切羽詰まらないと、おのれの死というがごとき重要なことも忘れてしまうようです。

父の齢(よはひ)に 至らざれども 良寛の 示寂に近し 病みつつ我は 
 
 宮柊二の歌です。

 父親の寿命よりは若いけれど、良寛の死期に近づき、死を意識したという意味でしょう。

 一種強烈な印象を残します。

宮柊二歌集 (岩波文庫)
宮 英子,高野 公彦
岩波書店

 私の父は良寛よりわずかばかり早死にしていまいましたので、この歌をそのまま読み取ることはできません。

 しかし、45歳で自死を遂げた三島由紀夫の年齢まで、あと2カ月を切りました。

 三島由紀夫と良寛ではその生き方に大きな差があり、また、高僧の死を意味する示寂という言葉を三島の自決に結び付けることはできません。

 そうは言っても、高名な文学者が亡くなった年齢に近づいたことをもって、病んだ我を思うことに共通点はあろうかと思います。

 私は精神障害の治療を継続していますが、正直、今の自分が病んでいるとは思いません。
 まして死に近づくような状態はとうの昔に克服したと思っています。

 しかし、病みつつ我は、の意味するところを、何も具体的な病気に罹患していると解釈する必要もないでしょう。

 人の致死率が100%である以上、すべからく人は死に向かって、病みつつ生きていると解するほうが、この歌の凄みは増すように思います。

 病みつつ独り死に向かう我というのが人間の本質だとすれば、それはずいぶん絶望的な状況ですが、それでも人は、恋をしたり、友人と酒を飲んだり、旅行やスポーツを楽しんだり、仕事に精を出したり、文学芸術に心躍らせたり、様々な楽しみを慰めとして生きています。

 マズローやコリン・ウィルソンの「至高体験」などは、これら楽しみによって得られる幸福感とそれに伴う自己実現こそが人生の本質であると考え、人生をポジティブに捉えて、多くの人を喜ばせました。

マズローの至高体験
渡辺博文
メーカー情報なし

 
至高体験―自己実現のための心理学 (河出文庫)
Colin Wilson,由良 君美,四方田 犬彦
河出書房新社

 しかし私は、それら至高体験の存在を実感しつつ、それが人生の本質だと実感することはできません。

 家族や友人に恵まれ、多くの趣味を楽しんでいればこそ、そこにどうしようもなく孤独で、死に向き合わなければいけない我に気づいてしまうと思うのです。

 我一人の孤独に向き合いつつ、必ず訪れる死の瞬間まで、一人びとりが、我なりの死への解釈を求め続けることしか、生きる方法は無いような気がしてならないのです。

 それはとてもきついことだとは思いますが。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする