ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

告白

2013年05月28日 | その他

  私はよく告白されます。

 それは何も、恋情の告白に限ったことではありません。

 初めてそれを意識したのは、22歳、新人の頃でした。

 管理職のかばん持ちで出張に同行した晩、二人で飲んでいて、中年の管理職が突然告白を始めたのです。
 彼は初めての管理職となって文部省から出先機関にやってきたのですが、部下の係長も課長補佐も年上で、舐められないために詳細な職場の情報を手帳にメモし、どんな質問にも答えられるよう心掛けていると言うのです。

 また、課長たる自分が残業していては部下が帰りにくかろうと、毎日定時で帰っているが、家でいつも部下たちが自分の悪口を言いながら一杯やっているのではないかと疑心暗鬼にかられている、とも。

 一番下っ端の22歳の自分にそんなこと言っていいのかなと思いましたが、その後もその管理職の告白は続きました。
 私は黙って話を聞き「課長を嫌っているやつはいるかもしれませんが、課長を馬鹿にしているやつはいませんよ」と言うのが精いっぱいでした。
 若くして出世するのも大変だと痛感させられました。

 その人には後に私と同居人の仲人を務めてもらいました。
 今も、時折飲んでいます。

 また、私には10人以上、同世代の女性の飲み友達がいます。

 不思議なことに、男の飲み友達は学生時代の友人だけです。
 社会人になると、どうしても上下関係や年齢に縛られ、男同士が友人関係を築くのは難しいようです。

 彼女たちと私を結び付けているのは、ごく薄い恋心に違いないと思っています。

 私は、この人とは長く友達でいたいと思ったら、決して手を出すようなことはせず、軽い恋心を伴った飲み友達として付き合うようにしてきました。
 結果的に、微妙なバランスを保ちながら、長い付き合いになっています。

 逆に言えば、どうでも良い女性には、簡単に手を出すという悪癖が、若いころにはありました。

 今思えば鬼畜ですねぇ。

 中には私が紹介した男と結婚した者もいます。
 少し寂しくはありますが、それが結果的に私との結びつきを強めていることは間違いありません。

 そこで気付いたこと。

 なかなか結婚に踏み切らない女性には、初めての男が忘れられない、というパターンが非常に多いのです。

 そういった女性は、気心の知れた既婚の私を前にして、安心したように、涙ながらに切ない心情を訴えます。
 私は黙って相手の気が済むまで語らせ、一言、「惜しいことをしたね」と言うのです。

 よく、男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる、という言説を耳にします。
 しかし私の飲み友達を見るかぎり、それは当たっていません。
 女は最初で最後の女になりたがる、というのが真のような気がします。

 同居人は、私の飲み友達たちを見まわして、どれも美人ぞろいで、あたしが一番ブスだ、などとつまらぬことをぬかします。

 私が飲み友達に見込んだ女性は美形が多いことは認めますが、同居人は私にとって特別であり、それは外見の美醜を超えたところにあります。
 美醜を超え、魂の奥の奥で共感しあえる、世界で一人の女王様なのだと思います。
 それを説明しても、なかなか納得してもらえないのは、私としては遺憾としか言いようがありません。

 飲み友達の中には、明るそうな外見とは裏腹にとてつもない闇を抱えた女性がいたり、酔った勢いで抱き着いて来たり、甚だしきにいたっては、「奥さんと別れてあたしと結婚してほしい」などとふざけたことを言い放った者もいます。

 しかし私は、飲み友達としては明らかなルール違反の発言には黙して応えず、何事もなかったかのように、また、ルールを守る飲み友達として接するのです。

 かつて20代だった飲み友達も、みな40代になり、それは私が40代なのだから当たり前ですが、以前のようには気楽に飲みに誘えなくなってしまいました。

 それぞれ家庭を持ったり、出世したりして、20代の頃のようにはいきません。
 いずれ、完全に関係性は切れてしまうことでしょう。
 それは寂しいに違いありませんが、人間が成長する過程で必ず起こることであることも事実です。

 たとえば小学校で親友で、一生親友だと誓ったところで、互いの事情がそれを許さず、しだいに疎遠になり、ついには音信不通になるのはよくあること。
 それは中学でも高校でも大学でも同じこと。
 友達というのは、じつに呆気ないものです。

 だからこそ人間は、婚姻届という紙きれ1枚に重要な意味を持たせ、半ば強制的に関係性を特別なものにして、家族を持つのでしょう。

 人間は他者を恋うる本能を持っており、それは如何ともしがたいことですが、私は遠い将来、離婚しようと思っています。

 同居を続けたままでもいいから、離婚して、それぞれ一個の独立した人間となって、おのれに始末をつけたいと思っています。

 人間おぎゃぁと生まれる時も、息を引き取る時も独りぼっち。
 
 人間という存在が持つ根源的な孤独は、隠しようがありません。

 そうであるならば、人生の最期の数年間、孤独に暮らしながら、来し方を振り返り、おのれの最期におのれ独りがどう決着をつけるかを静かに考える時間が欲しいと思うのです。

 

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もっとたくさん食べさせたい

2013年05月28日 | 社会・政治

 大阪でなんとも痛ましい事件が起きてしまいました。

 母子二人の遺体が発見され、餓死と見られているそうです。
 遺書らしきメモに、最後にもっとたくさん食べさせてあげられなくてごめんね、と書かれていたとか。
 電気もガスも止められ、現金もなく、二人は亡くなったのです。

 夫のDVから逃れ、実家にも居場所を知らせなかったのは、実家経由で夫に居場所がばれることを怖れたものと推測されます。
 生活保護などのセイフティ・ネットを利用しなかったのも同じ理由のようです。 

 亡くなってしまったものはどうしようもありませんが、腹を空かして衰え、亡くなるまでの絶望的な時間を、どう過ごしたのかと思うと、やり切れません。
 子どもは何か食わせてくれと哀願したことでしょうし、それに応えられない母親の心中を思う時、私はただ、沈黙する他ありません。

 DVに対する恐怖が、母子をどこまでも追い詰めてしまったのですね。

 
 私は基本的に身内と喧嘩することはありません。
 議論することはありますが、喧嘩にまでエスカレートすることは考えられません。
 大体身内と喧嘩するほどの理由など、何一つありません。

 ごく幼い頃を別にすれば、兄弟喧嘩も親子喧嘩もしたことがなく、当然夫婦喧嘩もしたことがありません。
 したがってDVなる行為におよぶ男の心境が理解できません。

 私はよく同居人から外弁慶だと言われます。
 家では大人しいのに、外に出ると必要以上に偉そうにし、場合によっては喧嘩も辞さないからです。

 ただし、感情を爆発させるような喧嘩は経験がありません。

 現代社会のルールに従って、最も効果的な方法で、冷静に、紳士的に相手を追い詰めることを得意としています。

 かつて職場の上司が理不尽なことをほざいた時、私は直ちに法律事務所を訪れ、弁護士を通して謝罪と経済的補償を求め、それは認められました。

 社会のルールにのっとって効果的に相手を責めるというのは、そうしたことです。

 DV野郎のやり方は、下の下としか言いようがありません。
 DV野郎には、世の中がどう出来ているかをよくよく学んでほしいと思います。


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暴動

2013年05月28日 | 社会・政治

 わが国で阪神淡路大震災が起きた時や、東日本大震災が発生した時、外国のメディアはわが国では混乱の中でも人々は冷静で秩序を守り、暴動も略奪も起きないことを賞賛する報道をして、逆にわが国のマスコミはそんなことがニュースになるのかと驚いて諸外国が伝えるニュースを報道していました。

 わが国においても、古くは関東大震災の時など、朝鮮人虐殺などが起こり、必ずしも常に秩序を守っているわけではありません。

 一方、幕末、隅田川花火大会に出かけた米国政府関係の米国人は、このような人ごみの中で、みな、「ちょっとごめんなさい」、「ありがとう」などと笑顔で声を掛け合い、極めて秩序だって花火を楽しんでいることに驚愕の念を覚え、米国人であれば乱闘や暴動が起きているだろう、と日記に書き記し、この小さな島国は将来米国にとって脅威になるだろうと、見事な予言を残しています。

 このたび、移民大国のスウェーデンで、刃物を持ったポルトガル系の移民が警察官に射殺された事件をきっかけとして、移民による大規模なデモが発生、ついには手当たり次第に車に火を放ったり、略奪に及ぶなどの暴動に発展し、それは6日も続いた、という一報を耳にしました。



 スウェーデンは人口の15%が移民で、もはや移民抜きでは国家が成立し得ない状況になっています。

 米国のようにそもそも移民もしくは侵略者の子孫ばかりが住んでいる国家と違い、欧州諸国やわが国のように、もともと同質性が高い国家にとって、移民というのは魅力的ではありますが、処方を間違えば社会不安を引き起こす可能性がある劇薬です。

 人が嫌がるような仕事でも移民は生きるために引き受け、それら安い労働者を求める欧州の先進諸国は、数十年前こぞって移民を受け入れました。
 しかし移民も2世、3世となれば、それぞれの国の生まれながらの国民であり、当然教育を受け、より有利な職を求めるのは当然で、そうなってからお前ら国に帰れとはとても言えません。

 そこで今、欧州諸国では移民排斥を訴える右派政党が支持率を伸ばしているというわけですが、自業自得というか、問題の種を蒔いたのはそれぞれの政府です。

 わが国は幸いにして、大規模な移民受け入れを行っていません。
 今後少子高齢化が進み、労働人口が減少しても、安易に移民受け入れに舵を切るのは剣呑というべきでしょう。

 私は日本国が経済的、軍事的、政治的に衰退するのだとしても、移民受け入れで事態を打開しようとすることには反対です。

 大量の移民流入によって、わが国社会の高度な同質性が崩壊し、強固な異文化コミュニティが各地に生まれることを怖れます。

 それが杞憂で済まないであろうことは、現在の西欧諸国が移民の問題に苦しんでいることからも明らかです。

 移民に関しては、賛否両論があります。
 賛成・反対の双方の言い分を知る必要があります。
 それには以下の2冊が簡便でよろしかろうと思います。

移民不要論
佐伯弘文
産経新聞出版

 

人口激減―移民は日本に必要である (新潮新書)
毛受 敏浩
新潮社



 今回のスウェーデンの事件、わが国の将来の政策を考える一助にしてもらえたらと思っています。


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