実は、スピリチュアル関係の本を、ほとんど読んだことがない。
というか、ニューエイジとスピリチュアリズムの区別すら付いていないかもしれない。
辞書的な意味を調べると、
ニューエイジは、戦後、欧米において
西洋の独善的な価値観を見直し、東洋思想を取り入れて起こった
思潮・精神哲学であり、
スピリチュアリズムは、
降霊術と、そこから来た心霊主義(心霊は実在するとする考え)及び唯心論、
ということになると思う。
つまり、ニューエイジは日本や東洋との関わりから生じた動きだが、
スピリチュアリズムは基本的に、西洋で独自に発達したものと言えるだろう。
江原啓之さんによると、
特にイギリスで十九世紀以後、降霊と検証を重ねながら
発展してきたものらしい。
***
スピリチュアリズムは、宗教ではない。
宗教とは、辞書的な意味によれば、
経験的・合理的には理解・制御できない現象に、
積極的に意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系、
だそうである。
スピリチュアリズムもまた、
経験的・合理的な範疇を超えた心霊現象を扱うわけだが、
それらを積極的に体系付けようとするのが宗教であり、
客観的に検証し、経験的に理解しようとするのが
スピリチュアリズムなのだろう。
つまり、宗教は文系、スピリチュアリズムは理系に例えたら、
便宜的に分かりやすいのかもしれない。
スピリチュアリズムがそうした志向性を持つなら、
第一次大本事件まで大本のナンバー2だった浅野和三郎が
その後立ち上げた“心霊科学研究会”に、通ずるものがあるだろう。
浅野和三郎は、なおさんの神憑りに衝撃を受け、
大本の鎮魂帰神を通して、心霊界の実在を確信するに到った。
元々英文学者で、
欧米のスピリチュアリズムに関する知識も持っていたために、
客観的に立証したい、という欲求を持ったのてはないか。
しかし、霊言の正邪・真偽の判別法の確立に苦しみ、
やがて、当時のファシズム的な風潮に呑み込まれたのか、
天皇に付くものこそ正である、という安易な方向へ流れてしまった。
***
江原氏は、宗教ではなく
スピリチュアリズムを日本に根付かせたいとの志により、
現在の仕事を始められたのだと思うが、
そうであれば、浅野和三郎ら先駆者を踏まえ、
まずは審神(さにわ/正邪の判別法)の客観的方法論の確立を
求めるべきではないだろうか?
宗教が、修行と研鑽を積んだ人間性を尊び、
その人間性自体を審神の基礎とするものとすれば、
スピリチュアリズムは、
より(観察・記録・検証という手法において)科学的なものとして、
万人に開かれた方法論を持つことが理想だろうと思われる。
大変むずかしい事だとは思うが。
基本的に、例えば宗教を奉ずる人間であれば、
見えるもの、聞こえるものをそのまま信じることはない。
それは常に、魔物の仕業である可能性を孕んでいるのだから。
それ故に審神の必要性が生じるのだが、
スピリチュアリズムにおいても、まず疑うことは基本だと思うし、
江原氏の初期の著作にも、それは表れている。
ところが、江原氏においては、
審神の意識が薄く、“見える・聞こえる”を特権的に考える方を
パートナーにしてしまった。
芸術性には優れていても、
科学的な手法への理解や客観性への志向には、
疑問符のつく方である。
そして、そちらへ流され、
審神の一般化は忘れてしまった、とは言えまいか?
現在では、猫も杓子も“スピリチュアル”であり、
本来のスピリチュアリズムの意味は失われていると思う。
***
わたしは、まだ禍神の影響を完全に離れられていないし、
今の段階では、間違いも穴もたくさんあるだろうと思っている。
完治しなければ、わからないのだ。
だが、これはブログに過ぎず、お金を取ったこともない。
世に名前も出ていない人間だから、
流されてしまっても、問題にならない。
(完治したら、正確なものをまとめる気はあるけれど)
だが、江原氏のように、家族を食わせなければならず、
世に名の知れた人間では、大変だろうな、と思う。
それでも、最初の志がいまだに失われていないのであれば、
浅野和三郎などにより頓挫した道を、
継ぎ、続け、確立してくれる人が現れれば、とは思うのだ。
***
欧米のスピリチュアリズムの発展を導いた神は、おそらくエロースであり、
だからこそ、“科学的、アカデミック”ということが
可能になったのだと思う。
バールの国では、同じようには行かないだろう。
修験道の開祖はアマテラスであるという考え方があるが、
これにより初期の修験道は、バールの影響を避けたのだと思う。
このアマテラスは、
おそらく巫女の守護神を兼ねる大宮乃女=ネフティスであり、
魔物の降霊を防ぐのである。
(こうしたことは“科学的”からはズレるようにも思うが、
大宮乃女を祀った場合と祀らない場合の心霊現象を統計的に比較する、
などの前提があれば別だろう)
また、日本において“科学的”であるためには、やはり、三貴子…
特に月読の守護は欠かせないように思う。
というか、ニューエイジとスピリチュアリズムの区別すら付いていないかもしれない。
辞書的な意味を調べると、
ニューエイジは、戦後、欧米において
西洋の独善的な価値観を見直し、東洋思想を取り入れて起こった
思潮・精神哲学であり、
スピリチュアリズムは、
降霊術と、そこから来た心霊主義(心霊は実在するとする考え)及び唯心論、
ということになると思う。
つまり、ニューエイジは日本や東洋との関わりから生じた動きだが、
スピリチュアリズムは基本的に、西洋で独自に発達したものと言えるだろう。
江原啓之さんによると、
特にイギリスで十九世紀以後、降霊と検証を重ねながら
発展してきたものらしい。
***
スピリチュアリズムは、宗教ではない。
宗教とは、辞書的な意味によれば、
経験的・合理的には理解・制御できない現象に、
積極的に意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系、
だそうである。
スピリチュアリズムもまた、
経験的・合理的な範疇を超えた心霊現象を扱うわけだが、
それらを積極的に体系付けようとするのが宗教であり、
客観的に検証し、経験的に理解しようとするのが
スピリチュアリズムなのだろう。
つまり、宗教は文系、スピリチュアリズムは理系に例えたら、
便宜的に分かりやすいのかもしれない。
スピリチュアリズムがそうした志向性を持つなら、
第一次大本事件まで大本のナンバー2だった浅野和三郎が
その後立ち上げた“心霊科学研究会”に、通ずるものがあるだろう。
浅野和三郎は、なおさんの神憑りに衝撃を受け、
大本の鎮魂帰神を通して、心霊界の実在を確信するに到った。
元々英文学者で、
欧米のスピリチュアリズムに関する知識も持っていたために、
客観的に立証したい、という欲求を持ったのてはないか。
しかし、霊言の正邪・真偽の判別法の確立に苦しみ、
やがて、当時のファシズム的な風潮に呑み込まれたのか、
天皇に付くものこそ正である、という安易な方向へ流れてしまった。
***
江原氏は、宗教ではなく
スピリチュアリズムを日本に根付かせたいとの志により、
現在の仕事を始められたのだと思うが、
そうであれば、浅野和三郎ら先駆者を踏まえ、
まずは審神(さにわ/正邪の判別法)の客観的方法論の確立を
求めるべきではないだろうか?
宗教が、修行と研鑽を積んだ人間性を尊び、
その人間性自体を審神の基礎とするものとすれば、
スピリチュアリズムは、
より(観察・記録・検証という手法において)科学的なものとして、
万人に開かれた方法論を持つことが理想だろうと思われる。
大変むずかしい事だとは思うが。
基本的に、例えば宗教を奉ずる人間であれば、
見えるもの、聞こえるものをそのまま信じることはない。
それは常に、魔物の仕業である可能性を孕んでいるのだから。
それ故に審神の必要性が生じるのだが、
スピリチュアリズムにおいても、まず疑うことは基本だと思うし、
江原氏の初期の著作にも、それは表れている。
ところが、江原氏においては、
審神の意識が薄く、“見える・聞こえる”を特権的に考える方を
パートナーにしてしまった。
芸術性には優れていても、
科学的な手法への理解や客観性への志向には、
疑問符のつく方である。
そして、そちらへ流され、
審神の一般化は忘れてしまった、とは言えまいか?
現在では、猫も杓子も“スピリチュアル”であり、
本来のスピリチュアリズムの意味は失われていると思う。
***
わたしは、まだ禍神の影響を完全に離れられていないし、
今の段階では、間違いも穴もたくさんあるだろうと思っている。
完治しなければ、わからないのだ。
だが、これはブログに過ぎず、お金を取ったこともない。
世に名前も出ていない人間だから、
流されてしまっても、問題にならない。
(完治したら、正確なものをまとめる気はあるけれど)
だが、江原氏のように、家族を食わせなければならず、
世に名の知れた人間では、大変だろうな、と思う。
それでも、最初の志がいまだに失われていないのであれば、
浅野和三郎などにより頓挫した道を、
継ぎ、続け、確立してくれる人が現れれば、とは思うのだ。
***
欧米のスピリチュアリズムの発展を導いた神は、おそらくエロースであり、
だからこそ、“科学的、アカデミック”ということが
可能になったのだと思う。
バールの国では、同じようには行かないだろう。
修験道の開祖はアマテラスであるという考え方があるが、
これにより初期の修験道は、バールの影響を避けたのだと思う。
このアマテラスは、
おそらく巫女の守護神を兼ねる大宮乃女=ネフティスであり、
魔物の降霊を防ぐのである。
(こうしたことは“科学的”からはズレるようにも思うが、
大宮乃女を祀った場合と祀らない場合の心霊現象を統計的に比較する、
などの前提があれば別だろう)
また、日本において“科学的”であるためには、やはり、三貴子…
特に月読の守護は欠かせないように思う。