遅ればせながら春に行った旅行について記そうと思います。あるいは発生した悲劇とも呼べましょうか…
あれは春期の長々とした休暇にも慣れてきた三月中頃の出来事でした。
とある計画が不運にも頓挫した後、我々一行は鳥取砂丘・出雲大社へと旅に出ようと息巻いておりました。
三月十四日。途中の浜松駅で目当ての餃子店に入れないという不慮の事故にもめげずに我々は鈍行列車で意気揚々と姫路まで馳せ参じ、翌日に備え一度とある宿に 宿泊することにいたしました。そこでは名物である姫路焼きなるものに舌鼓を打ち、一行は満足し床に就き、一日を終えました。
三月十五日。夜明けと共に一行は砂の都、鳥取へ向かうため鈍行列車に乗り込みました。それはそれは苦難の道のり…ということもなく無事に都に辿り着き、我々は砂漠、もとい砂丘へと足を運ぶのでした。鳥取砂丘はどうでしょう、想像以上に展望が良いもので高揚した気分そのままに年甲斐もなく海岸沿いに落ちていた縄で大縄跳び などし始める始末です。そこには周りの目を憚る精神性など微塵もありません。童心を携えた我々は鳥取の宿へと向かい、夜更けまで話に花を咲かせました。も ちろんその時は翌日以降に起きる悲劇などは知る由もなく…
三月十六日。起きてロビーに集まると人数が一人足りないことに気付きます。おやおやどうしたのだろうか、と私が部屋を訪ねるとそこには悶え苦しむM(当時2年)の姿がありました。Mは体調を著しく崩したのです。彼は本当に全く何も悪いことをしていないのにど うしたのでしょう。前日に食した海鮮丼に当たったのでしょうか、はたまた早くに床に就かなかったことが災いしたのでしょうか。ともあれこれが悲劇の始まり であったことは今思えば確かです。幸い、大事には至らなかったので一行は鳥取を後にし、神様にお祈りすべく出雲へと向かいました。その一途は一見平凡ではありましたが、Mにとっては苦難の道で非凡でありました。また、他の誰かにとっても苦難の道であったとはこの時に私は気付くことが出来ませんでした。出雲に着き、蕎麦を食して大社の前で写真を撮ります。一人足りません。お気付きかもしれませんがT(当時2年)が胃腸炎で離脱したのです。これは海鮮丼のせいだと火を見るよりも明らかといったところでしょうか。早々とお祈りしなくては。我々は早速出雲の神へ会いに行きました。我々はお参りをします。終わりました。また一人減っています。K(当時1年)もまた胃腸炎に罹ったのです。Kは海鮮丼など食していません。呪いでしょうか。縁結びの神は病魔から救ってはくれないようでありました。あるいは信仰が足りなかったともいえます。神にも見捨てられた一行は病院で待つTに会いに行きました。長であるTは投げやりに我々に解散を命じました。こうして我々の春合宿は悲しい結末を迎えたのであります。
後日談。それぞれ帰路へと向かった我々ではありますが呪いなど簡単には解けないのが常です。お祓いなどしていないのですから尚更です。H(当時2年)は大阪で力尽きたといいます。かくいう私も病魔に犯されましたが守銭奴である性質上鈍行列車で帰還いたしました。新幹線に乗るという賢い選択をしたTやKとは違い…。それでも崩れた体調で食す京都のラーメンはそれはそれで格別であったともいわれています。
こうして生存率四十四%という不吉な旅は完全に終局となりました。
以上
P.S.写真は気が向いたらのせます さて、甲武信ヶ岳に行ってきますか
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