私には3つ下の妹がおり、彼女は来月、41歳になります。
一方同居人にも妹がおり、昨日が誕生日で、私の妹と同様、41歳になるはずでした。
じつは私は義妹に会ったことがありません。
それもそのはず、義妹はわずか18歳で、難病のため、命を落としているからです。
私が同居人と出会った時、すでにこの世の人ではなかったということで、会いたくても会えるはずがありません。
もう亡くなって23年も経ちますが、義妹の部屋はそのまま残されており、誕生日には必ず赤飯を炊いて、私たちの元に直接届けてくれます。
切ない親心としか言いようがなく、せめて赤飯を完食することで、ささやかな供養としています。
そのため、昨夜も今朝も赤飯を食しました。
車でわずか10分の距離に住みながら、ほとんど実家に寄りつかない長女にプレッシャーをかけているようにも感じられます。
同居人は、たまに帰ると大ご馳走の上ケーキなどが用意され、熱烈歓迎されるのが煩わしく、帰る気が起きないのだと言い訳します。
しかしそれは、鶏と卵みたいな話で、熱烈歓迎されるから帰らないのか、ごくまれにしか帰らないから熱烈歓迎するのか、よくわかりません。
もし毎週帰っていれば、そもそも熱烈歓迎などされるはずも無いと思いますが。
義妹の法事には、何度か出席しました。
13回忌、17回忌、23回忌です。
私の実家は日蓮宗の寺ですので、日蓮宗の法要はどんなものか知っていましたが、同居人のほうは浄土宗で、宗派によって法事の在り様もずいぶん違うものだと思い知らされました。
かなわないのは全員に小さな木魚が配られ、南無阿弥陀仏を唱えながら坊主の大きい木魚に合わせて全員で叩くこと。
坊主が使う大きい木魚はしぶい低い音がしますが、小さい木魚は素っ頓狂な甲高い音がするうえ、必ず音がずれる老婆などがおり、しかも老婆は真剣そのもの。
可笑しくてたまらず、不謹慎ながら笑いを堪えるのが苦痛です。
同居人いわく、母親の実家は天台宗で、義妹が亡くなって初めて父親の実家が浄土宗だったと知ったとかで、慌てて千葉市内の浄土宗の寺を葬儀屋に紹介してもらったそうで、天台宗の法要に比べると滑稽に映ったらしく、あまりにも若くして亡くなった娘の葬儀にも関わらず、義母は笑いを堪えていたそうです。
悲しいのにおかしい、それが人間精神の不思議でしょうか。
ついに会うことが叶わなかった義理の妹。
写真で見る彼女は、永遠の少女のまま、微笑んでいます。
涅槃に至ったのでしょうか、あるいは転生したのでしょうか。
遅まきながら、冥福を祈ります。