ボクが推薦したのは向田邦子の「眠る盃」です。
タイトルの由来は「荒城の月」から来ています。
子供のころ、わが家は客の多いうちであった。保険会社の地方支店長をしていた父が、宴会の帰りなど、なにかといっては客を連れて帰った。
・・・私はよく香炉に香をたく役目をした。
「荒城の月」の一小節目は、「春香炉の 花の宴」なのである。
・・・お客様が帰って、主人公の父親は酔いつぶれて座ぶとんを枕に眠っている。
父の膳の、いつも酒の残っている盃があった。
酒は水と違う。ゆったりとけだるく揺れることを、この時覚えた。
私には酒も盃も眠っているように見えたのであろう。
4番を歌う時、私はいつも胸がジーンとしてくる。
ここでも私は心の中で「弱の月」と歌っているのである。
「字のない葉書」
この項はぼくの最も惹かれた個所である。
死んだ父は筆まめな人であった。
私が女学校一年で初めて親許を離れた時も、三日にあげず手紙をよこした。
一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で<向田邦子殿>と書かれた葉書を初めて見た時は、ひどくびっくりした。
「おい、邦子!」と呼び捨てにされ「馬鹿野郎!」の罵声や拳骨は日常のことであったから・・・。
文中、私を貴女と呼び「貴方の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引をひくように」という訓戒も添えられていた。
褌ひとつで家中を歩き廻り、大酒を飲み、癇癪を起して母や子供達に手を挙げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情に溢れた非の打ち所のない父親がそこにあった。
・・・優しい父の姿を見せたのは、この手紙の中だけである。
この手紙も懐かしいが、最も心に残るものをと言われれば、父が宛名を書き、妹が<文面>を書いたあの葉書ということになろう。
終戦の年の4月、小学一年の妹が甲府に疎開することになった。
妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、父はおびただしい葉書に几帳面な筆で自分宛ての宛名を書いた。
「元気な日はマルを書いて、毎日ポストに入れなさい」と言ってきかせた。
妹はまだ字が書けなかった。
宛名だけ書かされた嵩高な葉書の束をリュックサックに入れ、妹は遠足にでもいくようにはしゃいで出かけて行った。
一週間ほどで、初めての葉書が着いた。
紙いっぱいにはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。
・・・ところが次の日からマルは急激に小さくなっていった。
情けない黒鉛筆の小マルはついにバツに変わった。
その頃、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に逢いに行った。
下の妹は、校舎の壁によりかかって梅干しの種子をしゃぶっていたが、妹の姿を見ると種子をペッと吐き出して泣いたそうだ。
間もなくバツの葉書もこなくなった。
三か月目に母が迎えに行った時、百日咳を患っていた妹は、蚤だらけの頭で三畳の布団部屋に泣かされていたという。
妹が返ってくる日、私と弟は家庭菜園の南瓜を全部収穫した。・・・
一列に客間にならべた。
これくらいしか妹を喜ばせるほうほうがなかったのだ。
夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰ってきたよ!」と叫んだ。
茶の間に坐っていた父は、裸足でおもてへ飛び出した。
防火用水の前で、痩せた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。
私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。
これを書きながらボクの目にも涙が。・・・
タイトルの由来は「荒城の月」から来ています。
子供のころ、わが家は客の多いうちであった。保険会社の地方支店長をしていた父が、宴会の帰りなど、なにかといっては客を連れて帰った。
・・・私はよく香炉に香をたく役目をした。
「荒城の月」の一小節目は、「春香炉の 花の宴」なのである。
・・・お客様が帰って、主人公の父親は酔いつぶれて座ぶとんを枕に眠っている。
父の膳の、いつも酒の残っている盃があった。
酒は水と違う。ゆったりとけだるく揺れることを、この時覚えた。
私には酒も盃も眠っているように見えたのであろう。
4番を歌う時、私はいつも胸がジーンとしてくる。
ここでも私は心の中で「弱の月」と歌っているのである。
「字のない葉書」
この項はぼくの最も惹かれた個所である。
死んだ父は筆まめな人であった。
私が女学校一年で初めて親許を離れた時も、三日にあげず手紙をよこした。
一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で<向田邦子殿>と書かれた葉書を初めて見た時は、ひどくびっくりした。
「おい、邦子!」と呼び捨てにされ「馬鹿野郎!」の罵声や拳骨は日常のことであったから・・・。
文中、私を貴女と呼び「貴方の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引をひくように」という訓戒も添えられていた。
褌ひとつで家中を歩き廻り、大酒を飲み、癇癪を起して母や子供達に手を挙げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情に溢れた非の打ち所のない父親がそこにあった。
・・・優しい父の姿を見せたのは、この手紙の中だけである。
この手紙も懐かしいが、最も心に残るものをと言われれば、父が宛名を書き、妹が<文面>を書いたあの葉書ということになろう。
終戦の年の4月、小学一年の妹が甲府に疎開することになった。
妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、父はおびただしい葉書に几帳面な筆で自分宛ての宛名を書いた。
「元気な日はマルを書いて、毎日ポストに入れなさい」と言ってきかせた。
妹はまだ字が書けなかった。
宛名だけ書かされた嵩高な葉書の束をリュックサックに入れ、妹は遠足にでもいくようにはしゃいで出かけて行った。
一週間ほどで、初めての葉書が着いた。
紙いっぱいにはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。
・・・ところが次の日からマルは急激に小さくなっていった。
情けない黒鉛筆の小マルはついにバツに変わった。
その頃、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に逢いに行った。
下の妹は、校舎の壁によりかかって梅干しの種子をしゃぶっていたが、妹の姿を見ると種子をペッと吐き出して泣いたそうだ。
間もなくバツの葉書もこなくなった。
三か月目に母が迎えに行った時、百日咳を患っていた妹は、蚤だらけの頭で三畳の布団部屋に泣かされていたという。
妹が返ってくる日、私と弟は家庭菜園の南瓜を全部収穫した。・・・
一列に客間にならべた。
これくらいしか妹を喜ばせるほうほうがなかったのだ。
夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰ってきたよ!」と叫んだ。
茶の間に坐っていた父は、裸足でおもてへ飛び出した。
防火用水の前で、痩せた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。
私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。
これを書きながらボクの目にも涙が。・・・