学生の頃、所属していた浪漫文学研究会の宴会で、教授と助手がつまらぬ論争を繰り広げるのを耳にしました。
助手は、文学研究者は感じることを止め、自然科学者のような醒めた態度で文学作品にあたるべきだ、との論を繰り広げました。
それに対し教授は、感じることを止めたら文学研究は不可能であるし、そもそも感じることを止めるなどということは、人間には不可能であり、人間精神への冒涜である、と諭しました。
しかし助手は持論を曲げず、物語作者とその享受者に感じることを任せ、研究者は感じるべきではない、と言い張りました。
これは実におもしろい論争でした。
助手が言うことも分からないではありません。
若き研究者が、研究の神髄を真理の追究にあると考え、そのためには感情が邪魔になる、というわけですから。
それに対し、和歌から日本民俗、近現代文学まで広く研究する教授は、それは文学の神髄から外れる、と考えたのでしょう。
教授は我々学部学生一人一人に意見を求めました。
私は、料理を味合わずしてその見た目や栄養素だけを研究するのは不可能である、と応えました。
多くの学生も教授の論に賛成しました。
その半年後、助手は北海道の某女子短期大学に助教授として赴任しましたが、その宴会の後、同じ話が蒸し返されることはありませんでした。
今になって思うのは、当時の助手の論もまた、正論ではなかったか、ということです。
自然科学者のような醒めた態度は、どのような分野の研究にも必要だと考えるからです。
しかし幸いにして、私は研究者ではありません。
思い切り物語を享受して、感じることを許されています。
研究者などを目指さなくて本当に良かったと思います。
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