東海林直人のゴロテマ日本史

語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。YOUTUBEのゴロテマ、三省堂刊「ゴロネコ日本史」もヨロシク。

鎌倉旧仏教の革新の覚え方(3宗5僧)◇B中世198

2016年01月31日 11時57分32秒 | 入試対策講座

□中世198.鎌倉旧仏教の革新(3宗5僧)  ◇B

[ゴロ]律宗の/俊英人(にん)に/(かげ)/情報


律宗)(芿(しゅんじょう)・尊(えいそん)・性(にんしよう))(明恵(みようえ)・厳宗(けごんしゅう))(慶(じょうけい)・相宗(ほっそうしゅう))


[句意]律宗の俊英人(俊英な僧たち)に対する陰情報がある、という句。「俊英人」はゴロのため(しゅんえいにん)と読んでください。


[ポイント]

1.旧仏教の革新を、律宗俊芿叡尊・忍性、華厳宗高弁法相宗貞慶らがおこなった。

[解説]

1.新仏教に刺激され、旧仏教側も新たな動きをみせた。鎌倉時代の初め頃、法相宗貞慶(解脱)(1155~1213)や華厳宗明恵(高弁)(1173~1232)は、戒律を尊重して南都仏教の復興に力を注いだ。

2.律宗俊芿(1166~1227)は戒律復興をめざし、その後をうけた叡尊(思円)(1201~90)とその弟子忍性(良観)(1217~1303)らは、戒律を重んじるとともに、貧しい人びとや病人の救済・治療などの社会事業にも力をつくし、多くの人びとに影響をあたえた。


3.とくに忍性は、奈良に病人の救済施設北山十八間戸を建て、施療や慈善に尽くした。

〈2013早大・国際教養:「
 下線部a禅律僧の活動例として正しいものはどれか。1つ選んで、マーク解答欄紙の該当記号を選べ。


 ア 専修念仏の教えを説いた。

 イ 諸国を遊行して念仏を唱えた。
 ウ 北山十八間戸を設立した。
 エ 悪人正機の考え方を普及させた。
 オ 東大寺南大門を建立した。」

(答:ウ忍性の事績で彼は律宗 ※ア「禅律僧」とは禅宗と律宗の僧の意。これは法然で彼は浄土宗、イ一遍で時宗、エ親鸞は浄土真宗、オ重源で華厳宗)〉

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京都五山の覚え方◇B中世197

2016年01月29日 12時23分15秒 | 入試対策講座

□中世197.室町文化(京都五山格付け順)◇B

[ゴロ]なぜか/テル愛犬に豆腐まんじゅう

南禅寺(なんぜんじ))(天竜寺・相国寺(しょうこくじ)・建仁寺(けんにんじ))(東福寺・万寿寺(まんじゅじ))


[句意]なぜかテルの愛犬に豆腐とまんじゅうをあげてる、というナンセンスの句で別格の南禅寺も組み込んでいる。


[ポイント]
1.京都五山南禅寺を別格として上位から天竜寺相国寺(しょうこくじ)・建仁寺東福寺万寿寺の5寺である。

[解説]

1.室町政府は住持を任命する南宋の制度にならい、義満の時、臨済宗五山派寺院を官寺とするし官寺の制をつくった。五山十刹の制ができたのは3代義満のころである。

2.義満は官寺の住職任免を初め、僧侶の取締りをする僧録(そうろく)を置き、初代に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を任命した。僧録の事務所が僧録司(そうろくじ)で五山派寺院の管理機関となる。僧録司は相国寺(しょうこくじ)に置かれたが、のち僧録は相国寺鹿苑院の住職が兼ねたので鹿苑僧録と呼ばれた。


3.南禅寺(1293創建)は、亀山法皇の創建、開山(初代住職)は無関普門。1386年京都五山別格上位となる。南禅寺だけは禅宗何千寺の頂点にたつ別格の寺(笑)。


4.天竜寺(1339創建)は、足利尊氏の創建。開山夢窓疎石、京都五山第1位。


5.相国寺(1382創建)は、足利義満の創建。春屋妙葩が夢窓疎石を勧請して開山とする。京都五山第2位。


6.建仁寺(1202創建)は、源頼家の援助で明庵栄西が創建開山。京都五山第3位。


7.東福寺(1235創建)は、九条道家が創建、開山円爾。京都五山第4位。


8.万寿寺(1261改名)は、平安末期創建の六条御堂を1261年万寿寺と改名。京都五山第5位。


〈2016慶大・法:「

 やがて南北朝時代から室町時代に至ると、五山僧を中心に、儒教は公家や神道家、武家の間でも学ばれるようになった。五山僧の一人である[ 28 ]は明に留学し、帰国後は漢詩文の分野で活躍するとともに、足利義満の招きで鹿苑院の院主などをつとめた。」

(答:28絶海中津 ※原問題には選択肢が59項あり)〉


〈2016関西大・全学部2月8日〉

 義満は1382年、花の御所の東側に( 8 )を造営して、五山に加えた。この寺には、僧録が置かれ、初代僧録には( 9 )が就任して、これ以後、五山禅宗を統括する機関として活動した。」

(答:8相国寺、9春屋妙葩 ※原問には選択肢が30項あり)


〈2014早大・国際教養:「

問5 下線郎c東山の地域がたどってきた歴史に関する説明として、誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 僧の俊寛の山荘で平氏打倒の陰謀が企てられた。

 イ 宋から帰国した栄西が建仁寺を建立した。
 ウ 足利義満は南禅寺を建立し五山の上に位置づけた。
 エ 豊臣秀吉が方広寺を創建し大仏を造立した。
 オ 清水寺の周辺で清水焼と呼ばれる陶磁器が生産された。」

(答:ウ×南禅寺の創建は亀山法皇)〉


〈2013早大・国際教養:「

問3 下線部bの人物夢窓疎石に関する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 南禅寺を建立し、五山の上に位置づけた。

 イ 天竜寺船の派遣を献策し、天竜寺を開山した。
 ウ 春屋妙葩に招かれて相国寺の開山となった。
 エ 西芳寺(苔寺)の庭園を設計した。
 オ 全国に安国寺・利生塔を建立するよう提案した。

問4 
下線部d五山の制度に対し、権力者の保護を敢えて求めずに、自由な布教活動を行った禅宗諸宗派を総称して何と呼ぶか。漢字二字で答えなさい。
問5 室町幕府はとくに臨済宗を手厚く保護してd五山の制度を整え、相国寺にこれら寺院の僧侶を管理する[ A ]の職をおいた。

 ア十刹 イ僧録 ウ諸山 エ官寺 オ法主」


(答:問3ア×五山十刹の制ができたのは3代義満のころ。夢窓疎石は後醍醐天皇・足利尊氏と同時代、鎌倉末期室町初期の人、問4林下、問5イ)〉 


〈2013北大・前期:「

問6 下線部e禅宗といえば武家との関係が連想されがちについて、室町時代になると、幕府の官寺としての「五山の制」が確立する。

(1)最高位である「五山之上」に位置づけられた寺院の名を答えなさい。


(2)五山以外の禅宗寺院である大徳寺から出て、『狂雲集』を著した禅僧の名を答えなさい。


(答:1南禅寺、2一休宗純)〉


〈2013上智大・法総合人間科神外国語:「

問3 天竜寺を含めた京都五山でない寺院はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。

 1建仁寺 2万寿寺 3東福寺

 4相国寺 5鹿苑寺 6南禅寺

(答:5※南禅寺は別格だが京都五山に含めて考えられるので鹿苑寺)〉

 A義堂周信 B桂庵玄樹 C春屋妙葩
 D絶海中津 E夢窓疎石」

(答:C)〉

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寿福寺の覚え方◇C中世196

2016年01月28日 12時28分33秒 | 入試対策講座

□中世196.寿福寺  ◇C

[ゴロ]10服地で/政子は/洋裁


寿福寺)(北条政子)(栄西(ようさい))


[句意]服地10枚で政子は洋裁をした、という句。なお栄西の読みは(えいさい)と(ようさい)の2通りある。


[ポイント]

1.寿福寺北条政子が創建、開山は栄西

[解説]

1.栄西(1141~1215)は臨済宗の祖。28歳(1167年)のときに続いて、47歳(1187年)のとき再渡宋して帰国後、北条政子の帰依を得て鎌倉に寿福寺(1200年、鎌倉五山第3位)、京都に建仁寺(1205年、京都五山第3位)を開いた。

〈2015立大・文:「
問5.これ鎌倉時代の都市鎌倉に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.勧進僧往阿弥陀仏が、この地に近い和賀江島に港湾施設を築いた

 b.市中は保という行政区画に分けられ.保奉行人がおかれた
 c.北条時宗の招きで来日した無学祖元が、円覚寺と寿福寺を開いた
 d.若宮大路が由比ヶ浜まで延ばされ、計画的な街路がつくられた」

(答:c×時宗の招きで来日した無学祖元が円覚寺を開いたが、寿福寺は開いていない。寿福寺を開いたのは栄西、※a鎌倉時代初期に往阿弥陀仏という名の勧進(寄付集め)僧が、鎌倉の材木座に和賀江島を築港している。ここで日宋貿易が行われた、b京都から帰還したた北条泰時は、鎌倉に京都にならって保という行政単位を設け、保奉行人を置いた、d由比ヶ浜から鶴岡八幡宮まで)〉

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建長寺と円覚寺の覚え方◇B中世195

2016年01月27日 12時09分00秒 | 入試対策講座

□中世195.鎌倉文化(鎌倉五山と創建者・開山僧)◇B

[ゴロ]絢爛(けんらん)より無我(えが)(むね)


長寺・溪道隆(らんけいどうりゅう)・北条時)(無学祖元(むがくそげん)・円覚寺(えんがくじ)・北条時宗


[句意]絢爛(豪華なの)より無我の境地を(心のキャンバスに?)描くようにすることを自分の信条としている、という禅の極意を言っている句。「絢爛より」だけでかなり役立つと思います。


[ポイント]

1.建長寺北条時頼が創建で開山は蘭溪道隆円覚寺北条時宗が創建で開山は無学祖元

[解説]

1.蘭渓道隆(1213年~78)は、南宋から1246年弟子とともに来日。執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、時頼(5代執権)によって鎌倉に建長寺(鎌倉五山第一位)が創建されると招かれて開山(創立者)となる。

2.無学祖元(1226~86)は、1275年に元が南宋に侵入した直後の1279年、北条時宗(8代)に招かれて来日、建長寺の住持となる。元寇2度めの戦い、弘安の役の直後の1282年、時宗は、元寇での戦没者追悼のために円覚寺(第二位)を創建し、祖元は開山となる。


3.寿福寺(第三位)は北条政子が創建、開山は栄西


4.権力志向の「五山派」に対して、自由な民間布教に努めた禅宗各派を林下(りんか)という。


5.林下には、永平寺総持寺といった曹洞宗系と、大徳寺妙心寺といった臨済宗系がある。


〈2015大学入試センター試験・日本史B:「

智 史:中世にも人の往来は盛んだったよ。たとえば、d鎌倉の禅宗寺院などは中国語が飛び交っていたと言われている。南宋や元の僧が渡来し、北条氏の帰依を受けて滞在していた。
愛 美:[ ア ]とか無学祖元ね。
智 史:そうだよ。さらに時代をさかのぼると、平安中・後期の[ イ ]には宋の商人   が来航して交易に携わっていたんだよ。」

問4 空欄[ ア ][ イ ]に入る語句の組合せとしで正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1.ア蘭渓道隆 イ博多  2.ア蘭渓道隆 イ堺

 3.ア桂庵玄樹 イ博多  4.ア桂庵玄樹 イ堺

(答:1)〉

〈2013早大・国際教養:「
 下線部d五山の制度に対し、権力者の保護を敢えて求めずに、自由な布教活動を行った禅宗諸宗派を総称して何と呼ぶか。漢字二字で答えなさい。


(答:林下)〉

〈2013早大・法:「
問7 下線部eについて。南宋滅亡後の1279年に北条時宗に招かれ、円覚寺を開山した僧の名前として正しいものを1つ選べ。


 あ蘭渓道隆 い無学祖元 う兀庵普寧
 え東巌慧安 お一山一寧」


(答:い)〉

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鎌倉五山の覚え方◇B中世194

2016年01月25日 11時45分19秒 | 入試対策講座

□中世194.鎌倉文化(鎌倉五山順位順)◇B

[ゴロ]圏遠(けんえん)で/「(じゅ)上智」は/

長寺(けんちょ
うじ)・覚寺(えんがくじ))(寿福寺(じゅふくじ)・浄智寺(じょうちじ))(浄妙寺(じょうみょうじ))

[句意]合格圏が遙かに遠い、すなわち合格可能性が低いのに、受上智、すなわち上智大を受験するのは妙だ、という句。君が奇跡を起こすことを信じない担任の句を想定しました(笑)。なお鎌倉五山一位の建長寺から五位の浄妙寺まで順に並べている。


[ポイント]

1.鎌倉五山は上位から建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺である。

〈2014立大・経済コミュ福祉観光「

 問9. この人物北条時頼に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.元から再三にわたって恭順を求められてきたが、これを拒否した

 b.評定衆の裁判実務を助けるために、その下に新たに引付衆を置いた
 c.源頼家を幽閉し、源実朝を次の将軍にすえた
 d.和田義盛を滅ぼし、侍所別当を兼務した

(答:b ※a8代時宗の治世、c初代時政の治世、d2代義時の治世)

 問10.建長寺に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.1325年に、その修造をはかるため、鎌倉幕府が元に建長寺船を派遣した
 b.1571年に、織田信長の焼き討ちに遭った
 c.創建に際して宋から招かれた僧侶は栄西である
 d.室町幕府のもとで五山の制が確立すると、鎌倉五山の第3位となった」

(答:a ※b比叡山の延暦寺の誤り、c蘭渓道隆の誤り、d第1位)

〈2013明大・商:「
 平安時代の初期には、中国の食文化の影響から、唐揚げや唐煮、唐菓子などの料理が食膳に上り、中国風の納豆なども食べられていたという。また鎌倉時代には、禅宗と共に喫茶の風習が広まった。禅寺では料理や食事も修行の一環とみなされるようになり精進料理が発達し、豆腐など現代の日本料理の基礎の一部が完成した。一説によれば鎌倉五山第一位の[ イ ]がその名の由来とされる料理も今に残っている。このような食生活の充実を支えたのが、この時代の商工業の発達であった。定期市が定着し、小売商人も活躍した。

(答:建長寺)〉

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栄西と道元の覚え方◇B中世193

2016年01月23日 00時44分43秒 | 入試対策講座

□中世193.鎌倉文化(仏教:栄西と道元)   ◇B

[ゴロ]臨西宗の前後に/しょぼ曹道宗

・栄西(えいさい)・興禅護国論(こうぜんごこくろん))(正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)・洞宗・元)

[句意]権力と結びつき華やかな臨済宗登場の前後に、只管打坐(しかんたざ)などを唱えるしょぼい曹洞宗も登場した、という句。なお著者の家の葬式仏教はこの曹洞宗である。「済」と「西」、および「洞」「道」が同じ読みであることに注目して作った。

[ポイント]
1.臨済宗栄西が開き、その主著は『興禅護国論』である。
2.曹洞宗道元が開き、その主著は『正法眼蔵』である。

[解説]
1.臨済宗は、栄西(1141~1215)が南宋から伝えた禅宗の一派。当初は比叡山などの圧迫を受けたが、やがて鎌倉・室町幕府の保護を受けて、京・鎌倉の五山を中心に発展した。

2.栄西は、鎌倉に赴き寿福寺を、のち京都に建仁寺を開く。

3.臨済宗は、坐禅(ざぜん)を組み、師から与えられる公案(こうあん)という問題を解決して、悟(さと)りに達すると説いた。

4.栄西が旧仏教側の禅宗非難に対し、禅宗の本質を説いたのが主著『興禅護国論』。他に中国からをもたらし、『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著した。

5.曹洞宗は、道元(1200~53)が南宋から伝えた禅宗の一派。京からやがて越前の永平寺(えいへいじ)に拠り、以後権力と離れ坐禅中心の厳格な宗派を確立していった。

6.曹洞宗は、権力との結びつきを嫌い、坐禅中心(只管打坐(しかんたざ))の教えを説いた。

7.道元の主著が曹洞宗の禅の本質・規範を述べた『正法眼蔵』で、道元死後、弟子懐奘(えじょう)らが道元の教えを筆録した『正法眼蔵随聞記(ずいもんき)』がある。

8.道元は、入宋前に建仁寺で修行。栄西の弟子明全から学び、栄西の孫弟子にあたる。

〈2014立大・文:「次の宗派1・2それぞれについて、日本での開祖を甲群のa~dから主要著書を乙群のa~dからそれぞれ1つずつ選び、その記号をマークせよ。

 1曹洞宗 2臨済宗
 甲群)a一遍 b栄西 c親鸞 d道元
 乙群)a教行信証 b興禅護国論
   
 c正法眼蔵 d立正安国論」

(答:1dc、2bb)〉

〈2014明大・国際日本(国際日本):「
 禅宗は自力、つまり修行の必要性を説き、坐禅などの実践法を重視した。鎌倉の武家に支持された臨済宗は「己事究明」(自分自身そのものを明らかすること)のための修行を重んずる一方で、大陸の最先端の文化も積極的に伝えた。一例を挙げれば、臨済宗の開祖である[ D ]ははじめて日本に[ J ]をもたらしたといわれる。「只管打坐」(ひたすら坐ること)をその教趣とし、同じ禅宗の系譜に属する曹洞宗はより隠遁的であり、おもに北陸を拠点とした。今日でも多くの修学旅行が訪れる福井県の[ K ]は曹洞宗の大本山の一つである。なお、曹洞宗の開祖である[ E ]が著した[ L ]は、いまなお日本の宗教史、思想史上の古典として高く評価されている。

(答:D栄西、J茶、K永平寺、E道元、L正法眼蔵)〉

〈2013北海道大学・前期:「Ⅱ 次の文章を読んで、下記の設問(問1~8)に答えなさい。

 鎌倉時代に入ると、京都にa幕府によって六波羅探題が設置され、在京御家人らが帝都・王権を警固・監視する体制が敷かれた。また、中世都市京都においては、寺社勢力の増大と多様化も重要な変化であった。ここでは。b新興勢力ともいうべき禅宗の巨刹、建仁寺と東福寺とを取りあげて見てみよう。

 質実剛健な学問重視の風潮を伝える建仁寺は、c渡海入宋僧の栄西の創建にかかる。だが、栄西の京都進出成功までの道のりは険しかった。栄西は、臨済禅の技法を取り込むことでd中世仏教の主流派のひとつ、天台宗の内部改革を企図していたのだが、当の天台教団、[ ア ]山延暦寺から排撃されてしまう。その後、栄西は、北条政子らの帰依を得て、鎌倉に寿福寺を創建し、1202年、ようやく京都で建仁寺を開くことに成功する。建仁寺の開基は、鎌倉幕府2代将軍の源[ イ ]であり、創建にあたって付された条件は、同寺を、「三宗(真言・天台・禅宗)兼学」の道場とすることだった。出発時から、禅単独の興隆は難しかったのである。
 ところで、e禅宗といえば武家との関係が連想されがちだが、洛南の地に壮麓な伽藍を誇る東福寺は、f摂関家の菩提寺のひとつであった。1236年、朝廷の最大有力者で当時摂政の九条道家が発願して、渡海入宋僧の臨済僧円爾(えんじ)が開山として迎えられている(道家没後の1255年に落慶供養・開堂、1271年に全堂完成)。円爾とその弟子たちは、g博多の貿易商人や中国臨済禅の第一人者と密接な関係を長く保っており、中国からの先進的な宗教や文物の移入が、彼らに期待されたのであろう。以後、東福寺は、九条家の外護(げご)のもと、円爾の門流のみから住持を取る体制をとり、勢力を拡大していった。

問1 空棚[ ア ][ イ ]に入る語句(地名・人名)をそれぞれ記しなさい。


問2 下線部aについて、六波羅探題が設置されるに至った歴史的な経緯を、関係する人物の名を最低二人は挙げつつ、60字以内で説明しなさい。


問3 下線部bについて、臨済宗とならぶ禅の宗派として、曹洞宗がある。


 (1)日本における曹洞宗の開祖は誰か、答えなさい。


 (2)曹洞宗の修行法を端的に示す言葉を、漢字4文宇で答えなさい。


 (3)それに対して、日本の臨済宗が重視するのは、師から与えられた問題を解くことである。その問題は一般に何と呼ばれるか、漢宇2文宇で答えなさい。


問4 下線部cについて、栄西が中国からもたらしたと伝えられ、のちに茶道に発展する喫茶法とはどのようなものか、20字以内で説明しなさい。


問5 下線部dについて
 (1)天台宗の最高位の僧を何と呼ぶか、
 
 (2)また、延暦寺とならぶ天台宗の拠点寺院の名は何か、それぞれ答えなさい。

 (3)また、なぜ天台宗や真言宗が「中世仏教の主流派」といえるのか、60字以内で説明しなさい。


問6 下線部eについて、室町時代になると、幕府の官寺としての「五山の制」が確立する。


 (1)最高位である「五山之上」に位置づけられた寺院の名を答えなさい。


 (2)五山以外の禅宗寺院である大徳寺から出て、『狂雲集』を著した禅僧の名を答えなさい。


問7 下線部fについて、鎌倉幕府最初の摂家将軍の氏名を答えなさい。


問8 下線郡gについて、足利義満に対明通交の再開をすすめ、その結果、自身が使者となって明に渡海した博多の貿易商人は誰か、答えなさい。

(答:問1ア比叡・イ頼家、問2〔解答例〕後鳥羽上皇による承久の乱を破った後、幕府軍の将北条泰時と時房を六波羅探題に任じ、朝廷の監視や西国の統轄にあたらせた。(59字)、問3(1)道元(2)只管打坐(3)公案、問4茶葉をひき湯を入れかき混ぜて飲む抹茶法、問5(1)天台座主(2)園城寺〔三井寺〕(3)〔解答例〕加持祈禱によって朝廷や貴族の帰依を受けて政治的な影響力を持ち、全国各地に多くの荘園を所有し大きな経済力も持っていたから。(60字)、問6.(1)南禅寺(2)一休宗純、問7藤原〔九条〕頼経、問8肥富)〉

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一遍の覚え方◇B中世192

2016年01月21日 13時10分09秒 | 入試対策講座

□中世192.鎌倉文化(仏教:一遍)   ◇B

[ゴロ]一遍だけ/自習で/たい


一遍(いっぺん))(時宗(じしゅう))(念仏(おどりねんぶつ))


[句意]自習で学習ばかりではなく一遍つまり一回だけでもいいから踊りたい、という句。


[ポイント]

1.一遍浄土教の一派で踊念仏(おどりねんぶつ)による往生を説く時宗を開いた。

[解説]

1.法然親鸞という同じ浄土教の流れのなかから、やや遅れて出たのが一遍(1239~89)である。一遍は、善人・悪人や信心(しんじん)の有無を問うことなく、すべての人が救われるという念仏の教えを説き、念仏札を配り、踊念仏(おどりねんぶつ)によって多くの民衆に教えを広めながら各地を布教して歩いた。この教えは時宗とよばれる。

2.一遍は、各地で布教し地方の武士や農民に広く受け入れられ、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と呼ばれた。

〈2015関西大・文商法など2月4日実施:「
 鎌倉時代に地方を行脚した一遍の生涯を描いた『一遍上人絵伝』には、東西を貫く2{(ア)山陽道(イ)南海道(ウ)東海道}に近い吉井川の河原に形成された備前国福岡の市が描かれている。道を挟んで建てられた小屋には、米・鳥・布・履物などの品物が並べられ、往来する人々の間に裸足の一遍の姿がある。」

(答:2ア)〉

〈2013早大・国際教養:「
問10 下線部gについて、中国に渡航した経験のない僧侶は誰か。1つ選べ。

 ア重源 イ栄西 ウ道元
 エ一遍 オ俊芿

(答:エ)〉

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日蓮の覚え方◇B中世191

2016年01月21日 07時19分12秒 | 入試対策講座

□中世191.鎌倉文化(仏教:日蓮)  ◇B

[ゴロ]時々より日練の/安格論立証


時頼)(日蓮)(立正安国論


[句意]時々の練習より日々の練習の方が安全合格できるという論を立証した、という勉強法の句。


[ポイント]

1.日蓮の主著は北条時頼に提出した『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』。

[解説]

1.日蓮(1222~82)は、古くからの法華信仰をもとに、新しい救いの道をひらいた。日蓮は、はじめ天台宗を学び、やがて法華経(ほけきょう)を釈迦の正しい教えとして選び、題目南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう))をとなえることで救われると説いた。

2.日蓮は、『立正安国論』を著し、鎌倉を中心に激しく他宗攻撃をしながら国難の到来を予言したりして布教を進めた。幕府の迫害を受けたが、日蓮宗(法華宗)は関東の武士層や商工業者を中心に広まっていった。


3.日蓮宗(法華宗)は、はじめ東国を基盤にして発展したが、やがて京都へ進出した。とくに室町6代将軍足利義教のころに出た日親の布教は戦闘的であり、他宗と激しい論戦をおこなったため、しばしば迫害を受けた。


4.日蓮宗の信者は、京都で財力をたくわえた商工業者に多く、彼らは1532(天文元)年、法華一揆を結んで、一向一揆と対決し、町政を自治的に運営した。


5.しかし1536(天文5)年、法華一揆延暦寺と衝突し、その焼打ちを受けて、一時京都を追われた。この戦いを天文法華の乱という。

〈2012早大・文化構想:「
 13世紀前半に起きた寛喜の飢饉は、長雨と大風雨による凶作によって引き起こされた。京都の街路に充満した餓死者の死臭がひどかったと記録されている。鎌倉幕府は鶴岡八幡宮で国土安穏の祈禱を行った。こうした社会不安による紛争の増加が、[ B ]を制定した一つの背景になった可能性もある。13世紀後半にも、大地震や異常気象で正嘉の飢饉が起きた。日蓮は『[ C ]』で、天変地異が続発するのは『法華経』の教えに背いているからであるとし、このままでは国内の反乱と他国からの侵略が起きると述べたために、伊豆国伊東へ流された。


問4 空欄Bには日本最初の武家法が入る。漢字5字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。


問5 空欄Cに該当する語句を、漢字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。

(答:B御成敗式目、C 立正安国論 )〉

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親鸞の覚え方◇B中世190

2016年01月19日 13時43分35秒 | 入試対策講座

□中世190.親鸞(浄土真宗) ◇B

[ゴロ]親鸞は/に/仰々しいしょ


親鸞)(浄土宗)(教行信証(きょうぎょうしんしょう))


[句意]「親鸞」は真に仰々しい名前だ、という北海道弁の句。語尾に「しょ」を付けるのは北海道弁の特徴
。浄土真宗は巷ではふつう「真宗」と呼ばれます。

[ポイント]

1.浄土真宗の祖、親鸞の主著は『教行信証』である。

[解説]
1.親鸞(1173~1262)は、浄土真宗の祖。師法然に連座し越後に流され、その地で妻帯を断行、その結果、今日までその血縁が続くことになる(8代目が中興の祖蓮如)。

2.親鸞は、師法然の教えをさらに深めた。従来の仏門に入り精進するような自力作善(自力で善行を積む)の行動は無意味である。ひたすら阿弥陀仏を信じて念仏南無阿弥陀仏)を唱える(他力本願(たりきほんがん))の方が極楽浄土に往生できると説いた。

3.また、阿弥陀仏本願(庶民を救う誓い)はもともと悪人(煩悩の深い人、つまり殺生をしなければ生きて行けない庶民)を救うこと(悪人正機)であるから、阿弥陀仏の力にすがること(他力)こそ極楽往生の近道である、と説いた。(他力本願にもとずく悪人正機説)。

4.親鸞の主著は『教行信証』。『歎異抄(たんにしょう)』は弟子の唯円(ゆいえん)が書いた親鸞の言行録。親鸞の死後、親鸞の教えが正しく理解されず乱れていく状況を歎いて、親鸞の言行を書きしるしたもの。

〈2005上智大・法外総合人間:「ここをもて ア興福寺の学徒、太上天皇(イ後鳥羽の院と号す、諱(いみな)尊成)、今上(土御門の院と号す、諱為仁)、聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
 ウ主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、エ真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、損りがはしく死罪に坐す。あるひは オ僧儀を改めて姓名を賜ふて カ遠流に処す。キはその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもて姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。
                      (『教行信証』後序)

問1 下線部アについて、興福寺奏状を起草した人は誰か。1つ選びなさい。


 1覚円 2貞慶 3円盛
 4尊円 5高弁 6慈円

問2 下線部イについて、「後鳥羽の院」の説明として正しくないものを1つ選びなさい。

 1 承久の乱の結果、隠岐に配流となり、そこで生涯を終えた

 2 若くして長男の土御門天皇に譲位して上皇となった
 3 北条義時追討の宣旨を発して挙兵したが、幕府軍の前に完敗した
 4 藤原定家・家隆らに命じて『新古今和歌集』の編纂にあたった
 5 政治的手腕にすぐれ、「日本国第一の大天狗」と評された
 6 あらたに西面の武士をおき、軍事力の増強をはかり、院政を強化した

問3 下線部ウには、ある出米事に対する著者の厳しい批判と抗議が見られる。その出来事とは何か、1つ選びなさい。

 1 和田合戦以降、執権が北条氏一族のあいだで世襲されるようになったこと

 2 悪人正機説が、朝幕間で正反対に解釈され、政治的に利用されたこと
 3 源実朝が鶴岡八幡宮で公暁に暗殺された事件
 4 本願寺が東西に二分されるに至った政治的紛争
 5 畿内・西国を中心とした養和の大飢饉の際の朝廷の無策ぶり
 6 法然を師とする専修念仏教団への弾圧

問4 下線部(エ)と(キ)について、「真宗興隆の大祖源空法師」および「予」はそれぞれ誰を指しているか。正しい組み合わせを1つ選びなさい。

 1源信-法然 2法然-親鸞 3法然-唯円

 4親鸞-蓮如 5親鸞-善鸞 6親鸞-唯円

問5 下線部(エ)に関して、「源空法師」の思想に深く影響を受けた人物で、政治的な後援者でもあったのは誰か。1つ選びなさい。

 1源頼家 2北条義時 3九条兼実

 4源通親 5平清盛  6藤原通憲

問6 下線部(オ)について、「僧儀を改めて」とあるが、ここでの意味は何か、1つ選びなさい。
 1改宗する
 2僧籍を剥奪される
 3独身生活をやめ、妻帯する
 4顕密仏教(南都北嶺)のしきたりに従う
 5別の師のもとで学ぶ
 6都での伝道活動を自粛する

問7 下線部(カ)と(キ)について、「遠流に処す」とあるが「予」はどこに流罪となったか、1つ選びなさい。

 1安房 2土佐 3讃岐

 4佐渡 5伊豆 6越後

(答:問1→2、問2→5×後白河上皇の誤り、問3→6、問4→2、問5→3、問6→2、問7→6)〉 

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法然の覚え方◇B中世189

2016年01月17日 14時56分34秒 | 入試対策講座

□中世189.鎌倉文化(仏教:法然)  ◇B

[ゴロ]本音は/上等の/センター本


法然)(浄土宗)(選択本願(せんじゃ
くほんがん)念仏宗)

[句意]本音は上等のセンター対策本がほしい、という句。ゴロは「選択」を普通に読んで(せんたく)から。


[ポイント]
1.法然は浄土宗をひらき、『選択本願念仏集』を著した。

[解説]
1.法然は、ひたすら念仏南無阿弥陀仏)を唱えれば(専修念仏(せんじゅねんぶつ))、極楽往生できると説いた。

2.主著は九条兼実による求めに応じた『選択本願念仏集』。

〈2013大学入試センター試験:「
問1 下線部a法然・親鸞・日蓮らの活動に関連して、彼らの宗教活動と政治権力とのかかわりに関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから一つ選べ。

X 法然の弟子で、『選択本願念仏集』を著した親鸞は、朝廷により配流された。
Y 南無阿弥陀仏の題目を唱えれば救われると説いた日蓮は、鎌倉幕府により追害された。

1X正 Y正  2X正 Y誤
3X誤 Y正  4X誤 Y誤

(答:4 ※X『選択本願念仏集』ではなく『教行信証』が正しい、Y日蓮が主張した題目とは「南無妙法蓮華経」のこと。「南無阿弥陀仏」は念仏。日蓮ははじめ伊豆、のち佐渡に流された。)〉

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鎌倉新仏教の覚え方◇A中世188

2016年01月16日 08時10分22秒 | 入試対策講座

□中世188.鎌倉文化(新仏教6宗) ◇A

[ゴロ]非常時では/理想上司


蓮宗・土宗・宗)(済宗・洞宗・宗)


[句意](彼は戦争や災害などの)非常時には理想の上司だ、という句。「日蓮」だけ再現しにくいけれど難しくはないでしょう。これは諸君の非常時、センター試験日に贈るゴロ句です。


[ポイント]

1.鎌倉新仏教には日蓮宗浄土宗時宗済宗・洞宗・宗の6宗がある。
2.開いたのはそれぞれ、日蓮法然一遍栄西道元親鸞である。

〈2014明大・国際日本(国際日本):「
 文章は鎌倉時代の新仏教運動について述べたものである。(中略)
 12世紀頃、京末の都の話である。[ A ]を開祖とする天台宗の総本山がある[ B ]から続々と僧侶が下山し、仏法を民衆の間に広めた。これがいわゆる「鎌倉新仏教」の発端である。やや時代が下ると幾多の新しい仏教教団が形成される。代表的な教団をあげるならば、浄土宗、浄土真宗(一向宗)、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗(法華宗)、時宗(時衆)などがそうである。浄土宗の開祖は法然、浄土真宗(一向宗)の開祖は[ C ]、臨済宗は[ D ]、曹洞宗は[ E ]、時宗(時衆)は一遍、日蓮宗(法華宗)はその名の通り日蓮である。

 なかでも、浄土教と[ F ]から伝来した禅宗が群を抜いていた。日本の浄土教の起源は平安時代にさかのぼり、鎌倉時代になるとその勢いが増した。念仏行者・遊行者として知られている[ G ](図1東海林略)は平安末期における浄土信仰の代表的な布教者であった。

 浄土教は難行を斥け、[ H ]と称えれば、死にゆく者が救済され、臨終の際、悪人でさえ極楽往生することができると説く。図2(東海林略)のようにこの臨終往生の場面を描いた絵を[ I ]と呼ぶ。

 一方、禅宗は自力、つまり修行の必要性を説き、坐禅などの実践法を重視した。鎌倉の武家に支持された臨済宗は「己事究明」(自分自身そのものを明らかすること)のための修行を重んずる一方で、大陸の最先端の文化も積極的に伝えた。一例を挙げれば、臨済宗の開祖である[ D ]ははじめて日本に[ J ]をもたらしたといわれる。「只管打坐」(ひたすら坐ること)をその教趣とし、同じ禅宗の系譜に属する曹洞宗はより隠遁的であり、おもに北陸を拠点とした。今日でも多くの修学旅行が訪れる福井県の[ K ]は曹洞宗の大本山の一つである。なお、曹洞宗の開祖である[ E ]が著した[ L正法眼蔵 ]は、いまなお日本の宗教史、思想史上の古典として高く評価されている。

 日蓮宗(法華宗)と時宗(時衆)の場合は、いずれも浄土宗と浄土真宗(一向宗)と同様、男女老若を問わない民衆への布教によって繁栄を迎えた。浄土教の念仏と同様に、[ M ]の著者日蓮の教えは、いわゆる[ N ]を唱えることを信仰の軸とした。時宗(時衆)の開祖である一遍は[ O ]念仏を普及させたため世に知られるようになった。
 このような新しい宗教運動の出現により、日本の仏教の様相はこの時代にすこぶる変遷したと結論できる。

(答:A最澄、B比叡山、C親鸞、D栄西、E道元、F宋、G空也、H南無阿弥陀仏、I来迎図、J茶、K永平寺、L正法眼蔵、M立正安国論、N題目、O踊)〉

 

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東郷荘の覚え方(下地中分)◇C中世187

2016年01月15日 19時37分49秒 | 入試対策講座

□中世187.下地中分(東郷荘)   ◇C

[ゴロ]登校(とうこう)放棄(ほうき)/の下地十分


東郷荘(とうごうしょう)・伯耆(ほうき))(下地中分


[句意]登校放棄する下地は十分あった、という句。普段の行き渋る様子からも十分窺(うかが)えたということ。


[ポイント]

1.下地中分の例としては伯耆国東郷荘が著名。

[解説]
1.東郷荘は、伯耆国(鳥取県)にあった京都松尾神社(領家)の荘園。1258年に作成された領家地頭との和与による下地中分の絵図が残っている。

2.下地中分は地頭の荘園侵略に対して、領主は下地(収益権のある田畑・山林などの土地)を2分して一方を地頭に与え、残りの支配権を保持すること。幕府による強制的中分と当事者が話合いによって和解・妥協(和与)に達する和与中分とがあった。

〈2014早大・教育:「荘園のd下地中分に際して作成された図3(東海林註:問題内に当該絵図が付属している)では、中分が行われた境界の左右にこの決定を承認した[ B ]と[ C ]の花押が記されている。

問4 下線部dについて、この場合の正しいものをすべて選びなさい。


 ア.この絵図には領家分と預所分の記載がある。

 イ.この荘園の領家は松尾社である。
 ウ.この絵図は伯耆国東郷荘を描いたものである。
 エ.中分は守護と地頭の間で行われた。
 オ.領家は地頭に一定額の年貢の納入を請け負わせた。

問5 空欄[ B ][ C ]に入る語の組み合わせとして正しいものはどれか。


 ア.B:守護 C:地頭    
 イ.B:執権 C:連署

 ウ.B:執権 C:六波羅探題
 エ.B:預所 C:地頭

 オ.B:守護 C:預所
 
(答:問4イ・ウ ※ア預所分→地頭分、エ守護→領家、オこれは地頭請の説明。問5イ ※執権北条長時と連署北条政村)」〉

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阿氐河荘の覚え方◇C中世186

2016年01月14日 12時40分07秒 | 入試対策講座

□中世186.地頭の荘園侵略(阿氐河荘) ◇C

[ゴロ](早大合格は史料の)/場所(あ)てがKEY(キイ)?
阿氐河(あてがわ)荘)(紀伊国)
 
[句意](早大合格は史料の)場所当てがキーなの?、と早稲田にあきれている句。早大は日本史通な子(1275年)がご所望らしい、という皮肉で作りました。


[ポイント]

1.地頭の荘園侵略の例として紀伊国の阿氐河荘が著名。

[解説]

1.紀伊国阿氐河荘民は、1275年、13箇条にわたる愁状で、湯浅宗親の非法を、京都の荘園領主寂楽寺へ訴えた(高野山金剛峰寺蔵)。

〈2014立大・現代心理コミュ福祉経営:「
 鎌倉時代から室町時代にかけて農業技術が発達し、地顔や荘民を中心にして積極的な耕地開発が行われたため、農業生産力が向上した。そのため、これに伴う富を誰が手に入れるかを、荘園領主や地頭、荘民が争ったのである。13世紀になると、荘民は土地との結びつきを強め、地域的なまとまりである村落に関連して地域社会の主体的な勢力となった。1275年に紀伊国( ヌ )荘の荘民が、地頭である湯浅宗親の非法を、片仮名書きの訴状で13カ条にわたって荘園領主に訴え出たことも、その一例である。

(答:阿氐河)〉

〈2013早大・文化構想:「
 このような意見や議論は、次第に地域社会へと広がっていった。たとえば、国司の暴政が著しくなり、その圧政をc尾張国郡司百姓らが訴えた愁状が知られている。さらに、荘園制の展開のもとで、d阿氐河荘の上村百姓等が13箇条にわたって地頭湯浅氏の暴虐を訴えたとされる例もある。一方、京都では、後醍醐天皇の御所に近い[ B ]条河原において、[ C ]の新政を批判し、社会を風刺する内容の落書が登場してくるようになる。


問5 下線dの所在する国名は何か。記述解答用紙の解答欄に漢字で記入しなさい。


問6 下線dの百姓らが訴えた文書に関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。


 ア この文書は、1375年に作成された。

 イ 耳を切り、鼻を削ぐ、という暴虐行為が記されている。
 ウ 材木に関することが述べられている。
 エ 基本的には仮名で書かれた文書である。
 オ この文書は、高野山に伝えられた。

問7 空欄Bにあてはまる漢数字は何か。記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。


問8 空欄Cにあてはまる語句は何をさしているか。1つ選べ。

 ア法令の名称 イ国名 ウ職名
 エ制度の呼称 オ年号

(答:問5紀伊国、問6ア(正しくは1275年)、問7二、問8オ(建武))〉

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借上・問丸の覚え方◇B中世185 

2016年01月13日 12時28分20秒 | 入試対策講座

□185.借上・問丸の覚え方(鎌倉時代の輸送・金融)  ◇B

[ゴロ]鎌倉時代
問〇(まる)で/菓子あげ

鎌倉時代)(問丸(といまる))(借上(かしあげ))


[句意]鎌倉時代の問が〇(正解)だったのでお菓子をあげるよ、とお母さんがご褒美(ほうび)をくれている句。


[ポイント]

1.鎌倉時代の高利貸しを借上、運送業者を問丸という。

[解説]

1.鎌倉時代に、遠隔地との商業取引も盛行し、交通の要地には、商品の中継と委託販売や運送を業とする問丸(問)が発達した。

2.遠隔地間の取引には、金銭の輸送を手形で代用する為替(かわせ)が使われ、金融機関としては高利貸業者の借上も多くあらわれた。

3.室町時代ではしだいに借上は土倉(どそう)、問丸は問屋(といや)と呼ばれるようになった。

〈2013成城大・経済:「
 鎌倉時代に荘園・国衙領の中心地や交通の要地、寺社の門前などに、月の一定の日になると定期市が開かれ、産物が売買された。[ 1 ]と呼ばれる月に三回開かれる定期市も珍しくなかった。また、定期市のほかに、常設の小売店である[ 2 ]もみられるようになった。遠隔地を結ぶ商業活勤も活発化し、港湾や大河川沿いの交通要地には産物の輸送や保管、委託販売を業務とする[ 3 ]が発達した。
 鎌倉時代末期から室町時代にかけて、農業と共に商業も大きく発達した。貨幣の流通が著しく増え。貨幣経済が進展するなかで、[ 3 ]から発展した卸売業者である[ 4 ]や酒屋など富裕な商工業者は、土倉と呼ばれる高利貸業を兼ねるようになっていた。」

(答:1三斎市、2見世棚、3問丸(問)、4問屋)〉

〈2013早大・文化構想:「
 鎌倉末から室町初期にかけて、[ A ]と呼ばれる金融業者が活勤した。

問2 空欄Aに該当する語句を漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。

(答:借上)〉

〈2013学習院大・経済:「
 年貢・公事は室町時代になると、荘園こよっては銭で納めるようになり、為替でこれを送るところも出てくる。しかし、原則は荘民が自身で運搬しなければならなかった。(7)〔イ)連雀商人 ロ)頼母子 ハ)四府駕輿丁座 ニ)借上 ホ)問(問丸)〕が、荘園から徴収した年貢や商品の保管・輸送にあたった。

(答:ホ)

〈2012大学入試センター試験・日本史B:「問3 下線部b鎌倉時代の後半に関連して、このころの人々の活動について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1.幕府や荘園領主の支配に抵抗する者が、悪党とよばれた。

 2.足軽が鉄砲隊に組織され活躍した。
 3.都市鎌倉では、大原女などの女性商人が活躍した。
 4.交通の要所では、商品の中継ぎや運送を行う借上が現れた。」

(答:1 ※2足軽の活躍は室町時代以降。鉄砲の伝来は1543年、3大原女は京都の大原から出て京都市内で薪などを売り歩いた女性商人、4借上は鎌倉時代の高利貸業者。ここは問丸が正しい)〉

〈2012法政大学・文経営人間環境:「
問5 下線部e南宋からの輸入品は日本の社会に大きな影響を及ぼしたについて、南宋からの輸入品が日本の社会に及ぼした影響のうちもっとも重要なことがらを80字以内で説明せよ。句読点も1字に数える。算用数字は1マスに2字記入してもよい。


〔解答例〕

大量輸入された宋銭が流通し、日本の貨幣経済の発達をうながした。年貢の銭納が始まり、遠隔地間取引に為替が用いられ、高利金融業の借上も出現した。(70字)〉

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北条高時の覚え方◇B中世184

2016年01月12日 11時58分14秒 | 入試対策講座

□中世184.北条高時(4件)◇B

[ゴロ]高時(たかとき)は/長崎焼酎(しょうちゅう)に/げんこつで/ニッタニタ


(北条高時)(長崎高資(たかすけ)・正中の変)(元弘(げんこう)の変)(新田義貞(にったよしさだ))

[句意]高時は長崎土産の焼酎をげんこつを肴(さかな)にニッタニタだ、とほろ酔い機嫌の句。他の重要人物、後醍醐天皇と足利高氏(尊氏)は受験生なら常識なので省いている。「げんこつ××」とは通常よりも硬く焼き上げられた煎餅・おかき・あられなどの総称。NHK大河ドラマの影響か、遊楽に耽(ふけ)ったなどという風評ができている高時に合わせてつくったもの。

[ポイント]
1.最後の執権北条高時(内管領長崎高資)は正中の変元弘の変を防いだが、新田義貞に滅ぼされた。

[解説]
1.北条高時(1303~33)は、14代執権で最後の得宗。当時の幕府では高時のもとで内管領長崎高資(たかすけ)が権勢をふるい、得宗専制政治に対する御家人の反発が高まっていた。

2.両統迭立(てつりつ)を支持する幕府に不満をいだいていた後醍醐天皇はこの情勢を見て討幕の計画を進めたが、1324(正中元)年、幕府側にもれて失敗した(正中の変)。

3.さらに1331(元弘元)年にも挙兵をくわだてて失敗したために(元弘の変)、持明院統光厳天皇が幕府に推されて即位し、後醍醐天皇は翌年隠岐に流された。

4.しかし、後醍醐天皇の皇子護良(もりよし)親王楠木正成(くすのきまさしげ)らは、悪党などの反幕勢力を結集して蜂起し、幕府軍とねばり強く戦った。やがて天皇が隠岐を脱出すると、天皇のよびかけに応じて討幕に立ちあがるものが次第に増えた。

5.幕府軍の指揮官として畿内に派遣された有力御家人足利高氏(のち尊氏)も幕府にそむいて六波羅探題を攻め落した。関東で挙兵した新田義貞もまもなく鎌倉を攻めて得宗の北条高時以下を滅ぼし、1333(元弘3)年、鎌倉幕府は滅亡した。

6.高時は、遊楽に耽って幕政を乱したと言われるが、史料不足で真偽は不明。

〈2015早大・社会科学:「
問5 下線部(5)に関する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。

 イ 第14代執権である。
 ロ 父は北条時宗である
 ハ 下線部1(東海林注:後醍醐天皇)を隠岐に流した。
 ニ 内管領長崎高資が政治の実権を握っていた。
 ホ 足利尊氏から攻められて自殺した。

(答:ロ、ホ ※時宗は8代だから父のはずがない。自殺に追い込んだのは新田義貞)〉

〈2013早大・政経:「
【史料】(2)山内一族一揆契約状契約す、一族一揆子細の事 右、c元弘以来、一族同心せしむるより、将軍家より恩賞に預かり、当知行相違なきものなり。爰に去年の秋比(ころ)より、両殿御不和の間、世上いまだ静謐に属せず。」

問3.下線部c元弘は何を指しているか。
 ア鎌倉幕府の成立 イ蒙古襲来 ウ霜月騒動
 エ鎌倉幕府の滅亡 オ中先代の乱

(答:エ)〉

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