人間もどきの世界観

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身体によって生まれる目の錯覚

2018年09月16日 10時16分00秒 | 日記

すごくおもしろいので松田雄馬著『人工知能はなぜ椅子に座れないのか――情報化社会における「知」と「生命」』から一部抜粋。

P.125

身体によって生まれる目の錯覚

目の錯覚、すなわち錯視が起こるということは、単に私たちの脳が「騙されている」というだけではありません。錯視は、私たちが「主観的」に世界を認識している結果として生じるものであり、私たちが、能動的に世界と関わり、能動的に世界を認識しようとする結果として生じるものだと言えます。錯視の例を俯瞰して見ることによって、そうした能動的な認識がどのように行われているのかについて、理解を深めていきましょう。

まず、図3-3を見てみましょう。これは、一般的には、私たちの「大きさの認識」というものが、如何に当てにならないかということを示す、錯視の一つです。四匹いる犬は、どれも同じ大きさですが、後ろに行くほどに、犬が大きく見えます。特に、背後に注目すると、犬の大きさの違いが際立って見えます。これは、背景である廊下が、遠くへ行くほど小さくなる「遠近法」によって描写されており、この背景に着目することで、脳が、「遠くの物体ほど小さくなるはずだ」と誤解するために生じます。このように「大きさの錯視」とは、私たちに遠近法という感覚があるからこそ生じるのです。それはゴンドラ猫の実験で能動的に動いた猫が正常に機能したように、自らの身体を使って経験したからこそ獲得できる感覚なのです。

 

次に「大きさの認識」とは異なる例として、図3-4を見てみましょう。これは、一般的には、私たちの「空間の認識」というものが、如何に当てにならないかを示す錯視の例の一つです。「テーブルの錯視」と呼ばれる図3-4を見ると、左の縦長に見えるテーブルと、右の幅広に見えるテーブルは、どのように見ても、同じ大きさ、同じ形には見えません。しかしながら、図3-5のように、定規を当ててみると、左右のテーブルは、共に長辺が一五センチメートル、短辺が六センチメートルの、全く同じ大きさと形の平行四辺形だということがわかります。この錯視は、縦向きに描写されたテーブルは、奥行きを考慮すると、見た目よりも「奥に伸びている(長い)のではないか」という思い込みがあるために生じるものです。「思い込み」と聞くと、悪いもののように感じられるかもしれませんが、こうした思い込みがあることによって、「奥行き」というものが認識できていると考えると、私たちは、「思い込み」によって空間を認識しているとも言えるのです。こうした空間に関する認識には、「運動視」を司る背側経路が大きく関係しています。ここからは、視覚のもう一方の経路である背側経路が担当する「形の認識」、すなわち「形態視」に関する錯視を見ていきましょう。

図3-6に示す「カニッツァの錯視」は、私たちの「形の認識」というものが、如何に当てにならないかを示す錯視の例の一つです。形の認識が当てにならないということは、私たちが普段「そこに、ものがある(ある形をしたものがある)」と感じていること自体が、思い込みによるもの、すなわち、「主観」的に作り出されたものである可能性があるということです。図3-6の左側の図を見ると、私たちの目には、まるで白い三角形があるように感じられます。また、右側の図を見ると、白いひょうたんのような形があるように感じられます。しかしながら、実際に描かれているのは、黒いパックマンや、半円のようなものだけであり、実際には、三角形やひょうたんの形など、「どこにも存在しない」のです。

こうした、本当は存在しないにもかかわらず、まるで存在するかのように見えてしまう輪郭は「主観的輪郭」と呼ばれ、脳内で「主観的」に作り出されたものなのです。こうした「ありもしないものが見えてしまう現象」は、脳内では常に起こっています。これがなければ、テレビやパソコンの画面を見ても、「形」を見ることはできず、単なる「ドット」の集まりに見えてしまうでしょう。「ありもしないものが見えてしまう現象」と表現すると、脳が誤作動を起こしてしまっているようにも感じられるかもしれません。少なくとも、脳が「騙されている」ということ自体は間違いではないのですが、これができなければ、私たちは、視覚によって生きていくことができないともいえるのです。

 

ここまで見てきた「錯視」に関する様々な例から得た知見を総合すると、「大きさの認識」や「空間の認識」や「形の認識」というものは、すべて、「主観的なもの」であり、周囲との関係(あるいは自分と対象との関係)によってのみ決まるものであると言えます。そうした観点では、私たちの目は、常に「思い込み」でものを見ている、と考えることもできます。しかしながら、「大きさの認識」や「空間の認識」に関する錯視を通して見てきたように、私たちは、「遠近感」を持っているからこそ、空間を認識して、その空間の中で適切な行動を取ることができます。また、「形の認識」に関する錯視を通して見てきたように、私たちは、そこに「形」があると錯覚することによってこそ、「形を見る」ことができると言えます。「そこにものがある」と錯覚すること(思い込むこと)なしに、目で世界を見ることはできないと言えるのです。そうした観点で考えると、私たちは、世界を見ている「つもりになっている」だけであり、実際には、そのような世界は存在しないのですが、その一方で、私たちは、「錯覚する(思い込む)」ことによって、脳内で、世界を主観的に作り出すことができるのだと解釈することもできます。私たちが「客観的に見ている」と「思い込んでいる」この世界の様子は、実は、私たちが、脳内で主観的に作り出しているものであり、それによって、私たちは、生きていくことができると言えるのです。

私たちの見ている世界が「主観的に作り出された世界」だとすると、その世界は、見る人によって大きく異なると言うことができます。そうした事実を端的に理解できるのが、図3-7です。「図地反転図形」と呼ばれるこの図形は、「黒色」に着目すると、ブロックのようなものが見える一方で、「白色」に着目すると、それとはまったく異なる「IEEE」という文字が浮き上がって見えてきます。このように、人は、同じものを見ていても、必ずしも「認識」が一致するわけではなく、同じものの何処に着目し、どのように解釈するかによって、「主観的に作り出される世界」は、異なってくると言えるのです。こうした主観世界を持っているということは、人間や生物の大きな特徴であると言えます。

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