ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

二卿事件

2010年12月27日 | 思想・学問

 「龍馬伝」やら「坂の上の雲」やら、最近幕末から明治にかけてのドラマがよく放送されます。
 やることなすことうまく行ったあの時代を懐かしんでいるかのようです。
 しかし一歩間違えれば列強の食い物にされ、植民地としてばらばらに統治されていたかもしれません。
 細い綱を渡るように、慎重に前に進んだことでしょう。

 私が子どもの頃から不思議に思っていたことがあります。
 京都に東を付けると東京都。
 本家が京都なのは論を待たないところです。
 しかも平城遷都や平安遷都と異なり、江戸に都を移し、東京と名称変更する、という宣旨なり法律なりがないのですよね。
 
 明治元年に明治大帝が東京に行幸され、一度京に還幸された後、翌明治2年にふたたび東京に行幸、それ以来、京へ行くのは還幸ではなく、行幸と呼ぶようになりました。
 京都御所はうっちゃって、江戸城跡を皇居にして、各種省庁、国会、軍司令部などを東京に固めて、いつの間にやら東京が首都になっちゃった、という状況が、今日にいたるも続いています。
 しかも和歌を詠んだり蹴鞠をしたり、寺を作ったり、といった日本文化の中心であった天皇が、東京移住とともに大元帥陛下におなりあそばし、武人のトップに立ってしまいました。
 しかも明治大帝の御姿はいつも洋装。
 ざんばら髪に立派なひげをたくわえて、欧米を真似た猿にしか見えません。

 わが国には欧米列強に負けない歴史と伝統、文化があったのに。
 ちょっとばかし軍事力で負けていたからと言って、欧米列強の真似をして、日本文化の中心であらせられる明治大帝を軍の最高司令官にするなんて、狂気の沙汰です。

 明治4年には、二卿事件というクーデター未遂が起きます。
 公卿の愛宕通旭(おたきみちてる)と侍従の外山光輔(とやまみつすけ)という二人が中心となって、東京に火を放ち、どさくさにまぎれて陛下を拉致して軍艦で京都に還幸願い、新しい政府を作って行きすぎた欧化政策を改めよう、という主旨です。
 この陰謀は事前に露見し、首謀者の二人は自刃を命ぜられ、明治維新はご存知のとおり断行されたのです。

 結果論からいえば、明治維新は成功したことになっていますし、二卿事件は未遂に終わって良かったのでしょうが、支配に都合がよいからといって、宣旨も出さずに天皇が東京に遷ってきたり、軍の最高司令官にするというのは、わが国と皇室の伝統から考えて、いかにも乱暴です。
 当然、それに対する反対運動が起きてしかるべきで、この事件は首謀者が意識していたか否かはともかく、わが国の伝統文化を守ろうとした重要な意味があったものと思われます。
 
 三島由紀夫は自刃する前、戦後の日本を嘆いて、無機的なからっぽなニュートラルな中間色の富裕な抜け目がない経済大国が極東の一角に残るだろう、と予言しました。

 しかしそれは、明治大帝が京都を捨て、軍人になったときからはじまっていたのではありますまいか?
 私としては今からでも今上陛下に京都御所に還幸いただき、各種国事行為などはせず、宮中の祀りと伝統文化の継承にのみ御励みいただけないものか、と思っています。
 そうじゃないと、明治大帝や昭和陛下みたいに、時の権力者にいいように利用されちゃいますよ。

立石正介とその周辺―明治四年、二卿事件始末 (1984年)
原 三正
倉敷史談会
坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)
文藝春秋
文藝春秋

 

龍馬伝 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
NHK出版
日本放送出版協会
龍馬伝 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
製作協力 NHKドラマ制作班,NHK出版 編
日本放送出版協会


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文学=幻想文学?

2010年12月27日 | 文学

   1999年、ノストラダムスによれば空から恐怖の大王が降りてくるはずでしたが、何事もなく過ぎ、代わりに平野啓一郎という若い作家が鳴り物入りで芥川賞を受賞しました。
 「日蝕」という中世フランスの神学僧が体験する神秘的な出来事を格調高い擬古文で描いて見事でした。
 それまで若い作家のデヴュー作というと、若者風俗小説みたいなものが多かったので、とんでもない天才が表れた、と騒がれたものです。
 三島由紀夫の再来とか言われていましたね。
 その後も明治末、山中で毒蛇にかまれた美青年が夢とも現ともつかない体験をする幻想譚「一月物語」など、佳作を連発しています。
 
 この人の小説を読んでいて、私はかねてから思っていたことが確信に近づきました。
 つまり、幻想文学と文学はほぼ同義ではないか、ということです。

 古来、物語は神話から始まって、鬼や化け物や妖怪が跳梁跋扈する世界でした。
 貧乏くさい私小説でさえ、心の中の妄想を書きすすめれば、現実にはあり得ない幻想世界が現出します。
 わが国の古典文学は説話にしろ和歌にしろ能にしろ、みなこの世ならぬものへの憧れなくして生まれえないものです。

 そこで、平野啓一郎の言葉。

 芸術作品を通じて得られる絶対の体験、我々の聖性の恢復と存在の新しい次元の獲得とが、現代人を救済しうる。

 天下の平野大先生がなにをとぼけたことを言っちゃってるんでしょう。
 目を疑います。
 そういうことは言っちゃいけないの。
 そんなこと言っちゃったら、築きあげた文学世界が瓦解しちゃうでしょ。

 芸術は人を救済しません。
 救済にしろ何とか主義にしろ、目的を持った芸術は、その瞬間に芸術ではなくなり、一種のプロパガンダに陥ります
 
 人を救済するのは金や食物です。
 精神を救済するのは、精神科医です。

 芸術は常に無用なものでなければなりません。
 世の中に何の役にも立たないけれど、人を楽しませたり、驚かせたりできるもの。
 それが芸術でしょう。
 芸術家を自称する人は、オナニストが自慰によって精液を垂れ流すように、社会の片隅でひっそりと、己のいかれた頭から生み出る作品を垂れ流す他ありますまい。

日蝕 (新潮文庫)
平野 啓一郎
新潮社
一月物語 (新潮文庫)
平野 啓一郎
新潮社

 

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