酩亭日乘

アスペルガー症候群のおやぢ 日々の放言集

痛い(続き)

2007年03月31日 | からだ
この1ヶ月、通勤に自転車が使えないので電車で学校に通っている。
朝晩遭う人の多くがどうして自転車に乗っていないのか尋ねる。
実際、ジャージが痛くてはいていられないので電車通勤なのだが、一般人に説明するのが非常に難しい。大抵の場合、時間をかけて説明してもほとんどの場合、理解してもらえず、変に誤解されて同情されたり、妙な目で見られるので面倒である。

ということで最近は花粉症の季節で眠くなる薬を飲んでいるので、そのせいにしている。これも怪訝そうな顔をされるが本当の理由に比べてまだ納得してもらいやすいようである。(まあこれも理由の一つなのでもあるが…)

別にあたしが自転車に乗らない理由など知らなくても大したことではないと思うのだが……そうはいかないようである。

ストレス耐性

2007年03月24日 | Weblog


かかりつけのDr.との話の中で最近のいじめに対する話題になった。

一般論として最近の子供は我慢できないという話になった。

自分が一緒に勉強してきたお子さんをみているとどうもそうは見えない。

特に自閉のお子さんについてそう思うのだが実に我慢強い。専門書などをひもといてみるとストレス耐性が低いとか我慢ができないとかお決まりのように書いてあるがとんでもない話である。

見かけ上そう見えるのは仕方ない。

ただその前に日常にストレスや我慢しなければならないことがこの社会に住んでいると多すぎるのである。常に限界近くまで我慢しているのであるから、その上にちょっとしたストレスが加わればすぐさま爆発炎上するのである。

定型の人たちはこの無用に強制される我慢のことなど一切解ってくれずに勝手なことを言う。自分から見ると定型の優等生の方がストレス耐性がよっぽど低いと思う。

特に、医療、教育関係者などは優等生で自己実現ができた人が多いのでなおさらそんなことは実感として解らないのだろう。

同様に、歳喰った人々が「最近の子供は…」などと気楽にいうが、定型の子どもたちとて同様なはずで、今えらそうに言っている歳喰った人々が育ってきた環境と現在では身の周りのストレスが量質ともに昔とは比べものにならないと思う。お気軽に「最近の子供は…」などとはいえないと思う。

ストレス耐性を云々する前にその前提となるストレス自体のことももっと考えてみたらどうか。

この精神科Dr.は感心して聞いてくれたようで、初めて聞いたといっていた。

たぶんセンセイ方にはほとんど解ってもらえないかと…

2007年03月23日 | Weblog
卒業の季節である。

いろいろな歌を歌わされる。

式で歌う國歌は歌詞が非常に解りやすくて大好きである。
この場合のわかりやすさは文体とか詞の難易ではなくて、その内容のことである。

先生方が選んで歌わされる歌は、友達がどうのこうの、仲間が大事、皆でしたことが…

など全く実感できない歌詞がほとんどである。
友達を作ることがそんなに大事なこととはとうてい思えない。
実際、今つきあいを続行している友達はいないし、いない方がとても楽である。
機能的な人間関係のおつきあいはあるが…


そんな歌ばかり毎日歌わされるのは苦痛である。




痛い

2007年03月23日 | からだ
ここのところ1ヶ月あまりジャージを着ることができない。

なぜ着られないか?

痛いのである。ジャージの生地が直接肌に触れるととても痛くていられない。(綿以外の服は苦手なのである)
上衣ならば下に長袖の綿Tシャツを着れば何とか着ていられるのだが、下衣の方は下にももしきでもはかないと着ていられない。

ももしきなどはくと汗だくになることは目に見えているからはけないし、第一、綿のももしきなど持っていない。仕方ないので授業中はジャージでなくGパンか作業服を着ているのだが、作業服など着ていると校舎の工事関係の方々と間違えられて何度も指摘されてしまった。

この服が痛いというのは大変にうっとうしい。せっかく周りにあわせて長袖長ズボンですごそうとしているのにその努力を無にするような現象である。

痛いからと言って肌には何の変化もない。せめて痛いなら痛いらしく赤くなったり青くなったりしてくれれば人に見せつけてやることもできるのに非常に憎らしい。

何ヶ月に一度かこういうことがあるので困る。ずっとある人もいるようなのでそれよりましだろうが…。

できれば服など着たくない。

花束

2007年03月21日 | 感情
節目の季節である。

この時期、花束を持って歩いていらっしゃる方がちらほらと見られる。

自分にとって、花束は(わざわざくださった方々非常に申し訳ありません)もらうとどうしていいかわからなくて混乱するのである。

花は嫌いではない。わざわざ花のシーズンに何日もかけて山の上まで行って見るくらいであるからむしろ好きだと言ってもいいくらいのものであるが、どうも花束というのはよくわからない。

せっかく咲いている花を切断して他の花と一緒に縛ってしまうと言うこと自体自分にとって好ましくない。せっかくもらった花であっても花瓶に挿して程なく枯れてしまう。せっかくもらったものがだめになってしまうのはくれた方に申し訳ないし、花だってそこら辺に咲いている方が幸せだろうと思ってしまう。

それに、物をくれると言うことと表裏一体になって社会的意味や個人の感情が一緒になってやってくるというのが厄介である。社会的に贈り物(の裏)にどういう意味があるかはわかっているつもりであるが、いざそれが自分に向けられるとどうしていいかわからない。

花がほしいと言われて、もしくは花が好きだといわれて、それがうれしいんだ、と思って贈ったこともないではないがどうも釈然としない。

花に限らず贈答という習慣には単に物の所有権を変える以外にそれよりももっと重要な意味が込められているというのが実感として理解できないのである。

しかもその物が花になると自分にとっては、品物自体は単に象徴としてしか意味を持たなくなりその裏の意味のみが重要になってくる。

今はうちのかーちゃんに花もらったよ、といって渡せば「まあきれい」とか何とか言って適当に花瓶に飾ってくれてよろこんで眺めているからいいが、地べたに咲いている花が好きな自分としては一人暮らしの時に花をもらっても途方に暮れるしかなかったのである。本当に処置に困った。

花は自然に咲いてるのを見るのが一番いい。

花よりも団子や酒をもらった方がうれしい。

時間を守りませう

2007年03月20日 | Weblog
本日14:00開始予定の会議があった。
どうせ時間通りには始まらないだろうなと思いつつ13:56に会場の席に着いた。

5分前きっちりのはずだったが会場の時計は前述の通りでちょっとへこむ。
誰もいない。

開始予定の14:00。誰もこない。

14:05まだこない。いつものことながら遅い。

14:10ちょっと遅すぎるんじゃないか。開始時刻を間違えていたか?いやそんなはずはない。

14:14すぎ(15分に近い)何事もなかったように2時15分から始めますという放送が入る。それなのに誰も来ていない。

開始時刻を変更するなら予定時間より前に通知しろ。

体育のU御大登場。どうやらみんな職員室にいてそこでその変更は知らせられたようである。
14:15変更された開始時刻のはずなのに会場にいるのはU御大と自分だけ。U先生にぶつぶつ言う。

14:18頃よりぼちぼち先生方出現する。開始時刻など何とも思っていないようである。U先生と自分は不機嫌そうな顔をしている(と思う)が気にもとめない様子で雑談に興じている。

14:28会議開始。自分は30分以上この席に座っている。開始が遅れて申し訳ないとの旨主幹殿より発言があるが、そんなこと一切お構いなしに会議は蛇行しつつ進行する。

終了時刻も遅くなり早く逃げ出したかったが、流石に30分何もせずに座ったのがこたえたので最後に発言。

事情があって開始が遅れるのは仕方ないがその場合は少なくとも予定時刻前までには伝えてほしいということを要望した。あとは会議開始時間というのは会議の出席の準備を始める時間なのか、会議を始める時間なのか質問した。婉曲に非難したり嫌みでいったのではない。

本当に疑問だったのである。自分の知らないところで暗黙の了解とやらでそうなっているのかも知れなかったし本気でそういうルールだったのか本当にわからなかったのである。

その後すぐにU御大が時間を守ることに最近はたるみすぎている、と言われたので公式な回答を待たず質問の答えがわかった。

先生方がこれであるから児童生徒の苦労も大変である。

年度末

2007年03月18日 | 仕事
年度末である。
締め切りのある書類提出が多い。
締め切りが守れないことも多いがたいてい締め切り直前に始めてすぐ終えることが多い。
養護学校の通知表というのはいちいち文章で書くので皆さん時間がかかるようである。
これも締め切りに間に合わなくて打ち合わせができないことが多くすみません。
最終提出の締め切りの朝になって取りかかり何とか時間内にはできあがるのであるがこのスピードが異様に速いようなのである。みんなに驚かれる。

自分からしてみると、普段しゃべるときはいったん文字にしてからそれを読んでいるので(なれてくるとほぼ文字にするのと声にするのが瞬時にできるようになったのだが)、音にするかキーボードをたたくかの出力先の違いでしかないので、普通の人がしゃべるような感覚だと思ってもらえればよい。
しゃべるより指を動かす方がよっぽど楽である。