昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

言葉(23)憲法について

2015-05-05 04:43:15 | 言葉
 <憲法>についていろいろな人が語っている。
 先ずはイザヤ・ペンダサン。
 憲法は日本人には常に手をつけられないものである。
 明治憲法にも現憲法にも憲法改正の規定があるが、いずれも空文である。
 明治憲法は不磨の大典であったし、現憲法は無比の平和憲法であるから──
 

  
 ということは、これは絶対にいわゆる<法律>ではなく、日本教の宗教的律法いわば一種の聖典乃至は宗団戒規なのである。どの宗教でも、その基本的な律法は神聖不可侵だから絶対に手がつけられない。
 そこで実情にそぐわなくなると、さまざまな解釈を施して実情にあわせた。
 イエスの時代にはそれがパリサイびとの仕事であった。
 

 文字通り典型的な「神学者の争い」である。いずれにせよ絶対に、冷徹氷のような法理論の一分のすきも見せない冷静な議論とは程遠いものである。そしてそれが当然であろう。
 日本国憲法は一種の宗団戒規か、信徒規定なのだから。

 見田宗介:植谷雄高さんは憲法第九条は幻想、けれどもそういう幻想を持つことはいいことだといっておられましたね。第九条が幻想であることが分からない人たちと、そういう幻想をもつことのよさを分からない人たちによって論争がなされていますが、僕は「あゝいう幻想を持つのはよいことだ」という立場に共感します。
 
 
 山崎正和:いま私たちが見ているのは、世界史上初めての画期的な「文明の統一」だ。それはグローバル化というよりも、「近代化」というレベルでの滔々たる趨勢なんです。例えば、自然科学や、その応用である科学技術はイスラム原理主義のテロリストですら受け入れている。度量衡や暦といった人間生活を規定するもの、絵画の遠近法や音楽の記譜法といった文化面でも世界がほとんど一つになった。
 従って遠い将来、近代化の流れの中で世界が一つの国になる可能性はある。ただそれは、主権国家の連合体のような形になるだろう。すでに世界貿易機構(WTO)や京都議定書のように世界的な取り決めができ、国家主権の部分的な移譲が生じている。
 こうしたことが広がって、「世界のかたち」ができれば、やがてその収斂点として世界の基本法ができる。
 そのとき日本国憲法は世界憲法の重要な骨組みの一つになるでしょう。

 文明の統合が進むと、不思議なことに文化は逆に多様化していきます。国家レベルではない地域文化やエスニック文化、世代文化が活性化していく。一方で法はますます理性的で普遍的なものになっていかざるをえない。・・・

 人権思想というのは、ある意味で利己主義と背中合わせです。資本主義というものも、私利私欲を追及する。それは認めなければならない。
 
 必要なのは、<私利私欲の追求がすなわち公益につながるような仕掛け>をつくることでしょう。例えば累進性のある所得税はそういう仕掛けです。
 
 
 人類の強欲という「レロレロ姫の警告」を認めつつも、人類は<叡知>と<気概>をもって対応策に取り組まなければならないのだと、三島くんが気づいたところだ。
 
 なお、本作に関するアマゾンの二つ目のカスタマーレビュー(☆五つ)を見つけましたので紹介いたします。
 <SVくん様>
 予期せぬ名作:たまたま読んで驚いた。文芸賞候補になってもよい作品と思う。
 無条件におもしろい。発達障害の孫をもたれた祖父の魂の叫びかと推察するが、客観化して一篇のすぐれた小説に仕上げられた。SF,且つ風刺小説である。該博な素養が窺われ、巧まずしてよい環境論にもなっている。文章も非常によみやすい。但し、多くの読者の注目を惹くには、もう少しタイトルに工夫があったらとだけ思う。

 SVくん様、望外なコメントありがとう。痛み入ります。昭和のマロ。