昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

三鷹通信(61)暦とお盆

2012-09-21 11:30:35 | 三鷹通信
 恒例のFサロン。
 F先生のお話は、いつもそうだが、場合によってはテーマの枠を越えて、あっちこっちに飛ぶのが魅力的だ。
 今日のテーマは<暦とお盆>

 歴史的に偉大な権力者は、人と土地を支配するだけでなく<時>をも支配した。
 現行の<暦>の元であるユリウス暦は、ローマ皇帝ユリウス・カエサルが制度化したもので。地球が太陽の周りを回る周期をもととして作られた太陽暦だ。
 それは1000年以上採用されていたが、1582年ローマ法王グレゴリウス13世がうるう年を挿入することで時のずれを修正したグレゴリウス暦が現行の暦となっている。

 中国では皇帝が代われば年号も代わる。歴代王朝は周辺諸国の王に対しても従属を強要する手段として<暦>を授けるということが行われていた。
 日本の場合も、聖徳太子の頃はそういう立場で<暦>を中国から受けていた。
 日本国内では朝廷が<暦>を発行する権限を持っていた。
 朝廷の<陰陽寮>の陰陽師が家業として世襲し<暦>を独占的に制作していた。

 これらは<太陰暦>であって、月の満ち欠けを基準にして作られていたが、完璧なものではなく、天体観測の技術や数学の発達とともにより正確なものになっていく。
 しかし、日本の場合、旧態然としたままでずれが目立つようになり、織田信長が進出してきたとき、彼は地方暦を重視する姿勢を示し朝廷の役人に対抗するようになった。
 結局織田信長は本能寺の変で死んでしまったので、朝廷の<宣明暦>はその後も使い続けられ江戸時代まで800年続いた。
 そのため、本能寺の変は明智光秀と組んだ朝廷サイドの黒幕説もある。

 関ヶ原の戦いで天下を統一した徳川政権も、<暦>という時を支配するにはそれから84年の時が必要だった。
 幕府の天文方、渋川春海が、実測を土台にして新暦を発行、朝廷の<宣明暦>のずれを指摘して、日蝕、月蝕の日をぴたりと当てて、朝廷サイドに優れることを証明した。

 ここで先生お得意の<囲碁>のお話が挿入された。
 渋川春海、別名、安井算哲は碁の名手でもあった。
 安井家は、本因坊家、井上家、林家と並ぶ囲碁の家元四家の一つである。
 幕府から扶持を与えられ、四家で囲碁の技量を競い、徳川将軍の御前で名人位を争う<御城碁>というのがあった。

戦いの後吐血する者もいたという壮絶なものだった。
 算哲はその優秀な人材の一人でもあった。
 碁打ちの家に生まれた彼が、数々の挫折を繰り返しながらも改暦の大事業に挑む姿を描いた<天地明察>は、映画化され今上映されている。

 明治5年、参議大隈重信は突如として改暦、27日間切り捨てて太陰暦12月3日を、太陽暦の明治6年1月1日とした。
 その経緯は福澤諭吉の<改暦弁>に述べられている。
 この小冊子は太陰暦に対して太陽暦の優位性を科学的に述べたもので、10万部も売り上げた大ベストセラーだった。
 しかし、後に大隈が述べたところによると、この改暦は政治的な意味合いが込められていたのだそうだ。つまり、明治5年はうるう年に当たり、このままでは13か月分月給を払わなければならない。とても財政不如意の新政府には耐えられない。
 欧米並みの<太陽暦>とすることで一か月の給与を踏み倒す必要があった。

 暦の改変によって、お盆をいつ行うべきか、年中行事についはいつ行うべきかという問題も生じた。
 お盆といえば7月15日が仏教の盂蘭盆会で七世の父母の成仏を願ってお斎のごちそうを食べる日である。そしてなによりもまして家族が集まって墓詣の日でもある。
 
 日本書紀以来つまり日本建国以来の伝統行事だ。

 これをそっくり一か月繰り下げて8月15日をお盆とした。
 お盆は旧暦のままだが、形としては新暦を受け入れ8月15日という折衷案に落ち着いた。
 旧暦の精神が宿る新暦8月15日というわけだ。
 先生は、例外的にうまく新暦に適合したお中日のお盆の良き風習が、このまま受け継げられていくことを祈ると結ばれた。