辞典で調べると、「消費」とは、品物を生産しないで、食べたり使ったりするコトとあるが、これだと美徳でも何でもないように見える。
しかし、それには、まず売買が必要だろう。
「売買」とは、当事者の一方が「商品(売り買いや取引の対象となるモノ)」を相手に渡し、相手がこれに対してお金を支払うコトだ。
ちなみに、労働者の労働力も、商品となる。
「生産」とは、(自然の形で取れるものに手を加えて)生活に役立つ品物を作り出すコトだ。
生活に役立つ品物というのが味噌で、役に立たないモノを作っても「評価(品物について、その値段を定めるコト)」はされない。
だから生産者は消費者のコトを考えてモノづくりをするようになる。
別に道徳的な要請からでなく、エコノミーの要請からそうなる。
ところで、「経済(売買・消費・生産)」は人間ならではの活動だが、それに役立つのがお金だ。
お金がそれらを円滑にするのは、それ自体に価値があると、見做されているからだ。
そう見做されるのは、それに対する「信頼感(それはただの紙や金属ではないという)」があるからだ。
そう、みんな信じているのだ。
見えないモノを。
つまり経済は、突き詰めると、メンタリティーの問題になるのだ(そうだ、景「気」というではないか)。
「消費が美徳になるとき」という話をしたかったのだった。
単純化すると、消費者がある品物を、お金を出して、買ってあげる。
すると、その品物の代わりに、生産者はお金を得るコトができる。
お金を得た生産者は、それをまた別の品物を買うために、使うコトができる。
要するに、経済とはお金回りのコトだから、個人的な消費でも、他の誰かの生活を支えるコトになるのである。
だから、結論として、僕は消費を美徳とする価値観を持ってもよいと思うのだ。
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