地底人の独り言

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舞鶴へ行った

2018年06月06日 | 旅行

 

双葉百合子の「岸壁の母」を聞いて舞鶴へ行きたくなく、昨日行ってきた

 過日テレビを見ていたら、双葉百合子がこれまで大切に歌い続けてきた「岸壁の母」を封印し、坂本冬美に引き渡すことを決めたという。

 そんなテレビを見ていたら、そう言えば舞鶴に行ったことがないとふと思った。そして、そうなると、無性に行きたくなった。

 その数日後、イオンのスタバで本を読んでいる友人に出会った。そして、その友人が車でいろんな場所へ行っていることを思いだした。そこで、「舞鶴へいかん?」と声をかけた。

 そんなことで、昨日は舞鶴へでかけた。岡山も昨日は梅雨入りしたが、幸いにも舞鶴滞在中は雨はもってくれた。舞鶴引揚記念館や引き揚げ船の桟橋などを見て回った。そんな舞鶴には、海上自衛隊があり、自衛艦が停泊していた。

 ところで、私がこれまで行った京都の最北部は綾部だ。舞鶴へ向けて車を走らせていて、そのことを思い出した。若い頃、労働組合運動に参加していた頃、京都・蜷川民主府政を守るための選挙応援で行ったのが綾部。

 その時、頼まれた一文に「雪の綾部はまだ燃えいない」と書いたことを今も羞じている。「蜷川民主府政を守ろうする燃えるような情熱で、雪を溶かして欲しい」と書くべきであったと。もう何十年も前の出来事で、誰に言われたのでもないが、まだ心の傷として残っている。

 さて、引き揚げ者である私にとって、引き揚げという事実は心に深く突き刺さる。終戦時約660万人が海外で暮らしていて、自国へ帰れの方針の中で、引き揚げが始まったが、ソ連からの引き揚げは最も遅かったとのこと。

 その引き揚げの辛さ・シンドサ、ましてや乳飲み子を抱えての引き揚げであり、その困難・労苦は想像にあまりある。心安らかには見られなかったが、それでも再び来ることはないだろうとしっかりと我が目に焼き付けた。そして、私たち兄弟を連れて帰ってくれた両親に深く感謝した。

 帰りの車の中で、友人がスマホで双葉百合子の「岸壁の母」を流してくれた。何だか、涙が流れた。雨も少しだけ降り出した。

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