Entre ciel et terre

意訳して「宙ぶらりん」。最近、暇があるときに過去log整理をはじめています。令和ver. に手直し中。

サーモン・ダンスを踊ろう

2007年02月19日 | 日々雑感
昨日、某テレビ番組を見ているときに、いじめのコラム(朝日新聞:http://www.asahi.com/edu/ijime/)のお話を見ました。そこで早速、読んでみることにしました。

さかなクンが書いていた記事が、テレビで紹介されていたのでまずはそれを読んでみました(他にも色々な方が寄稿していました)。一部を引用したいと思います。

『でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます』

これを読んでいて、先にも出したテレビ番組の司会者は「何が狭いのかを考えた。そしてクラスが小さいのか。クラスを大きくすればいいのか? それは違う。クラスを大きくしても、いじめがなくなる訳ではない。なら何が違うのか。それはもしや先生の常識の狭さに関係してくるのではないか」

この発言を見ていて、この有名人に対する個人的なイメージがちょいと上がったのですが、思えば学校の授業で勉強していたときにも似たようなことを習っていたのだなぁということを思い出した。

学校で習ったのはあくまで教師の視線からみた「活動の仕方」のようなもので、実際のいじめの例をもとにしている本を使ったものだから、より陰湿なものだってきっとあるハズだし。それは実際、状況に立ち会わないと分からないことでもあると思うけれど、その例を見ていると正直、どこからが「いじめ」なのか境目が分かりづらいというのも一理だと思う。

だからと言って見過ごすこともできまい。そんなときにまず(このコラムを)思い起こしてみると良いのかもしれないなと思った。
「いじめている人」「いじめられている人」「それらに板ばさみになっている人」たちは、まだまだ井の中の蛙のようなものなのかもしれないと感じた。
広い海に出てみる、ということは決して楽しいことだけではないけれど、世界が変わるのは間違いない。


参考URL http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html






中島みゆき 「サーモン・ダンス」

まだ遠い まだ遠い まだ遠いあの国まで
たくさんの魂が待ってる
見つからない 見つからない 見つからない転轍機
この線路を切り換える為に
 
あのドアもこのドアも探した
梃子(てこ)の形をした物 誰か見かけてませんか
梃子の形をした物 誰か覚えてませんか
それはもしや
過ぎ去った時計の針と似ている
 
生きて泳げ 涙は後ろへ流せ  向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ
生きて泳げ 涙は後ろへ流せ  向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ
 
なぜ遠い なぜ遠い なぜ遠いあの川音
たくさんの魂が待ってる
動かせない 動かせない 動かせない転轍機
この線路で掛かってるから
 
掛かった鎖を解く方法 思い出して
梃子を0(ゼロ)に戻してから 次へ掛け直すんじゃないか
梃子を0に戻してから 次へ掛け直すんじゃないか
それはもしや
過ぎ去った時計の針と似ている
 
生きて泳げ 涙は後ろへ流せ  向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ
生きて泳げ 涙は後ろへ流せ  向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ
生きて泳げ 涙は後ろへ流せ  向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ

生きて泳げ 涙は後ろへ流せ  向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ
生きて泳げ 涙は後ろへ流せ  向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ
生きて泳げ 涙は後ろへ流せ  向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ
生きて泳げ 涙は後ろへ流せ  向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ
生きて泳げ 涙は後ろへ流せ  向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ

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