平ねぎ数理工学研究所ブログ

意志は固く頭は柔らかく

国家の品格

2008-04-01 23:38:49 | 雑学
「国家の品格」(藤原正彦著、新潮新書)からの引用です。

引用ここから---

わかりやすい例を一つあげてみましょう。ここに一週間何も食べてない男がいるとします。この男が街に出て角のパン屋さんの前に来た時、思わずパンを奪って逃げてしまった。
ある人はこの光景を目撃してこう思う。「日本は法治国家である。法治国家においては、法律を遵守しなければいけない。他人の物を黙って盗るということは、窃盗罪に値する。したがって法律に則り処罰されなければいけない。そのために警察に突き出そう。」
勇敢な彼、ないし彼女は、走って逃げていく男を追いかけて捕まえたり、あるいは110番を回して警察に連絡したりする。
ところが、別の人は同じ光景を見ていてこう思う。「ああ、可哀想。確かにこの男は人の物を盗んだ。しかしこの男は、今このパンを食べないと死んでしまったかも知れない。人間も命は一片の法律よりも重い場合もある。だから今は見て見ぬフリをして通り過ぎよう。」
どちらも論理は通っています。最初の人は、「日本は法治国家である」が出発点で、結論は「警察に突き出す」。両方ともに論理はきちんと通っているのですが、出発点Aが異なった故に、結論が異なってしまったということです。
すなわち、論理は重要であるけれども、出発点を選ぶということはそれ以上に決定的なのです。

ここまで---

多くの本が出版されていますが、これほどの悪書もあまりないと思います。「国家の品格」をきっかけに、品格という言葉が安易に用いられ、個人の人格攻撃の材料になっていまいました。一番迷惑を被っているのは朝青龍でしょう。横綱の品格がとやかく言われるようになったのは、この本がきっかけではないでしょうか。それまでは相撲取りの品格が云々されることはなかったような気がします。
この本のいけないところは、論理の組み立てが強引すぎる点です。始めに結論ありきなのです。「情緒は論理に優先する」を言いたいがために、引用文のような杜撰な文章があちこちに現れます。引用文のエピソードが想定している人物は、パン泥棒以外は、二種類しかいません。「日本は法治国家である……、警察に突き出そう」と考える人(論理の人)と、「ああ、可哀想……、今は見て見ぬフリをして通り過ぎよう」と考える人(情緒の人)です。実際にこのような場面に遭遇すれば、ほとんどの人は藤原氏が提示したパターン以外の行動をとるでしょう。私なら、とにかく捕まえて、なぜパンを盗んだのかまず理由を問い質します。それをしなければ次のステップは始まりません。藤原氏は、多くの人がそうするだろうと思われる行動パターンには目もくれず、自説の補強になるような特殊な人物だけを恣意的に選出します。
「論理」と「情緒」のどちらが重要かと訊かれれば、その答えはわかりきったことです。どちらも重要です。大切なのはバランスです。論理が勝ちすぎるとギスギスするし、情緒過多は流されてしまいます。こんなことは、夏目漱石がとっくに取り上げています。「いまさら何を…」と言いたくなるようなテーマです。それにしてもこの程度の本が熱烈に支持される日本は、藤原氏の考えとは逆の意味で憂慮すべき状態にあると思います。

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