タックの庭仕事 -黄昏人生残日録-

  <タイトルは「庭仕事」ですが、残日録には他の分野も含まれています>

一向に改まらない「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし」悪文 =「でしょうが」の連続多用

2018年09月17日 11時22分47秒 | 学芸文化

 我が地方紙『釧路新聞』第3面に掲載される「巷論」のいつもの執筆者は、相も変わらず接続助詞「が」の連続多用が改まらない。

 今回は、助動詞「だ」の丁寧な言い方「です」に助動詞「う」が連結した「でしょう」に、さらに接続助詞「が」が続く「でしょうが」を取り上げた。この執筆者には文体の弛緩という認識が欠如しているのだろう。小学生でも書かない悪文を新聞に載せて恬として恥じない、とは情けないではないか。

「です・ます」と「る・である」の混用は避けるべし= 『北海道新聞』の「ぶんぶんタイム」と『釧路新聞』の「巷論」を比較して

2018年08月27日 12時08分20秒 | 学芸文化

 現代日本語では、「です・ます」体であろうと「る・である」体であろうと、上掲上段の引用例のごとく、文末が単調になる弊を免れない。上掲中段の引用例では、この弊を避けるべく「る・である」に「だ」を交え、さらに文を形容詞で終える工夫がなされている。

 上掲下段の引用例では、同じ目的と思われるが、動詞の現在形と過去形の併用のほかに、「る」体と「です」体を混用している。文体の統一という観点からは、この混用は好ましくない。この執筆者は他の個所でもいくつか混用を行っていて、ちぐはぐな感を否めない。


「ら抜き」が猖獗を極めるご時世に、これは珍しや「ら付き可能動詞」とは !!

2018年08月22日 11時47分07秒 | 学芸文化

※1 上掲記事は、8月 22 日付『北海道新聞』第 24 面から転載。
※2 ポインターを当て、クリックすると拡大できる。

 標題を「有原が乱調、日本ハム3連敗」と「これは珍しや『ら付き可能動詞』とは」のどちらにしようかと迷った末に、「ら付き可能動詞」で投稿することにした。

 いくら世に跳梁跋扈していても、「ら抜き」は報道メディアで正用法とは認めらていない。テレビでは、インタビューなどで「ら抜き」が使われると、字幕で正しく「ら」が加えられる。新聞では、少なくとも地の文で「ら抜き」が使われることはない。

 大谷を戦いの場から遠ざけた右肘靱帯の損傷は中程度の「グレード2」。にもか
 かわらず「こんなに長く離れるとは思っていなかった」と約1カ月の離脱は予想
 外だった。6月4日以来の打席に立つ喜びをかみしめながらも3三振。簡単には
 空白を埋められなかった。(2018 年7月5日付『北海道新聞』第 23 面)

 初めに引用した新聞記事では、地の文の可能動詞「立ち上がりからリズムに乗れない」が正用法で、吉井投手コーチの「ら付き」可能動詞「有原がビッグイニングをつくられるときは」は誤用法。浦崎竜馬・記者は誤りと知りながら、敢えてそのままを直接話法で呈示したのだろう。


「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし」悪文(『釧路新聞』の毎度お馴染みの「巷論」執筆者)

2018年08月14日 14時52分57秒 | 学芸文化

 我が地方紙『釧路新聞』の毎度お馴染みの「巷論」執筆者による、だらしなく弛緩し「あしびきの山鳥の尾のしだり尾」のごとく長たらしい悪文を読むたびに、タック爺はこの執筆者に対して、『北海道新聞』の「ぶんぶんタイム」に掲載される小中高生のオピニオンを手本にして文章の修行をせよ、と叫びたい衝動に駆られる。

 何者なのか寡聞にして知らないが、こんな情けない文章を投稿し、新聞購読者に読んでもらおうとは烏滸の沙汰である。さらに、新聞編集者には、ある程度のレベルを維持するべく、明確な見識を示してもらいたいと思う。

 ついでに指摘するが、主語文節「当初の攻撃目標は」は、述語文節「…を狙うもの」と正しく対応しない。一事が万事で、他にも難点があるが、省く。

子供新聞じゃあるまいし、見出しに幼稚な「…て(ね)」を多用する我が地方紙『釧路新聞』

2018年07月14日 10時16分56秒 | 学芸文化

 主として文の終わりに位置し、希望・疑問・禁止・強意・感動・詠嘆などを表す助詞は終助詞と呼ばれる。

 現代日本語において「依頼」を表す終助詞の「て・で」は、もともと接続助詞の「て・で」から転用されたもので、松隈義勇/中野博雄『文語・口語併説 新国文法』(日栄社)では「女性語」とされている。

 上掲『釧路新聞』見出しの5例はいずれも、他の文節に続くことを表す接続助詞なのか、あるいは依頼(〜してね)を表す終助詞なのか、記事の本文を読まなければ判然としないこと、さらに終助詞とすれば言い回しが軟弱になることなどから、新聞の見出しとして適切でないのではないか。

劇画『ゴルゴ13』に見る「可能」を表す助動詞「られる」の使用例

2018年07月06日 17時24分33秒 | 学芸文化

※ 上掲画像の出典はすべて、ビッグコミック増刊『ゴルゴ 13 総集編』
 vol . 190(小学館)。
 
※ 画像1段目は p. 96 、同2段目は p. 97 、同3段目左は p. 135 、同
3段目右上は p. 31、同3段目右下は p. 104 、同4段目は p. 146 、同
5段目は p. 191、同6段目は p. 226 からそれぞれ転載。

 6月 28 日投稿の「堂々と『ら抜き言葉』を使う大学名誉教授」(記事については こちらをクリック)の続編。

 上掲『ゴルゴ13』の登場人物6名は全員、上一段活用及び下一段活用の動詞の場合でも、いわゆる「ら抜き言葉」を使用していない。これが現代日本語の正しい有り様(よう)である。件の大学名誉教授さんは篤とご覧じろ。

 得られない・得られれば・認められない・見られる・振り向けられる・避けられません・やめられる・考えられない・こられた


限られた字数の中で「思います」を多用し文体がだらしなく弛緩した悪文 = 過ぎたるは猶及ばざるが如し

2018年07月03日 17時36分58秒 | 学芸文化

 公にすることを意図しない個人的な日記の類いならいざ知らず、他人が読むことを前提とした何らかの主張、あるいは論文を限られた字数で執筆する場合、同じ語・語句・言い回しは、小学生や中学生でも可能な限り過剰な反復を避けるよう心がけるものである。

 ところが、この釧路文学団体協議会さんの文はどうだ。だらしなく「思います」を5回も繰り返し、かてて加えて「である」と「です、ます」の混在。文体の統一など全く念頭にない様相を呈している。

 ついでながら、「関係性」や「意志的」、さらには「多数県にまたがって」とか「複雑に難航して」といった不適切な表現もちりばめられている。いかりや長介ならずとも「だめだ、こりゃ」と。
 

我が地方紙『釧路新聞』第3面の「巷論」で堂々と「ら抜き」言葉を使う大学名誉教授の不見識

2018年06月28日 17時34分31秒 | 学芸文化

 現代日本語で「可能」を表現するには、五段活用動詞の場合は独立した下一段活用の可能動詞を、五段活用以外の動詞の場合は可能を表す助動詞「られる」を使用するのが正用法である。

実例
  五段活用動詞の場合(書ける・読める・話せる)
  五段活用動詞以外の動詞の場合(食べられる・見られる・来られる)

 2015 年に行われた文化庁の調査では、「見られた・見れた/出られた・出れた」に関して、全ての世代で「ら抜き」が過半数を超えた。しかし、これでもって「ら抜き」が正当と認められたわけではない。上掲「巷論」のように、教育や研究に携わってきた大学人が、市立図書館の運営について行政に「知性向上政策の重視」訴える文脈で、臆面もなく「ら抜き」言葉を使うのは真っ当なことではなかろう。執筆者の見識を疑いたい。

 ついでながら、行政に住民の知性向上を図る政策を求めるなんて、止してくれないか。要らぬお節介というものだ。


こんな悪文を『釧路新聞』の「巷論」執筆者は他人に読んでもらうつもりか

2018年06月12日 11時48分19秒 | 学芸文化

 この「巷論」執筆者の悪文・駄文について、これまで何度も実例を示して扱き下ろしてきた。チックおばさんは「もういい加減になさい」と忠告するが、タック爺は我慢がならないのである。

 ① 接続助詞「が」を使って、締まりなく文節を連結するのは止せ。
 ② 主語文節「与野党の論戦が」に対応する述語文節が欠落している。
 ③ 主語文節「働き方改革が」に対応する述語文節の態が誤っている。
 ④ 主語文節「その実現が」は内容が不明確。「実現」は「進める」に対
        応できない。

 このように文体がだらりと弛緩し論旨の展開が不明確なものを、「巷論」として掲載し恬として恥じない新聞社もだらしなさ過ぎる。

執筆への厳しさに欠ける「文体がだらしなく弛緩した駄文」

2018年05月31日 19時35分29秒 | 学芸文化

 毎度のことながら、この「巷論」執筆者のだらしない文体には、タック爺は呆れてものが言えない。こんな駄文を平気で掲載する新聞社に対しても「定期購読料を返せ」と叫びたい衝動に駆られる。

 今回は、たまたま『讀賣新聞』の「編集手帳」で「文章を紡ぐ苦しみ」や「ひたすら身を削る」などの表現に接し、他人に読んでもらう文章の有り様(よう)を件の執筆者に悟ってもらいたいとの切望が募るのである。なにも「巷論」を書くのに「ヘミングウェーたれ」とは云わない。せめて中学生の作文レベルは超えなければ、成人として格好が付かないだろう。

 チックおばさんは他人への中傷を厳しく諫める。タック爺は「うむむむっ、むむむっ」とただ苦渋の表情を浮かべるのみ。やはり「忠告」ではなく「中傷」かしらん。はたまた「呆れてものが言えない」はずの爺「錯乱」か。