tokyoonsen(件の映画と日々のこと)

主に映画鑑賞の記録を書いています。

仮説を立てるということについて

2016-06-07 01:31:13 | 日記
 兵庫県の美方郡というところにある、安泰寺のHPに行ってみた。 → 安泰寺
 
 時々、かなり多めの時々、お坊さんの話を聞きに行ったり、坐禅の会に参加してみたり、そういうことをしてみたいなあと思うけれど、これもなかなか行かない。
 何故だろう。
 何だかわざわざ行くと、むずがゆくなってしまう気がするのだ。HPを覗くだけならむずかゆくならない。

 それで、安泰寺はすごい。
 修行といっても、一週間とかの体験修行みたいなものは無く、「最低でも3年間」と明記してある。ううむ。
 ちょっと3年くらい修行体験してこようっと。という発想は出てこないだろうな。カレンダーに予定入れておかなくちゃ。って言っても、入れる予定は当然出発の日だけで十分である。

 坐禅もすごい。

 「坐禅は龍の蟠るが如く颯爽たる姿勢と凛々たる気魄が籠っていなければならぬ。」

 「『此の身、今生に度せずんば、さらに何れの生に向かってか此の身を度せん』との熱烈な求道心に燃え、一分一秒をも惜しんで全身心を坐禅の一行に投げ込まねばならぬ。」

 HP内「坐禅の心構え」、「澤木興道老師の言葉より」からの抜粋である。
 しかもこれが、最初の一行と、次の一行である。華麗ささえ感じ、少し胸が熱くなる。
 一に坐禅、二に坐禅、三に坐禅のこのお寺では、ぼんやり気を抜いてる時などないに違いない。

 その後、九世住職であるネルケ無方さんの、先月出版された本に関するインタヴューを読んだ。→ インタヴュー記事
 「本書ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教ほかいろいろな宗教の経典およびその伝播が紹介・解説されていますが、(略)」とインタヴュアーが仰っている。読んでみたい。いや読みたい。いや読む。地球上を大移動した(ドイツから日本にという意味で)ネルケさんが、いかにその精神を浮遊させないでいられるのかが、それで少しは分かるかもしれない。

先月出版された本はこちら。↓
  仏教の冷たさキリスト教の危うさ (ベスト新書)

 今日の日記は、自分へのメモ書きだ。すぐに忘れちゃうから。忘れちゃうというより、毎日に流されてしまう。今日ももう終わりだ。あっという間。何かをしたようで、ほぼ何もしてない。「夕飯を作った」というのが唯一何かをしたと言えることだろうか。「作った」というには、ちょと簡単だったかもしれないけど。なのに、一日があと3時間くらい長ければいいのに、とも思ったりもする。でも実際一日があと3時間長かったら、疲れちゃってしょうかないような気もする。

 最初に書いたタイトル、「仮説を立てるということについて」をすっかり忘れていた。
 今、プレビューを見てびっくり。タイトルを書いておいて、忘れるなんてことがあるんだろうか。あった。仕方ないので、「仮説を立てるということについて」はまた今度。
 もう一度プレビューをチェックして、誤字脱字を直したらおやすみなさいということで。

 

 

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