長野オリンピックの映像を見てふと思い出したことがあって書き始めてます。
僕は勉強ができなくて、大学受験が苦しかったです。
根性がない、努力できない、怠惰である・・これらは認めます。
1浪の時にどうにも予備校に行くのが辛くなって、10月くらいにはもう行かなくなってた。
大学1つ、1学科だけ受験してあえなく不合格。2浪目に突入するも宅浪を選択し、時期を見て母に大学受験を諦めることを告げたのでした。ごめんってしっかり言えたかなあの時。
で、それから2年かな3年か忘れたけど、やりたいことが漠然としか見つからずに自暴自棄な生活を送ってしまいました。
自分はパソコンで何かやりたい・・・
当時は今ほどパソコンが普及してなかったように思います。
ある程度人並みよりちょっとパソコンを扱えていた僕は、そんな風に思っても何をしていいかわからなかったし、何をやりたいかわからなかったなー。
仕事に就く、何かやりたいことを見つけることができない僕にも1つだけ望みがあって。
それは一人暮らしをしたい、東京に行きたい・・・
これだけ。
環境がまるで遠かったからすぐに忘れ去ったけど、ほんの少しだけ演劇をやりたいなんて思った時期もあって(行動には何1つ移せなかったけど)、それを叶えるために東京に行きたいってのはあった。でも、単なる憧れとして、漠然と・・・東京に行けば変われるかな、環境が変われば何かできるかな。そんな風に思ってたんだよね。
でも、何ができるわけでもなく、何かしたいわけでもなくて、ただただ時間だけが過ぎていた感じ。
そんな様子を見てた母が、
「あなた、パソコンのこと何かやりたいんだったら、親戚に相談してみる?」
そんな話を持ち出した。
よくよく話を聞くと、父方の親戚が長野でローカル誌の出版会社を経営してるっていう話。母はパソコンのことも出版のことも何も知らないのだけど、親戚の会社の話を聞いた時にパソコンがどうのこうのってのを耳にしたらしい。それでパソコン、パソコン言ってる俺に話を持ちかけたわけだ。
いやー、かあちゃん、ドンピシャw
笑ってしまった。
パソコンとプリンターをなんとか手に入れ、Photoshopを手に入れ、ネットにつなぎ・・・だいたいこんな環境で、ぽちぽちパソコンをいじっていて僕が気になっていたのは、DTPってワード。
DTP・・・デスクトップパブリッシング
つまりは、パソコンで写真を加工して、テキスト書いて、それらを合わせて編集して本を作る、出版する。
そんな感じのこと。
Photoshopいじりが楽しかった僕は、絵を描くっていうことはしなかったけど(絵心問題でできなかった)、その辺の写真を落としてはなんとなくいじったりして、何かを作るわけでもなく、Photoshopの操作だけ覚えようと遊んでいたのです。
そういうことをやってて出会ったのがDTPって言葉。
「かあちゃん、そこに行ってみたい。そこで働くわけじゃないけどいいかな?」
と。
そんな感じで母と一緒に長野に。
親戚に会社を案内してもらい、仕事内容を一通り聞いて、どんな技術が必要か話をして。
でも、僕はこの会社で働くことはなかった。
自分がやっていることがお遊びもいいとこだったわかったのが大きかった。
家に戻って、もう一度何が必要か学び直したかったし。
ただ、この時に行った長野が考え方を少し変えた感じもした。
当時、オリンピック間近だった長野はそれを理由に盛り上がるでもなく淡々とはしてた。
でも、自分の地元よりずっと都会だったし、街の雰囲気ももちろん違う。もし、ここに住むようになったら何かしら変わるんじゃないかなー、一人暮らしして、今まで出会ってこなかった人を知っていったら面白いんじゃないかなーって感じたのね。
だったらやっぱり東京だ!
長野にここまで期待ができたのだから東京はもっともっと違うはず。
そんな風に感じたのでした。
家に戻り、当時の30万画素のカメラを書いDTPのことを調べ、色々やってみた。
一度は東京の出版会社のバイトの面接を受け、家を出ようとした。あっさり不合格になったけど、そのまま東京に住んでしまおうともした(家族、特に兄貴と従兄弟の甘い何を考えてるっていうものすごい反対にあい無理だったけど)。
DTPの環境を作り上げるにはソフトだけでも100万近くかかるし、練習をするにしても素材がないし、目的もない・・・なかなかに厳し日々が続いて、僕の悪い癖が出ました。
諦めるか・・・
これです。
それから半年くらいかなー。またしてもものすごく無駄な時間を過ごしていたんです。
でも、せっかく買ったんだからとデジカメはいじってたし、それを元にPhotoshopもいじってたの。Photoshopなんて解説本も何も見ないで完全に独学で。だからたいした成長はなかったw
ただ、あれもしかして?
これって、コンピューター、DTP、Photoshopを学ぶって考えがそもそも間違ってるんじゃないか?
加工を学ぶんじゃなくて、素材作りなんじゃないか・・・?
僕のヘンテコな部分です。長所なのかもですが、特に役に立ったことはないですw
つまりは、パソコンを学ぶのではなく、写真を学ぶべきなんじゃないか!!!
と、思い至ったのです。
ネットで専門学校を調べました。
たくさんはないけど、いくつかはあります。その中で過去にテレビで見たことがあって、印象的だった学校の資料を取り寄せました。
パラパラと見たり、じっくり見たり。とにかくその学校資料は当時の僕にとっては興味深くて溜まりませんでした。
「かあちゃん、ここに行ってもいいかな?」
うちの母ちゃんは厳しくはないです。でも現実的な部分も強いです。無理そうなものは簡単に受け入れないし、反対もしっかりします。でも、
「いいよ、行きな」
あっさりでした。
後々に聞いてみたのだけど、僕が単に無駄に時間を潰してるようには見えなかった様子でした。言葉は忘れましたが、
「あなたは何かやりたくてうずうずしてるように感じる。大学は違うってのもわかってた。東京に住もうとした時にそのまま住ませてやりたかったけどあの時は難しかった。何かやりたいなら挑戦してみなさい」
僕はポーカーフェイスではないけし、泣き虫だけど、こういうことはあまり表に出さないタイプなんですね。ひっそりと燃えるというか。でも、母は僕の気持ちの動きにやたらと敏感だったように思います。兄貴達に対してはそうでもないのに。
ある時は爪切り、耳かきをしてる僕をみて、
「ちょっと落ち着きなさい。あなたがそれをやってる時はイライラしてる時だよ」
って言われたこともあって、そんなに変な様子で耳かきや爪切りをしてたわけじゃないのに。でも、ある時、血が出るまでナチュラルに耳かきをしてる自分に気づいて、かーちゃんすげーなーって思ったのでした。
話は戻って、かあちゃんはお父さんには言っておくし、お金の心配もしないようにと僕に伝えた。
「ところで、その学校の出願っていつまで?」
ま、僕のダメなところのもう1つ。タイミングが悪い。
ちょうど5日前にその年の募集は終わっていたのでしたw
ただ、また1年家にいるとなるとまた腐ってしまいそうだったので、地盤を作っておけと両親に言われて東京ではなく神奈川ではあったけど、家を出て念願の1人暮らしができるようになったのでした。
写真には興味があったし、学校に入ってデジタル云々ではなく、どっぷりと芸術写真にハマったところからすると一概に単なる言い訳として選んだ学校とも言えないって思う。
でも、僕の第一の目的は家を出ること、東京で一人暮らしをすること(神奈川だったけど)。
親には少し申し訳なくもあったけど、感謝してもし切れないくらいにその時は感謝した。
うまくいかないこともたくさんあったけど、一人暮らしは楽しかったし、東京も自分にはあっていた思いの外。
一言で言えば、環境を変えることが自分には必要だったんだ。
長野で感じた開放感のような期待感、これは本物だったと思う。
写真学校も大変だった。
でも、諦めなかったし、へこたれなかった。自分は変わったって思た。
当時を思い出すと、いまだに心がワクワクします。
最近、とある人に、あなたは環境を変えたほうがいいかもしれないって言われて、目が覚めるような思いがありました。
もちろん、父の介護もあるし、年だけとって空っぽになってしまった今の僕が環境を変えることは難しいし、環境を変えても辛いだけで何も変わらないかもしれない。
でも、でも・・・もう少し、自分の人生見つめ直してみます。