昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

エッセイ(70)文明の進化路線に逆らえるのか(10)

2011-06-01 05:23:29 | エッセイ
 <脱原発>はドイツにとって大変チャレンジングなテーマだとメルケル首相は言った。
 たしかにこれは言葉以上に大変なことだ。チェルノブイリ事故を体験したウクライナ が象徴しているように、今や人類は原発を手放せないのが現実なのだ。

 言い換えればドイツは人類の<文明進化路線>に逆らおうとしているのだ。
 
 「文明の始まりは農耕技術の獲得だった。そして自然を収奪し続けた。人間はたびたびその有限性に突き当たってうろたえたが、それを文明の技術によって切り抜けることができた。固定した畑地に、焼畑、そして肥料をほどこし、化学肥料を作り出した。
 繊維が足りなくなれば、合成繊維を、皮革が足りなくなれば合成皮革を、木材や金属に代えてプラスチックを。我々の周囲をちょっとながめただけで、人類の生活がもはや自然界の利用だけではたちゆかなくなっていることがすぐにわかる。合成化学の進歩、これこそ自然の有限性を突き破る人間の知恵だと思われた。しかし、ここに大きな錯覚がある。
 自然の有限性に気づき、たびたび自然の収奪に反省を加えた人間も、水と空気、こればかりはその有限性を思ってもみず、収奪を重ねつづけてきた。が、ここにきて、大気汚染、水汚染という形で、その有限性の壁に突き当たって人類は愕然としている」
(立花 隆<文明の逆説>より)

 同じことが<原子力の開発>にも当てはまる。リスクはあっても人類の文明にまちがいなく利すると信じているフランスやアメリカをはじめ、大半の国は<原発の活用>に人類の将来を託している。
 その中でのドイツの<脱原発>宣言である。これは人類の<文明進化路線>に対する壮大な挑戦でなくてなんだろう。


「ドイツ語には<恐怖><戦慄>にあたる<グラウエン>という言葉がある。たしかに恐怖なり戦慄を意味する単語だが、しかし何が怖ろしいというものでもないのである。何におののくというわけでもない。もっと本来的な、存在そのものに根ざしたところの恐怖とおののきの場合に使われる。・・・家にもどる途中の学生が、不意に頬をかすめる冷気を感じた。・・・ふと足をとめた。そこには誰もいない。何があるわけでもない。にもかかわらず、どうしてか足がすくむ。これを称してドイツ人は<グラウエン>という。ドイツ語特有のこの言葉は、ドイツ、ドイツ人、ドイツ文化というときに人が感じる重さ、奥深さ、強さとまじり合った不気味さを、一言であらわすものではあるまいか。
 いわゆるゲルマンに固有の魂の状態をいう言葉であって、明晰なラテン精神の知らないところのものだろう。イギリス流の芝居がかった<ホラー>とも、はっきりちがう。ドイツ人が内に秘めている影の世界である」

「五感で感じとれる具象の世界よりも、第六感で感じとる抽象の世界を、より得意とする。ドイツ・ロマン派が典型だが、神秘家さながら、繰り返し、いのちのない物体にいのちを感じ、ありきたりの事物に魂をかいま見てきた」
とドイツ文学者、池内 紀氏は言っている。
 
 今まで自然を牛耳ってきた人類の文明を仕切ってきた西洋文明の中では、他の国とは異質の魂をドイツ人に感じる。
 その魂が今回の宣言に向かわせたのだろうか。 

 40年も前になるが、ドイツの民宿に泊まってそこのおやじと話したことがある。
 たいして喋れたわけではないが、他の外人とは異なる親近感の共通項は<自然に対する畏敬の念>だったのかもしれない。