よく時代劇なんかで、病に伏せる殿さまが紫の鉢巻をしていますね。
あれ、なんででしょう?
一説には、軽い頭痛なんかは頭をきつく縛ることで痛みがなくなるからだとか、気合で治すためだとか、色々言われますが、本当のところはわかりません。
江戸時代、頭痛に効くとされていたのは、梅干しをつぶして額に張る、という方法だそうです。
梅は三毒を断つ、と言われていたとか。
つまり、食・血・水を清掃するとか。
寝すごして 嫁梅干しを 顔へあて
という古い川柳があるそうです。
仮病ですね。
少し色っぽいのでは、
梅干しを はがしてしまう 好いた客
というのはいかがでしょう。
花魁にも、少々頭が痛くても会いたい客がいたということでしょうねぇ。
現代のソープランドにも、こんな粋な関係性のソープ嬢と客がいるんでしょうかねぇ。
もっとも、逆もあります。
振しんの 梅干張るは そら頭痛
振袖姿の若い新造が梅干しを張っていたら、それは仮病だと言っているわけですねぇ。
客をとるようになったばかりの若い新造には、どうしても会いたくない客がたくさんいたんでしょうねぇ。
頭痛の時に梅干しを額に張るというその単純な行為が、さまざまな川柳を生むほど、色々な人間模様を繰り広げさせたのですね。
面白いものです。
人生とは不思議なもので、偶然とも縁ともつかない、不思議な瞬間があるものです。
その最たる例は恋愛沙汰、とくに一目ぼれでしょうね。
ある異性(時には同性)を見た瞬間、これは特別な瞬間だと感じ、それまでの生きてきた歩みが一瞬にして再構成され、その異性との未来を明瞭に思い浮かべてしまうわけです。
もちろん、これが片恋であればストーカーに化してしまう可能性がありますが、奇跡的に両思いになれば、その偶然は決して偶然などではなく、縁という必然であると確信するに至るでしょう。
私は残念なことに一目ぼれという経験はありません。
しかしまずは友人になって、飲み仲間になって、少しずつその異性に惹かれていく過程のある一瞬に、一目ぼれと同じような、過去の再構成と未来への展望が同時に開ける特別な瞬間を持ったことは数少ないですが、経験しています。
過去は良いことも悪いことも含めてこの人と出会うためにあったのだという強い確信と、現在のよしなしごとを吹き飛ばしてしまう強い力で、二人が歩むであろう明るい未来への展望を信じてしまいます。
恋は病とかいう、傍から見たらじつに小っ恥ずかしい瞬間でもあります。
それはひとつ恋愛に限ったことではなく、天職と出会ったと感じたとき、素晴らしい芸術作品に触れ、強いインスピレーションを与えられた時などにも訪れます。
コリン・ウィルソンはこれを至高体験と呼び、ハイデガーは本来的な時間の獲得と呼びました。
長い間西洋哲学は、こういった神秘的な体験の存在を単なる思い込みや勘違いとして歯牙にもかけませんでしたが、20世紀初頭からは、こういった体験も人間の本質を探るうえで重要だとして、細々と研究されるようになりました。
昨夜から、亡父の蔵書から「偶然性と運命」という新書を読んでいます。
まだ一章を読んだだけですが、非常に強い感銘を受けました。
難解なハイデガーの「存在と時間」をかみ砕いて説明し、その上で恋愛沙汰という卑近な例をひいて、読者の注意を惹きつけます。
仕事なんかしている場合ではありませんねぇ。
早く読みたいものです。
こんな気分で読書するのは久しぶりです。
亡父の多くの蔵書から、宝物を見つけた気分です。
偶然性と運命 (岩波新書) | |
木田 元 | |
岩波書店 |
存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫) | |
Martin Heidegger,細谷 貞雄 | |
筑摩書房 |
存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫) | |
Martin Heidegger,細谷 貞雄 | |
筑摩書房 |
至高体験―自己実現のための心理学 (河出文庫) | |
Colin Wilson,由良 君美,四方田 犬彦 | |
河出書房新社 |