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根っこのつれづれ日記

現在北京に留学中の院生、根っこが徒然なるままに書き付けた言葉たちです。

北京にもう1年

2007-05-25 | Weblog
本日、どうせまだだろうと思いつつ、留学生弁公室にふらっと立ち寄ったら、掲示が出ていました。
無事留学延長願いが受理された模様です。
ほっと一息。。。

大学によって対応が違い、同じ奨学金留学生でも経るべき手続きが若干異なるので、他の大学ではまだなのかもしれませんが、同じ立場の方々にも朗報が届くよう願います。


いろいろ面倒な手続きは多いのですが、今のところ計画は順調に進んでいる感じです。

次は、日本の大学院関係の手続きです。
夏の帰国までに、一通り済ませたいところです。

山西メモ~硬座の苦行は続く

2007-05-12 | Weblog
日本某自治体の日中友好協会と山西省との植樹祭に飛び入りさせていただいてきた。小渕基金の打ち切りで、今回が最後となるらしい。今年で4回目となる植樹祭では、初回、第2回、第3回に植えたという木々が立派に成長している様を見ることができた。(私は当時を知らないので実感がわかないが)一行に、初回に参加したというおば様がいらっしゃり、市内から植樹場所へ向かう車内でいろいろお話してくださったのが印象的だった。

セレモニーが終わると、植樹。やはり象徴的なものに過ぎないが、援助が届き、そして現地で実際に交流することにこそ意味があるのだろう。現場には、当地のマスコミ各社や省市政府の林業部門、対外友好部門の関係者が駆けつけており、図らずも通訳をやらされたり、かつて連絡を取り合っていた対外部門の方とお会いすることができたりと、予想外の展開があった。

午後は観光をしながら、団員の方々と交流。
夜は、省市政府関係者の方々との晩餐会。再会の約束を交わし、途中で抜け出してひとり慌しく北京への帰途に就いた。


さて、問題は帰路。

山西省から北京に帰りついたのは明け方5時半ごろ。
現地に着いてから、帰路の電車の乗車券を買い求めたが、寝台は既に売り切れており、やむなく「硬座」座席券を購入。

8時間耐久レースである。
当初予想していた腰への負担は、覚悟していたためかさほど苦にならずに済んだものの、安らかに眠れないという苦痛が生じることとなった。

北京西駅に着き、東から上る朝陽を浴びると、ずっと狭い空間に閉じ込められていた体がきしむような感覚を覚えた。徹夜明けのようである。


それから宿舎に帰り、PCを開いて作業をしたあとベッドに体を横たえたのだが…、一向に眠れない!
眠いのに眠れない!
なんということだ! うがー!!

とのた打ち回っているうちに、中途半端な時間になってしまったので、バイオリズムを変に狂わせないよう、夜まで耐えることにした。
全く、なんということだ。


さて、エコノミークラス症候群というのはよく聞かれるが、それ以上に、中国の列車、特に硬座での長時間移動はまさにその症状をもたらすのではないか。
これはめな氏とも電話で話したことだが、私も乗車中、そんな心配が頭によぎった。


文章にも切れが無い。


辿りついた結論は、「眠れないのは硬座のせい」。

GW明けまして

2007-05-08 | Weblog
東北小旅行から帰ってきて、一番衝撃だったのは北京の暑さ。
帰りに手にした新聞で
「明日の北京の予想最高気温は31度。同時期で史上最高」
なんて記事を見掛け、ふーん、と思っていましたが、完全に夏モードです。

今も、向かいの部屋からエアコンを回す音が聞こえています。

日中、日射病には気をつけたいですね。


  *  *  *  *  *  *  *  *

さて、この期間は、いわゆる「新京」(長春)と「奉天」(瀋陽)に行って来たわけです。

前者は、旧満州国(中国では偽満州と呼ばれていますが)時代の建築物を現在も省や市、大学などの施設として活用していて、歴史のにおいを感じる街でしたが、中心部を離れると何ともうら寂しいバラックが並んだり、でっかいホテルの横は瓦礫のような小屋だったりと、「これから」な印象。

後者は、東北の中心都市だけあって、比較的整備されているように感じました。
地図上に地下鉄が記されていたので、道行く人に聞いてみると、「そんなものはない」と一蹴され、よくよく見てみると地図の隅っこに「建設中」とあるではないですか。あまりにくっきり描かれていたため、既にあるものと思い込んでしまった。

  *  *  *  *  *  *  *  *

あと、4月18日に全国鉄道高速化が実施されたのですが、それに伴い開通した、中国版新幹線CRH、話の種に乗ってみました。
長春―瀋陽間なら、普通のローカル線プラス30元くらいで乗れる上、時間がかなり短縮できるので、現地の留学生には好評でした。
日本の新幹線みたいな感じだったよ。快適快適。

  *  *  *  *  *  *  *  *

音楽~CA

2007-03-24 | Weblog
私が彼らの音楽に出会ったのは小学校4年生のときだった。
運動会の集団演技のBGMが、まさに彼らの曲「太陽と埃の中で」だったのである。

正確に言うと、彼らの曲自体はそれ以前から聞いていたようなのだが、はっきりと自覚持って聞き始めたのはこれが初めてと言っていいだろう。

それまで音楽というものには特に関心を持っていなかった私に、「この曲を次の世代に伝えたい」とまで言わしめたのが彼らである。

彼らとの出会いをきっかけとして、メロディと言葉で無限の広がりを表現することに、次第に魅かれていった。
一時期はミーハーぶりを発揮したものだが(地元の友人の皆さんは良く知っているだろう)、大学入学辺りには落ち着いて耳を傾けるようになっていた。

これは、彼らに対する自分の評価が下がったわけではない。
それまで彼らの音楽に寄りかかっていた私が、自分という軸を得るにつれて、「彼らの音楽」を崇拝の対象(そこまで極端なものではないが)としてではなく、尊敬できる仲間のように接することができるようになったからだと言える。


そして今でも、

彼らの奏でる音楽にはうならされる。
彼らの紡ぐ言葉にはうならされる。

音楽が国境を越えることを見せてくれた彼らの影響を多分に受けて、今の私がいる。
言葉が織り成す際限ない世界観が人の心を動かすことを知ったのも、彼らを通してであろう。

人に影響を与える人というのは、やはり魅力に溢れている。
その人の行動や活動、または作品を通して、それらは伝わっていく。

私が彼らから直接的に魅せられたのは音楽や言葉たちであるが、それは彼ら本人を抜きにしてはありえないことだろう。彼ら自身に流れる「音楽」が、形となって現れたに過ぎない。

やがて私も誰かに何かを残していかねばならない。
それは自分にとっては意図していなかった形であることのほうが多い。

だからこそ、自分の「音楽」を育てるのだ。





チャゲアスが3年ぶりのツアーをスタート

中国のお役所仕事

2007-03-07 | Weblog
初めに。ただ長いだけです。一緒に中国のお役所仕事を体験してみましょう。
それではシミュレーション、スタート!

******************

留学生弁公室に行って、こう伝えた。

根「留学延長手続きがしたい」

すると、何を勘違いされたのか、学生証に「履修登録完了」のハンコを押された。


一瞬目が点になって、自分の言ったことと目の前で起こったことの整合性を探ってみたが、すぐに正気に戻って、

根「いや、そうじゃなくて、留学の延長手続きがしたいんですが」

というと、自分の言ったことは同じなのに、今度はPCのフォルダを開き、「留学延長&転部届け」というフォームの申請書を印刷して手渡してくれた。中身は以下の通り。

①個人情報と、延長希望の理由
②所属学部の所見と同意サイン&ハンコ欄
③留学生弁公室の所見と同意サイン&ハンコ欄

留「これをあなたの専攻する学部の事務室に行って、同意のサインとハンコをもらってから、またここに来なさい」

さあ、スタンプラリーの始まりだ。

①の記入を終えた申請書を持って、キャンパスのちょうど真反対に位置する環境学院の事務室を訪ねた。

環「○○棟の3階の◇◇号室に、環境学院のS院長先生がいらっしゃるから、訪ねていって同意のサインをもらってからまた来てください」

と言われ、また自転車に乗って別の棟に移動し、S院長先生を訪ねる。

根「留学延長をしたいので、同意をいただきたいのですが」

S院長「何を基準に同意か同意でないかを決めたらいいんだ」

…と、私にはどうしようもない質問を投げ掛けられ、答えに窮していると、S院長は数箇所に電話を掛け始め、再び私に向き直って幾つかの質問を浴びせてきた。
一通りの質問に答え、最後、

S院長「今の状態でもう一年延長して、あなたの勉学の成果を出すのに問題はないのか」

根「問題ないです」

すると、

S院長「分かった」
…欄に「同意」とサイン。

約10分間の攻防を終え、環境学院の事務室に戻ると、

環「隣三間目の部屋を訪ねて学院のハンコをもらってください」

事務室を出てその部屋を訪ね、待ち構えているその人にS院長の同意サインを見せると、ブツブツと内容を読み上げ始め、一通りの記載がされていることを確かめ、学院のハンコをドカンと押してくれた。

②をクリア。さあ、これで留学生弁公室に戻れる、と思い、再び自転車を漕いで辿り着くと、担当の先生外出中。
他の先生に事情を説明すると、

留2「学校と協議しなきゃいけないので、これは預かります。また来週来て下さい」

はあ。ゴールは目前だと思ったのに。
いやいや、こんなところで気を落としてはいけない。ここは中国なのだ。心を大きく広く持たねば、歴史に飲み込まれてしまう。


そして翌週頭。

留学生弁公室を三度訪ね、担当の先生を捕まえ、

根「留学延長手続きを…」

と言いかけると、全てを悟ったように書類を取り出し、私の前で書き込み始めた。

留「はい。じゃあこれを大使館に提出すれば手続き完了よ。」

と言われ差し出された同意通知書は、なぜか前回あちこち回って③を埋めれば完成するはずだったあの申請書とは全く異なるものだった。

あの申請書はどこへ行ったの!?
もしかして、必要なかった!?
初めからこの紙出してくれたらすぐ済んでたんじゃ?


無数のクエスチョンマークを背負いながら、留学生弁公室を後にした私。

申請手続きに必要な書類は本日無事投函。大使館に送り届けられることでしょう。


めでたしめでたし。

帰国・帰省中

2007-02-23 | Weblog
実家にネット環境がないというのがこれほどまでに不便とは…。作業がなかなか進まない。
ということで、今日は駅前のMに来ている。

周りに三河弁が飛び交う状況…。心が和む。

母親に、「あんたの三河弁、ちょっと違和感がある」と言われた。
普段、そんなに三河弁丸出しでしゃべるわけではないのだが、あまりに和んで積極活用し過ぎたのであろうか。なんだか地元民アイデンティティが揺らいだようで、ちょっと切ない。

今日まで、いろいろな友人や親戚と会ってきた。
数年ぶりの再会が多く、お互いの刺激になったらなあと思う。

弟らは、かたや就職活動に追われ、かたや大学進学前の自由時間に没頭している。

小さい頃しか知らなかった親戚の人たちには、成長した姿を見せられて良かった。年下よりも、おじさんたちのほうが会話がスムーズな気がする。いや、気のせいでだろう。

昨日はいとことうちの兄弟で出掛けた。


将来を思案する時間が多くなっている。
口で言うほど安定した将来が待っているとは限らないが、自分の夢と世界貢献と親孝行の共存点を模索している。


あと半年で留学期間が一端区切れるが、その後も継続して北京にいることになるかも知れない。

来週月曜午後に北京に戻る。

旅行覚書③

2007-02-10 | Weblog
山東という街は、南京と並んで反日感情の深い土地である。

1928年5月3日、山東事件。
山東省済南で国民革命軍と日本軍衝突(済南事件。11日、日本軍、済南を占領)。

石碑には、同日突如日本軍が攻撃を始め、無垢の市民が虐殺されたと言うようなことが書いてある。

よく言われる南京大虐殺もそうであるが、抗日記念館を設け、多くの人民が殺害され、財産が略奪された。この恨みを忘れてはならない。
という強烈なネガティブイメージが定着している。


山東、特に済南では、日本人と名乗らないのは常識で、迂闊に名乗ろうものなら酷い罵りを受けることは覚悟しなければならないし、相手によっては、、、ということもある。
ただ、これはあまりに極限された環境であるので、別に全ての人がそうであるわけではない。あくまでも、そういう人もいる、という話である。


この手の話になると、よく、当時の資料を引っ張り出してきて、あの数はどう考えてもおかしい、嘘偽りだ。とか、そもそも虐殺はなかった、いい加減な言いがかりをつけやがって。とか、段々と一方否定的かつ感情的な反論をする方々をみかける。

しかし、中国共産党の、党の利益が国の利益に優越するという性格を考えれば、また歴史的にも今もそうであるように、実際の数字よりも、「政治的に正しい」数字に書き換えられることの方が多いことを見てみれば、証言の欠陥をつついて全てを否定するのは極めて無意味なことのように思えてくる。

数や目的はどうであれ、進軍し中国軍と交戦したのは事実であるし、その過程で多くの人の命が失われたのは事実である。しかしだからと言って、私が悪かった、ごめんなさい、と言って、いつまでもばつの悪い思いをし続けるのも変な話である。
戦争の仕掛け人はどちらか、というのは、実は非常に判断が困難であるため、今更判断などできない。一方的に被害者面されるのも、どうかという思いもある。

「日本軍は昔、我々にこんな悪いことをした」
という中国人を見るとき、申し訳ない思いをする一方で、それを言い続けることに虚しさを感じないのだろうかと、とても悲しい気持ちになる。傷ついたのはあなたたちだけではないのに。と。




山東最後の夜、張くん一家との食事の場で、歴史談義になった。「やっぱり来たか」と俄かに緊張した。
しかし、彼らに悪意はなかった。パパさんママさんは、真実を知りたがっているだけだった。
戦時中、天皇が全権を握り軍部を動かしていたわけではないこと。
日本の学校教育では戦争の歴史に全く触れないわけではないこと。
確かに日本と中国の国民は、お互いの悪口を言い合っている。しかし、その根拠はメディアで知りえたり誰かの話の一端だけを取り上げて、それがあたかも相手の全てであるかのように捉え、嫌悪感を増幅させているだけ。


ひとしきりの議論の終わりごろ、パパさんが言った言葉が印象的だった。
「息子とお前はいい友達だ。そうだろう?俺もお前の親父さんやお袋さんと友達になれる。だがな、もし息子が中国の国家主席で、お前が日本の首相だったらどうだ。たとえ本当はいい友達だったとしても、決して友達だということはできないんだ。」

複雑に縺れ合った糸を束ねる者は、ひとつひとつの糸を解く作業をすることができない。いつから絡まり始めたんだろうか。

戦争の発端のエピソードを見聞きする度、それは最早誰が悪いとかいう話ではなく、今日の我々から見ても、当時の各指導者たちにとっても、勿論被害者たちにとっても、悲劇と言うほかない。

その悲劇の遺産を背負って、私たちは生きなければならない。
感情論を超えて、対話しなければならない。
私たちは、お互いを誤解しあっている。
ありもしない、空想の悪魔の仮面を相手に被らせて、表面で罵り合っているだけである。


過去が原因となって、複雑にもつれた今が、確かにある。
しかし、これからは、お互いを認め合える未来を原因(根拠)として、今を変えていかなければならない。
未来の逆因果律。
この言葉にどれだけ希望を与えられただろう。

一人の力は小さいものだが、いつか大きな勇気になれるように、種をまいていきたい。糸を1本1本解きながら。


※旅行覚書三部作、これにて完結…ということに致します。
 多分また張くんとこにはお邪魔することになるでしょう。末永くお付き合いしたいです。

旅行覚書②

2007-02-07 | Weblog
◆黄河
黄河は中国で揚子江(長江)についで2番目の川で、9つの省を経由して、山東省から海に注ぐ。

済南の北部に黄河が流れている。黄河(古済水)の南側にあることから、済南と呼ばれるようになったと言われている。


同地を流れる黄河は、市内よりも水位が高く、天井川となっている。そのため、高い堤防が築かれ、洪水を防いでいる。

河口近くにあるため、川幅はかなり狭いが、はるか上流に目をやると、滔々と流れてくる大量の泥を含んだ水に迫力を感じる。
この川が運んできた大量の泥により、川の両脇には砂浜のような岸が形成されている。水位の増減が激しいため、川縁は足でちょいと叩くとぼろりと崩れる。
中洲も、日に日にその位置と大きさを変えてしまうらしい。

大きく蛇行したその形から、「龍」と形容されることの多い黄河だが、なるほどその名に相応しい実態である。

中国を治めてきた古代王朝は、治水を最大の課題としてきた。この暴れ龍をいかに治めるかが、国の存亡を左右すると言っても過言ではなかったのである。


ちなみに、90年代まで騒がれ、社会の時間にも習った黄河の「断流」だが、これは21世紀に入ってから観測されていない。流域管理を徹底し、地区による取水制限を設けたためといわれている。


今回の滞在中、友達の張くん宅に泊めてもらっていたのだが、この日はパパさんとママさんも一緒に黄河を見に行った。
激しい河流に向かって石投げをしているパパさんとママさんがとても可愛らしかった。

旅行覚書①

2007-02-07 | Weblog
◆山東省
中国東部の沿海地域、黄河の下流地域に位置しており、半島と内陸の部分からなる。山東半島が渤海と黄海に突き出ており、遼東半島と遠くから相対するかたちになっている。竜の口のように見える半島の、下顎の方だ。

◆済南市
山東省の省都である同地は、「泉の街」と言われている。その名のとおり、天然の泉が街のあちこちにあり、同地を観光名所ならしめている所以でもある。
日々北京の汚い水しか見ていない自分にとっては、ポコポコと沸き出ずる澄んだ水を見ているだけで、心が洗われるような感動を覚える。

底が見えるんだよ、魚が・アシカ(訂正→アザラシ)が泳いでるんだよ!
しかも、場所によっては飲めるんだってよ!!



でも、空はくすんでいるのでした。
中国の環境汚染は深刻です。

好転の軸

2007-01-29 | Weblog
一昨日、
1.交通費をケチってバスで向かったが、予想に反する方向に進んでしまい、地下鉄で行けば1時間のところを2時間半かかってしまった。
2.汽車の乗車券の予約のため、わざわざ北京駅まで出掛けて行き、押し寄せる客の列に並んで窓口に辿り着いたものの、「ありません」の一言で一蹴。
3.街なかのチケット販売店に無いかと、そろそろと訪ねてみると、なぜか不機嫌なおばちゃんに「自分のことばっか言ってないで、少しは私のことも考えなさいよ!」と怒鳴られる。
4.画像作成ソフトで作ったデータを持って名刺屋さんに行くと、対応ソフトが店のPCに入ってなくて後日再訪問に。
5.疲れて帰宅して、ルームメートと一緒に食べた北京ダックが激しく不味い。

以上、収穫なし。

と言いたい所であるが、ちょっと立ち止まって考えてみる。

1.駅に辿り着くまでに乗ったバスで、今まで通ったことの無かった景色が見られた。北京に少し詳しくなった。
2.春節前は大変混み合うのだということを肌身で感じられた。
3.予約電話で混線する回線の如くイライラが募ったおばちゃんの不機嫌のはけ口になってあげた。
4.帰ってから画像ソフトをいじくって、少し理解が深まった。
5.北京ダックを食べたければ店に行け、ということがわかった。


というプラスもあった。


今日は、ある中国企業の社長さんを訪ねた。結構いいお話をいただいた。
帰りに寄ったチケットショップで、前日別の所で一蹴されたチケットの予約ができた。
溜まってた仕事が何件か進んだ。

「ツイてるツイてる」といい続けて、運が好転していったという人の話を聞いたことがある。
よく言うことだが、言霊というやつとも関わってくる話である。

また、私はあまり詳しくは知らないが、量子力学理論に、「人間の認知によって現象が変わる」というのがあると聞いたことがある。
だとすれば、捉える人間の認知の「ベクトル」によって、現象が変わるというのは、考えすぎであろうか。

回転軸の中心は自分かもしれない。

すべて有難いと受け止めることが、自分を成長させるものと思っているが、それによって自分を取り巻く環境や起こる現象が好転していくとすれば、そんなに良いことはない。

悲しみよりは喜びを、
不幸よりは幸福を、
人は願うだろう。

人はそれを創り出せるであろうか。
否定したくない私がいる。