東海林直人のゴロテマ日本史

語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。YOUTUBEのゴロテマ、三省堂刊「ゴロネコ日本史」もヨロシク。

浄土教の覚え方◇B古代125

2015年10月31日 09時59分28秒 | 入試対策講座

□古代125.浄土教と末法思想(国風文化プラス1)◇B

[ゴロ](こ)や浄土へ/往生しゅるは/夏至(げし)がよしだね


空也(くうや)・浄土教)(往生(おうじょうようしゅう))(源信(げんしん)・滋保(よししげのやすたね))


[句意]来なさい浄土へ、往生するには夏至(の季節)が良しだね、という句。


[point]

1.浄土教空也などが広め、源信が『往生要集』で体系化し、慶滋保胤往生伝で知られる。

[解説]

1.浄土教(浄土信仰)は、阿弥陀仏を信仰し、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば、死後は極楽(ごくらく)に往生する、すなわち天国に行くことができると説く仏教の教え。

2.空也(903~972)は、(こうや
)とも読む。諸国を遊行し念仏を説き、10C中頃、京都市中で浄土教を広めた。市聖(いちのひじり)ともいう。なお空也は国風文化の人だが、空也上人像(六波羅蜜寺)は鎌倉文化を代表する彫刻なので、正誤問題には気をつけてください。

3.源信(942~1017)は、天台宗の僧で『往生要集』を著し、浄土教体系化した。恵心僧都(えしんそうず)とも称される。なお同書は中国()でも高く評価された。


4.末法(まっぽう)思想は、仏陀(釈迦)の死後1000年間は仏法が栄えて世に幸福がもたらされる(正法)。その後の1000年間は仏法が衰える(像法)。さらに1000年を経て末法の世となるという予言的思想。1052年が末法初年と考えられ、浄土教信仰が強まる要因となる。

5.往生伝は、極楽往生したとされる人々の体験集で、末法思想の流行に伴いもてはやされた。慶滋保胤(?~1002)の『日本往生極楽記(にほんおうじょうごくらくき)』がその代表作。

2014早大・国際教養:「
6 下線郎f造寺・造物・写経等が盛んになりに関連する記述として、誤っているものはどれか。1つ選べ。
  
 ア 豊後国の豪族は富貴寺大堂を建てた。
 イ 定朝は寄木造による和様の仏像様式を大成した。
 ウ 藤原頼通は宇治に平等院阿弥陀堂を建てた。
 エ 藤原清衡は平泉に中尊寺阿弥陀堂を建てた。
 オ 源信は『往生要集』を書き、醍醐寺を建てた。

(答:オ ※醍醐寺の創建は違う)

2014早大・教育:「
問6 下線部e「濁世末代」から「往生極楽」するためには、念仏などの実践がもっとも有効な方法であるいう教えに関連する説明で正しいものはどれか。

 ア 慶滋保胤は『日本往生極楽記』を著して、これから念仏往生しそうな人々を記録にとどめた

 イ 比叡山の源信が著した『往生要集』は、宋に送られて広まったと言われている。
 ウ 六波羅蜜寺に伝わる空也像は、笏と太鼓をもって口から「南無阿弥陀仏」を唱えている立ち姿である
 エ 釈尊の死後、正法・中法の世についで末法の世がおとずれるという思想も浄土信仰を加速した
 オ 関白を務め終えた藤原道艮が晩年に建立した法成寺は、阿弥陀堂を中心とした壮麗なものであり、道長はここで死を迎えた

(答:イ〇 ※ア×『日本往生極楽記』は、これから念仏往生しそうな人々ではなく、往生を遂げた人々の伝記を集めたものである、ウ×六波羅蜜寺に伝わる空也像は笏と太鼓ではなく、胸に下げた太鼓を鳴らす撞木を右手に、左手には鹿の角をさした杖をもっている、エ×正法・像法・末法の順である、オ×藤原道長は関白には就任していない。

2012法政大・法営文:「
問6.下線部A「末法思想」について、80字以内で説明せよ。」

〔解答例〕釈迦の死後、正法・像法を経て末法という乱世に突入するという仏教の予言思想。1052年に末法に入ると考えられ、浄土教信仰が強まる要因となる。(67字)〉

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国風文化(4件)の覚え方◇A古代124

2015年10月30日 08時54分28秒 | 入試対策講座

□古代124.国風文化(代表4)  ◇A

[ゴロ]法政東邦見た高三少女は/ごく普です

法成寺(ほうじょうじ))(平凰堂と鳳凰堂阿弥陀如来像)((こうやさん)聖衆(しようじゅ)来迎図(らいごうず))(国風文化)

[句意]法政・東邦(桐朋でも)高で見た高三少女はごく普通です、というやや意味不明の句。


[ポイント]
1.国風文化を代表するのは、建築は法成寺平等院鳳凰堂、彫刻は平等院鳳凰堂阿弥陀如来像、絵画は高野山聖衆来迎図

[解説]

1.法成寺(現存せず)は、藤原道長が京都鴨川に建てた天台宗の寺。平安時代を代表する大寺だったが、たびたび火災にあい、南北朝時代に廃絶された。法成寺の別名が御堂(みどう)で、その阿弥陀堂が無量寿院(むりょうじゅいん)。道長はこの無量寿院に住んだため、御堂は道長の異名ともなり「御堂殿」「御堂関白(ただし道長は関白に就任していないので正誤問題に注意)」などと呼ばれた。

2.平等院鳳凰堂は、藤原頼通が創建。宇治の別荘を、阿弥陀堂に改築したもの。阿弥陀堂は阿弥陀仏を安置する堂で、特別に鳳凰堂・金色堂などという名を冠するものもある。


3.平等院鳳凰堂阿弥陀如来像は、平安中期の仏師定朝の作で、寄木造の手法を用い、定朝様と呼ばれる優美な和様の像。


4.高野山聖衆来迎図は、浄土教の流行により多く描かれた代表的な来迎図。来迎図は、阿弥陀仏一行が極楽浄土から雲に乗って迎えに来る有様を描いた絵。極楽への往生を願う人は、その絵のある堂内に病臥(びょうが)し、あたかも阿弥陀仏の導きで往生できるかの幻想を抱きつつ臨終(りんじゅう)を迎えた。多くの菩薩(ぼさつ)(聖衆)を従える図が多い。平安時代後期から鎌倉時代に盛んに描かれた。高野山の来迎図は現存する来迎図でもっとも大規模なもので、大和絵風かつ来迎図の傑作。


5.その他代表建築には、法界寺がある。11C中頃に藤原氏の一族、日野氏の氏寺で真言宗の寺。日野資業(すけなり)が再興した。


6.その他代表絵画は、平等院鳳凰堂扉絵


7.後世大和絵(やまとえ)の祖とされるのは、巨勢金岡(こせのかなおか)(生没年不詳、9C)。日本的な画題・様式・技法で描き、彼から大和絵(唐絵(からえ)に対する日本風の絵の意)が始まる。作品は現存しない。

〈2015法大・文人問関係経営:「問5 下線部c御堂関白に関して、この名は道長が建立したある寺院に由来する。その寺院の名を、以下のア~オのなかから一つ選べ。
 ア法成寺 イ法性寺 ウ醍醐寺
 エ神護寺 オ石山寺

(答:ア)

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ:「
 末法の世が到来するとされた〈 う 〉年が近づくにつれて、浄土信仰が盛んになった。来世における極楽往生を願う貴族たちは、極楽浄土を模した仏堂を造立しだした。
 藤原頼通が宇治川のほとりに建立した鳳凰堂が代表例である。鳳凰堂の本尊の阿弥陀如来像をつくったのが、( ト )である。また( ト )の時代には。仏像の身体をいくつかのバーツに分け、大勢で別々に彫った上で組み合わせる寄木造の技法が発達し、末法思想を背景とする仏像への需要の増大にこたえた。」

A.文中の空所(ト)にあてはまる適当な語句をしるせ。
B.文中の空所〈う〉にあてはまる適当な数字を、次のa~dから1つずつ選べ。
 a.1016 b.1052
  c.1112  d.1156

(答:ト定朝、うb)〉

〈2014明大・国際日本(国際日本):「
 浄土教は難行を斥け、[ H ]と称えれば、死にゆく者が救済され、臨終の際、悪人でさえ極楽た往生することができると説く。図2のようにこの臨終往生の場面を描いた絵を[ I ]と呼ぶ。」

8 空欄Hに入る語句を漢字6文字で記入しなさい。
9 空欄Ⅰに入る語句を漢字3文字で記入しなさい。

(答:H南無阿弥陀仏、I来迎図)〉

〈2013青山学院・文教育経済法経営など:「
 一方で、貴族層にも浄土教が浸透し、藤原道長やその子頼通は、贅を尽くした仏像や寺院を造営した。そこには、e西方浄土への強い思いが託されていたが、逆にいえば、こうした壮麗な仏像や堂舎を建立することが、極楽往生のための善行と信じられていたのである。
問12.下線部eに関して、このような思想を反映した建築・作品として誤っているものを、次の1~4の中から一つ選んでマークしなさい。」

 1平等院鳳凰堂   2法界寺阿弥陀堂
 3高野山聖衆来迎図 4教王護国寺両界曼荼羅

(答:4)〉

〈2012早大・政経:「
3 下線部e平等院の本尊である阿弥陀卸来像を作った仏師は誰か。」

(答:定朝)〉

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123円珍の覚え方◇C

2015年10月28日 21時53分29秒 | 入試対策講座

□古代123.寺門派(円珍)の覚え方(弘仁貞観文化プラス7)  ◇C

[ゴロ]エッチ自慢(じまん)で/園児me(ミイ)


円珍(えんちん)・寺門(じもん)派)((おんじょうじ)・三井寺(みいでら))


[句意](スカートめくりなんかが得意で)エッチ自慢で園児のme(ボク)です、という“おませ坊や”の句。「園児」は「園城寺」の「園」「寺」から発想しています。

[ポイント]
1.寺門派は、円珍を祖とする園城寺三井寺)に拠る一派。

[解説]
1.真言宗の密教を東密とよび、最澄が創始した天台宗の密教を台密とよんでいる。その後台密はその弟子の代に本格化し、円仁の派と円珍の派に分かれる。

2.円珍(814~91)も15歳で延暦寺で出家、唐に留学(853~858)。帰朝後、第5代天台座主となり、諡(おくりな)は智証大師(ちしょうだいし)。比叡山延暦寺を中心とした天台宗の発展に寄与し、廃寺寸前の園城寺を天台別院として復興した。

3.円珍の死後、円仁と円珍の教理の違いから、弟子の時代の981年、円仁派と円珍派の僧の対立がおこり、円珍派は比叡山を下りて園城寺を拠点とした。この結果、天台宗の比叡山側を山門派、園城寺側を寺門派と呼ぶようになった。

4.園城寺の通称「三井寺」は、天皇の産湯(うぶゆ)に使った井戸「御井(みい)」が境内にあり「御井の寺」が転じたものという。

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ:「下線部8の密教に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

a.これを天台宗に導入した円珍の門流はのちに寺門派と呼ばれた
b.これを天台宗に導入した円仁の門流はのちに山門派と呼ばれた
c.これを日本に伝えた空海は、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三蹟と呼ばれた
d.これを日本に伝えた空海は、庶民に門戸を開いた綜芸種智院を創設した

(答:c ※三筆の誤り)〉

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122円仁の覚え方◇B

2015年10月27日 11時38分58秒 | 入試対策講座

□古代122.円仁の覚え方(弘仁貞観文化プラス6) ◇B

[ゴロ]延暦山門を/
ニット絵に

延暦寺(えんりゃくじ)・山門(さんもん)派)(入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)・仁(えんにん))


[句意]延暦寺の山門をニット(つまりセーター)の絵柄にしよう、という句。山門派か寺門派かの正誤問題が頻出で迷うところだが、ここは一方の円仁について記憶すればすむ。延暦寺は山の上にあるから山門派の拠点。


[ポイント]

1.円仁は祖とする比叡山延暦寺に拠る山門派の祖で、その著書に『入唐求法巡礼行記』がある。

[解説]

1.真言宗の密教を東密とよび、最澄が創始した天台宗の密教を台密とよんでいる。その後台密は弟子の代に本格化し、円仁の派と円珍の派に分かれる。

2.10世紀末以降、円仁の門流は延暦寺に拠(よ)って山門派とよばれ、円珍の門流は園城寺(三井寺)に拠って寺門派とよばれ、両者は対立した。

3.円仁(794~864)は、最澄の弟子で、唐に留学(838~847)し天台教学・密教を学ぶ。諡(おくりな)は慈覚大師(じかくだいし)という。

4.円仁の著した『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』はその際の旅行記で、史料が少ない唐末を知る上で世界史上貴重な史料である。

〈2015立命館・全学部:「
(h)下線部8高い力を有する僧はこれら有力者との個人的な関係を構築したに関連して、中国に留学し、帰朝して第3世天台座主となり、ときの天皇に灌頂を授けた僧は誰か。漢字2文字で答えよ。

(答:円仁)〉

〈2012立命館大学・法文経済経営など:「(b)下線部2念仏によって阿弥陀浄土への往生を願う浄土教に関連して、浄土教が日本に本格的に定着するのは、838年に入唐して天台教学や密教を学び五台山を巡礼して847年に帰国した天台僧の影響も介在している。この僧の名前を漢字2字で答えよ。」

(答:円仁)〉 

〈2011文教大・全学部:「下線部(g)円仁に関連する天台宗内部の派閥について述べた文として正しいものはどれか。次の中から一つ選べ。

(1) 円仁の門派は山門派と呼ばれ、延暦寺に拠点を置き続けた。
(2) 円仁の門派は寺門派と呼ばれ、園城寺に拠点を置いた。
(3) 円珍の門派は寺門派と呼ばれ、延暦寺に拠点を置き続けた。
(4) 円珍の門派は山門派と呼ばれ、園城寺に拠点を置いた。」〉

(答:1 ※2円仁は山門派、3延暦寺は山門派、4園城寺は寺門派)〉

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日本霊異記の覚え方◇C古代121

2015年10月27日 11時32分46秒 | 入試対策講座

□古代121.日本霊異記(弘仁貞観文化プラス5) ◇C

[ゴロ]日本(にっ
ぽん)医療機への/反日に警戒

日本霊異記(にほんりょういき))(822戒)


[句意](反日がエスカレートして)日本の医療機械にまで反日が及ぶのではと警戒する、という句。


[ポイント]

1.日本霊異記は、景戒の著作で、822年頃成立した。

[解説]

1.日本霊異記(822年頃成立)は、景戒(生没年不詳、「きょうかい」とも読む)著。同書の署名から景戒は薬師寺の僧であったことが分かる。

2.同書は、因果応報の仏教思想に基づいて、奈良時代ころの説話を漢文で著した仏教説話集。本書は、最古の物語『竹取物語』より古いことに注意してください。本書はよく出題されているので警戒(景戒)してください(笑)。


〈2013京都大・前期:「

 下線部bの「慧達」は薬師寺の僧である。同じ薬師寺の僧景戒が著した仏教説話集は何か。」

(答:日本霊異記)〉

〈2012立大・経済法異文化コミ:「これ(『日本霊異記』)の作者は誰か。次のa~dから1つ選べ。

 a.円珍 b.円仁
 c.景戒 d.真済」

(答:c.景戒)〉

〈2012早大・文化構想:「
下線部平安初期には漢詩文集に該当しないものはどれか。2つ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。

 ア文華秀麗集 イ懐風藻
 ウ経国集   エ凌雲集
 オ日本霊異記」

(答:イ・オ)〉

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勅撰漢詩文集の覚え方◇B古代120

2015年10月26日 11時50分03秒 | 入試対策講座

□古代120.勅撰3漢詩文集(弘仁貞観文化プラス4・年代順) ◇B

[ゴロ](ちょく)に/(りよう)カレイ店を/(さが)せと/(あじ)な警告


撰漢詩文集)(雲集(りょううんしゅう)・文集(ぶんかしゅうれいしゅう))(嵯峨天皇)(淳和(じゅんな)天皇・経国集(けいこくしゅう))


[句意]直接自分の足で良カレー店を探したほうが良いと味な警告をした,という句。ここらに良いカレーライス店はないかの質問に答える、というシーンを想定しました。


[ポイント]           

1.嵯峨天皇の命で、凌雲集文華秀麗集ががつくられ、淳和天皇の命で、経国集がつくられた。

[解説]

1.勅撰漢詩文集とは、天皇の命により撰定・編纂された漢詩文集。嵯峨淳和両天皇の在世中に撰集された3勅撰漢詩文集がある。嵯峨天皇を初め宮廷の漢詩文への強い意欲を反映している。

2.凌雲集(814成立)は、全1巻。最初の勅撰漢詩文集(最初の漢詩文集懐風藻)。嵯峨天皇の命で、小野岑守(みねもり)(778~830)・菅原清公(すがわらのきよきみ)らが編集。782~814年間の24人の漢詩91首を収めている。


3.文華秀麗集(818成立)は、全3巻。嵯峨天皇の命で藤原冬嗣菅原清公らが編集。嵯峨天皇自身も作品を撰定。「凌雲集」にもれた28人の漢詩143首を伝える。


4.経国集(827成立)は、20巻からなる。淳和天皇の命で、良岑安世(よしみねのやすよ)(785-830)らが編集。漢詩・漢文を集録。707~827年間の178人の作品を所収。現存しているのは6巻で、詩211首(もと917首)、賦17編、対策26編のみ。


〈2014明大・国際日本(国際日本):「

10.下線部(ウ)勅撰漢詩文集の内、最初に成立したものを下記の1~4の中から選びなさい。

 1.性霊集 2.金葉集
 3.凌雲集 4.懐風藻」

(答:3)〉

〈2014早大・教育:「
問1 下線部a10世紀の時代についての説明として正しいものはどれか。

 ア 藤原道長の全盛を編年体で描いた『栄華物語』が書かれた
 イ 漢文学の教養に基づき『凌雲集』などの勅撰の漢詩文集が編纂された
 ウ 後一条天皇の時代までに詠まれた漢詩文を集めて「本朝文粋」が編まれた
 エ 漢字の草書体などを崩した平仮名を使って『土佐日記』や『伊勢物語』が書かれた
 オ のちに三筆と呼ばれた書の達人たちが肉太の力強い書を発展させた」

(答:エ ※ア『栄華物語』は11世紀に成立した、イ『凌雲集』は9世紀に成立した、ウ『本朝文粋』は11世紀に成立した、オ三筆が活躍したのは9世紀である)〉


〈2013早大・政経:「
2.下線部b光仁九(818年)年の時の天皇と関係のないものはどれか。

 ア薬子の変 イ新撰姓氏録
 ウ凌雲集  エ安和の変
 オ藤原冬嗣」

(答:エ(969)※ア薬子の変(810)、イ新撰姓氏録(815)、ウ凌雲集(814)、オ藤原冬嗣(775~826))〉

〈2012早大・文化構想:「
下線部平安初期には漢詩文集に該当しないものはどれか。2つ選べ。

 ア文華秀麗集 イ懐風藻。
 ウ経国集   エ凌雲集
 オ日本霊異記」

(答:イ・オ)〉

〈2012北海道大:前期:「

 小野岑守は日本で最初の勅撰漢詩文集を編集した人物でもある。その漢詩集の書名を答えなさい」

(答:凌雲集)〉

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三筆の覚え方◇B古代119

2015年10月24日 11時21分28秒 | 入試対策講座

□古代119.三筆(さんぴつ)(弘仁貞観文化プラス3)  ◇B

[ゴロ]筆遣(タッチ)(はや)の/空海さんが三筆


橘逸勢(たちばなのはやなり))(空海嵯峨天皇)(三筆


[句意]タッチつまり筆遣いが速い空海さんが三筆の一人だ、という句。空海は、途切れのない流麗な筆遣いで知られています。


[ポイント]

1.三筆とは橘逸勢空海嵯峨天皇の3人である。

[解説]
1.三筆は平安初期を代表する、力強い筆蹟を特色とする3人の能筆家。3人のこの力強い書風を唐風(唐様)という。

2.空海の名筆としては、空海が最澄に送った書状『風信帖』が知られる。


3.橘逸勢((?~842))は、橘奈良麻呂の孫。藤原良房がおこした陰謀事件(承和の変)で謀反の首謀者とされ伊豆へ配流の途中、遠江で病没。その後怨霊として恐れられる。逸勢の筆と伝えられるものに『伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)』がある。


4.なお逸勢・空海は遣唐使で同行帰国した仲である。

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ:「
下線部8)密教に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

a.これを天台宗に導入した円珍の門流はのちに寺門派と呼ばれた

b.これを天台宗に導入した円仁の門流はのちに山門派と呼ばれた
c.これを日本に伝えた空海は、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三蹟と呼ばれた
d.これを日本に伝えた空海は、庶民に門戸を開いた綜芸種智院を創設した」

(答:c ※三筆の誤り)〉

〈2012同志社・神商心理:「
【設問5】平安時代に入って最初の遺唐使の一行には、唐の仏教や文化を学んでわが国に大きな影響をもたらした最澄や空海といった僧侶がいたことは有名である。これらの僧と共に入唐して、三筆の一人と称され、後に承和の変において伊豆に流罪となる人物はだれか。この人物名を漢字で記せ。」

(答:橘逸勢)〉

〈2011文教大・全学部:「

804(延暦23)年 最澄・空海・(f)橘逸勢らが遣唐使に随行する

問8下線部(f)橘逸勢に関連して、この人物とともに唐風書道の名手として三筆と並び称された人物の組合せとして正しいものはどれか。次の中から一つ選べ。

1小野道風・空海   2小野道風・藤原行成

3嵯峨天皇・藤原行成 4嵯峨天皇・空海」

(答:4)〉

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空海の覚え方◇B古代118

2015年10月21日 22時40分03秒 | 入試対策講座

□古代118.空海の7件(弘仁貞観文化プラス2・平安仏教)  ◇B

[ゴロ]空海は/三枝主治医で/(その)ヒップ風疹処理する/仕事マン


 (空海)(帰・綜芸種智院)(文鏡秘府論・風信帖・性霊集)(真言宗・濃池)                

 
[句意]空海さんは、桂三枝(現6代目桂文枝)師匠の主治医で、(三枝の)ヒップにできた風疹を処理する仕事マンだ、というナンセンスの句。空海は加持祈祷で病気を治す医者でもあったことから発想しました。

[point]

1.空海真言宗をひらき、出家理由を『三教指帰』で述べ、漢詩集『性霊集』、漢詩論『文鏡秘府論』を書き、庶民のため綜芸種智院を開き、満濃池を築き、書簡『風信帖』で知られる。

[解説]

1.空海は(774~835)は讃岐(さぬき)生まれ。初め大学に学んだが、24歳の時の『三教指帰(さんごうしいき)』(797)で、儒教・道教・仏教の三教のうち仏教の優位を説き仏門に入る。

2.かれは804年に入唐、806年に帰国し、長安の恵果(けいか)から学んだ真言密教を伝えた。


3.816年、高野山(こうやさん)に金剛峰寺(こんごうぶじ)(和歌山県)を開き、823年、京都に東寺教王護国寺(きょうおうごこくじ))を与えられ、両寺で真言宗を布教。


4.漢詩集『性霊集』、漢詩論『文鏡秘府論(ぶんきようひふろん)』などの詩文に優れ、最澄に送った書簡『風信帖(ふうしんじょう)』などの能筆(三筆の一人)でも知られる。


5.また庶民教育のため綜芸種智院を開き、讃岐に農業用の溜め池満濃池(まんのういけ)を築くなど社会事業でも活躍した。

2014明大・文(文、史学地理、心理社会:「
問8 下線部(オ)唐に留学していた最澄と空海が帰国に関して述べた文として誤っているものを、次の(1)~(4)のうち一つ選べ。

 1 最澄と空海は、延暦23(804)年の遣唐使にしたがって入唐した。

 2 最澄と空海は同じ年に帰国した。
 3 最澄は伝教大師、空海は弘法大師である。
 4 最澄は近江出身、空海は讃岐出身である。」

(答:2※最澄は805年帰着、空海・橘逸勢は806年帰着)〉

〈2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A)):「問4 下線部(エ)8世紀の時期の文化の内容を説明するものとして、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。

 1 三論・成実・法相・浄土・華厳・律の南都六宗と呼ばれる学派が形成された。

 2 塑像の技法が発達し、興福寺阿修羅像が造られた。
 3 大僧正に任じられた行基は東大寺大仏の造営に協力した。
 4 入唐後、帰国した空海は『三教指帰』を著して密教の国教化を図った。」

(答:3 ※1浄土→倶舎、2阿修羅像は乾漆像、4出家宣言の書)〉

2013大・法:「
 平安京への遷都をおこなった桓武天皇は、従来の仏教勢力を旧都にとどめ、代わって、唐へと留学した僧侶による新しい仏教を奨励した。唐から天台宗を伝えた最澄や真言宗を伝えた空海が中心的な存在となる。唐に渡るに先だって、最澄は、比叡山に入り山林での修行をおこない、また空海は、その著書[ 78 ]のなかで、「金仙一乗の法、義益最も幽深なり」と説いて出家を宣言した。

(答:三教指帰(さんごうしいき))

2013中大・経済:「
問3.下線部1の空海が、儒教・道教・仏教の三教のうち、仏教が優れていることを説いた出家宣言書を何というか。漢字で解答欄に記入しなさい。


(答:三教指帰)〉

 

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最澄の覚え方◇C古代117

2015年10月21日 10時25分41秒 | 入試対策講座

□古代117.最澄(弘仁貞観文化プラス1・平安仏教)  ◇C

[ゴロ]9か3券の/券買って/ちょうだい


久隔帖(きゅうかくじょう)・山家学生式(さんけがくしょうしき))(顕戒論(けんかいろん))(最(さいちょう)・天(てんだい)宗)


[句意]9から3券の券を買ってちょうだい、という句。


[point]

1.最澄天台宗をひらき、規則書『山家学生式』を定め、『顕戒論』で大乗戒壇(だいじょうかいだん)設立を主張し、書状『久隔帖』が知られる。

[解説]
1.最澄(767~822)近江生まれで、比叡山で修学し、804(延暦23)年遣唐使に従って入唐し、天台の教えを受けて帰国し、天台宗をひらいた。

2.彼はそれまでの東大寺戒壇における受戒制度に対して、新しく独自の大乗戒壇の創設をめざした。


3.最澄の受戒の主張は、南都の諸宗から激しい批判を浴びることとなり、『顕戒論』を著して反論した。


4.その死後、大乗戒壇の設立が公認され、最澄のひらいた草庵にはじまる比叡山延暦寺は仏教教学の中心となっていった。


5.最澄は比叡山(山家)で修行僧(学生)を養成するための規則書『山家学生式』を定めた。


6.最澄の現存する唯一の書は『久隔帖(きゅうかくじょう)』である。


2013早大・政経:「
 山家学生式を定めたのは誰か。

 ア最澄 イ恵慈 ウ空也
 エ日蓮 オ空海」

(答:ア最澄)〉

2014明大・国際日本(国際日本):「
  12世紀頃、京末の都の話である。[ A ]を開祖とする天台宗の総本山がある[ B ]から続々と僧侶が下山し、仏法を民衆の間に広めた。これがいわゆる「鎌倉新仏教」の発端である。

問1 空欄Aに入る人物名を下記の1~4の中から選びなさい。

 1空海 2源信
 3最澄 4空也

問2 空欄Bに入る語句を下記の1~4の中から選びなさい。

 1高野山 2比叡山
 3身延山 4金剛山」

(答:A3、B2)

2014明大・文(文、史学地理、心理社会:「
 最澄は唐の天台山に学んで天台宗を伝え、比叡山に延暦寺を建てた。(カ)著作として『顕戒論』がある


問9 下線部(カ)に関連して述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1.最澄は、南都仏教勢力の戒壇独占は認めていた。

 2.最澄は、南都諸宗の学僧と教義上の論争は慎重に避けた。
 3.最澄がめざしたのは、小乗戒壇の設立であった。
 4.最澄の著作『顕戒論』は、南都諸宗批判に向けられた。」

(答:4 ※1独占を非難、2論争を展開、4大乗戒壇の誤り)〉

2013早大・政経:「
1.山家学生式を定めたのは誰か。

 ア最澄 イ恵慈 ウ空也
 エ日蓮 オ空海」

(答:ア)〉

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弘仁・貞観文化の覚え方◇A古代116

2015年10月20日 23時35分59秒 | 入試対策講座

□古代116.弘仁・貞観文化(代表文化財4)  ◇A

[ゴロ]高2の/感心女官(にょかん)が/良真鱈(りょうまだら)と/(きん)ムロ/を温情寄付

弘仁貞観文化・観心意輪音(かんしんじによいりんかんのん))(東寺(教王護国寺)曼荼羅(りょうかいまんだら)・生寺(むろうじ)堂)(園城黄不動(おんじようじきふどう))


[句意]高校二年生の(心がけが)感心な女官が、良質の真鱈と金色のムロダイを温情寄付した、というやや意味不明の句。弘仁貞観文化の文化財は何しろ名前が長い。やや句が長ったらしいが、我慢して覚えてください。


[ポイント]

1.弘仁貞観文化を代表するのは、建築は室生寺金堂、絵画は園城寺黄不動東寺(教王護国寺)両界曼荼羅、彫刻は観心寺如意輪観音像

[解説]

1.室生寺は、奈良県にある真言宗の寺で、780年頃に創建。女人高野(にょにんこうや)(女人禁制の高野山に対し、女性の参詣が許されたため)と呼ばれ、山岳寺院の自由な伽藍配置を示している。金堂は、平面12×12m。平安初期の建立で塔と共にこの時期唯一の遺構。現在の屋根は柿葺(こけらぶき)(こけらすなわち杉や檜(ひのき)の小板で屋根を葺(ふ)く)だが、創建当時は檜皮葺(ひわだぶき)(文字通り檜の樹皮で屋根を葺く)だった。仏壇背後の壁画や翻波式の仏像も重要である。

2.観心寺如意輪観音像は、9Cの作で木像。1mほどの高さ(1.09m)。平安前期密教彫刻の代表作で、片膝を立てて坐る豊満な体つきが女性を思わせ、美しく神秘的である。


3.東寺(教王護国寺)両界曼荼羅は、平安前期の作で「金剛界」「胎蔵界」の2幅あり、ともに縦約1・8メートル、横約1・6メートルの大きさ。密教の教えをわかりやすく表現したものが曼荼羅で、理を表す胎蔵界曼荼羅と知恵を表す金剛界曼荼羅がある。両界曼荼羅は灌頂という密教儀式のときに必ず使用される。大日如来を中心に仏や菩薩などが描かれ、東寺のものはほとんど損傷がなく鮮やかな彩色が残っている。それに対して最古の神護寺両界曼荼羅は損傷が著しい。


4.園城寺黄不動(不動明王像)は、縦に畳1枚ほど(181×横72㎝)の大きさ。正面を向き直立している像で黄色に彩色されているため、黄不動という別称がある。

 

5.(弘仁貞観文化のその他代表建築には)室生寺五重塔がある。高さ約16m。平安初期の建立。「弘師一夜造りの塔」と呼ばれる端麗な小塔。寝殿造への移行を示す。

6.(弘仁・貞観文化のその他代表彫刻には)神護寺薬師如来像がある。8C末の作で木像。普通の男性くらいの高さ(1.70m)。檜(ひのき)の一木造。体つきは堂々としていて強く盛り上がった大腿部に迫力がある。金堂の本尊(ほんぞん)で観る者に威圧感を感じさせる。


7.また元興寺(がんごうじ)薬師如来像は、9Cの作で木像。普通の女性くらいの高さ(1.65m)檜の一木造。堂々として量感に富む。両脚の前面を覆う衣は柔らかな曲面を作り、厚味のある翻波式の深い衣文に迫力がある。


8.さらに薬師寺僧形(そうぎょう)八幡神像は、9C後半の作で、40cmほどの高さ(39.1㎝)の一木造の坐像。神祇(じんぎ)信仰は本来は偶像をもたなかったが、神仏習合による仏教の影響でこのような神像が造られた。


9.また室生寺弥勒堂釈迦如来像もある。9C末の作で、1mほどの高さ(1.06m)の木像坐像。貞観彫刻を代表する美しさを見せる。特に着衣は鋭い角を持った翻波式で美しい。

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ:「
奈良時代の後期、一木造が盛んになった。量感にとみ、神秘的な表現の施された作品が多く、平安時代前期には密教興隆の影響もあって造立数はさらに増えた。たとえば河内長野市の〈 い 〉の国宝、如意輪観音像がある。

(答:観心寺)〉

〈2013早大・法:「
 下線部d清和天皇について。この時代に発展した文化は弘仁・貞観文化と呼ばれている。この文化の代表的な彫刻は次のうちどれか。2つ選び、マーク解答欄紙の該当記号をマークしなさい。

 あ法界寺阿弥陀如来像  い蓮華王院千手観音像
 う室生寺金堂釈迦如来像 え広隆寺半跏思惟像
 お神護寺薬師如来像」

(答:う・お ※あ(国風文化)、い(院政期文化)、え(飛鳥文化))〉

〈2013青山学院・文教育経済法経営など:「
 一方で、貴族層にも浄土教が浸透し、藤原道長やその子頼通は、贅を尽くした仏像や寺院を造営した。そこには、e西方浄土への強い思いが託されていたが、逆にいえば、こうした壮麗な仏像や堂舎を建立することが、極楽往生のための善行と信じられていたのである。
問12.下線部eに関して、このような思想を反映した建築・作品として誤っているものを、次の①~⑥の中から一つ選んでマークしなさい。

 ①平等院鳳凰堂   ②法界寺阿弥陀堂
 ③高野山聖衆来迎図 ④教王護国寺両界曼荼羅

(答:4)〉

〈2012明治大・政経:「
 弘仁・貞観文化とよぱれる平安前期の文化は、密教的色彩が濃いものであった。最澄や空海らによって伝えられた天台宗や真言宗が広まって密教文化が盛んになった。密教の神秘的な仏画として[ 2 ]の不動明王像、神護寺や教王護国寺の両界曼荼羅などが描かれた。遣唐使が廃止されるころになると、中国文化を消化・吸収した国風化が進み、平仮名や片仮名が広く使われるようになり、仮名文字による優れた文学作品があらわれた。」〉

問2 空欄[ 2 ]にあてはまるものはどれか。A~Eから一つ選べ。

A 園城寺  B元興寺   C西大寺
D 室生寺  E薬師寺

(答:A)〉

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115法相宗義淵と弟子の覚え方◇C

2015年10月18日 09時22分52秒 | 入試対策講座

□古代115.法相宗義淵とその弟子4人  ◇C

[ゴロ]貴園(きえん)のゲン坊は/行儀良(りょう)だがドジ


義淵玄)(行基弁(ろうべん)・道慈(どうじ))


[句意]貴幼稚園の園児“ゲン坊”は、行儀は良いがドジだ、という句。


[ポイント]

1.法相宗義淵は、玄行基良弁道慈を育てた。

[解説]
1.義淵(?~728)は、法相宗を学び、竜蓋寺(岡寺)など竜のつく5寺を建立。元正・聖武天皇に近侍し宮廷で活躍、玄行基良弁道慈はその弟子と伝えられる。

2.良弁(689~774)は義淵に法相宗を学び、新羅人の学僧審(しんじよう)に華厳宗を学ぶ。751年、初代東大寺別当になる。


3.行基(668~749)は、中国系渡来人の家系の出。民衆への布教とともに用水施設や救済施設をつくる社会事業をおこなう。国家から取締りを受けながらも多くの民衆に支持された。のち行基は大僧正に任ぜられて大仏の造営に協力した。ただし完成(752)を待たずに死亡したので注意してください。


4.道慈(?~744)は、701年に入唐、718年帰国。鎮護国家の仏教を推進し、大安寺を建立。

〈2014同志社大・文:「空欄( c )は、法相宗の僧で、橘諸兄の政権に参画し、僧正に任ぜられ、護国仏教の確立に努めた。この人物名を漢字で記せ。

(答:玄)

〈2013中大・経済:「日本への仏教伝来は、6世紀の欽明天皇時代と考えられているが、仏教に関わる海外との人の行き来や海外からの文化、技術の伝搬は、日本の文化に大きな影響を及ぼしている。奈良時代には、国家の保護を受けて仏教が発展し、律宗・倶舎宗・三論宗・成実宗・[ 1 ]・[ 2 ]の仏教学派からなる南都六宗が形成され、仏教教学が研究された。」

問1 空欄[ 1 ]には、道昭が唐の玄奘に学んで伝来した学派が入る。また、空欄[ 2 ]には、良弁が属した学派が入る。それぞれの学派を、漢字で解答欄に記入しなさい。

(答:1法相宗、2華厳宗)〉

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南都六宗の覚え方◇B古代114

2015年10月15日 23時38分02秒 | 入試対策講座

□古代114.奈良仏教(南都六宗、天平文化プラス2) ◇B

[ゴロ]何と結婚サロンで/情報クリッ


南都六宗)(華厳(けごん)・三論(さんろん))(実(じょうじつ)・相(ほっそう))(舎(くしゃ)・(りつ))


[句意]何と、結婚相談サロンで情報をクリッ!と調べるんだ、という句。


[point]

1.南都六宗法相宗華厳宗倶舎宗律宗三論宗成実宗の6学派。

[解説]

1.一般の信仰が盛んになる間に、奈良の大寺院では、インドや中国で生まれたさまざまな仏教理論の研究が進められ、三論成実法相倶舎華厳南都六宗とよばれる学派が形成された。「宗」ははじめは「衆」と書いており、これらは学派(研究グループ)であって宗派ではない、大学の学科のようなものだった。今日の一寺一宗派とは違い、各寺院に2、3宗が同居しており、鎌倉新仏教のような対立はなかった。これが平安時代になると一寺一宗となり宗派化していった。

2.奈良時代の初期は三論宗(7C半)が盛んだった。三つの書を研究する宗派という意味。大乗仏教の祖のインド僧竜樹(りゅうじゅ)の「中論(なかろん)」、「十二論(じゅうにろん)」、その弟子の提婆(だいば)の「百論(ひゃくろん)」を研究する学派。

3.成実宗(7C半)は三論宗の付属宗派で三論と同時に伝わる。一宗としての独立性は低い。厩戸王の法隆寺や、蘇我馬子の飛鳥寺、さらに奈良の大安寺などで研究された。

4.三論宗にかわって栄えたのが法相宗(7C半)。法相とは一切の存在のあり方を指し、あらゆる現象(相)は、唯識すなわち唯(ただ)人間の心による認識で世界が成り立っているとする唯識論の学派。唯識論は大インド旅行をした玄奘三蔵(西遊記の三蔵法師のモデル)が唐にもたらし、その弟子となった留学僧道昭が日本に持ち帰り、薬師寺や興福寺などでさかんに研究が進められた。この法相宗が南都六宗の中では最も勢力が盛んだった。義淵玄昉行基ら多くの門下を育てた。鎌倉時代に、法然を批判しその配流の契機をつくった貞慶(解脱)は、この法相宗の興福寺に属する学僧。

5.倶舎宗(661)は、一応、南都六宗にかぞえられるが、一宗としての独立性は低く、法相宗の附属宗派にすぎない。

6.華厳宗(736)は、華厳経を中心とする学派。世界は盧舎那仏(るしゃなぶつ)が具体的な形で現れたものであるとする華厳経を中心とする学派で、良弁(ろうべん)は東大寺建立に活躍した。鎌倉時代に、高弁(こうべん)(明恵(みょうえ))が中興。かれは『摧邪輪(さいじゃりん)』を著し、法然の『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を批判。

7.律宗(753)は、仏教の僧侶が守るべき基準となる決まり、すなわち戒律を研究する学派。唐僧鑑真(がんじん)は、日本の僧、普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)の懇請に、日本に渡ることを決意。海賊や暴風雨などにより5回連続失敗し、盲目にもなるが、753年、ついに日本に上陸。この鑑真が伝えたのが律宗。かれは東大寺にわが国初の戒壇(かいだん)をつくり、聖武上皇らに受戒、のちに唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建。

8.現在は、興福寺薬師寺法隆寺を大本山とする法相宗東大寺華厳宗唐招提寺律宗の三宗が残る。

2016早大・法:「
1 下線a南都六宗のうち、玄奘の弟子が開いた中国大乗仏教宗派の系譜を引き、道昭が日本で広めた学派を1つ選び、マーク解答用紙の該当記号をマークしなさい。

 あ 法相宗 い 華厳宗 う 三論宗
 え 成実宗 お 律宗」

(答:あ)〉

2016同志社大・全学部:「
【設問2】下線部2南都六宗に関連した次の各文のうち、誤っているものはどれか。

 1.六宗は後の宗派のように信仰を異にする教団ではなく、教理研究の学派というべきものである。
 2.大安寺の道慈は入唐して、六宗の一つである三論宗を深めた。
 3.「南都・北嶺」と言われるときの南都は、奈良の寺院のうち、特に藤原氏の氏寺であった東大寺を指す。」

(答:3 ※氏寺は興福寺)〉

2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A)):「

問4 下線部(エ)8世紀の時期の文化の内容を説明するものとして、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。

 1 三論・成実・法相・浄土・華厳・律の南都六宗と呼ばれる学派が形成された。
 2 塑像の技法が発達し、興福寺阿修羅像が造られた。
 3 大僧正に任じられた行基は東大寺大仏の造営に協力した。
 4 入唐後、帰国した空海は『三教指帰』を著して密教の国教化を図った。」

(答:3 ※1は浄土ではなく倶舎)〉

2013早大・国際教養:「
 下線部a禅律僧の活動例として正しいものはどれか。1つ選べ。

 ア 専修念仏の教えを説いた。
 イ 諸国を遊行して念仏を唱えた。
 ウ 北山十八間戸を設立した。
 エ 悪人正機の考え方を普及させた。
 オ 東大寺南大門を建立した。」

(答:ウ ※「禅律僧」とは禅宗と律宗の僧の意。北山十八間戸は忍性の事績で彼は律宗。アは法然で彼は浄土宗、イは一遍で時宗、エは親鸞で浄土真宗、オは重源で華厳宗)〉

2012立教大・全学部:「
7.仏教の興隆とともに国が管理・維持する寺院が創建されたが、それらは南都七大寺と総称されるようになる。そしてそうした寺院において南都六宗とよばれる宗派が展開する。それらの各宗派は仏教研究上の学派といった性格を持った。六宗の1つである( ニ )は鑑真の来朝後、盛んとなった。」

 a.華厳宗 b.三論宗
 c.法相宗 d.律宗」 

(答:d)〉

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113石上宅嗣の覚え方◇C

2015年10月15日 17時12分36秒 | 入試対策講座

□古代113.天平文化人2人(天平文化プラス1)  ◇C

[ゴロ]うんとうんと磯野(いその)がヤカン注(つ)


芸亭(うんてい)・石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ))                            


[句意]磯野くんがうんとうんとヤカンの水を注いでくれた、という句。ラグビーの試合などで痛んだ選手の頭部や患部にヤカンの水を注ぐとたちまち回復するのはよく見る傾向です。磯野はサザエさんの苗字なので思い出しやすいと思います。


[ポイント]

1.石上宅嗣は、日本最初の私設図書館芸亭を開いた。

[解説]

1.石上宅嗣(729~781)は、奈良時代を代表する文人。仲麻呂失脚直後に参議に昇進し、称徳天皇が亡くなると、藤原永手らと組んで光仁天皇擁立をはかり、中納言、ついで大納言にすすんだ。その屋敷の一部に漢籍を集めた図書館芸亭を設け、好学の氏への閲覧を許した。

2.なお芸亭の「芸」は「藝」の簡体字に似るが草冠部分の「一」の中央が開いて隙間がある別字(ワープロ文字にないので芸で間に合わせている)。一種の香草のことで、虫害を防ぐため書物・巻物の中に入れたことから転じて書籍の意味ともなる。


3.なお石上宅嗣に並び称せられる文人に淡海三船(722~785)がいる。かれは鑑真の伝記である『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』を著した。


〈2013北海道大・前期:「

問4(2)書籍を収蔵し希望者の閲覧に供した。日本最古の図書館といわれる芸亭(うんてい)を開いた人物は誰か、氏名を答えなさい。」

(答:石上宅嗣)〉

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天平文化の覚え方◇A古代112

2015年10月13日 08時23分58秒 | 入試対策講座

□古代112.天平文化(代表文化財3) ◇A

[ゴロ]貂皮(てんぴ)に/鳥毛(ちようもう)出る/怪談知ってる?    


天平文化)(正倉院鳥毛立女(ちょうもうりゅうじよ)屏風・東大寺(とうだいじ)法華堂(ほっけどう)不空羂索観音像(ふくうけんじゃくかんのんぞう))(東大寺戒壇院(かいだんいん)四天王像(してんのうぞう))


[句意]貂(てん)の皮に鳥の毛をびっしり付けた服を着たお化けが出る怪談を知ってる?、というナンセンスの句。


[point]

1.天平文化を代表するのは、乾漆像彫刻は東大寺法華堂不空羂索観音像塑像彫刻は東大寺戒壇院四天王像、絵画は正倉院の鳥毛立女屏風

[解説]
1.東大寺法華堂不空羂索観音像は、法華堂本尊で像高が3.62メートルある。8本の腕があり、民衆救済のロープ(羂索)を持って衆生(しゅじょう)(この世のすべての生き物)を救済する観音の像。天平文化を彩る2技法の一方乾漆像の代表作。乾漆像には脱乾漆像と木質乾漆像とがあり、これは前者脱乾漆。


2.東大寺戒壇院四天王像は、4体とも憤怒の顔立ちで、内に力を秘め動き出そうとするかのような写実的表現が見事。
天平文化を彩る2技法のもう一方塑像の代表作。

3.正倉院鳥毛立女屏風は、正倉院でも最も有名な宝物の一つ。6面(扇)ある。いずれも樹下に唐衣装の美女がたたずむ樹下美人図(じゅかびじんず)で、中国西域などの画像に源流を持つ。衣服部分には日本産のヤマドリなどの羽根が貼(は)ってあったが、現在は剥落(はくらく)して存在しない。

4.(その他天平文化の代表建築は)唐招提寺金堂(天平文化=奈良時代で現存する唯一の金堂)・同寺講堂(平城宮の朝集殿を移したもので、平城宮の宮殿を知る唯一の遺構)、東大寺法華堂(ほっけどう)(三月堂(さんがつどう)の別名がある。毎年陰暦3月に法華会が行われるためである。不空羂索観音像、執金剛神像、日光・月光菩薩像などが安置されている。)・同寺伝法堂(でんぽうどう)(藤原光明子の母橘三千代(たちばなのみちよ)邸あるいは聖武夫人の橘古那可智(こなかち)邸を移したものといわれる。奈良時代の貴族の住宅を知る貴重な遺構)、法隆寺夢殿(ゆめどの)(厩戸王の斑鳩宮(いかるがのみや)跡に王を記念して建てた東院の中心。平面が八角形で、本尊は救世観音(くぜかんのん)像)の5建築。


5.(その他代表彫刻で塑像は)いずれも東大寺法華堂執金剛神像(金剛杵をもつ、憤怒形は迫力がある。)と、法華堂日光月光菩薩像(向って右が日光で法衣を、左の月光は唐服をつけている違いがある。しかし衣服を除くと双子(ふたご)と見紛(まが)うほど2体は似ている。優しい顔立ちで静かに合掌する)がある。


6.(その他代表彫刻で乾漆像は)興福寺十大弟子像(734年造立。釈迦を囲む10人の高弟の像で、6体現存)・同寺八部衆像唐招提寺鑑真和上像がある。なお鑑真和上像は、手足が多いなどの複雑な体型ではなく乾漆像のように見えないので注意されたい。


7.(その他代表絵画には)薬師寺吉祥天画像がある。麻布に風をうけて画面右方に歩く吉祥天女を描いている。(きちじょうてん)とも読む。三日月形の眉。切れ長の目にふっくらとした頬。肉感的な唇。顔立ちは『鳥毛立女屏風』の女性によく似ている。現代の好みと違い、これが当時の女性の理想像だった。


8.
東大寺正倉院校倉造で、鳥毛立女屏風のほか、螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんごげんのびわ)などの貴重な御物が安置されている。

.(その他特異なものとして) 称徳天皇の発願により作られた百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)がある。百万個の木製小塔に収められた4種の陀羅尼経で、年代(764年)の明白な世界最古の印刷物

10.なお興福寺八部衆像は734年造立。西金堂本尊「釈迦如来像」の従者として安置。八部衆とは釈迦によって教化された8人の異教の神々をいう。その八部衆像の1つでもっとも人気があるのは興福寺阿修羅像。その真剣で思い詰めた少女のような3面の顔付と合掌(がっしょう)するなどした6本の腕(三面六臂)の構成が凛々(りり)しく美しい。


※天平文化には多くの優れた、世界に誇れるレベルの美術品がある(私は4大美術館をはじめ世界の著名な美術館の多くを見ているが、そのたびに日本の美術品とくに仏像彫刻はギリシャ・ローマの彫刻に優るとも劣らないという確信を抱きました
)。まず上記の3つを覚え、少しずつ図版を見つつ楽しみながら知識を増やして欲しいと思っています。

2015早大・人間科学:「
問8 下線部h国際色豊かな天平文化が花開きに関連して、正倉院宝物に含まれるものはどれか、2つ選べ。

 ア 両界曼荼羅
 イ 阿修羅像
 ウ 螺鈿紫檀五絃琵琶

 エ 漆胡瓶
 オ 鑑真和上像
 カ 扇面古写経」


(答:ウ・エ)〉


2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ:「
 東大寺の大仏は銅像の表面に鍍金を施した金銅像であるが、天平文化の時代には、( へ )や乾漆像の制作技法も発達した。( へ )は木を芯として粘土を塗り固めて造る像で、乾漆像は粘土などの原型の上に麻布を漆で幾重にも覆い固め、中の原型を抜き取って造る像である。」


(答:ヘ塑像)〉


2012中央大・経済:「
問7 聖武天皇時代の年号をとって名付けられた国際色豊かな貴族文化を何というか。漢字で答えなさい。また,その文化を示す作品を、
次のア~サからすべて選び、記号で答えなさい。

(ア)法隆寺全堂壁画画
(イ)正倉院鳥毛立女屏風
(ウ)高松塚古墳壁画
(エ)興福寺八部衆像
(オ)東大寺法華堂月光菩薩像
(カ)興福寺仏頭

(キ)法隆寺全堂釈迦三尊像 
(ク)広隆寺半跏思惟像

(ケ)薬師寺薬師三尊像 
(コ)中宮寺天寿国繍帳
(サ)薬師寺吉祥天像」


(答:天平文化 イ・エ・オ・サ)〉

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万葉歌人の覚え方◇B古代111

2015年10月12日 00時19分34秒 | 入試対策講座

□古代111.万葉集(4期6歌人時代順)  ◇B

[ゴロ] (ぬか)と/赤オクラを/食びたら/焼餅


田王・本人麻呂)(山部人・山上良・大伴旅人)(大伴家持


[句意]糠漬けの柿と赤いオクラを食べたら、焼き餅を食べるよ、という句。山部赤人・山上憶良・大伴旅人の3人は同時代人で並列なので注意。「万葉」という名前の食いしん坊で若(和歌)い子を想定しています。


[ポイント]

1.万葉集の代表歌人は額田王柿本人麻呂山部赤人山上憶良大伴旅人大伴家持である。

[解説]

1.万葉集は、最初の和歌集。最初の勅撰和歌集は国風文化の『古今和歌集』。古代からの貴族・農民・防人の歌など約4500首を収録。編者は大伴家持か。

2.天智天皇時代までの第1期の歌人としては有間皇子額田王、平城遷都までの第2期の歌人としては柿本人麻呂、天平年間の初めころまでの第3期の歌人としては山上憶良山部赤人大伴旅人、淳仁天皇時代にいたる第4期の歌人としては大伴家持大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)らが名高い。


3.額田王(生没年不詳)は、はじめ大海人皇子の寵愛をうけるが、のち同皇子の実の兄天智天皇に召される。その間の蒲生野の遊猟の際の同皇子との贈答歌「あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや 君が袖振る」など万葉集に12首。


4.柿本人麻呂(生没年、経歴不詳)は、天皇を題材にした歌が多く、雄大で重々しく、力強さにあふれている。万葉集第一の歌人。


5.最初の勅撰和歌集は国風文化の『古今和歌集』。


〈2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポーツウェルネス)・観光(観光)「
 庶民の生活は、( ロ )が筑前守の時に詠んだとされる貧窮問答歌の「伏廬(ふせいお)の 曲廬(まがいお)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子(めこ)どもは 足の方に 囲(かく)み居て憂へ吟(さまよ)ひ」(『万葉集』、原万葉がな)という言葉に描かれているように、土間の上に藁を敷いて寝起きする「直土」の生活であったと考えられる」

(答:山上憶良)〉


〈2014立大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)「
 『万葉集』の編者とされているのは誰か。次のa~dから1つ選べ。」

 a大友黒主 b大伴家持
 c山上憶良 d山部赤人)

(答:b)〉


〈2013慶大・文学部:「
 次の史料(イ~ニ)は、いずれも『万葉集』に収められた歌である。これらを読んで、設問に答えなさい。


(イ)玉だすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 聖の御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと つがの木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 大和を置きて……いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙(ひな)にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪(さざなみ)の( A )の宮に 天の下 知らしめしけむ……ももしきの 大宮所 見れば悲しも

(ロ)a大君は 神にしませば 赤駒の 腹這(はらば)ふ田居を bと成しつ
(ハ)やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子……埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経(たて)の 大き御門に 春山と しみさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯(よこ)の 大き御門に 瑞山と 山さびいます ( B )の 青菅山は 背面(そとも)の 大き御門に 宜(よろ)しなへ 神さび立てり 名ぐはしき 吉野の山は 影面(かげとも)の 大き御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天の御陰 天知るや 日の御陰 水こそば 常にあらめ 御井の清水
(ニ)今造る ( C )の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし
                            (原万葉仮名)
問1 ( A )の中にふさわしい語句を記しなさい。

(答:大津)


問2 ( A )の宮で即位した天皇名を記しなさい。

(答:天智天皇)


問3 ( A )の宮が廃絶に至った契機となった出来事とは何か、記しなさい。

(答:壬申の乱)


問4  下線部a「大君」は、問2の天皇の弟にあたる人物である。誰のことか、天皇名を記しなさい。

(答:天武天皇)


問5  下線部b「都」の具体的な名称を記しなさい。

(答:飛鳥浄御原宮)


問6  「( B )の青菅山は」の( B )の中に入る大和三山の一つの名称を記しなさい。

(答:耳成山)


問7  ( ハ )の歌に歌われた都の名称を明記し、その全体プランと性格について、「大極殿・朝堂院」「集住」「象徴」の3つの語句をこの順番ですべて用いて、80字以内で説明しなさい。


(解答例:「藤原京は、政務・儀式の場として大極殿・朝堂院が作られ本格的条坊制を持つ。有力王族や中央豪族が集住させられた中央集権国家を象徴する三代の天皇の宮都であった。」)(山川詳説に沿って)


問8  ( C )の中にふさわしい、聖武天皇が新規に造営した都の名称を記しなさい。

(答:恭仁京)


問9  聖武天皇が( C )に遷都する直接的原因となった出来事とは何か、記しなさい。

(答:藤原広嗣の乱)」〉

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