レーニンの認識論は、感覚やわれわれの心から独立した、物質の客観的な実在を確保しようとした結果、「認識とは、意識が、意識からは独立して存在している客観的世界を正確に写し取ることだ」という「反映説」に落ち着いたようです。<o:p></o:p>
しかし「認識は、客観の単なる受動的な模写ではなく、主観そのものが備えている形式(直観の形式と悟性のカテゴリー)の現象への適用であり、その意味で主観による構成である」というカントの説や、「一見直接的な与件のようにみえるどのような客体もまた、主体による媒介なしにはありえない」というヘーゲルの説や、現象学の認識論や、プラグマティズムの真理観、言語行為論の言語観や、物理学の展開(とりわけ量子力学的な「観測」の神秘)を経た後の眼から捉えると、反映説はごく常識的で、哲学的にはあまりに素朴だそうです。<o:p></o:p>
とはいえ、この素朴な説にもメリットはあって、それは「これによって、とにかく観念論や主観主義は拒否され、唯物論(マテリエリズム)は確保される」ということだと通常は考えられてきたようです。<o:p></o:p>
でも「意識の作用からは独立した、物質の客観的な実在を前提にする」、このポイントにこそ、この説の最大の弱点があるそうです。<o:p></o:p>
こうした構成は、反面の代償を必然的に伴い、それが「外的な実在の反対側に、まさにその実在を写し取るところの『意識それ自体』の存在を措定せざるをえない」、これがいわゆる「主客図式」の構成というそうです。<o:p></o:p>
意識それ自体は、定義上、客観的な物質そのものではありえない。<o:p></o:p>
とすれば、この「唯物論」は、物質に還元できない観念的な実体を前提にしていることになるだろう。<o:p></o:p>
こうして、唯物論は観念論へと反転してしまう。<o:p></o:p>
まさに、唯物論がまさに唯物論であろうとするその地点において。<o:p></o:p>
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僕の精神科の主治医のY先生は唯物論者だと思われます。<o:p></o:p>
はっきりそう言ったわけではないのですが、間違いないと思います。<o:p></o:p>
ちなみに精神分析家のラカンも唯物論者だったようです。<o:p></o:p>
今回の記事は大澤真幸『量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う』という単行本の内容の一部を取り上げました。<o:p></o:p>
この本のおかげで、唯物論か、それとも観念論か、という僕の長年の悩みが解消されました。<o:p></o:p>
めでたし、めでたし、です。<o:p></o:p>
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