先ほどNHK-BSで当代一流の売れっ子たちによる歌番組が放送されていました。
アイドル だったり、ロックだったり。
でもどうしてこんな浅はかな、自慰行為のような歌ばかりなんでしょうか?
じつはそのことは、ずいぶん昔から感じていた疑問です。
私が幼いころ、ピンクレディーやら新御三家やらの歌が、しょっちゅうテレビから垂れ流されていました。
同時に、貧乏くさい四畳半フォークだの、思想性があるという触れ込みのロックだのも。
しかし私にはどれも、浅はかな自己憐憫にしか聞こえませんでした。
それはきっと、レコードからCD、はてはインターネット配信と、大量の歌が、大勢に同時に聞かれるようになってからではないかと推測しています。
つまり、歳月による審判を受けていないのですね。
それらは時代をうまく捉えたのかもしれませんが、歌が持つ本質的な芸術性を獲得し得ていない、ということだと考えます。
古来わが国では、歌といえば、和歌であり、それが連なった連歌などでした。
それは短い定型詩であるがゆえ、多くの制約と約束事によって、いやでも言葉を選ぶことに慎重にならざるをえません。
現代の流行歌にみられるような、あまりに直截的な表現、例えば好きだの愛してるだの、あるいはがんばれだのという努力を強いるような文言は、三十一文字の制約のなかでは、とても使えません。
それを使えば、歌は徒らに下品になってしまいます。
そこで、暗喩や、本歌取りのような高度な技巧が凝らされ、三十一文字はごくまれではありますが、珠玉の美しさを輝かせるのです。
正岡子規は古今や新古今のような技巧めいた歌を嫌い、「歌よみに与ふる書」の中で万葉調への回帰をうったえました。
明治を迎えた新しい歌は、万葉とも新古今とも違うものになるのは必然で、そのような願望はむなしいばかりです。
そして今では、自由詩ではなぜいけないのかと思ってしまう、ほとんどおふざけのように思える現代短歌が現れています。これらが時代の流れを生き残るのか、甚だ疑問です。
さてそこで、現在テレビなどで垂れ流されている歌の問題は、高度な大衆化にあると思われ、これは修正不可能です。
きっと浅はかに思われる現代の歌のなかにも、千年の風雪に耐えうる光り輝く珠玉の言葉が隠れていると信じましょう。
歌よみに与ふる書 (岩波文庫) | |
正岡 子規 | |
岩波書店 |