Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 4月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


意向:聖なる復活節を過ごす
実践すべき徳:実践すべき徳:天主を愛するために苦難を甘んじ受ける
守護の聖人:悲しみの聖母マリア

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 4月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    4月1日(主) 復活祭(1級及び1級の八日間付き)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    4月2日(月) 復活の月曜日(1級)白
            午前6時半 ミサ聖祭

    4月6日(初金) 復活の金曜日(1級)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    4月7日(初土) 白衣の土曜日(1級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    4月15日(主) 復活後第2主日(2級)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    4月16日(月) 平日(4級)白
            午前6時 ミサ聖祭          ← 時間が変更しました

    4月20日(金) 平日(4級)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    4月21日(土) 教会博士証聖者司教聖アンセルモ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    4月8日(主) 白衣の主日(1級)白  
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    4月9日(月) 童貞聖マリアの御告げ(1級祝日)白 
            午前7時 ミサ聖祭

    4月22日(主) 復活後第3主日(2級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    4月23日(月) 平日(4級)白 殉教者聖ジョルジオの記念
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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2018年4月7日(初土) モニカさんの葬儀ミサ 「カトリックの聖伝による葬儀ミサとは」

2018年04月21日 | お説教・霊的講話
2018年4月7日(初土)モニカさんの葬儀ミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2018年4月7日、御復活の後の土曜日で、初土曜日です。今日は聖木曜日に亡くなられた、私たちの姉妹であるモニカさんの葬儀ミサを捧げています。モニカさんの特別の遺言と希望で、4月の最初の水曜日の4月4日から、30日間のミサを捧げています。このミサもその内の1つであります。そしてご家族の皆さんがモニカさんを失った悲しみを共にしたいと思っています。

(1)今日のこの葬儀ミサ、カトリックの聖伝によると、葬儀ミサとは一体どのようなものなのか?どのようにして私たちは亡くなった霊魂の為に祈るのか?という事を黙想して、

そして(2)モニカさんの思い出話をする事を許して下さい。

その後で(3)私たちは遷善の決心を立てる事にしましょう。私たちは一体どのような事を黙想しながら、これからモニカさんの為にお祈りして、そして私たちの生活を送っていくべきか。

【1:カトリックの聖伝によると、葬儀ミサとは?】

カトリックの聖伝によると、私たちが死亡すると死を迎えると、霊魂は肉体を離れます。肉体と霊魂は1つで、霊魂は肉体を生かしていましたけれども、死を迎えるという事は、すなわち霊魂が肉体を離れる、分離するという事で、肉体は腐敗を始めます。土に戻ります。しかし霊魂は決して消滅する事がありません。どのような聖人であっても、どのような罪人であっても、罪を犯したから罰として、亡くなったから霊魂が無くなってしまうという事は決してありません。霊魂は永遠に生き続けます。

そして裁きを受けます。聖なる、また聖なる、聖なる天主によって裁きを受けるので、どのように清い霊魂であったとしても、その裁きは非常に厳しいものです。私たちの中のほんのちょっとした罪、あるいは汚れ、あるいは過失、あるいは罪の償いが残っていれば、それを私たちは何とかして浄めなければなりません。亡くなった後に罪の償いを果たして、罪の汚れなく天国に行くという、直行するという霊魂は、極めてわずかで、例外的です。

聖人たちも非常にその事を心配していました。アヴィラの聖テレジアというとても立派な方は、臨終の時にシスターたちを呼んで、「わが娘たちよ。私が死んだらすぐにたくさんのお祈りして下さい。なぜかというと、天主の裁きは非常に厳しいので、私は長い間煉獄で苦しまなければならないから。」

霊魂が聖であれば聖であるほど、清い方であれば清くなれば清くなるほど、罪の醜さ、恐ろしさ、おどろおどろしさがますますよく分かるので、そして天主の清さ、善、愛、憐れみの深さ、そしてその良さ、寛大さがあまりにもよく分かるので、すぐその清い天主に直行する事はできないだろう、と、ますます自覚しました。

そこで教会は、霊魂が亡くなると、多くの祈りと、多くの償いを捧げようと決心しました。最も効果がある、最も功徳のある、最も天主の御前に力のある祈りがミサ聖祭です。なぜかというと、天主聖子が私たちの身代わりとなって、私たちの名前によって、自分の天主の血を流して、罪の償いを果たして下さったからです。「聖父よ、彼らをお赦し下さい。彼らはその為すところを知らないからです。」

その聖子の祈りに聖父はどうして拒む事ができるでしょうか。ですから教会は、ミサを以て死者の為に、この霊魂の救いの為に、「早く天国に行く事ができるように」と祈る習慣があります。

ただし教会は、私たちにとって、天主の聖性とその清さをよく知っているが為に、私たちには喪に服すように招いています。そこで教会は、「ミサの時にはオルガンを鳴らさないように、祭壇に花を置かないように。そして私たちはこの亡くなった霊魂に代わって償いを果たすように」と招いています。

ですから、私たちの為にこのミサが捧げられるわけではないので、最後の祝福もありません。司祭は水さえも祝福しません。全ての祈りは、「この霊魂が早く天国に行く事ができるように、天主の憐れみを乞う」という事だけに集中します。

このミサの後には、普通ならば「Ite, Missa est」と言うところを、私たちは、「この霊魂たちに永遠の安息があるように」と司祭は言ってミサを終わります。皆さんは、「アーメン」と歌って答えて下さい。今日のミサの後には最後の祝福もなく、最後の福音もなく、司祭は、赦祷式というものを行います。

赦祷式というのは、「霊魂が早く天国に行きますように」という意向を持った、主の憐れみを乞い求める特別のお祈りで、もし遺体があれば遺体に、もしも遺体がなければ空の棺を置いてそれに聖水を司祭がかけます。教会を代表して聖水をかけます。香も焚きます。なぜかというと、この亡くなった霊魂は亡くなった方は、天主三位一体の神殿であったからです。

教会は、ユダヤ教の伝統とそしてカトリック教会の伝統は、天主の神殿である私たちの体を、そのまま土葬する埋葬するという習慣があります。本来ならば私たちも、日本でもできるならば 埋葬するようにしたいと願っています。将来的にその準備を進めたいと私も思っています。

カタコンベというものがローマにあります。300年間、カトリック教会は「違法」でした。教会がやっている儀式というのは禁止されていました。ローマの神々のものは良いのだけれども、しかしイエズス・キリストを信じる事は厳禁でした。イエズス・キリストを信じる事には死が待っていました。拷問が待っていました。財産の没収が待っていました。しかしローマ帝国の多くの人々、ますます多くの人々は、イエズス・キリストこそが真の天主であるとして信じていました。その信者の生活の清さ、その慎ましさは、異教の神々を信じているローマの人々の生活の、ふしだらな生活と比べると全く違っていました。イエズス・キリストの復活を信じて、私たちも復活するという事を信じて、多くの信者たちは殉教していきました。唯一、キリスト教の儀式をする事ができるような安全な場所はお墓しかありませんでした。地下のお墓なのです。なぜかというと、ローマの法律によって、「お墓は誰も暴いてはいけないし、手を付けてはいけないし、破壊してはいけない」という特別の古代からの法律があったからです。そこで安全の為に、キリスト教信者はカトリック信者は、地下のカタコンベという所のお墓でミサをしていました。殉教者もそのお墓に葬る事ができました。

ところでそのカタコンベを見ると、異教徒の人々のお墓とカトリックのお墓の違いが分かります。それは何かというと、火葬されて灰になっているか、そのまま土葬されているかの違いなのです。カトリック教会にとって、天主の神殿が火で焼かれるというのは、これは地獄の事を思い出すので、ぜひその地獄の苦しみに遭わせたくないという思いから、また復活するという、復活を待つ、復活を待って眠りに就くという信仰から、土葬をするようになっています。

日本では土葬する事は禁止されていません。しかしそれができる県は北海道と山梨県だそうです。土葬の会というのがあって、そこでは土葬をしたいという人たちのものがあるのだそうです。日本では古来から土葬が行われていました。日本人にとってとても自然なものでした。私たちもそのような、将来的に私たちもそのような形で土葬の準備をしたいと願っています、マリア様の御助けを以て。

カトリック教会はそこで、特に復活を否定するという人たちが火葬を勧めていたので、ヨーロッパでは「火葬をする人に対しては、教会の埋葬をしない」という、「儀式を拒否する」態度を取りました。

日本では迫害の最中でもあって、日本のカトリック教会が公式の認可を受けたのは戦時中だったので、ローマから第2バチカン公会議の前に、すでに火葬をする特別の許可を持っています。しかしできれば、理想は土葬なので、ぜひ私たちも土葬の事を考えています。

私が今日、主に言いたかった事はそれではありません。私たちはカトリック教会は、「復活を待って、復活の為に眠りに就いているのだ。復活の待望をもって、私たちは復活の日を待っているのだ」という事です。

ですから私たちは教会と共に、亡くなった霊魂の為にたくさん祈ります。モニカさんはまさにこの復活の、イエズス・キリストを真の天主として、イエズス・キリストと同じ復活を待つ者として、眠りに就かれました。

【2:思い出話】

モニカさんは大体20年くらい前から、毎月、私たちの聖堂に通って来ていました。欠かさず通って来ていました。家系は昔からカトリックの家系でした。とても物静かで、非常に大人しい素直な方なので、教理のカトリック要理の事をよく知っていました。そして公教要理の時間には必ず残って、公教要理をしていました。そして公教要理について深い知識を持っていた事は、その時の対話から分かりました。

ある時、いつもはお話をなさらないモニカさんですけれども、ポロリと奇跡の話の時に、こういう話をしてくれた事があります。

実はモニカさんのおじいさんが、仏教徒で、非常に頑固な仏教徒だったのです。ちょうどフランスからの宣教師が大坂に来ていて、そして小さな所を借りてミサをしていたのです。そして教会という教会もなく、ただミサの時だけにちょっと場所を借りて、という事をしていました。しかしカトリックの信仰を信じるという方が多くなってきて、そして今まで借りていた所が非常に手狭になったので、「ぜひ大きな場所が欲しい、大きな所が必要だ。何とかしてこの信者さんたちが一緒にお祈りをする場所が必要だ」ということになりました。

その時、大きな地主であったおじいさんの所に、モニカさんのおじいさんの所に、「ぜひ土地を買わせて欲しい。普通の土地よりも高いお金を払うので、ぜひ譲ってもらいたい」と宣教師の神父様がお願いに行ったそうです。この家族はカトリックでも何でもありませんでした。ただ土地を持っていただけでした。

するとそのおじいさんは、「ワシは仏教だ!耶蘇に売るくらいなら乞食にくれてやる!嫌だ!」と言って断ったのだそうです。それでも、それでも神父様はお願いに行ったのですけれども、「耶蘇は嫌だ!」と言って、「帰れ!」と言って冷たくあしらわれたそうです。その当時はカトリック教会も認められていませんでしたし、外国の宗教だと思われていたので、日本とは関係ない、よそ者だと思われていたので、これも仕方がなかったかもしれません。

ところが、そのおじいさんが癌になったのです。そして苦しんでおられるというのを聞いて、その神父様はすぐにフランスのルルドの聖水を日本に持って来ました。当時そのルルドの水を日本に持って来るのは非常に困難だったと思います。それをしてそのおじいさんに、「これはルルドの水で、これはマリア様の奇跡の水だからどうぞ召し上がって下さい、どうぞ飲んで下さい。」「ワシは嫌だ!信ぜんよ!」と言ったのですけれど、それでも、「まぁ、せっかくフランスから来たお水だ」、「貴重なお水だから」という事で飲んだところ、癌がピタリ、きれいに治ってしまった、という奇跡が起こりました。

そこでそのお礼に、そのおじいさんは持っていた土地を教会に寄付して、そして自分も洗礼を受けたのだ、という話を私にして下さいました。その後に家族代々、カトリックの信仰を受ける御恵みを受けた、という話をして下さいました。

モニカさんにとって、マリア様、イエズス様は、絶対の天主で、私たちの為に奇跡を起こす事ができて、そしてたとえ辛い思いをされて、日本の政府から認められていなかったとしても、イエズス・キリストこそが私たちに奇跡さえも起こす事ができる真の天主だ、というそのおじいさんの信仰を受け継いでおられました。そこで聖伝のミサに、ラテン語のミサに与り始めた時に、「これこそが本物だ。これこそがおじいさんから受け継いだ信仰だ。これこそが私がしなければならないイエズス様への礼拝だ」と、このミサを発見した事を非常に喜んでおられました。

なぜかというと、今から20年30年前は、日本では、「手による聖体拝領をしなければならない」と言われていたからです。今ではこれがもう当たり前になってしまっているのですけれども、しかしその時にはそれが非常に大きな問題でした。

ローマや文書では紙の上では、「信徒は自由だ。手に聖体拝領したい人はそれば良いし、しかしもしも口で聖体拝領したい人はすれば良い」とは書いてある事はあるのですけれども、でも実際にはできないのです。実際には手でないと拝領させてくれないのです。私も同じ思いをしました。ですからモニカさんの話がよく分かりました。

イエズス様をただのパンであるように、あるいは何でもないかのように、御聖体を何でもない普通の物であるように取り扱えば、日本ではお墨付きが来たのです。「よくやった!」と褒められたのです。

しかし、「イエズス様こそが真の天主だ、私たちはその前に跪きたい。その前に跪いて口で御聖体拝領したい。イエズス様の小さなかけらも御聖体だから、手に付いたら私たちは踏んでしまうかもしれない」という信仰は、「NO!ダメだ!」と言われたのです。嘘のようですけれども、本当の話なのです。

今ではもっと進んでいます。「聖体変化の時には立っていなければならない。跪いてはいけない」と言われています。「ミサの途中、日本では跪かない。これが日本の司教団の決定だ!」

ですから「跪く人は邪魔者だ!」「跪くのは違法だ!間違っている!」と言われます。もちろんベネディクト十六世教皇様も、もちろんフランシスコ教皇様も、「どちらでも良い」と言います。ベネディクト十六世引退教皇様などは、ご自分のミサの時には跪いて口でなければ拝領させません。しかし私たちは「日本ではだめだ!」と言われます。

もちろん聖パウロも聖書も、「主の前に、全てのものは膝をかがめる」と言います。しかし「日本ではだめだ!」と言われます。

これは跪くか跪かないかの問題ではないのです。この核心は「イエズス・キリストが復活した真の天主であるか、そうでないか」という問題なのです。

もしもイエズス・キリストが本当に復活して、十字架の死に至るまで天主に従順であったが為に、全てのものに優る名を与えられて、復活して、私たちはその真の天主を受けるとしたら、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、全てが膝をかがめる」という方を、もしも聖体拝領するとしたら、その前にあるとしたら、私たちがどうしても当然取るべき信仰が教えるものをするか、しないか、の違いなのです。

しかし、信仰の通りにする事はお墨付きを与えられませんでした、「これは違法だ!」とレッテルを張られます。そこで、そこで多くの方は現在でも苦しんでおられます。

しかし、モニカさんは私たちのこのミサに来て、「これこそが、これこそが私たちがやるべき真の道だ」と、このミサに与り続けました。

もちろんこのような教会の苦しみはおそらく長くは続かないと思います。今から10年前までは、聖伝のミサは禁止されている、と教区報にも出されましたし、色々なところにも出されましたが、10年前に、2007年7月7日にベネディクト十六世教皇様が、「このミサは昔から教会が愛してきたもので、いきなりこのミサが禁止される事も、いきなり悪になる事もあり得ない。だから私たちは、教会が愛したものを愛し続けなければならい」と言った時に、少しずつ態度が変わっていきました。

教会はおそらく今その受難の時ですが、もう一度聖伝が復活する時がやって来ます。「教会は今、」ベネディクト十六世教皇様の言葉によれば、「沈みかけている船のようだ」と言うのですけれど、しかしこの船が、御聖体とマリア様の2つの柱に縛り付ける時がやって来ます、聖ドン・ボスコの預言によると。「その時、教会には平和がやって来て、大きな発展がある」と言われています。ですから必ずその時は来ます。

マリア様も、ファチマのマリア様も約束されました、「汚れなき御心は勝利する、凱旋するでしょう。教皇様はロシアを私の御心に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。平和の時代がやって来るでしょう。」

【3:遷善の決心】

私たちはカトリック聖伝の復活の日を待ち続けつつ、モニカさんと同じ信仰を持ち続けたいと思います。

「イエズス・キリストは真の天主であって、復活された。そして私たちが受ける聖体拝領は、生ける天主の聖子、イエズス・キリストである。その復活されたイエズス様を私たちは今日受ける。ですから私たちは最大の礼拝と、敬意と、愛とを込めて、聖体拝領をしなければならない。」

モニカさんがやっていた事を私たちもしましょう。深い公教要理の勉強から来たその確信の通りに行動しましょう。

最後に、モニカさんの為にお祈り致しましょう。私たちもこの霊魂が早く天国に行く事ができますように、そして天国に行った暁には、天国から私たちの為にお祈りして下さるように、これからお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き4)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き3)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


 二、黙想は、内的生活の、したがって、使徒職の必要欠くべからざる要素である(3/3)


VOLO「わたしは望む」
 わたしは、さらに一歩前進して、これから“意志”の国に入る。
 意志こそは、実行的愛の言葉である。
 情念的愛は、わたしの心に、自分の行いを改めたい、という望みを吹き込んでくれた。
 ああ、イエズスよ、わたしは巡礼の途上に、よこたわる障害物を見ました。
 わたしは、この障害物を取り除きたいのです。
 これから、天主に向かってお話をするのは、わたしの“意志”です。
 ああ、イエズスよ、わたしがこの「……したい」という望みを、あなたにくり返す熱心は、わたしが今さき、「わたしは信ずる、わたしは愛する、わたしは痛悔する、わたしは望む!」と、いくたびもくり返したその熱心から、自然に出てくるのです。
 もしこの“わたしは望む”という意志の叫びが、わたしがこいねがったほどの熱烈さをもって、心の底からほとばしらない時がありましても、ああ、最愛の救い主よ、そのときわたしはあなたに、わたしの意志の弱さを哀訴するでしょう。そして、わたしは、けっして失望することなく、あたかも疲れを知らない人のように、あなたにくり返し申し上げるでしょう。――どれほどわたしは、天父にたいするあなたご自身の、いかなるぎせいも惜まないその寛大なご奉仕のまごころに、参与させていただくことを望んでいることでしょうと。
 わたしは、黙想の終わりに取る、自身の救霊をはかり、天主を愛するために働く、という一般的な決心に加えて、ここにいま一つ、きょう一日のあいだ、わたしが出あうこともあろういろいろの困難や、誘惑や、危険などを予見して、これに善処することができるように、具体的に黙想をする――という決心を、取ることにしましょう。
 だが、特にわたしは新たに、いきいきとした愛をもって、わたしのこれこれの欠点と戦い、これこれの善徳を実行する目的のもとに、特別糾明をしよう、という決心を取る。
 この決心を強化するためには、それを刺激する要因が要る。イエズスの聖心の中に、それを見いだそう。
 この決心を守りぬくため、霊魂は、救霊の敵とほんとうに死闘を演ずることもあるのだから、そのときは、これこれの方法を取ろう、とハッキリきめておく。これこれの機会が起こった場合にはこうする、というぐあいに、前もって、霊戦の準備をしておく。放念、わがまま、不節制、屈辱、誘惑、大事なことを決行する――こういう特殊な機会がおこった場合には、大いに警戒するように、必死になるように、そしてとりわけ、イエズスに一致してとどまり、聖母マリアのみもとに馳せていくように、心を準備しておく。
 しかし、弱いわたしのことであれば、こういう至れりつくせりの警戒を施した後でさえ、過ちにおちいることがないとも限らぬ。だが、予期しない突然の過ちと故意の過ちの間には、どれほどの差異があることだろう。
 最善をつくしたにかかわらず、過ちをおかしたからとて、わたしはけっして失望などしない。倒れては起き、起きては倒れる、というぐあいに、これをいくたびもくり返しているうち、わたしは前よりいっそう意志が強くなる。天主にいっそう強く、嘆願の叫びを発するようになる。かくてわたしの失敗によって、天主はいっそう栄光を帰せられるのだ。このことを納得していればこそ、わたしはたとえ過ちをおかしても、絶対に失敗などしないのだ。こういう苦しい努力の代価を支払わねば、成功は覚束ないのである。

 VOLO TECUM「わたしはあなたと共に望む」
 ああ、わたしの救い主よ、足なえを真っ直ぐに歩かせるのは、あなたなくして成功を望むことよりはるかにたやすいことです。(聖アウグスチノの言葉)
 どうして、わたしの決心は、こんなに実を結ばないのでしょうか。――「わたしに不可能のことはない」という必勝の信念が、「わたしを強くしてくださるお方によって」(フィリッピ4・13)という、謙遜と信頼の心がまえから出ていないからです。そんなわけで、わたしは、ある意味で、黙想でいちばん大切な点、すなわち、“嘆願”または“望徳”の言葉にふれることになります。
 ああ、イエズスよ、あなたの恩寵がなければ、わたしは何もすることができません。しかも、この恩寵をいただくためにも、わたしにはその資格がありません。しかし、わたしはぞんじております。――もしわたしが、あなたに切にお願い致しさえしますなら、それはあなたをうるさがらせるどころか、かえってその切願の度合いに応じて、あなたはわたしを助けてくださることを。むろん、そのためには、わたしが、あなたのものでありたい、という望みに、はげしく渇いていなければなりません。わたし自身の力に頼っていてはなりません。あなたの聖心にたいするわたしの信頼に、限度があってはなりません。むしろ、それは、盲目的な、愚かと思われるぐらい極端な、絶対的なものでなければなりません。
 ああ、永遠に善良なおん者、ああ、イエズスよ、わたしはカナアンの女のように、あなたのみ足のもとにぬかずきます。彼女のようにしつこく、彼女のように希望にみち、謙遜にあふれて、あなたにお願いいたしたいのです。――ただ主人の食卓から落ちる一片のパンくずばかりでなく、「わたしの食物は、わたしをつかわされた御父のみ旨をおこなうことである」と、あなたが仰せられたこの霊的うたげに、わたしもほんとうにつらなることができ、天国のパンを飽きるほど食べることができますようにと。
 成聖の恩寵によって、あなたの神秘体の枝となったわたしは、あなたのご生命に、あなたのご功徳に、参与する者とならせていただきましたから、ああ、イエズスよ、わたしはあなたによって、天父にお願いするのです。――ああ、聖なる御父よ、天に向かって慈悲をさけばれる、御子イエズス・キリストの聖なる御血によって、わたしがあなたに何かをおねがい致しますとき、あなたは果たしてこのねがいを、しりぞけることがおできになりましょうか。ああ、汲めども尽きぬ永遠の富の泉よ、わたしがあなたに向かって挙げますのは、施しを乞うあわれな乞食の叫びごえです。「主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみ、かつ乏しいからです」(詩篇85・1)
 あなたの全能の力を、わたしに着せてください。
 わたしの弱さにおいて、あなたの全能の栄光を発揮してください。
 あなたの善良さと、あなたのお約束と、あなたのご功徳と、――これこそは、ああ、イエズスよ、わたし自身の惨めさとあなたへの信頼とともに、きょう一日、わたしがあなたに一致して、心をよく取り締まり、また、勇敢に戦い、かつ、強く生きる力をめぐんでいただくための保証となるのです。日中ある障害がおきるとき、誘惑のあらしがまき起こるとき、困難に見舞われて、わたしの五官のいずれかに、苦しいぎせいを課さねばならないとき、そのときこそは、わたしが霊的花束として、いつも心のなかに収めている、聖書の言葉や聖なる考えが、わたしの決心を包んでいた祈りの芳香を、発散させることでしょう。わたしの黙想の美しい成果である、この祈りの習慣こそは、同時に、わたしの黙想の良否を鑑別する、試金石ともなることでしょう。「あなたがたは、その実によって、木を見わけるであろう」(マテオ7・16)とのお言葉のごとく。

               *

 わたしが、信仰によって生きるようになったとき、天主に向かって絶えまない渇きを感じるようになったとき、そのとき初めて、“わたしは見る”のはたらきがなくなるであろう。“わたしは渇く”の心情は、黙想の初めから、ほとばしりでる。そうしているうちに、天主を愛し、天主に自己をささげる気持ちが湧いてくる。かたく決心したわたしの意志を、ますますかたく強めてくれる。そして、直接間接、聖母や天使、諸聖人を通じて、イエズスのみもとに行って、天父のみ旨とのいっそう深い、いっそう絶えまない一致をこい求めるように仕向けてくれるのである。
 ミサ聖祭が、わたしを待っている。黙想が、その準備をさせてくれる。黙想のおかげで、わたしは教会の名によって、カルワリオの聖なる祭に、ふさわしい心がまえをもってあずかることができる。りっぱな聖体拝領をすることができる。感謝の祈りのあいだ、わたしの願いごとは、小さな個人の利害をはなれて、教会全体の利害にまで及ぶ。わたしは、自分に委託された霊魂のため、死せる霊魂のため、わたしの使徒的事業のため、わたしの両親、友人、恩人、敵どものためにも、祈るのである。

 次に、教会と心を合わせて、聖務日課の時課を、いくつかとなえる。そのあいだ、わたしは教会のためにも、わたし自身のためにも、祈ることを忘れない。しばしば、そして熱心に、射禱をとなえる。霊的聖体拝領をする。特別糾明をする。聖体訪問をする。霊的読書をする。ロザリオの祈りをする。眠りにつくまえには、一般的糾明をする。――これらは、天主への巡礼の途上に立てられた、道しるべのようなものであって、道がけわしく長いため、疲れきったわたしの霊魂のちからを回復し、朝の黙想のときにいただいた、天主に向かっての霊的飛躍を確保してくれる。

 このようにして、わたしは、一日じゅう、イエズス・キリストの影響下にあることができる。この飛躍のおかげで、直接間接、聖母マリアをへて、イエズスのみもとに馳せていくことができる。それは、最初のころは、周期的に、しばしばくり返されるが、日がたつにつれ、だんだん習慣的になっていく。すでに習慣となれば、キリストの教えを、口で賛美するばかりでなく、それを日常生活の細部にまで、浸透させていく。また、わたしの信心と行動とのあいだには、なんの矛盾も衝突も起こらないであろう。


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Sermon for 2nd Sunday after Easter (Good Shepherd Sunday) ―Fr Etienne Demornex, FSSPX

2018年04月20日 | お説教・霊的講話
Introduction

Today’s Sunday is commonly called “Good Shepherd Sunday” because of the Mass Gospel in which Our Lord says: “I am the Good Shepherd”. In our Society it is a Sunday which is dedicated to seminaries: let us therefore not forget to pray for all the young men who prepare themselves to the priesthood or religious life in our seminaries and novitiates.
I would like today to say a few words on this title of “Good Shepherd” which Our Lord gives Himself and consequently on what should be our attitude as “good sheep”.

1. Our Lord Jesus is the Good Shepherd

What is for Our Lord a good shepherd? Somebody who cares for those under his responsibility, who defends them and looks for those who would have gone astray. Our Lord Jesus is excellently the Good Shepherd to us.

Indeed Our Lord really cares for us:
・He wants our welfare and ultimately our eternal happiness and that is why He came down from Heaven. Remember how many miracles He performed in favor of the sick, of the poor, of the sorrowful, of the hungry.

・Our Lord cares for us in the sense that He gives us the spiritual food we need. He satisfies the thirst of our soul for truth and happiness: He came to teach us about God, Heaven, and the way to Heaven. Remember His sermon on the mountain: “Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of Heaven, Blessed are the meek, for they shall possess the land, etc…” (Mt 5;3-4). More than this, Our Lord Jesus gave Himself in the Holy Eucharist to be our spiritual food: He Himself decided to come in our soul to enlighten our minds with the truth and enflame our heart with love.

・Our Lord cares for us, it means also that He guides us in the spiritual ways: for example in the Gospel we see Our Lord teaching Nicodemus about the necessity of Baptism, instituting the Sacraments as means of getting grace, advising the young man how to become more perfect: “If you want to be perfect, go and sell what you have and give it to the poor, and you shall have treasure in heaven: and come follow Me” (Mt 19;21); during the Last Supper, Our Lord promised to send the Holy Ghost to his disciples in order to guide them: “The Paraclete, the Holy Ghost, whom the Father will send in my Name, He will teach you all things” (Jn 14;26)

Our Lord is a good shepherd because He protects us. How?

・Our Lord protects us against errors and wrong doings. Because he loves us and wants our good, He warns us against sin. Remember how He chased away twice the sellers in the temple of Jerusalem telling them: “it is written: My House shall be called the house of prayer; but you have made it a den of thieves” (Mt 21;13); remember how He reproached harshly to the Pharisees their bad will and how they were misleading people from the truth: “Woe to you scribes and Pharisees, hypocrites…, blind guides…you foolish and blind… you serpents, generation of vipers…” (Mt 23;13-33); even St Peter Our Lord did not hesitate to blame when he tried to stop Him from accepting His Passion: “Go behind Me, Satan, you are a scandal unto me” (Mt 16;23)

・Also Our Lord Jesus defends us against our enemies, the “wolf” which means the devils, the world and the flesh. He has gone to Heaven but yet He is still with us in the Holy Eucharist, still with us by the spiritual assistance He gives us at any time: “Behold I am with you all days, even to the consummation of the world” (Mt 28;20), and especially in time of persecution “I will give you a mouth and wisdom which all your adversaries shall not be able to resist and gainsay” (Lc 21;15).

・And because “Greater love than this no man has, that a man lay down his life for his friends” (Jn 15;13), Our Lord Jesus has defended us up to the point to die for the remission of our sins and to save us from hell: “I am the good shepherd… and I lay down my life for my sheep” (Jn 10;14-15).


Our Lord Jesus is a good shepherd because He looks for the lost sheep with mercy. Our Divine Master came on earth to gain salvation for all people and He calls all people to follow Him. To His Apostles, He said: “Going therefore, teach ye all nations; baptizing them in the Name of the Father, and of the Son and of the Holy Ghost, teaching them to observe all things whatsoever I have commanded you” (Mt 28;19); in today’s Gospel He says: “Other sheep I have that are not of this fold; them also I must bring” (Jn 10;16); in the Gospel according to St Luke He said: “What man of you that has an hundred sheep, and if he shall lose one of them, does he not leave the 99 in the desert and go after that which was lost until he find it?” (Lc 15;4).

2. Our response to the Good Shepherd

We have really in Our Lord Jesus Christ a perfect shepherd taking care of us, protecting us, full of mercy.
But now the question is: are we, on our side, the good sheep docile to the voice of our Master? Somebody said that one reason for which we are so poor intellectually and spiritually in the world of today is not only because of the lack of spiritual masters but more because of the lack of docile disciples capable to listen to the masters and learn from them. All the science and the care of the master is useless if the disciple is not disposed to receive it.
How should we be “good sheep”, docile disciples under the guidance of the Lord? By corresponding to His actions on us:

Our Lord cares for us, let us take advantage of this care:

・Our Lord Jesus wants our good and eternal happiness. Let us therefore accept it and live accordingly, it means to trust His Providence. We know that Jesus is God and that He is in control of everything, that He organizes everything in our life to make us grow spiritually and reach Heaven. We should then bear patiently the trials of this life and persevere in our Catholic Faith whatever happens: “Fear not little flock, for it has pleased your Father to give you a kingdom” (Lc 12;32).

・Our Lord offers us spiritual food: Himself in the Holy Eucharist and in His teachings: “Not in bread alone does man live, but in every word that proceeds from the mouth of God” (Mt 4;4). Therefore let us be attentive to eat eagerly the spiritual food we are given: there is no possible “over-eating” in that domain! Let us receive Holy Eucharist as often as possible; let us read regularly the Holy Scriptures; let us deepen our knowledge of the Catholic Faith, let us pray often.

・Our Lord knows the way to Heaven, knows what is good or bad for us. Let us therefore accept willingly His guidance: the Commandments of God and of the Church; let us put joyfully into practice the evangelical counsels (spirit of poverty, chastity, obedience).


Our Lord protects us: let us put ourselves willingly under His protection:

・Our Lord warns us against dangers, errors and wicked people who could mislead us. Let us therefore have the humility to accept these warnings which He gives us especially through the Magisterium of His Church.

・Our Lord stays with us, physically in the tabernacle and spiritually in our soul by sanctifying grace. Let us therefore stay close to Him, visiting Him often in the Blessed Sacrament if we can or at least talking to Him often in our heart.

・Our Lord gave His life for us. Can we now do less than to work and to fight and to die for His glory? As St Thomas the Apostle said: “Let us also go, that we may die with Him” (Jn 11;16) or as Jesus Himself said: “Blessed are you when they shall revile you and persecute you, and speak all that is evil against you, untruly, for my sake, be glad and rejoice for your reward is very great in Heaven” (Mt 5;11).

The sacred Heart of Our Lord was burning with love of soul and the desire of their salvation: let us have as well a great desire for our own salvation and for the salvation of the people around us. We must have a missionary spirit, that is to say to work for the salvation of souls by our prayers, our sacrifices, by living an authentic Catholic life, by professing our Faith when we have the occasion, by spreading good writings about the Faith, etc…

Conclusion

Dear Faithful, without any doubt, we have a good Shepherd: Our Lord Jesus Christ. But maybe we are not good sheep, not enough docile to the voice of Our Lord Jesus. During this Mass, let make renew our resolutions to leave behind our sinful habits and to give our entire heart to Our Lord.
May Our most Blessed Mother, the Virgin Mary, make us hear and follow the voice of the Lord her Divine Son always. Amen.
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2018年4月15日 御復活後第二主日説教 「善き牧者と善き羊」―聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父様

2018年04月19日 | お説教・霊的講話
2018年4月6日(初金)御復活後第二主日(善き牧者の主日)のミサ
エチエンヌ・ドモルネ神父様(聖ピオ十世会) お説教  日本語訳


はじめに
本日の主日は、一般に「善き牧者の主日」と呼ばれています。このミサの福音において、主が「私は善い牧者である」と言っておられるからです。聖ピオ十世会においては、神学校のために捧げられている主日です。ですから、聖ピオ十世会の神学校や修練院で司祭職や修道生活の準備をしているすべての若者たちのために祈ることを忘れないようにしましょう。
私は本日、主が自分自身にお与えになった、この「善き牧者」という称号について、そしてその結果として、「善き羊」としての私たちの取るべき態度がどんなものかについて、少し述べたいと思います。

1.私たちの主イエズスは善き牧者である

主にとって、善き牧者とはどんなものでしょうか? 自分の責任の下にある人々の世話をし、彼らを守り、迷ってしまった人々を探し求める人のことです。私たちの主イエズスは、私たちにとってすばらしく善き牧者なのです。

実際、主は本当に私たちの世話をしてくださいます。

◎主は私たちの幸せを望み、そして最終的には私たちの永遠の幸せを望んでおられるのであり、そういうわけで主は天から降りて来られたのです。主が病める者、貧しい者、悲しむ者、飢えた者のためにいかに多くの奇蹟をなさったかを思い出してください。

◎私たちが必要とする霊的な食べ物を私たちに与えてくださるという意味で、主は私たちの世話をしてくださいます。主は、真理と幸せを求める私たちの霊魂の渇きを満たしてくださいます。主は、私たちに天主、天国、そして天国への道について教えるために来られました。山上の垂訓を思い出してください。「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである。柔和な人は幸せである、彼らは地を譲り受けるであろう・・・」(マテオ5章3-4節)。これに加えて、私たちの主イエズスは、私たちの霊的な食べ物となるご聖体において、ご自分をお与えになりました。主は、私たちの精神を真理で照らし、私たちの心を愛で燃え立たせるために、私たちの霊魂に来ることを御自らお決めになりました。

◎主は私たちの世話をしてくださいますが、それは主が私たちを霊的な道において導いてくださるという意味でもあります。例えば、主はニコデモに洗礼が必要であることについて教え、御恵みを得る手段として秘蹟を制定し、若い男に完全になるためにはどうすればよいかをお勧めになりました。「もし完全になりたいのなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい」(マテオ19章21節)。最後の晩餐の間に、主は、弟子たちを導くために聖霊を送ると彼らに約束されました。「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教えてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。


私たちを保護してくださるがゆえに、主は善き牧者です。では私たちをどのように保護してくださるのでしょうか?

●主は、誤謬と悪しき行いから、私たちを保護してくださいます。主は私たちを愛し、私たちの善をお望みであるがゆえに、私たちに対して罪に抵抗するよう警告なさいます。主が、エルザレムの神殿で物を売る人たちを二度にわたって追い出され、「『私の家は祈りの家である』と書かれているのに、それを盗人の巣にするのか」(マテオ21章13節)と言われたかを思い出してください。主が、ファリザイ人に対してその悪しき意思をどれほど厳しく非難され、彼らがどれほど人々を真理から離れた方向に指導していたかを思い出してください。「のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリザイ人よ、・・・盲目の案内人よ、・・・おろかもの、 盲目どもよ、・・・へびよ、まむし族よ、・・・」(マテオ23章13-33節)。聖ペトロが主にご受難を受け入れることをやめさせようとしたときには、聖ペトロに対してさえも、主は非難することを躊躇なさいませんでした。「サタン、引きさがれ。私の邪魔をするな」(マテオ16章23節)。

●さらに私たちの主イエズスは、「狼」という敵から私たちを守ってくださいます。この狼とは、悪魔、この世、そして肉のことです。主は天国へ行かれましたが、ご聖体において今でも私たちと共におられ、主がいつでも私たちに与えてくださる霊的な助けによって今でも私たちと共におられます。「私は世の終わりまで常におまえたちとともにいる」(マテオ28章20節)。また、迫害のときには特にそうです。「私自身がどんな敵も抵抗できず、反対もできない言葉と知恵を授ける」(ルカ21章15節)。

●また、「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)のですから、私たちの主イエズスは、私たちの罪を赦すため、私たちを地獄から救うためという段階までも私たちを守ってくださいます。「私はよい牧者である。・・・こうして私は自分の羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章14-15節)。


私たちの主イエズスは、迷える羊をあわれみ深く捜されるがゆえに、善き牧者です。私たちの天主なる主人は、すべての人に救いを得させるために地上に来られたのであり、すべての人にご自分に従うよう呼び掛けておられます。使徒たちに対して主はこう言われました。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19節)。
本日の福音で主はこう言われます。「私にはこの柵内にいないほかの羊もある。私はそれらも連れて行かねばならぬ」(ヨハネ10章16節)。ルカによる福音において主はこう言われました。「あなたたちの中に、百匹の羊を持つ人がいるとする。その一匹がいなくなれば九十九匹を野原に置いて、いなくなった一匹を見つけ出すまで捜すに違いない」(ルカ15章4節)。


2.善き牧者への私たちのお応え

私たちは、私たちを世話し、私たちを保護してくださる御あわれみに満ちた完全な牧者を、私たちの主イエズス・キリストにおいて持っています。しかし、ここで問題があります。果たして私たちは、私たちの側は、主人の声に素直な善き羊なのでしょうか? こんにちの世界において私たちが知的にまた霊的に非常に貧しい理由は、単に霊的な教師たちがいないからだけでなく、それ以上に、教師たちの言うことを聞いて、それから学ぶことのできる素直な弟子たちがいないからだ、と言った人がいました。弟子に受け入れる心構えがないならば、どのような科学も教師の世話も役に立ちません。
いかにすれば、「善き羊」、主の導きの下に素直な弟子でいられるのでしょうか? 私たちに対する主の行動にお応えすることによってです。

主は私たちの世話をしてくださるのですから、このお世話を活用しましょう。

〇私たちの主イエズスは、私たちの善と永遠の幸せを望んでおられます。ですから、それを受け入れて、それに従って生きるようにしましょう。すなわち、御摂理を信頼することです。私たちは、イエズスが天主であり、すべてを支配しておられるのであり、私たちの人生におけるすべてが、私たちを霊的に成長させて天国へ到達させるように主が計らってくださる、ということを知っています。ですから、私たちは、この人生における試練に忍耐強く耐え忍び、何が起ころうとも私たちのカトリック信仰を貫くべきです。「恐れるな、小さな群れよ。あなたたちにみ国を下さるのは、父のみ旨である」(ルカ12章32節)。

〇主は私たちに霊的な食べ物を与えてくださいます。それは、ご聖体にまします主ご自身、主の教えの中にある主ご自身です。「人はパンだけで生きるのではない、天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。ですから、私たちに与えられるこの霊的な食べ物を熱心にいただくよう気を付けましょう。この領域においては「食べ過ぎ」ということはあり得ません! 可能な限り頻繁にご聖体を受けましょう。定期的に聖書を読みましょう。カトリック信仰についての私たちの知識を深くし、頻繁に祈りましょう。

〇主は天国への道を知っておられ、私たちにとって何が善で何が悪かを知っておられます。ですから、進んで主の導きを受け入れましょう。それは天主の掟と教会の掟です。福音的勧告(清貧、貞潔、従順の精神)を喜んで実践に移しましょう。

主は私たちを保護してくださいます。私たちは進んで主のご保護の下に自分を置きましょう。
〇主は、私たちを誤った方向に導きそうな危険、誤謬、悪しき人々について私たちに警告なさいます。ですから、主が特に教会の教導職を通じてお与えになる、その警告を受け入れるという謙遜を持ちましょう。

〇主は、物質的にはご聖櫃の中に、霊的には成聖の恩寵によって私たちの霊魂の中に、私たちと共におられます。ですから、主の近くにとどまり、できるなら頻繁にご聖体にまします主を訪問するか、少なくとも心の中で頻繁に主と会話をするようにしましょう。

〇主は私たちのためにご自分のいのちをお捧げになりました。ですから私たちも今、主の栄光のために働き、戦い、死ぬ以外のことができるでしょうか? 使徒聖トマスが、「私たちも一緒に行こう、共に死のう」(ヨハネ11章16節)と言ったように。あるいは主ご自身が、「私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなたたちは幸せである、喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」(マテオ5章11節)と言われたように。

主の聖心は、霊魂への愛と私たちの救いへの望みで燃えています。同じように私たちも、自分の救いと自分の周りの人々の救いを求める大きな望みを持ちましょう。私たちは、宣教の精神を持たねばなりません。すなわち、私たちの祈りと犠牲によって、本当のカトリック的生活によって、機会があれば私たちの信仰を告白することによって、信仰に関する良き書物を広めることなどによって、霊魂の救いのために働かなければなりません。

おわりに
親愛なる信者の皆さん、疑いなく、私たちは善き牧者を持っています。それは、私たちの主イエズス・キリストです。でも、たぶん私たちは善き羊ではなく、私たちの主イエズス・キリストの御声に十分に素直であるとは言えません。このミサの間に、罪深い習慣を捨てて、心をすべて主に捧げるという私たちの決心を新たにしましょう。
私たちのいとも祝されし御母、童貞マリアが、私たちを、主にして天主なる御子の御声を聞き、その御声に従うようにさせてくださいますように。アーメン。
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2018年4月6日(初金)  「復活の金曜日に教会が私たちに教えようとしていること―洗礼の恩恵について」

2018年04月17日 | お説教・霊的講話
2018年4月6日(初金)復活の金曜日のミサ
小野田神父 説教


「私には、天と地の全ての権能が与えられている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2018年4月6日、4月の初金曜日、そして復活後の金曜日の特別のミサを捧げています。今日は初金曜日ですので、ミサの後には聖時間を行ない、初金の信心を致しましょう。今日の御聖体をどうぞ初金の信心をする意向で、イエズス様の聖心にお捧げ下さい。

明日は、聖木曜日に亡くなられたモニカさんの葬儀ミサを致します。10時30分からそのミサがあります。

今日御ミサの前に、いつもここに来られているクララさんが終油の秘跡を必要とされていたので、それを授けに行ってきました。痩せて非常に苦しそうでしたけれども、終油の秘跡を受けたら見違えるように微笑みをたたえていて、とても大きな慰めを受けたと思われます。皆さんのお祈りをお願い致します。

今日は聖復活後の金曜日で、このミサで一体教会が何を私たちに教えようとしているのか、その点を3つぜひ知って下さい。そしてその最後に、教会の教えようとした内容から、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。復活の喜びに入る事に致しましょう。ますます深く入る事に致しましょう。

まず第1には、今日の復活の金曜日は、「金曜日」という事で、マリア様と十字架に深い関係がある、という点です。

そこで指定巡礼教会は、殉教者のマリア教会、「殉教者の元后マリア様に、私たちが霊的に行くように」と招いています。

もちろん昔は本当に実際に、そこの教会に教皇様が行ってミサを立てました。ローマの信徒たちが皆そこに行ってミサを立てました。なぜ「殉教者のマリア教会」かというと、今から今日から1週間前は聖金曜日で、イエズス様の十字架を黙想したからです。聖金曜日には、イエズス様の血だらけの十字架が、実は本当は宝石で散りばめられた、最も価値のある十字架である、という事を黙想しました。私たちは十字架を、このイエズス様の十字架に礼拝を捧げました。

また2週間前の金曜日は、私たちはこの教会でこの御聖堂でもそのお祝いをしましたけれども、七つの聖母の御悲しみを黙想しました。ですから今日は霊的に「殉教者のマリア」教会に行くのです。

そこで今日は特に、この七つの聖母の御悲しみと十字架の称讃を兼ねて、主の御受難と聖母の悲しみをもう一度思い出させるように、殉教者たちのマリア様の御聖堂に来るようにと招いているのです。

それで特に洗礼を受けた、復活の徹夜祭に洗礼を受けた新信者は、新受洗者は洗礼を受けたばかりの信者は、この1週間ずっと明後日まで白衣を、洗礼の時に受けた白い衣を着てミサに与っていました。今日は洗礼を受けたばかりの真っ白な姿で、この殉教のマリア様の元に馳せ寄るのです。

これは何かというと、これはマリア様の兵士として、殉教者の覚悟を持って、イエズス・キリスト様の十字架の御旗の下に、マリア様が指揮官として、この白い服を着た真っ白な霊魂を持った、新しく洗礼を受けた信者たちが、マリア様の元に馳せ寄るということです。

「これから罪に戦う、罪を避ける生活をする。イエズス・キリストを着て、イエズス・キリストの聖心に適う生活をする為に、いかなる苦しみも受ける事も覚悟する。」特にその迫害の時代の記憶があった時代でしたので、その「イエズス・キリストの為に一生を捧げる覚悟はできている」という意味で、このマリア様の聖堂に集まりました。

これが第1点です。今日、洗礼を受けたばかりの人たちがマリア様の元に、マリア様の悲しみとイエズス様の十字架を記念して集まっている、という事がまず1つです。

第2点は、教会は更に、洗礼を受けたばかりの人と、洗礼を受けた全ての信者私たちに、「洗礼の恵みのものすごい価値を、もう一度理解するように」と招いています。

特に白い服を着ている洗礼を受けたばかりの人たちが、「今お前たちは自覚していないかもしれないけれども、洗礼の御恵みというのは、どれほど昔から預言されていた、計り知れない価値なのかを思い出せ。その事をよく考えろ」と招いています。

入祭誦で教会は最初から、モーゼによってエジプトの奴隷状態から解放されて、紅海を経てエジプトから脱出した、そしてエジプトの追いかける敵を海に沈めた天主の事が思い出されます。「実はこれと同じ事が私たちにも、洗礼を受けた全ての者に起きた事である」という事を思い出させる為です。

私たちも洗礼の水を通って、イエズス・キリストの御血という赤い血潮の海の中によって洗われて、悪魔と罪の奴隷から解放されました。その罪の負債から解放されました。罪を赦されて、清い者となりました。私たちの敵は、イエズス様の血潮によって全て滅ぼし尽くされました。私たちはこれからは新しい命に、清い命に、聖なる命に生きる者となっています。新しいモーゼであるキリストの下に従って、約束の地、天国まで導かれる者となりました。

もう1つ、更に教会は、入祭誦で導入をされた洗礼のそのイメージを、更に書簡では、「実はノエの箱舟もそうだ。ノエの箱舟の中に入った者たちはたった8人だったけれども、しかし大洪水によってこの地上が洗われた時に、彼らは助かった。それと同じように、私たちも洗礼の水によって洗われて、教会、十字架に付けられたイエズス・キリストの開かれた聖心の中から、ちょうど箱船の中に入るように、ここから出た水と血によって、」水は洗礼のシンボル、血は御聖体のシンボルですけれども、「そのイエズス様の開かれた聖心の中に入った、教会の中に入った。それは私たちにとっての本当のノエの箱舟であって、ノエの箱舟という前兆が実現した事である」と教えています。

福音では、この洗礼についてはっきりと言っています。イエズス様は、「全ての力は、天と地の全ての力は、私に与えられている」と。

この地上でこのような事を言う事ができる人は誰もいません。アメリカの大統領がどれほど力があっても、中国の指導者がどれほど力があっても、そんな事を言う事はできません。イエズス・キリストだけが、天と地の全ての権能が与えられているからです。

この天の全ての天使の大群も、この地上の全ての出来事も、全てイエズス様の御手の中に入っている、という事です。御望みの通りにそれを計らう事が、調整する事が動かす事ができる、という事です。イエズス・キリストの御望みの通りに全ては動く。たとえイエズス・キリストの敵が何をしようとも、逆らおうとも、全てはその掌の上にある、という意味です。

考えてもみて下さい。全能の主権がイエズス様に与えられている。この復活した真の天主、私たちを愛するこの天主が、今生きて、弟子たちを通して私たちに言います「全世界に行って、全ての民族に行って、聖父と聖子と聖霊との御名によりて、洗礼を授けよ。そして私が教えた事を全て守るように教えよ。」どれほど力強い言葉でしょうか。

このイエズス・キリストは最後にこう約束します、「私は世の終わりまで、あなたたちと共にいる。何も恐れる事はない。」

例えこのどこかの王国が起こって滅び、国が栄えて滅び、という事があったとしても、地上に色々な民族が起こって滅んでいきました。文明が起こって滅んでいきました。イエズス・キリストだけは滅ぶ事がありません。「世の終わりまで、お前たちと共にいる。」

これは、「御聖体をもって霊的に、そして超自然の聖寵をもって居る」という事ですけれど、全て、三位一体の名前によって、聖父と聖子と聖霊との御名によって、私たちが洗礼を受けた事による御恵みです。

そしてこの使徒信経の後には、奉献の時には、この主からの命令があります、「この日こそは、このエジプトから脱出したこの日は、私たちにとって特別の日である。お祭りの日である。永久に祝わなければならない。」

実は、私たちが洗礼を受けたその日というのは、特別な日であって、永久に祝わなければならない御恵みの日です。イエズス・キリストの養子となった、天主の養子となった、 イエズス・キリストの兄弟となった、イエズス・キリストの命を受けて、イエズス・キリストの御体を受ける事ができるようになった、その栄光の日です。

ですから御聖体拝領の時には、このイエズス様の御言葉が私たちの耳に響くように、イエズス様の仰った言葉を私たちがもう一度歌います。

第3の点は、これはこの洗礼によって、私たちは三位一体の名によって、イエズス・キリストの兄弟となり、そしてイエズス・キリストの御体を、復活したイエズス・キリストを私たちが受ける事ができるになった、という特別の御恵みをも考えさせます。ですから今日聖体拝領の時に、「この洗礼の御恵みを感謝するように」と教会は招いています。

では今日、教会の導きに従って、私たちもイエズス様の聖心を、至聖なる聖心の私たちに対する愛を黙想致しましょう。どれほど私たちの事を愛しておられるか。そして私たちを特別に選んで、ノエの箱船の中にはたった8人でしたけれども、世界中の中から特別に選んで私たちに、天の遺産の相続権を、自分の聖心の中に入る、教会という真の箱船の中に入る特権を下さいました。これによって私たちが救われる事ができるように、イエズス・キリストの命を受ける事ができるように、そしてイエズス・キリスト、天主を私たちが拝領する事ができるように。言葉では、感謝とその御恵みの大きさを言い表わす事ができないほどのものです。

どうぞこの御聖体拝領を、イエズス様の聖心を愛するが為に、イエズス・キリストのその燃える愛を理解する事ができるように、お祈り致しましょう、マリア様にお祈り致しましょう。

「どうぞマリア様、洗礼の御恵みを私に理解させて下さい。洗礼を受けたという事がどれほどの御恵みだったいう事が、その計り知れない御恵みを理解させて下さい。イエズス・キリストの持てる全能のその巨大さという事を理解させて下さい。その全能全権を持ったイエズス様を私が拝領する事ができる、というその御恵みの巨大さを理解させて下さい。復活したイエズス様が、生ける天主が私の元に来る、という事の愛の深さを理解させて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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