プシコの架空世界

ホレホレ触るとはじけるゾ。
理性がなければ狂いません(妄想の形成にも理性の助けがいる)。

消費が美徳となるとき

2013年01月04日 20時28分04秒 | インポート

 辞典で調べると、「消費」とは、品物を生産しないで、食べたり使ったりするコトとあるが、これだと美徳でも何でもないように見える。

 しかし、それには、まず売買が必要だろう。

 「売買」とは、当事者の一方が「商品(売り買いや取引の対象となるモノ)」を相手に渡し、相手がこれに対してお金を支払うコトだ。

 ちなみに、労働者の労働力も、商品となる。

 「生産」とは、(自然の形で取れるものに手を加えて)生活に役立つ品物を作り出すコトだ。

 生活に役立つ品物というのが味噌で、役に立たないモノを作っても「評価(品物について、その値段を定めるコト)」はされない。

 だから生産者は消費者のコトを考えてモノづくりをするようになる。

 別に道徳的な要請からでなく、エコノミーの要請からそうなる。

 ところで、「経済(売買・消費・生産)」は人間ならではの活動だが、それに役立つのがお金だ。

 お金がそれらを円滑にするのは、それ自体に価値があると、見做されているからだ。

 そう見做されるのは、それに対する「信頼感(それはただの紙や金属ではないという)」があるからだ。

 そう、みんな信じているのだ。

 見えないモノを。

 つまり経済は、突き詰めると、メンタリティーの問題になるのだ(そうだ、景「気」というではないか)。

 「消費が美徳になるとき」という話をしたかったのだった。

 単純化すると、消費者がある品物を、お金を出して、買ってあげる。

 すると、その品物の代わりに、生産者はお金を得るコトができる。

 お金を得た生産者は、それをまた別の品物を買うために、使うコトができる。

 要するに、経済とはお金回りのコトだから、個人的な消費でも、他の誰かの生活を支えるコトになるのである。

 だから、結論として、僕は消費を美徳とする価値観を持ってもよいと思うのだ。

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美しい日本?

2013年01月04日 13時52分39秒 | インポート

 「美しい日本」という言葉を使う時、彼の頭の中にはどんな映像が浮かんでいるのだろう?

 経済とは社会生活を営むのに必要な、売買・消費・生産などの活動のことだが、これを活発にしながら、美しさは保てるのであろうか?

 それが僕の素朴な疑問である。

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命あっての物種

2013年01月04日 12時53分39秒 | インポート

 【命あっての物種】ということわざがあります。

 何事をなすにも命がもっとも大切で、命がなくてはいかなる幸せ(仕合せ)にもありつけないという意味です。

 これは唯物論的な物事の捉え方と言ってよいでしょう。

 一方、「命より大切なもの」という言い方がされることがあります。

 キリスト教的ですが、単に生命を維持するよりも、どう生きるかが重要と解釈しました。

 これは観念論的な物事の捉え方と言ってよいでしょう。

 両者は一見、矛盾するようですが、統合してみると、どう生きるかについての正解は自他の命を大切にすることではないかということになりました。

 具体的には、生産性の乏しい老人や幼児や障害者や犯罪者の命にも人生というものを観てあげることではないかと。

 それが結果的に、己のためにも、全体のためにもなるのではないかと。

 そんなことを考えました。

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