邪悪な僕ですが、こんな頃もあったのよ。
悩みなき頃の僕。
いや、それなりにあったのか?
忘れてしまったけれど。
因みに、この頃はまぶたが一重だったけど、今は二重です(整形はしていません)。
当然のことながら、統合失調症にもなっていません。
みなさん、お元気ですか。
美容師さんに「癖毛ですね」と言われたときに、「そうですか~」などと適当に答えていた僕ですが、最近になって本当に僕の髪のどこがそうなのか、認識しました。
よくよく見れば、ブログのプロフィールに用いている幼児の写真の頃から、そうではないか。
てっきり髪の一部にウェーブでもかかっていると思っていたのですが、違った。
髪を短くして分かったのですが、おでこの左側の髪が、後ろに流れないで、前に向かって生えているのである。
( ̄∇ ̄;)ハッハッハ。
自分でいうのもなんですが、変なの~。
己の限界というか、己の卑小さを自覚できれば、その分、世界は広く感じられるはずなのだが、違うのかな。
無限の可能性というのは観念の世界だけの話なので、そういうことを言う奴に限って、現実認識が不足している気がする。
仕事をさぼってばかりいるから、疲労が蓄積することもなく、苦労知らずのまま、夢みたいなきれいごとが言えるのではないかな。
けれども、肥大するのは妄想的な自我ばかりで、一向に世界は広く感じられないまま、いつまで経っても、真の自由は得られないのではないかな。
今、必要と思われるものを手に入れる。
おれはこういう方針で生きている。
将来の生活のために貯蓄したいという気持ちも分かるが、だが、ただ生存と生殖だけ考えるのだったら、動物と同じで、虚しい。
つまり、おれは人間だから、肉体だけでなく、精神も生かしたいのだ。
その為に、何をすればいいのか、いつも考えている。
だから、衣食住の確保だけでなく、知識も得ようとしているのだ。
おれが読書を好むのはそのためだ。
代金を支払っているとはいえ、何か与えてくれた作者には、その都度、感謝している。
あなたはおれの世界観を更新してくれた。
ありがとうと。
人が完成するために必要となる最後のワンピースとは、己の不完全性を受け入れることではなかろうか。
何故、欠落したままでいいかというと、未来への可能性(夢)を残すためではなかろうか。
そのため人にはそれを埋めてくれる他者(愛)が不可欠となったが、ちゃんと理由があって、そうすれば自閉的な状態から抜け出せる(自由)。
つまり、それは精神(心)を取り戻すということだ。
生きていてよかった(喜び)、ありがとう(感謝)という。
0と1というデジタル思考しかできないコンピュータは、何となく好きとか嫌いというときの「何となく」を処理するのが苦手だろう。
仲の悪い奴に「長生きしてね」と言えば、相手は怒るが、同じことをコンピュータにしたら、違った反応をされるだろう。
コンピュータは、論理的にしか考えられないので、この場合、この言葉に込められた本当の意味が分からないのだ。
「私なんて復活してもらっても…」と母が呟くので、復活させたくなった(もし僕が神だったら)。
勝って傲慢になるくらいなら、負けて謙虚になる方が良い。
ただし、卑屈になるのはダメ。
そうなるのはまだ勝敗にこだわっている証拠だから。
それよりもっと大切なのは失敗から学ぶこと。
人生、そちらの方が断然有意義に過ごせる。