昨夜、「偶然性と運命」という新書を読了しました。
哲学書のようなタイトルですが、中身は哲学風エッセイというべきでしょう。
偶然とか運命とかいう実証不可能な話題を、古今東西の哲学者がどう考えてきたのか、という先行研究の紹介に多くのページがさかれ、中だるみしました。
当然、誰も偶然とか運命とかいうものの本質をつかんだりは出来ていないのです。
著者の結論は唐突にドフトエフスキーの「悪霊」と「カラマーゾフの兄弟」の小さなエピソードからインスピレーションを得た、邂逅=出会いこそ偶然性とか運命とかいうものに深く関わっている、と述べられます。
確かに出会いには、良い出会いにしろ悪い出会いにしろ、人生を大きく左右する力があります。
まずはどんな両親のもとに生まれるか、どんな友人や恋人にめぐり合うか、偶然とか運命としか言いようがないものです。
人間は幼児の頃、自己と他者という認識が曖昧です。
家族の一員としての自分とか、幼稚園の一員としての自分など、自己と他者という関係性の中に生きており、極めて社会的です。
赤ん坊にいたっては、他者が保護しなければ生きられないわけで、自己と他者という関係の中でしか生きられないと言えます。
ところが思春期にいたって自我が目覚め、自己と他者よりも自己と自己という関係性に比重が移ります。
精神的に未熟で、危険な時期です。
しかし多くの人は、成長の過程で、自己と自己という関係性を重視しながら、自己と他者という関係性がなければ生きていけないことに自然と気づき、常識を弁えた大人になっていきます。
それには、どんな他者と出会い、どんな関係性を築くかが重要となります。
ドフトエフスキーが好んで描く魔術的な思考に捕らわれ、凶悪犯罪を繰り返すような人物は、どこまでいっても自己と自己という関係性の殻に閉じこもっていると言えるでしょう。
翻って、私にとっての悪い出会いは、現在の職場のトップとのそれです。
トップは私に暴言を繰り返し、私は弁護士を立てて謝罪と補償を求めるところまでいってしまいました。
結果、私は公文書による謝罪と100万円の補償を勝ち取りましたが、虚しいものです。
トップが放った過去の暴言の数々は、永遠に私を苦しめるでしょう。
良い出会いといえば、両親のもとに生まれたことをもって嚆矢とします。
私は両親から殴られたことなど一度もなく、叱られたのも二度だけ。
小学生の頃イジメの首謀者になったことが発覚したときと、高校生の頃飲酒のうえ深夜徘徊して警察に補導されたときです。
その時も、理をもって諭すという感じで、怒鳴りつけるようなことはありませんでした。
私は両親から、自分の子どもといえども他者である以上尊重しなければならず、また、冷静さを失わないことを無言のうちに教わりました。
もっともその両親は互いに依存しており、激しい夫婦喧嘩もしていましたが、犬も食わないものを問題にすることはやめましょう。
そして私はこの新書から、死という究極的な未来に挑み、跳ね返されて現在を飛び越えて過去に至り、過去を再構成したうえで未来と現在を同時に生きる、というハイデガーの根源的時間という概念に、心惹かれました。
これは死ぬほうへ死ぬほうへと向かう武士道とも通じるものではないでしょうか。
気楽に読める良書でした。
今日はこれから日曜出勤。
都内某私大の会場を借りて、イベントがあります。
この雨では、たいした人出は期待できそうもありませんが、過去を再構成しつつ未来と現在を同時に生きる出勤にしたいものです。
偶然性と運命 (岩波新書) | |
木田 元 | |
岩波書店 |