リチャード・ドースキンが提唱した大発想<利己的遺伝子仮説>とは、生命の主体が固体にあるのではなく、遺伝子の側にあるとするものである。
本当に利己的なのは固体ではなく、遺伝子なのだと考える。
親は子に利他的にふるまうと言うが、何のことはない、子にコピーを乗り移らせた親の遺伝子が、コピーを守ろうとして単に利己的であろうとしているに過ぎないのだ。
固体は悠久の時間を旅する遺伝子の乗り物で、古くなれば打ち捨てられる。
それが固体の死というものだが、遺伝子には死というものがない。
遺伝子のコピーは次々新しい乗り物に移っていく。
利己的遺伝子の願いはひたすら自分のコピーを増やすことだ。
そのために乗り物どうしのふるまいを巧みに操作する。
例えば新しい乗り物<子>に乗り移った利己的遺伝子は、古い乗り物<親>を繰り、新しい乗り物の保護や成長のために全力投球させようとする。
親がわが子のためならどんな苦労も厭わないのはそのためだ。
顔を覚えたり、固体を選別する能力を持つ動物(もちろん同種)が集まると、そこには自ずと<順位>ができあがる。(アリの順位制)
順位制の持つ意味は、ムダな争いを避けるということもあるが、争いは暴力的なものとは限らない。例えば相手が譲ってくれるまでじっと待つというハト派的な争い。
こういう争いではケガはしなくても時間が無駄になる。
<順位>を決めていればそういうムダもないというわけである。
<順位制>は争いによる結果ではない。支配の論理でもない。
そこにあるのは、実のところせめぎあう利己的遺伝子の損得勘定だけなのだ。
─続く─
本当に利己的なのは固体ではなく、遺伝子なのだと考える。
親は子に利他的にふるまうと言うが、何のことはない、子にコピーを乗り移らせた親の遺伝子が、コピーを守ろうとして単に利己的であろうとしているに過ぎないのだ。
固体は悠久の時間を旅する遺伝子の乗り物で、古くなれば打ち捨てられる。
それが固体の死というものだが、遺伝子には死というものがない。
遺伝子のコピーは次々新しい乗り物に移っていく。
利己的遺伝子の願いはひたすら自分のコピーを増やすことだ。
そのために乗り物どうしのふるまいを巧みに操作する。
例えば新しい乗り物<子>に乗り移った利己的遺伝子は、古い乗り物<親>を繰り、新しい乗り物の保護や成長のために全力投球させようとする。
親がわが子のためならどんな苦労も厭わないのはそのためだ。
顔を覚えたり、固体を選別する能力を持つ動物(もちろん同種)が集まると、そこには自ずと<順位>ができあがる。(アリの順位制)
順位制の持つ意味は、ムダな争いを避けるということもあるが、争いは暴力的なものとは限らない。例えば相手が譲ってくれるまでじっと待つというハト派的な争い。
こういう争いではケガはしなくても時間が無駄になる。
<順位>を決めていればそういうムダもないというわけである。
<順位制>は争いによる結果ではない。支配の論理でもない。
そこにあるのは、実のところせめぎあう利己的遺伝子の損得勘定だけなのだ。
─続く─