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私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

2016年聖母小黙想会 霊的講話【7】 8月12日 シュテーリン神父様「道であり、仲介者であるマリア様」

2018年12月31日 | お説教・霊的講話
2016年8月12日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【7】
同時通訳:小野田圭志神父


私たちの天主への立ち戻りについて、また一緒に黙想しましょう。そしてまたそれは、「まことの信心」を発見する事によって立ち戻る事にします。

出発点は、私たち自身です。「私たちの在り方、私たちが今どのようにあるか」いう事と、そして「具体的に今、現在どのような状況に置かれているか」、つまり「原罪を持って生まれている」というその事を考慮します。

そして私たちの出発点の認識から、最初から間違っているという、正確な出発点をうまく認識していなかった、という事を話しました。ちょうどちょっとおかしな人のようです。自分たちが何かよく分かっていない人のようです。私たちは、私たちが何かエリザベト女王であるとか、あるいは自分はナポレオン皇帝であるとか、あるいは聖ピオ十世教皇様であるかのように誤解しているのですけれども、実はこの貧しい小野田であったり、あるいはマリアさんだったり、インマクラータさんだったりします。

全く深い私たちの現実、一体、「私たちが一体誰であるか」という事を正しく認識しなければなりません。もちろんそれを正しく認識しないならば、出発点から、幻覚の内に幻想の内にいる事になります。

ところが、現代では誰もが彼もが、この「自分が誰であるか」という事を誤解しています。良いカトリック信者であったとしても、それについて誤解しています。幻覚の幻想の内に住んでいます。

まず二重の考察をしなければなりません。「私たちの存在がどのようなものあるか」という事、そして「私たちが今現在、本当に具体的に、今ここでどのような状態に住んで生活しているか」という事です。

全く深い私たちの在り方というのは、「天主様に全て100%依存している被造物である」という事です。そして天主に全く従順で依存しているにもかかわらず、罪を犯す事によって悪魔の下にあったにもかかわらず、イエズス様がそれを贖って下さって、「私たちはイエズス様に全く属するものとなった」という事です。

具体的に、今ここで私たちの置かれている状況というのは、歴史的な結果、原罪を負って生まれてきた、「原罪の傷を負って生まれて来た」という事です。

この2つの事を考察すると、私たちは何か、手ぶらで天主の御稜威の前に出る事ができない、その資格の無い者である、という事が分かります。被造物としては、天主と比べれば、全く大海の一滴の水よりも小さいようなものです。全宇宙、全世界と比べれば、塵よりももっと小さいかけらにしか過ぎません。この小さな粒のようなゴミが、宇宙に匹敵するような天主様に向かって、それに立ち向かって、「ハロー、天主様」と言う事ができるでしょうか。

天主様について現代人はどのように取り扱っているかというと、ちょっと自分よりも、ちょっと上にあるかないかのようにして考えています。それを象徴するかのように、天主の前では跪こうとさえしません。天主の全能の御稜威の前に、跪いて頭をこう下げようともしません。もうヒッピーの友達であるかのように、同僚であるかのように、スーパースターであるかのように取り扱っています。

私たちはしかも、小さな小さな小さなゴミ粒のみならず、きれいな粒でさえもない、汚い、汚らしい粒で、臭い、汚いものです。もしも天主様がそのような私たちをして、その近くに近寄らせようとするならば、その全能の御稜威と、全く無に等しい私たちの間に、こう繋ぐような橋が必要です。その在りて在る天主様と、無きて無き私たち、無に等しい私たちを繋ぐ橋を造る、ラテン語では「橋を造る」というのは、“pontem”「橋を」、「作る」“facit”と言います。この「橋を作る人」の事を“pontifex”と言います。“pontifex”というのは、実は「司祭、大司祭」を意味して、天と地を繋ぐ大司祭イエズス・キリストの事を意味します。このイエズス・キリストが必要です。

これについて、83番から89番までグリニョン・ド・モンフォールは説明します。これによって、なぜ聖グリニョン・ド・モンフォールは私たちに、「この仲介者が必要であるか、真ん中に立つ者が必要であるか」という事を説明します。天主は光であるから、この光の前にいかなる闇もありえない。この暗闇である私たちは、光である天主に近寄れない。ですから、光御自身である天主が、私たちに仲介者を下さるのです。仲介者、中継者というのは、この両極端に、両端の間に立つものの事です。

私たちのこの生活の中にも、このような事がよくあります。
例を挙げてみます。このお百姓さんが、「王様に近付きたい」という時には、例えば小野田神父が、「教皇様に会いたい」という時に、フランシスコ教皇様はきっと、おお、来いと言うかもしれませんけれども、普通の場合にはなかなか難しい、もう少し昔の教皇様の事を考えます。小野田神父がバチカンに行って、「教皇様に会いたい」と言ったとします。衛兵のガードはこれを見て、「出て行きなさい。」でもこの時にですね、「あぁ、でも私は教皇様のお友達を知っています」と言います。「教皇様の個人秘書を知っています。」そこでその衛兵が、その教皇様の秘書に電話をかけて、「ここに小野田という者がいますけれども、入れて良いのでしょうか?」と言います。このようにお友達が、仲介のお友達が、両方共を知っている友人がいれば、結び付ける事ができます。

今まで天主様の事を蔑ろにしてきたような私たちのこの怠け者が、あるいはもう無関心であった者が、いきなりこの「天主に会いたい」と言ったり、天主に「何かを」と言うのは、全く身分を知らない事だ、これは思い上がりだ、ですから「誰かによって紹介されなければならない」と言います。

84番を見ると、「もっと別の点がある」と言います。イエズス様だけが、天主聖父の前で、その心に適う者です。

私たちが罪を犯すとすると、何が起こったのでしょうか?私たちは罪を犯す前には、天のものすごい宮殿を約束されました。しかし罪を犯す事によって、罪を犯す毎に、この美しい宮殿を汚く破壊し、破壊し続けているのです。その美しい宮殿を私たちに下さった、それにもかかわらず、その宮殿を台無しにしておきながら、そのまま「こんにちは」と会うわけにはいかないのです。

そのように宮殿が綺麗になってから初めて、私たちはようやく会う事ができます。でも自分自身では綺麗にする事はできません。綺麗な花瓶があるとします。何百年も前の、もう立派な、有名な画家によってこう描かれた、綺麗な、価値が値がつけられないような花瓶があるとします。その貴重な花瓶を、「あっ!」と落としてしまって、粉々に砕いてしまうのは非常に簡単です。それでそれの持ち主であるそれを作った芸術家はこれを見て、「あ、私の宝がもう粉々になってしまっている」としたら、「これを集めて、また接着剤で付けて下さい。」それは不可能な話です。私たちにはそれを元通りにするやり方もできないし、その元通りにその絵を描く事もできません。宮殿を造った方だけが、宮殿を元通りに直す事ができます。ですから、普通の聖人や天使たちでは、宮殿を元に戻す事はできません。天主が造った神殿を宮殿を、天使たちが、どのような高い天使であっても、それを元に直す事ができません。

そこで天主様は、天主の聖子が私たちの内の一人となって、それを直す事ができるように、仲介者を与えました。

別の考察をしますけれども、それは私たちが罪を犯すと、罪の鎖に縛られてしまいます。この重い鎖から誰も解放する事ができません。悪魔より強い人だけが、この鎖を壊す事ができます。もしもその悪魔よりも強い仲介者がいなければ、中継者がいなければ、私たちは皆天国には行けずに、地獄に落ちてしまわなければなりません。

グリニョン・ド・モンフォールは話を続けます。もっと、もっと私たちには、仲介者が必要ではないでしょうか?つまり、この仲介者まで私たちを運んで下さるような仲介者が必要ではないでしょうか?85番を見て下さい。助けなしにイエズス様に直接一致するほど、私たちは清らかでしょうか?

イエズス様はもちろん、無限に憐れみ深い方で、私たちの内の一人ですから、一致する事はできます。でも同時にイエズス様は、天主でもあります。聖なる、聖なる方です。天と地を裁く方です。イエズス様に、この手ぶらでこう近付くには、恐れ多い方ではないでしょうか?

「イエズス様」という私たちを愛するような方に対して、私たちは今までどのような態度を取ってきたのでしょうか?それを考えると、本当に穴があったら入りたい、と思うではないでしょうか。イエズス様は全て私たちに、私たちの持っているものを与え、御自分の御血を全て私たちに与えて下さいました。世の終わりまで、私たちの為に小さなホスチアの中に留まり、小さな御聖櫃の中に留まり、しかもそしてこの御聖櫃は、御聖体は、忘れ去られて、そして軽蔑されています。

そのようなイエズス様に、私はほとんどいつも冷たい態度を、あるいは無関心を取ってきました。「イエズス様、私の家に来て下さい」と言いながらも、いらしたら、全く無視しています。イエズス様と為したほんのちょっとした会話というのも、本当に表面的で、ほとんど価値が無く、そしてそれに相応しくないものが全く多かったのです。冷たい態度、あるいは無関心だけではありません。時にしては、イエズス様に対して、この侮辱、屈辱を与えてきたのです。

もしも友人がいて、その友人に対して私たちが傷付けてしまった場合、私は謝ります。もちろんこの友人は私は許すでしょう。でもこの友人の心には傷があって、私の悪い態度の事に傷を受けて苦しみます。それで、そのような許して下さった友人に対して、また侮辱して、また屈辱を与えて、何度も何度もその同じ事をすれば、「あぁ、本当にごめん。もう今度は絶対そんな事しないから。本当にもう悪かった。約束する。もうこれから今までの僕じゃない。もう絶対そういう事はありえない。」ところがその数時間後、あれは数日の後には、全く同じ事をこの友人に、何度も何度も繰り返す。

私が皆さんに約束をして、約束をして、その約束をいつも破ってばかりいれば、もう私の約束は、皆さんそのまま真面目にとってはくれません。もう皆さん私の事を信じてくれなくなります。

いつも私たちがした荘厳な約束は、何でもないかのように破られて、何度も何度もそういう事をイエズス様にしてきたのを見たイエズス様は、このような私たちを見て、どのように思うでしょうか。

私たちは一体、何をしたら良いでしょうか?もうどうしようもないこの状況において、どうしたら良いでしょうか?私は何度も何度も同じ立場に、同じ事を繰り返しています。かといって、「もう今度は、今度こそ」と、もうこれ以上イエズス様に近付く事はできないと感じています。でももしもイエズス様に近付かないと、私はもう救いがありません、地獄に落ちるしかありません。

ですから私たちには、このイエズス様に近付く為の中継者が、仲介者が必要です。イエズス様は、誰に私たちが近寄ったら良いか、答えを与えて下さいました、「汝の母を見よ。」十字架の上で、あなたと私の為にそう仰って下さいました。イエズス様に近付く為の仲介者を、イエズス様御自身が下さいました。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、聖ベルナルドや聖ボナベントゥーラを引用して、「誰も、マリア様を通さなければ、イエズス様に行く事ができない。そしてイエズス様を通さなければ、聖父に行く事はできない」という真理を教えています。

皆さんよく知っているように、母親の心はとても特別にできています。母親の心は、憐れみと愛に満ちて作られています。父親の頭には、いつも秩序と正義があります。でも母は違っています。母親は子供に対して、子供が生きている間は必ず憐れみを表します。たとえ子供がもう忠実ではなくても、子供が邪悪になってしまって、子供が本当に悪い行動を取っているとしても、母は子供を愛します。たとえ子供がどのように悪い犯罪を犯したとしても、その母親に対してもう悪さをして、もう資格がない、もう態度があまりにも悪いとしても、その子供がお母さんを必要として、ちょっとお母さんを呼べば、すぐに母親はやって来ます。ですからイエズス様はマリア様を、私たちがイエズス様へと行く仲介者として選びました。87から89番までには、大切な真理が述べられています。

では、マリア様をどれほど私たちが仲介者として必要としているでしょうか?

第1の理由は、「私たちが弱い」という事からです。私たちが持っている原罪の為に、私たちは弱く、脆い、という事です。「私たちはこの宝を、土の器の中に入れているようなものだ」と。このもしも私たちの力だけでこれを守ろうとするならば、すぐに壊してしまうでしょう。そこでマリア様が、この器が決して壊れないように守って下さるのです。ちょうど貴重なカリスや、貴重な液体が入っている器を守るように。

第2の理由は、私たちが弱いのみならず、「悪魔が攻撃している」という事です。悪魔は吠え猛るライオンのように、私たちを食い尽くそうと歩き回っています。悪魔は怠け者ではありません。私たちよりも知性に長けています。ずる賢くて、そして私たちの思っていなかった所に攻撃を仕掛ける事ができます。良い機会を狙っています。何年も何年もかかって勝ち取った聖寵の御恵みを、たった一瞬の間に奪ってしまおうとしています。もしもたった一人でイエズス様に会いに行こうと私たちが道を歩くとしたら、悪魔は私たちをあっという間に奪ってしまう、攻撃してしまう事でしょう。多くの、レバノンのような大杉の大木のような聖人であっても、立派な聖人であっても、一瞬の内に悪魔によって倒されて、罪に落ちてしまったりした事は何度もありました。

何故このような大きな立派な方々が倒れてしまったのでしょうか?天主様の御恵みが足りなかったというわけでありません。なぜならば、天主様は皆に御恵みを与えるからです。

なぜかというと、彼らは間違った信心があって、自信過剰の傲慢で過信してしまったからです。彼らは自分の力を過信したのです。「私にはマリアは必要ない。私は自分でやっていける、イエズス様に近付く事ができる。」もしもイエズス様がそのような態度を見ると、「じゃあ、やるならやってごらん。」

私たちはこの終課の時にいつも、「吠え猛るライオンのように、私たちを食い尽くそうとしているものに注意しろ」といつも言いますけれども、本当にこのライオンのような悪魔に気を付けなければなりません。新しいミサにおいては、奉献の祈りの時に、「大地の恵み、労働の実り、命の糧になる」と言っています。ところで、自分の労働の実りだけを、どうして天主にこう捧げる事ができるでしょうか?これは傲慢です。悪魔の頭を踏み砕く事ができる力を頂いているのは、私でありません、単なる人間の力ではありません。でもマリア様は、その力を得て、そのマリア様が私たちの仲介者となって、保護者となって下さいました。

第3の理由は、なぜマリア様が必要かというと、「この世が腐敗している」という事からです。聖グリニョン・ド・モンフォールは、今の現代の時代の為に書いています。
“この世が道義的に大変腐敗しているので、教えを守り通す事が困難になってきました。そのような激流に押し流されずに、嵐の吹きすさぶ大海にも難破せず、また盗難にも合わず、風俗紊乱にもめげず、毅然として信仰を守り通す事は奇跡です。”

この海賊が、私たちを「襲ってしまおう」と思って待っています。現代では、私たちをこの信仰から離れさせて、道徳的に腐敗させようとする力があまりにも大きいので、私たちはますます仲介者が必要です。

マリア様がどれほど必要か、という事を、この絵を見て頂きたいと思います。

新しいミサの労働の実りについて、ちょっと話を続けます。天主様に私たちは一体何を差し上げるかというと、大体は腐ったりんごとか、腐った卵などです。例えば農家の方が、「王に何か贈り物をしたい。」例えば王が、「何を持ってきて下さったのですか?」と聞くと、「はい、腐ったりんごを、匂いのするりんごを持ってきました。」もしもイエズス様に何か贈り物をするとしたら、それと同じような事をするべきでしょうか?これは新しいミサのやっている事です。

でも私たちは、仲介者であるマリア様にお願いします。マリア様は私たちに与えられたので、私もマリア様に自分を与えます。「そのあなたの持っているりんごを私に下さい。」するとマリア様は、ご自分の籠を持っていて、そこに美しい贈り物がたくさん入っています。これはマリア様の美しい、善徳の聖徳の業であって、信仰の業、愛徳の業、忍耐の業、犠牲の業、祈りの業などがたくさん詰まっている籠です。そのような綺麗な果物や、綺麗な贈り物との間に、私の腐ったりんごをそっと置かれるのです。「お母様、そのようになさらないで下さい。この腐った物を入れると他の物も腐ってしまいます。」「普通はそれが起こります。でも私には起こりません。」

今まで腐ったようなりんごだったのですけれども、マリア様の美しい贈り物に触れると、小さなみすぼらしい見かけはそれのままですけれども、腐りが無くなります。この綺麗になったりんごを、私に戻そうとはしません。「子よ、私と一緒に来なさい。」そのご自分のたくさんの聖徳の実りに囲まれた中に、そっと私のその小さなりんごを入れて持って行きます。私を連れて、この籠を持ってイエズス様に近付きます。そしてマリア様は私に、「さぁ、これをお持ちなさい」と言います。「この籠を、私の息子に、イエズスに与えなさい。」

「イエズス様、私の王であるイエズス様、これが私たちの果実です。」イエズス様はもちろん知っています。この籠の中のほとんどがたくさんのマリア様の果物で、1つの昔ちょっと腐ってたようなりんごだけが、私の物だと知っているのですけれども、しかし、それを喜んで受け入れます。

もしもマリア様がいなければ、私たちは腐ったままのりんごをイエズス様に与える事になって、イエズス様はどのような反応をするか、皆さんご存知です。

そこで、この日本は海に囲まれているので、海と船の話をします。皆さんは大きな船のようです。でもこの船は間違った方向に進んでいます。地獄へと向かっている大きな船。イエズス様はこの地獄へと落ち込もうとしている大きな船を、助けようとしてやって来ました。「私は道・真理・命である。そしてこの船は、こうやって弧を描いて上に上がれば、救う事ができる。私の後に付いて来なさい。そうすれば私はあなたの為に命を与える。そうすれば地獄に落ちなくても済む。秘跡に与り、ミサに与り、御恵みを受けなさい。そうすればできる。でもこの道が正しければ、それができる。私のこの御恵みをして、船の方向を変える事ができる。」「イエズス様、ありがとうございます。」

船長がこうやって、この海流や風は皆、下の方に下の方に流そうとしています。

「毎日お祈りをしなければならない、ロザリオ一連…!二連…!天にまします…うぅ、大斎をして、苦行をして…」

すると、船の方向が少しずつ変わって、真っ直ぐ地獄に落ちるのではなくなります。

「徳の実践をしよう。1つから2つ…!2つから3つ…!」

すると、何か大きな風が吹いて、そこで風が、大きな風に流されて、また真っ直ぐ下に落ちて、もう一度最初からやり直す。

皆さんこの努力をしなければなりません。このまま座ったまま、ただ見ているだけではだめです。でもたった一人では、とても成功しません。

ところで、突然招きがありました。優しい天のお母様の声がやって来ます、「我が子よ、もしも私に操縦する事を許してくれるなら、私がやってあげましょう、一緒にやりましょう。」「お母様、お願いします。」するとこの操縦席に立って、マリア様は動かします。

すると、何の問題もなく、船はクル〜ッと方向を変えて、正しい上の方に戻って行きます。

1つだけ条件があります。「マリア様、お母様から決して離れない」という事です。もしも逃げてしまうのならば、誰もその操縦する事ができなくなってしまうからです。一緒に、必ず一緒にしなければなりません。

最後のもう1つの例えは、山が好きな人がいます。富士山に登る登山家の人がいます。なぜかというと、この富士山の頂上には大きな門があって、宮殿があって、そこから天国に行く道が続いているからです。イエズス様は、「さぁ、ここに天国の宮殿がある。これはお前のものだ。お前の為に道を開いた。これが道で、これが地図だ。この宮殿はお前のものだ。さぁ行け。そしてお前が例え行く力があったとしても、それに行く為に必要な食料を与えよう。そして薬も与えよう」と。すると感謝に満ちて、「イエズス様、本当にありがとうございます。」リュックサックを背負って、その全てを入れて、その道を進めます。登山が始まります。

1km、2km、進めていきます。最初はこう高らかに歌を歌っているのですけれども、道が進むにつれて、疲れが出てきたのでしょうか。歌も小さくなって、荷物も重くなって、歩きも鈍くなってきます。「もうだめだ…、」もう涙が出てきて、「もうこれ以上歩く事はできない。道は開いているし、荷物もあるし、宮殿は待っている。でももうだめだ、歩けない…。」

すると、突然お母様がやって来て、仲介者マリア様です。「子よ、いらっしゃい。一緒に行きましょう。」まずマリア様がなさるのは、この重いリュックサックを背負って下さいます。そして私の小さい手を取ってくれます。そしてシュッ、シュッ、シュッと身を進めます。子供はもう疲れて、もう眠くなるし、「大変で、もう歩きたくない」と思うと、するとマリア様は私を抱いて登ってくれます。子供が、「お腹が減って、もう喉が渇いた」と言えば、食べ物を、飲み物を与えてくれます。

その山の登山口には、中にはこう道がない所もあって、危険な所もあります。お母様は私を背負ってジャンプして、それを歩いて下さいます。すると目の前に、大きな熊がいます。するとマリア様は、この熊のぬいぐるみを取ってブンッと、熊のぬいぐるみをポイッと捨ててしまいます。

1つだけ条件があります。それは、「マリア様の手をいつも握っている」という事です。もしもマリア様からちょっとでも離れてしまえば、崖に落ちてしまいます。

もしもそうするならば、何が起こるでしょうか。もしも残念ながら、お母様の手を離してしまって、本当に崖に落ちてしまったら、私たちは、「あぁ、お母さん、本当にバカだった、私がバカだった。手を離してしまった!」と言えば、すぐにマリア様がやって来て、どんな所に落ちていたとしても探し出してやって来て下さいます。たとえ私がもう粉々に砕かれてしまっていたとしても、もう半死半生に傷付いていたとしても、そしてもう半死半生の私を治して下さって、もう粉々に砕かれたものをひとつにまとめて下さいます。必要ならば新しい服を下さるし、この汚れた手は綺麗にして下さいますし、もしも必要ならば新しいカバンもくれます。そしてその中には、新しい食料や食べ物もいっぱい詰めて下さいます。

「子供よ、さぁ道を続けましょう。子よ、だから私の傍から離れるのはあまり良くないですよ。またこんな傷を付けてしまうから。」そこで私はマリア様に言います、「お母様、たとえ私がこう離れようとしても、絶対離さないで、私の手を握っていて下さい。」

これを仲介者として、マリア様がずっとなさって下さるのです。マリア様はこれら皆を、私がイエズス様の為にするように、という事を望んでいます。「私はちょっとした仲介者で、イエズス様こそが大仲介者ですから、イエズス様の方に行きなさい。でも私から決して離れない、という事を学んで下さい。そうすればイエズス様から離れない、という事を学ぶでしょう。」

私たちの出発点は、私たちの悲惨な状況ですけれども、私たちが天国に行く道というのは、マリア様の汚れなき御心です。マリア様はファチマでそう言いました、「私の汚れなき御心は、あなたたちを天国に導く道となるでしょう。」

この30分を使って、今申し上げた番号83から89番を黙想なさって下さい。次の講話は16時30分からですけれども、その時にはたくさん読まなければならない箇所もあります。この次の講話をよく理解する為にも、今のこのポイントをよく理解しなければなりません。

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私たちの主イエズス・キリストの御降誕の喜びを申し上げます。聖ピオ十世会日本のクリスマスの典礼の報告

2018年12月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

少し遅れてしまいましたが、私たちの主イエズス・キリストの御降誕の喜びを申し上げます。

12月24日と25日は、大阪では、主の御降誕の前日の御ミサ、クリスマスの朝課、主の御降誕の真夜中の御ミサと日中の御ミサを行いました。





東京でも今年は12月24日と25日に、主の御降誕の前日の御ミサ、主の御降誕の日中の御ミサを執行することが出来ました!日本では本当に多くのミサの御恵みを頂く事ができました!天主に感謝します!

大阪では夜中と日中のそれぞれのミサに来られた方々は(延べではなく)35名くらいになります。東京では65名くらいでしたので、ちょうど100名になると思われます。多くの方がこのクリスマスの御ミサに与る事をができた御恵みを感謝致します!

東京では、ミサ後に毎年行っている、恒例の幼子イエズスへの接吻の儀式のとき、「静けき真夜中」 Silent Night を日本語はもちろん、英語、ビサヤ語(フィリピンの地方の言語の一つ)、ベトナム語、スペイン語、フランス語、中国語で歌いました。

主の御降誕の御挨拶と、ミサの報告をすぐに申し上げたかったのですが、日本でのミッションの直後、別のところに聖伝のミサを捧げに行かなければなりませんでした。そこでは飛行機にチェックインした荷物が来なかったり(- -;)、自動車のタイヤがパンクしたり(x x;)、カバンが間違えられたり(@ @;)、いろいろなハプニングがありました。これは大きなお恵みが準備されている印だと確信しています(^o^)v。

カトリック教会は、第2バチカン公会議後の悪影響で大きく苦しんでいます。待降節中に私たちが歌った聖歌 Rorate Caeli は、カトリック教会を主が何とか聖伝に立ち戻してくださるように!とイエズス・キリストにさけぶ霊魂たちの祈りと、旧約の義人たちの祈りとが重なって聞こえました。

「怒り給うな、主よ、これ以上邪悪を記憶し給うなかれ。見よ、聖なる方の都市は荒れ果てた、シオンは荒れ果てた、エルサレムはもの寂しくなった、御身の聖化と御身の光栄の家、私たちの祖先が御身を讃美したその家は!

私たちは罪を犯した、そして、私たちは不浄なものであるかのようになった、また、至る所の落ち葉のように私たちは落ちた、また、私たちの邪悪らは風のように私たちを取り去った、御身は御顔を私たちから隠し、御身は私たちの邪悪の手において私たちを踏みにじり給うた!

見給え、主よ、御民の苦悩を、そして御身が遣わし給う者を遣わし給え、地の支配者たる子羊を、砂漠の岩からシオンの娘の山まで遣わし給え、そはその方が私たちの隷属のくびきを取り除くためなり!

慰められよ、慰められよ、我が民よ、おまえの救いはすぐに来るだろう、何故、おまえは悩みに憔悴するのか、苦しみがおまえをまた新たされるのか?我は、おまえを助ける。恐れるな、我は実におまえの主なる天主、イスラエルの聖なる者、おまえの贖い主である!」

我は、おまえを助ける。恐れるな、我は実におまえの主なる天主である!

 何と嬉しい御言葉でしょうか!

今年も残すところあと数時間となりました。一年が経つのは早いものです。2018年は、多くの御恵みに溢れた一年でした。皆様から司祭叙階25周年を祝ってもらったことを感謝しております。

今年は、1月の初土の聖母行列から始まり、秋田巡礼、マーチフォーライフ、イエズスの聖心小黙想会、MIの入会式、デ・ガラレタ司教様の来日と堅振の秘跡、クリスマスのいろいろな行事がありました。日本や世界の平和の為に、日本で数多くの御聖体降福式が捧げられ、聖母被昇天の大祝日には、マリア様の汚れ無き御心への日本の奉献の更新等が行われました。

聖ピオ十世会にとっては、あたらしい総長の選出と、新しいアジア管区長の任命がありました。マリア様の御恵みにより、そして御聖体の秘跡の内に真に在し給うイエズス様の御憐れみにより、無事に日本は一年を終える事ができました。

新たな2019年が、マリア様の汚れ無き御心を通してイエズス様の聖心の中にますます深く入ることができる、御恵み豊かな素晴らしい一年となりますように、こころからお祈り申し上げます!

この拙ブログ Credidimus Caritati を愛読してくださる方々、頻繁に訪問して目を通してくださる方々に心からお礼を申し上げます。天主様の祝福が豊かにありますように!

来2019年も新年の初土曜日(1月5日)に大阪で聖母行列を行います。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッション、クリスマスの御ミサをありがとうございました。
普段に勝るハードスケジュールで、さぞお疲れの事と思います。
大きな実りとお恵みがありますようお祈りしております。

簡単ですが、ミサの報告をお送り致します。
12月21日(金) 使徒聖トマのミサには12名、
12月22日(土) 12月の四季の土曜日のミサには9名、
12月24日(月) クリスマス前日のミサには22名、
12月25日 深夜のクリスマスミサには16名、
12月25日 クリスマスの日中のミサには26名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

21日の御ミサからご降誕の喜びを隠す事ができない空気が聖堂にも信徒の方々にも漂っていました。
お説教では金曜日から、なぜ、イエズス様がご降誕されるのか、どなたがご降誕されるのか、何故、ご降誕されるのか、そのご降誕によってどうなったのかをクリスマスまで順を追って黙想させて頂きました。そのお陰で、クリスマスミサで喜びはクライマックスを迎え、今までクリスマスの中で、最も天主様の愛を感じ、ご降誕の神秘、マリア様の偉大さを深く黙想することが出来た特別なクリスマスになりました。

また、今年も、一昨年、昨年に続いてクリスマスの朝課を神父様とすることが出来た事も大きな喜びでした。教会が伝える美しいこの朝課には、クリスマスを黙想するに十分な宝物が詰まっっているように思います。近い将来、日本中でそして世界中でこの美しい祈りが唱えられるように期待します。

神父様を筆頭に、遠方から飛行機で来られた方々、何時間も車を運転して来られたご家族、泊まり込みでクリスマスを過ごされた方々などなどの犠牲という幼きイエズス様への沢山の愛が満ちた良いクリスマスでした。
イエズス様を知らない多くの人々が一日も早く、この喜びを共に出来ますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【お便り】【大阪】
トマス小野田圭志神父様

主イエズス・キリストの御降誕おめでとうございます!

昨日は大変お世話になりました。
御ミサに与れて、とても嬉しかったです。
世界中で、特に日本では、ただただお祭り騒ぎのように
クリスマスが祝われていますが、
本当にクリスマスをお祝いできた感じがしました。

聖歌隊の皆さん、素晴らしかったです。
皆様にも親切に対応いただき感謝しております。
どうぞよろしくお伝えください。

神父様の講話集もありがとうございました。
この年末年始に拝読致します。
カレンダーは台所にかける事にしました。
火を使っている時、コンロから離れる訳にもいかず
何を考えるでもなく過ごしていましたが、
そんな時にカレンダーのメッセージをよく読もうと思います。

良い降誕節をお過ごしください。


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

12月23日(主日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 29人(内、子供8人)
女: 33人(内、子供5人)
計: 62人(内、子供13人)

【報告】
Dear Fr Onoda:

12月24日(月)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供2人)
女: 19人(内、子供3人)
計: 38人(内、子供5人)

【報告】
Dear Fr Onoda:

12月25日の東京での午後6時のミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 32人(内、子供8人)
女: 32人(内、子供5人)
計: 64人(内、子供13人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月23日、待降節第4主日の御ミサをありがとうございました。
『来年はアジア管区において日本に司祭が常駐する予定が計画されています』。
この日私たちは神父様から直接、この言葉を聞くことが出来ました。胸がジーンとなりました。

『そしてそれは、日本で毎日聖伝のミサが捧げられるようになるということです』という言葉にその意味の深さを思いました。

今年の一年のことを少し振り返ってみますと、小野田神父様が東京にいらっしゃるときは天候にも恵まれて穏やかな主日が多かったように思います。いつも天主さまに感謝申し上げております。毎日聖伝のミサが捧げられるようになるということには深い意味があるのだと思います。

日本に修道院が設立されれば、行き帰りの日数やその労力なども、日本における宣教のために全部用いることができますでしょうし、いつでも何かあれば司祭の助けを求めることができるようになるのだと思います。

神父様は、『聖ヨゼフ様が、マリア様と生まれてくるイエズス様のためにちょうどよい場所を見つけてくださったように、修道院で毎日ごミサの中でイエズス様のご誕生を迎えるためにちょうどよい処を私たちのためにも用意してくださるように、聖ヨゼフ様にお祈りしましょう』とお話くださいました。

続けていっそうみんなで力を合わせて祈っていきたいと思います。

この日は、ご降誕祭を迎える準備に、まことの天主がまことの人となったということを黙想しました。天主さまから贈られたプレゼントは、天主でもあり人でもある小さな人間の赤ちゃんであること、そのような赤ちゃんが人間に与えてくださろうとした大きな大きなものが何であるかを黙想致しました。

神父様がお話くださった「天主が人となられたのは、人間の苦しみをご自分の喜びと交換してくださるためであった。」ということを、このカトリック信仰をいただいていない人達は何も知らないのだと思いました。

まだカトリックの恵みに触れる前の方々は、自分を正直に見つめて、おのれのみじめさからたえまなく生まれくる弱さと悲しみと失敗と苦しみをお捧げすることに、いったいどんな意味があるのかと思うことでしょう。(自分の弱さ・苦しみやみじめさを見るのは不快なことだから目をつむり、自分が、人間のほうが天主さまに何かしてあげる存在だとさえ誤って思い違いをする人もいるほどですから、人間とはどれほど傲り高ぶる生き物でしょうか。)

私たちがよいものとなれるとしたら、人となられた天主であるイエズス様がすべての苦しみを背負ってくださって私たちの惨めさを引き受けてくださったから。それができるように天主さまは人となってくださった、ということを教えていただきました。無限の力をお持ちの方なのに小さなか弱い幼子にお生まれになられて、イエズスさまは私たちの悲しみを苦しみをすべて担ってくださった、そのことを思うとあらためて驚いて感謝にたえません。

羊飼いのこどもたちは、天使によって導かれて、お生まれになられたばかりのイエズス様のもとに集まり、天の栄光がそこで輝いているのをみました。私たちも素直に天使の声に従ったから、この聖なる日本の殉教者巡回聖堂に集まって、ミサの中で輝く天の栄光と天使が歌う賛美の歌を聴くものたちであるかのようだと思いました。

******************

午後の公教要理では、真の天主が真の人間となったということを黙想しました。ミサから引き続いてずっと同じテーマで、黙想が続けられているかのようで、イエズス様が人間となってくださったことの意味を神父様のお話を伺いながら皆で考えました。

『罪を犯して原罪がある人間だけれど、その罪を赦すために天主は人となって生まれてこられた、ああ、幸せな罪よ、そのために救い主を受けるほどの幸せを得た。』
『天主が人間となられたことによって、私たちは別な次元に変えられた』
(トマス・アクィナス)

待降節の意味を深く黙想できましたことを感謝いたします。ありがとうございました。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月24日のご降誕の前日のミサを、ありがとうございました。
この日は国民の祝日で、仕事がお休みの方も多かったようで、主日のようにたくさんの方々と一緒にご降誕祭の直前のごミサに与ることが出来ました。

主が来られることを主をお迎えすることを少しでもふさわしく霊魂を準備するようにと、この日の典礼は用意されているようでした。神父様は、詩篇の23を黙想することとマリア様のことを思うことについてお話くださいました。

もうすぐにも主の栄光があらわれるから、心を閉ざしている扉を開いて永遠の主が入ることのできるように、しなければならないこと。
そして、救い主のお生まれになる場所を捜しておられてちょうどよい場所を見つけらた聖ヨゼフ様とマリア様がその場所までずっとイエズス様とご胎内に宿されてお運びになられたことを黙想して、私たちも天国というベトレヘム(パンの家)にたどり着くその時までずっと(ご聖体拝領によって)イエズス様とご一緒にいることができますようにというお話を心に刻みました。(ずっとそのお話を思い返しながら過ごすことが出来ました。忘れないように致します。)、

平日のごミサを歌ミサで捧げることができるのは、東京ではあまりなかったように思います。グレゴリア聖歌を聴きながら歌いながら、ご降誕の前日のごミサに与れたのは、非常なお恵みでした。いつもと違うトーンで歌われるキリエやアニュス・デイのグレゴリア聖歌の響き、Veni Veni Emmanuel や、Ave Maria…virgo serena. の歌声と旋律が、とても素敵でした。とてもよいごミサに与れましたことを、感謝申し上げます。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ご降誕祭のごミサをお捧げ下さいましてありがとうございました。

神父様は前日の昼過ぎに東京を発ったばかりでしたのに、大阪での真夜中のミサとあかつきのミサのあとに、またすぐ東京においでくださりました。ゆっくりとする間もなかったのではないでしょうか。本当に大変だったと思います。ありがとうございました。

ご降誕祭のごミサはほんとうに素晴らしいごミサでした!喜びに満ちてずっとその余韻が残っています。(友達からもとても良かったです!とかとても素晴らしいごミサでしたね!などと次々連絡いただきました。)

お説教はまるで喜びの歌を聞いているかのようでした。まるでいまこの場所にいる人たちに注がれている喜びを味わいなさい!と、声高らかに歌われているかのように感じられて、その素晴らしいお説教を通して伝わってくる天上の喜びに包まれました。幸せと一体感とこの世の喜びとは全然違う喜びにつつまれてしまっているようでした。魂に響き渡りずっと消えない余韻が残されていたように思います。

天上の喜びとは、今日童貞聖母マリアからお生まれになられた私たちの救い主イエズス様は決して奪われることのない幸せを私たちにもたらしてくださった方であり、天主が私たちといつもともにいてくださるという喜びを知ることだと思いました。

ご聖体拝領の後、いつものミサの後の祈りを捧げた後に、恒例の幼子イエズス様への接吻の儀式がありました。イエズス様のお人形に愛をこめて接吻させていただきました。聖歌が歌われる中でしたが、ミサの参列者が多くて、楽譜に載っている歌詞が過ぎてもまだ人の列が続く中で、日本語のあと次から次へと各国の言葉で歌われていくのに驚き喜び聞いておりました。とてもよかったです。どうしてそんなにいろいろな国の歌詞まで皆で歌えるのだろうかと不思議でならなかったです。アメリカ南北大陸の各国からも、アジアの各国からも、ヨーロッパの各国からも、集まってきている私たちの教会の信徒の方々たちも、一緒に歌って嬉しかったに違いありません。さすが年季の入った聖ピオ十世会のグレゴリア聖歌隊だなあと思いました。最近来られるようになった新しい方々も聖歌隊に加わってくださっている様子で、楽しみに思います。

とても盛り上がった後はすぐに、クリスマスの小さいお祝い会が開かれる準備が始まって、皆様で持ち寄った食べ物や飲み物が広げられました。特に温かい食べ物をご自宅で調理してふるまってくださったご家族の方々は、どんなにか準備が大変だったことでしょう、みんな感謝していたことと思います。子ども達が、具だくさんのスープや手作りのケーキを運んでいる姿はとても可愛かったです。もっとも大人が気づかずにお手伝いしてなかっただけだったかもです。

夕方からのごミサでしたのですぐに帰られた方もいらっしゃいましたが、多くの方が残ってお話をしておられて、楽しいひとときを持つことが出来ました。赤ちゃんや小さいお子さんがいるご家族の皆様が、何家族もいらしたこと、そして中には初めて一家でクリスマスのごミサに与られているご家族もいましたこと、本当に素晴らしいと思いました。初めて見えた方がたや、久しぶりに友だちと一緒に来られた方もいて、うれしく思いました。
(2018年に東京の御ミサに一度でも来られた方の人数は、きっとゆうに100人は超えていると思います。この待降節第四主日とご降誕前日のミサとご降誕祭のミサまでの三日間、一度でもごミサに与られた方の人数も、延べにするとかなりの方々が、見えていたようです。仕事が遅くまである方、遠くにお住まいの方、ご家族のことでどうしても来られなくなった方、いろいろなご都合できっと本当は全部のごミサに与りたかったのに残念な思いをされた方も多かったことと思います。そのような皆様も来年こそはご降誕祭のごミサをご一緒にお祝いできますようにとお祈りいたします。)

小野田神父様、私たちのために大変なスケジュールでたくさんのごミサを日本で立ててくださいましたこと、心から感謝申し上げます。とても素晴らしいご降誕祭をありがとうございました。

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私たちは、ロザリオの祈祷会を設けて定期的に集まってお祈りしていますが、前回は、ちょっとした時間を利用して皆で、日本語版と英語版のパンフレットをつけて無原罪聖母の騎士会(M.I.)が配る不思議のメダイの袋詰めをしました。それを今回受付に置いて無料でお配りしたところ、たくさんのご家族の皆様が喜んでお持ち帰りくださいました。
これからも、ミサに来られる方がたがいつでもお持ち帰りくださって、さらにご自分の周りの方々にも、お配りしていただけるように、用意しておきたいと思います。マリア様の愛が一人でも多くの方に届けられますように。そして、聖伝の無原罪聖母の騎士会の会員が、日本でももっと増えますように願っています。マリア様の道具として働きたいと望む人たちが、ますます増えていきますように!
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2016年聖母小黙想会 霊的講話【6】 8月12日 シュテーリン神父様「私たち一体何ものなのか」

2018年12月30日 | お説教・霊的講話
2016年8月12日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【6】
同時通訳:小野田圭志神父


それでは、1つ1つ、今からの講話で黙想しましょう。私たちの信心の目標は目的は、「天主様との一致」です。

この私たちにもかかわらず、マリア様は今の難しい時代に私たちの元にやって来て、私たちを聖人にしようと招いておられます。この終末の時代において、マリア様は私たちに、本当に私たちがマリア様の子供であり、マリア様の騎士であり、マリア様の使徒であり、マリア様のどれいである、という特別の召し出しを私たちに下さっています。

3つの段階は出発点と考えられています。もしも誰かが旅に出る時には、3つの段階を経なければなりません。「出発」と、「到着点」と、そして「それまでの道」です。もしもその3つの点について間違ってしまうと、正確に辿り着く事はできません。

皆さんがこれからどこかに行こうとする時に、飛行機に乗ろうとして、飛行機の出発の点がどこか、何空港かを知らなければ、何時にその飛行機が出るか、という事を知らなければ、その飛行機に乗り遅れてしまって、他の空港に行って乗る事ができません。3つのこのステップに分かれているのは何でもそうです。食べる時も、食べ始めて、そして食べ終わって、その間はずっと食べています。しかしもしも食べ始める事を忘れてしまえば、何も食べる事はできません。食べ終わるのを忘れてしまうと、もっとひどい事になります。これは皆さんの一日もそうです。1日の始まりと、1日の終わりと、その中間があります。私の一日を始めるのを忘れてしまうと、何も起こりません。

では「出発点」、私たちの霊的な旅路の出発点は何かというと、「私たちは一体どこに立っているのか?私たちは何なのか?人間とは何なのか?人間の置かれている状態とは何か?」という事を考える事です。

「到着点」というのは、「イエズス様との一致」です。

そこに到着する為の「道」というのは、「マリア様」です。


私は一体誰でしょうか?出発点はどこにあるのでしょうか?これは、「私はどうあるべきか」という事と、「私は実は、実際のところどうあるか」という事を考える事にあります。

グリニョン・ド・モンフォールはこの最初の、「一体自分が何か」という事についてあまり考察を深めません。1番だけ、1つの番しかありません。68番です。私が一体何か、という事は、天主様との比較において、グリニョン・ド・モンフォールは説明します。イエズス様によって贖われた、超自然の観点から私たちを見ています。

聖イグナチオはその霊操の中で、「一体自分が何か」という事を説明しています。聖イグナチオはその霊操の最初のところで、全くその基礎的な真理として、「人間は天主によって創られていて、創造されて、天主に全く依存している」という事を確認させます。これはイエズス様が特別に教えてくれたというよりは、私たちの人間の本性がそうである、という、もう生まれつきの構造になっています。

この真理については、異教の哲学者も発見していました。アリストテレスは既に、「天主のみが、この第一の起源、第一の原因こそが、自立・自存する者である」と言っています。そして、「その他のものは、原因されたものたちは、他者によって在らしめられているものである」と言っています。

私たちは、「この私たちの持っているもの、私たちの在りて在るもの全ては、天主様によって在らしめられている、天主によって依存している」という事を認めなければなりません。皆さんのお持ちになっているもの、あるいは皆さんからの良いものは、実は皆さんが自分の力で獲得した、自分の力で頭で得たものではなくて、与えられたもの、あるいは在らしめられてるもの、天主から受けたものである、と言わなければなりません。

被造物として私たちは全てを天主様から受けました。天主様が私の起源であります。私は天主によって在らしめられているのみならず、私たちは天主へと向かわなければなりません。天主は私の起源でありますけれども、そして私たちの究極的に行かなければならない到達点でもあります。

私たちは、この地上のものが完璧に私たちを満足させ尽くす事ができない、と知っています。なぜかというと、私たちの霊魂は不死の性格を持っているので、限りのない、終わりのない喜び、限りのない幸せを求めているからです。しかしそのような私たちの究極に求めているものは、この地上にはあり得ません。なぜかというと、地上のものには全て制限があるからです。物質的なものも、始まったと思えば、もうすでに終わりが来てしまいます。喜び、私たちがその後を追い求めている喜びとか、快楽というものも、あっという間に終わってしまって、しばしばその後では、苦々しさや、悲しさを伴います。

私たちの霊魂がその為に創られている喜び、幸せ、満足というのは、この地上では得られません。私たちが究極的に求めている、待ち望んでいるものというのは、この私たちの外にあるものであって、この地上を超越するものであって、つまり天主しかありません。

今ここで私たちが持っているもの、私たちがこう今在るもの全ては、実は天主様から頂いたものです。始めのみならず、終わりのみならず、今ここにある、今の私がこうあるのも、天主によって在らしめられているのです。たとえ私がそう思わなくても、私がそれを否定したとしても、それが現実です。事実です。たとえ無神論者がその事を否定したとしても、実は否定しているその天主から、存在を受けて、私たちは在らしめられています。

私たちの自然本性から言えば、天主に全く属する奴隷と言わなければなりません。私たちは被造物として、創造主である天主に依存しています。

そして第68番には、被造物としてではない、別のやり方での依存を説明しています。私たちはイエズス様に、「創造主」たるイエズス様のみならず、「贖い主」であるイエズス様に、「救い主」であるイエズス様にも属しています。

人間には歴史があります。人間の最初の、アダムとエヴァの原罪から、今に至るまでの歴史があります。罪を犯すと、私たちは悪魔の奴隷となってしまいます。原罪を犯す事によって、悪魔がこの世界の支配者となってしまいました。しかし、無限の憐れみである天主様は、救い主を私たちに約束して下さいました。

救い主は私たちを、悪魔の手から買い戻してくれました。聖ペトロによると、贖いの値は、「御自分の御血潮」でした。イエズス様の犠牲と、いけにえと、そして御血によって、私たちはもう一度、贖われて買い戻されたのですけれども、その買い戻された事によって、私たちはイエズス様に属するものとなりました、イエズス様の奴隷となりました。洗礼を受けた時に、イエズス様の御血潮は私たちを浄め、そして罪を赦しました。

68番にはこうあります、“私たちは、洗礼を受ける前には、悪魔のものでした、悪魔の奴隷でした。洗礼は私たちを、イエズス・キリストの真の奴隷にしてくれたのです。”
奴隷として、しもべとして、イエズス様、主人の御旨を、意志を果たさなければなりません。私たちはキリストの戦利品ですから、イエズス様の御旨の為に働かなければなりません。

私たちは王たるキリストにどれほど依存しているか、という事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは例えを出します。4つの例えです。この4つの例えは、イエズス様の言葉や聖書の例えの話です。「イエズス様は葡萄の木であって、私たちはその枝だ」とか、「イエズス様は牧者であり、私たちはその羊の群れである」という、そのイエズス様との一致を示しています。あるいは「多くの実りをもたらす、天主が農夫である良い畑」。これが、「私は一体何なのか?誰なのか?」という事の答えです。

私たちは二重にイエズス様に属しています。天主としては創造主に、全く、全てにおいて依存しています。イエズス様は真の天主様ですから、天主としての権威と統合を私の上に持っています。第2に、イエズス様は私の贖い主として、私はイエズス様に属しています。なぜかというと、イエズス様は元悪魔の奴隷であった私たちを買い戻して下さって、解放して下さって、イエズス様に属するものとして下さったからです。その時以来私たちは、イエズス様のものとなり、イエズス様の奴隷となりました。

これは、私たちがそれを意識するかしないかにかかわらず、考えるか考えないかにかかわらず、事実です。玄義として、イエズス様は全て私たちを贖い戻して下さいました。たった1つ条件がありました。人間は自由ですから、聖アウグスチヌスはこう言います、「あなた無しにあなたを創った天主は、あなた無しにあなたを贖う事はない、あなたを救う事はない。」

このこれが第2の現実で、こうあるべきものです。しかしこうあるべきものはこうですけれども、現実はちょっと違っています。よく私たちはこの現実、「イエズス様のものである」という事を認めようとせず、それを覚えようともしません。天主は私の起源であり、その玄義であるけれども、しかし残念ながら私は、あたかも自分で自分を創造したかのように、創ったかであるかのように生活しています。「私は王であり、私は主人であり、私は誰にも属していない」と思って生活しているようです。

もしも、大きな贈り物を頂いた時に、私たちはどうするでしょうか?

感謝します。こう贈り物が大きければ大きいほど、より多く感謝します。天主様は私たちに全てを与えて下さいました。私たち自身を与えて下さいましたけれども、しかしどれほどその事について感謝しているでしょうか?

事実、客観的に、天主様こそが私たちの究極の目的です。でも私の天国に対する熱望というのは、本当にあるかないかと同じです。私の「天主を永遠に讃美したい」という望みは、あるかないかのようです。この地上での生活をどのようにして楽しむか、そのどうやって長生きするか、その事だけに関心があります。

また天主様イエズス様の贖いの業を、どれほど私たちは正しく評価して、感謝しているでしょうか。ミサに与るという時には、私たちはどれほど喜び踊って行く事でしょうか。もしも司祭がちょっとでも長い御説教をすれば、もう耐えきれなくなって、終わりを待たずにもう教会から出てしまいます。できればこの黙想会にも与りたくないし、なぜかというと、あまりにも長いし、つまらないから。イエズス様は最後の血潮まで私の為に流し尽くされたにも関わらず、私は無関心で、心は冷たく、何も感謝していません。

「天主様は私の命の始まりであり、究極の目的である」と言う代わりに、「自分こそが究極の目的であり、究極の始まりである」と考えています。私の人生の基礎となっているものは、利己主義であって、自分主義であって、自分勝手で、エゴイズムです。私の全生涯はこれに汚染されています。私の周りを見ると、「他の人は私の事をどう思っているのか」という事だけを考えています。「私は宇宙の中心であって、世界の中心であって、人生の中心である」と。

そして一番の問題は、天主の御旨と私の意思が対立した時です。よく私たちは、天主の御旨と私のやり方が対立した時に、「おぉ天主様、私は御身を愛し奉る。でも私の御旨がなされますように。」もう少し信心深い方であると、「主よ、御旨が果たされん事を。そして私のも同時に。」

それから68番と78から82番も黙想しなければなりません。これは本当に目を見張るような、そしてちょっと読むのが辛い思いをするような内容ですが、それを黙想して下さい。謙遜になって下さい。「グリニョン・ド・モンフォールが書いている事は本当だ」と受け入れて下さい。50年間、新しいミサの教会では、このような事はもう聞く事はありません、話す事は、「人間の尊厳」とかですが、しかし聖グリニョン・ド・モンフォールはこう言います、78番。

“私たちの行ないは、たとえ最良のものではあっても、私たちの内奥にある悪いものによってシミが付き、品質が下がります。”

この利己主義、エゴイズムというのが全て、私たちのやっている行動を汚染して、それを悪くしている、という事です。だから私たちの浄め、私たちの自分の利己主義を取り去る、という事に時間がかかって、浄めに時間がかかるのです。

たとえ最良のものであっても、たくさんお祈りをして、忍耐強く、そして本当にこの他人を愛する方であっても、天主を信じ、天主に期待し、天主を愛したとしても、しかしよく考えてみると、その裏には、利己主義や、自分の利益を望む、というものが潜んで隠れていた、という事に気が付きます。そしてそのようなものの影に、自分の栄光と自分の名誉を求めていた、という事に気が付きます、「私はすごい。」

79番をご覧下さい。原罪によって傷付けられた私たちのその傷がどのようなものであるかを、グリニョン・ド・モンフォールは説明します。もしもこの傷についてよく知っていなければ、ある時に、そのような傷を見て驚き、びっくりし仰天して、そして「何でそのような事が私に起こるのだろうか!?」と思ってしまうからです。

私たちは、「この原罪によって付けられてしまった傷」というものと、「この傷が故に、私たちが犯す罪」とを区別しなければなりません。私たちは皆この傷を持っています。私たちは誰も例外なく、この同じ舟に乗っています。79番です。

“聖霊の光のもとに、私たちの心の奥に潜んでいる、この悪い土壌の正体を見極める必要があります。”

「私たちが弱い」と言っても驚いてはいけません。

「あぁ神父様、私は本当に悪い者で、本当に弱くて、何もできません。」
「我が子よ、私はあなたよりも弱くないと思っていますか?」
「あぁ神父様、私よりも弱い人はいません。」
「それは間違っています。そのように考えないで下さい。私たちはもう希望がないほど弱いものです。たとえ巨人のような強さを持っているかのように思っても、弱いのです。自分の力では自分一人では、私たちの救霊の為に何一つする事はできません。」

「私はもうそれに相応しくありません。」

これはよくある、召し出しを拒否する言い訳です、「あぁ、その資格はありません。」「その価値はありません。」「それにそのような者ではありません。」

でも、誰もそのような資格はありません。もしもそのように答えるのであれば、この地上に誰も司祭となる人はいませんし、修道生活をする人もいません。私たちは天主様からの聖寵を受ける資格は、実は本当は無いのです。

「神父様、いつも罪を犯してばかりいます。その罪を犯す傾向があります。」
「我が子よ、私たちは皆、罪を犯す傾向を持っています。アダムの罪は私たち全てを汚染して、そして汚してしまいました。」
「私は本当に傲慢です。」
「私たちは皆、傲慢です。」

これが私たちの今置かれている現実です。皆さん、この事をよく頭の中に入れて下さい。たとえ赦された罪であったとしても、その罪を犯す事によって、私たちの霊魂には傷が付いてしまいます。そしてこのような事を、聖パウロは「肉」と言います。

79番の最後には、“私たちは本性的に、孔雀よりも傲慢。ガマよりも地上のものに愛着し、雄ヤギよりも劣情、蛇よりも妬み深く、豚よりも食いしん坊、虎よりも怒りっぽく、亀よりも怠け者、葦よりも弱く、風車よりもクラクラ変わります。私たちの霊魂の内奥にあるものは、ただ無と罪だけ。私たちが当然受けなければならないものはただ、天主の怒りと永遠の苦罰だけ。”

皆さん、私が、「こんにちは、ええと、豚の皆さん」と言ったら何と答えますか?皆さん、聖グリニョン・ド・モンフォールは皆さんの事を、「豚よりも食いしん坊」と言っています。でもこれが本当です。

81から82番をご覧下さい。今現代、この原罪の傷について語られる事はないのですけれども、私たちはこれを無視する事はできません。だからといって、プロテスタントがするように、この傷をオーバーに誇張しすぎる必要もありません。ナチュラリズム自然主義思想というのは、「自然は完全であって、自然は良いものである、最高に良いものである」と教えています。自然主義はジャン=ジャック・ルソーによって唱えられますけれども、マルチン・ルターはその反対を行きます、「自然は全て腐敗していて、何も良い事がない。」

時々私たちは、この傷について、不平を言ったり文句を言ったりします。多くの場合、良いカトリック信者の聖伝の信者さんの告解は、この罪とこの傷を誤解する事にあります。

「あぁ神父様、私はいつもお祈りの時に雑念が入ります。」
「それは、雑念が入るというのは、わざと雑念を入れて故意に気を散らしてお祈りしたのですか?それとも一生懸命お祈りをしようとしたにも関わらず、雑念が入ってくるのですか?」
「あぁ神父様、そんな事はありません、故意に雑念を入れようとするのではありません。いつもイエズス様の事を思ってるのですけれども、でも雑念が入るのです。」
「子よ、私たちはもう告解をやって3分無駄に時間を使いました。」

私たちは皆、このような弱い本性にぐらついています。そこで誰も雑念を持ってしまいます。

もちろん、私たちはどうやってその雑念を避けるべきか、という原理・理論は知っていますけれども、しかし無意識のうちに自然に入ってしまう雑念は、告解の対象ではなくて、私たちの弱さ故の傷なのです。

もしも私たちが、「罪」と「原罪による傷との弱さ」を混同しまうのでしたら、喜ぶ人は悪魔だけです。もしもその罪と傷とをいつも混同してしまって、「それが本当に罪である」としてしまったら、その罪をどうしても浄める事ができない、罪をいつも犯してしまう、という事にあって、結局は絶望してしまう危険があります。

「私は地獄に落ちてしまいます。そんなに悪い考えがたくさん起こってきます。ですから多くの汚れに泥に攻撃を受けています。このような汚い考えが頭にあれば、もうこの天国に行く事ができるはずありません。地獄に落ちるしかありません。」
「子よ、それもまた同じです。」

霊的指導者はいつも同じ事を、何度も何度も私たちに繰り返します。「誘惑というのは罪ではない。」たとえ頭の中には、天主様を冒瀆するような考えが起こってきたとしても、あるいはポルノとか汚い考えが起こったとしても、あるいは憎しみや嫉妬やそういうものが頭の中に入ってきたとしても、もしもそれに「はい」という同意がなければ、それは罪ではありません。それは戦いの戦場ですが、それが頭の中にある、という事です。これは皆さんであるかのように思われますけれども、でも悪魔がそうやって誘惑をかけてくるものです。敵がやって来た時に、この敵が来たら、その敵を前に武器を置いて「あぁ、敵がやって来た」と皆さん言うでしょうか。ですから敵は、この「罪」とこの「傷」とを混乱、混同してしまうと、敵は喜びます。

もしも弱さを感じる時には、あるいは残念ながら罪を不幸にして犯してしまったような場合には、また多くの誘惑に周りから襲われた時には、そしてその戦いを続けるのが非常に困難に思われる時には、その時には、もう失望したり、もうがっかりして力を落としてしまう必要はありません。「もしもここで失望して、『もうだめだ』等と思うのは、それは傲慢だ。匂いの強い、臭い傲慢だ」と聖マキシミリアノ・コルベは言います。なぜかというと、「私が、全て私が戦う、私だけが戦う」と思って誤解しているからです。「私は戦いに失敗した!私は負けてしまった!」と思うからです。「孔雀よりも傲慢」と聖グリニョン・ド・モンフォールは言います。

そのような攻撃や誘惑が来た時には、私たちは謙遜にならなければなりません。私たちは謙遜になって、私たちを助けて下さる事ができる誰かに、助けを求めなければなりません。するとその方は、一言言うだけで、それら全てをあっという間に打ちのめして下さる事ができます。もちろん皆さんはそういう事を言う権利があって、そういう事を言う義務があります。

「主よ、私は相応しくありません。」でもこう言った後に、次の言葉を必ず付けなければなりません。「私は御身を宿すには相応しくない者ですけれども、しかし一言宣って下さい。そうすれば私の魂は癒されるでしょう。」

これが御聖体拝領を受ける前の言葉です、「主よ、我不肖にして御身を我が心に受け入れるに足らず。されど一言宣い給え、そうすれば我が心は癒されん」と、私たちは御聖体拝領の前にドンと胸を打ちながら3度言います。その最初の部分だけ、「私は相応しくない」それだけで終わらないで下さい、「一言宣って下さい」というのを必ず付けて下さい。

80、81、82番は、これから私たちがやらなければならない事です。

まず、「私たちは、一体誰か、どのような傷を負っているか、どんな状況か」という事を知って下さい。謙遜に、私たちの本性、傷付いた本性、そして私たちの状況を受け入れて下さい。

第2は、その結果です。それの続きです。なぜかというと、私たちは、「主よ、私は本当に罪深くて、本当に醜いものです」と言いながら、その後で直後に、「あぁ、私は美しい、綺麗だ」と言う事はできないからです。私たちはですから、「私は相応しくありません」と言いながら、でもその直後に、「私は自分の考えをやり通す」と。

もしも「私たちがそれに相応しくない、本当に弱い者である」という事を認めたならば、その私たちの汚いものを取り払わなければなりません。

誰かが私たちの家に入って来て、ゴミを捨てたとします。誰かがそうやってゴミを捨てたとしたら「あぁ、」本当に誰かがこのゴミをですね、この家から取り払って、家を綺麗にする代わりに、「あぁ、それでもこのゴミも中々面白い。このゴミも結構好きだ」と言って、このゴミを家の色んな所に飾ってですね、そしてゴミだらけにしてしまう。81番はその事が書いています。

もしもゴミがあると気が付いたら、そのゴミを取って下さい。次に、綺麗になった家を、もっと良いもので飾って下さい。この「綺麗なもの」「良いもの」というのが、「マリア様への信心」です。

ちょっと厳しい、難しいのですけれども、「私たちが一体何か」という事について黙想しましょう。私たちそれ自身では、豚よりも更に酷いものです。しかし天主様の御恵みによれば、大聖人になります、皆さんのような豚でもなります。

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2018年11月25日 聖霊降臨後第27主日のミサ説教 「世の終わりには一体どんな事が私たちに起こるのか?」

2018年12月29日 | お説教・霊的講話
2018年11月25日(主日)聖霊降臨後第27主日のミサ
小野田神父説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年11月25日、聖霊降臨後最終主日です。

今日は多くの新しい兄弟姉妹の方がいらして非常に嬉しく思います。

いつもならば午後にある公教要理と晩課、また月曜日のミサは、残念ながら今回はありません。

なぜかというと火曜日(11月27日)に、フィリピンのダヴァオという所で聖ピオ十世会のオブレートシスターの修練院で着衣式があって、そこに参加せざるを得なくなったからです。ご了承下さい。

次のミサは12月1日の土曜日の夕方です。ここで歌ミサがあります。

12月2日主日には、10時30分からサマース神父様がミサを捧げて下さいます。その前にも9時頃から私がミサをする予定です。どうぞ多くの皆さんがいらして下さい。特にサマース神父様は私たちに非常に大切なメッセージを送ろうと考えておられます。どうぞいらして下さい。

クリスマスにも、23、24、25日と連続してミサがあります。どうぞいらして下さい。



「天地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂に私たちは典礼歴の最後の主日になりました。この最後の主日、ただ単に11月の諸聖人の祝日を祝った、死者の、死せる信者の記念を祝ったのみならず、そして死者の為にお祈りしたのみならず、遂に私たちも最後に、この世の終わりについて黙想する日が来ました。

司祭が今日、侍者と共にこの祭壇の前に入場する時、あたかも私たちは一緒に最高裁判所の前に歩いて行って、そしてこれから裁かれなければならない罪人として、裁判官の前に出るかのようです。天主の家、聖父の家の中の祭壇に昇り、“Judica me, Deus, et discerne causam meam”「主よ、裁き給え。そして私の事を明確にし給え」と司祭は言って祭壇に昇ろうとします。

“Confiteor Deo omnipotenti,…”「私は全能の天主、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル…」罪の告白をします。そして皆さんもその後に罪を告白します。

そして“Kyrie eleison.”「主よ憐れみ給え、キリスト憐れみ給え」と私たちは主に憐れみを乞うて、その祭壇に近付きました。

でも私たちは何と慰めを受けた事でしょうか。入祭誦で、「私の考えは平和の考えであって、罰の考えではない。私はお前たちを全ての所から救いの方に導く」という歌を聞いたからです。しかも素晴らしい歌声で聞きました。

今日そこで、公教会の精神に従って、世の終わりには一体どんな事が私たちに起こるのか?を黙想します。

今日、私たちの主がその事を説明して下さいました、「世の終わりには、天使がラッパを鳴らす。そしてその前に、地上ではものすごい、今まで見た事もなかった艱難がある。国は国に対して立ち上がるだろう。そして『一体この世はどうなるのだろうか』と人々は恐れおののく。」

聖パウロによると、「この世は、火によって燃え尽くされる」との事です。

そして、全ての人々はこの世の終わりに復活します。
悪人は、恐ろしい姿で、自分がそれを以てその罪を犯したその道具である肉体、恐ろしい、おどろ恐ろしい肉体を持って復活します。
義人は、それを以て善を行なった肉体をもう一度、光り輝かんばかりに受け取って復活します。

天使たちが全ての、今までアダムとエヴァに始まって、世の終わりの全ての人々を一所に集めます。聖伝によると、それは「ヨサファトの谷」と言われています。そこに現れた時に、人々は右と左にはっきりと遂に分けられる日が来ます。死後、永遠の苦しみを受けるべき者、永遠の罰を受けるべき者と、永遠の喜びと、至福と命を楽しむべき者の2つです。

これは必ず起こります。世の終わりに必ず起こります。使徒信経の中に私たちが言う通りです。この御説教の後に皆さんが声高く歌う通りです、「生ける人と死せる人と裁かん為に来たり給う主を信じ奉る。」

その時に、人々がヨサファトの谷に集められた時に、天に大きなしるしが現れます。十字架のしるしです。それは私たちを救った贖いの道具です。この道具によって私たちは裁かれます。
私たちがこの十字架に、素直に愛を以て従って、これを受け入れたのか、それとも十字架の敵となったのか、十字架を踏みにじったのか。
天主に愛を以て従ったのか、あるいは天主を拒んだのか否んだのか。
天主に倣ってイエズス・キリストに倣って十字架を、私たちが十字架を取って日々従ったのか、それとも捨てたのか、十字架に罵りと呪いをかけたのか。
イエズス・キリストに倣って、謙遜に、あるいは愛徳をもって、あるいは従順に、特に天主の御旨に従順に生きたのか、それとも憎しみと、悪意と、傲慢と、支配、権力、富を求めて悪事を働いたのか、否か。
十字架を忍耐強く担ったのか、私たちに害を与えるような人でさえも、私たちを辱めたり、貶めたり、苦しめたりするような人でも、柔和に愛を以て許したか、それとも憎んだか、復讐をしようとしたか。
私たちは十字架のしるしによって裁かれます。

天主こそがイエズス・キリストこそが、私たちの最終の裁判官です、審判官です。隣人、他の人間ではありません。

もしも私たちが嘘をつけば、それは必ず明らかにされて排斥されます、断罪されます。私たちの全ての悪意、悪事は暴かれて、それは全ての人の前で排斥され、断罪されます。隠される事はありません。

十字架のしるしの後に、マリア様、使徒たちの元后、諸聖人の元后マリア様が現れます。天使たちも現れます。そして遂に、最高の裁判官であるイエズス様が、権威と力をもって、威厳をもって、御稜威の内に現れます。これは本当にある事です。

私がまだ大学生だった頃に、授業を待っていて教室にいると、ある若い女性がやって来ました。とても優しい声で私に、「聖書を読んだ事がありますか?」と聞いてきたのです。「はい、あります。」それで、「あの、救世主が来られた、というのを知っていますか?」と言うのです。「救世主?救世主は雲に乗って、威厳を持って来られるのですよ。」「いえ、もう現れたのです。名前も知っていますよ。文鮮明です。」

それは全く嘘です。たとえ誰がなんと言おうとも、聖書の通りに、世の終わりに、イエズス・キリストが必ず来られます。今、天に上げられて、そして私たちを愛の目をもって見て下さっているイエズス・キリストが来られます。

その時に、私たちの「良心の書」が全てオープンに開かれて、隠し事は全てできません。証拠の書類、証拠の隠滅、書き換えはできません。全てが明らかになって、私たちは、「はい、その通りです」と言うしかありません。

その時、悪人にとって、イエズス様のその最高裁判官の前にいる事はどれほど恐ろしい事でしょうか。全てをお見通しですから、全ての証拠が揃っています。そして悪魔は、「もっと悪い事をした!」と言い広めるかもしれません。どれほど逃げ出したい、恐ろしい日である事でしょうか。その日は私たちに必ず来ます。

それはどこかの自動車の会社の会長のみならず、ある時突然逮捕をするべく警察がやって来るかのように、死がやって来て、私たちの全ての罪がそこで調査されます。そして最後の審判の時には、公審判の時には、それが全ての人に公開されます。今まで秘密に隠していた悪事がバレバレになってしまいます。

しかしその時に、皆さんと私たち、善人はどれほど喜ぶ事でしょうか。今日このミサの時に、聖堂に入った時の聖父の言葉を聞いて下さい、「私の考えは平和の考えであって、罰ではない。」

なぜかというと、私たちにはリハーサルするチャンスが与えられているからです。なぜかというと、聖パウロが言ったように、聖パウロは祈って懇願して、そして更に祈って、「私たちが天主の栄光の遺産を受け継ぐに相応しい者となるように、その『天主の御旨は何か』という事を知るように」と祈って、教会も同じ言葉で祈っています。

今日私たちは、「あぁ、世の終わりにイエズス様が来るんだな」という話を聞いたばかりか、今日聖変化の時に、イエズス様は私たちの前にいらっしゃいます。裁く為ではなくて、憐れむ為に。

皆さん今朝、たくさんの方が告解をしました。公教会の掟によると、「1年に少なくとも1回、告白の秘跡を受けるように」とあります。イエズス様は告解の秘跡の時にもいらっしゃいます。裁く為ではなく、平和を与える為に、赦しの喜びを与える為に。そして皆さんは、喜びと平和の内に今、ミサに与っています。

イエズス様は本当に大きな力と威厳をもって、御稜威の内に、御聖体拝領の内にも来られます。どうぞ、イエズス様を愛を込めて御聖体拝領なさって下さい。

世の終わりの準備をする事ができる私たちはどれほど恵まれた者でしょうか。これほど準備をして、世の終わりを迎える人たちが他にどこにいるでしょうか。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は私たちの良き母、避難所であって、天主へと導いている道です。マリア様は仰いました、ファチマで。

「マリア様、どうぞ私たちが良い一生を送りますように、この世の終わりに最後の公審判の時に、選ばれた者の側に居る事ができますように、マリア様と共に、永遠の喜びの側に居る事ができるように、いつも助けて下さい。十字架を愛する事ができるように助けて下さい。マリア様のマントで、マリア様の力で守って下さい。そして私たちのこの兄弟姉妹、また今日ミサに来れなかった多くの方々が、マリア様の側にいつも居るように助けて下さい」とお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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2018年11月24日(土) 御聖体降福式にて「御聖体の黙想」

2018年12月26日 | お説教・霊的講話
御聖体の黙想
2018年11月24日(土)御聖体降福式にて 小野田神父


御聖体の内に真に在し給うイエズス様、イエズス様の聖心を、マリア様と一緒に、天使たちと一緒に、礼拝致しましょう。

パンの姿に、パンの形に見えますけれども、天地の創造主、私たちの主イエズス・キリストが、真にここに在し給うのです。本当にここにいらっしゃいます。私たちを愛の目で御覧になっています。

御聖体が世界中で受けている侮辱や、冒瀆や、無関心、冷淡を、愛を込めた礼拝で償いましょう。

イエズス様は決して嘘はつきません。「これは、私の体である」とはっきり仰いました。

日本の天皇陛下よりも、この世界のどこの大統領や王様たちよりも、はるかに力のある、はるかに威厳のある、天地の創造主、天主の御一人子イエズス・キリスト、真の御体、それが御聖体です。

イエズス様は、この私たちに対する愛と、御謙遜と、憐れみによって、全能の力を使って、御聖体として私たちと共に留まる事を御望みになりました。

イエズス様の十字架は、ユダヤ人にとっては躓き、ギリシャ人にとっては愚かでしたけれども、信じる私たちにとっては、栄光の力です。

御聖体も全く同じです。天主の愛の最高傑作、御聖体。私たちを愛して、愛するが故に考え出された御聖体。十字架の木の実り。

「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠に死なない。」天主はかつてモーゼに、マンナで、マンナを空から降らして養いましたけれども、時の終わりには、御自分の御体で私たちを養って下さいます。

イエズス様の御体で養われる主のしもべたちは、何と幸せな事でしょうか。

「毎瞬間、私を愛して下さるイエズス様、私をいつも愛の眼差しで見守って下さっている、愛の中で私を生かして下さっているイエズス様、私の愛、御身を礼拝致します。イエズス様をますます愛する事ができるようにして下さい。私の目上の命令において、日常の出来事において、御身の御旨を果たす事ができるようにして下さい。ブレずに御身をますます愛する事ができるように、助けて下さい。私の家族、友人、お友達、全ての人を助けて下さい。イエズス様、御身を深く礼拝致します。」

ファチマの天使の第2の祈りを、3回唱えます。
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教会が二千年の間、思い違いをしていたということはあり得ないことです

2018年12月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
「教会が二千年の間、思い違いをしていたということはあり得ないことです」
2018年12月15日 fsspx.newsサイト


要約)聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父は、2018年12月15日(土)発行のオーストリアの日刊紙「ザルツブルガー・ナハリヒテン」での独占インタビューに応じた。
総長は次のように説明した。すべてのカトリック信者が教皇に求めるのは、信仰の遺産を忠実に伝えることである。それは、知性が天主の啓示を固守することであって、個人個人の主観的な経験にとらわれることではない。不幸なことに、勧告「アモーリス・レティチア(愛のよろこび)」のような最近のローマの文書は、もはや普遍的に有効な真理はないとする主観主義を支持しており、そのことが大きな混乱を引き起こし、他の宗教に対する教会の宣教の力を損ねている。



問い)聖ピオ十世会の創立者マルセル・ルフェーブル大司教は、許可なく4人の司教を叙階したため、1988年に破門されました。2009年、教皇ベネディクト十六世は、その破門を解きました。あなたがたにとって、このことはどのような意味を持っていますか?

答え)私たちにとって、このことによって何も変わることはありませんでした。なぜなら、私たちは常に、この破門は根拠のないものだと考えていたからです。しかし、その破門の解除は、そのときまではあえて私たちに加わるまでには至らなかった一定の人々が私たちに加わることを奨励することになりました。また、ある司教たちや一部の聖職者たち、特に若い司祭たちとの関係がもちやすくなりました。


問い)フランシスコ教皇も妥協しました。あなたがたは、これ以上何を待っているのですか?

答え)私たちは、すべてのカトリック信者が洗礼のとき、教会に求めるものを待っています。それは信仰です。天主の啓示は今や終わっており、信仰の遺産を忠実に伝えることが教皇の義務です。ですから、現教皇は、過去50年間教会を揺さぶってきたこの恐ろしい危機を終わらせなければなりません。この危機は、個人の主観的経験を中心に据えるという信仰についての新しい考えによって引き起こされました。誤謬と真理の区別なしに、各個人のみが自分の信仰に責任を負っており、どんな宗教も自由に選べる、という考えです。しかし、これは客観的な天主の法に反しています。



問い)聖ピオ十世会の方から、教皇に対して融和的になることが、どの程度までできますか?

答え)聖ピオ十世会は、第二バチカン公会議の誤謬に反対していても、ペトロの後継者に深い愛着を持っています。しかしながら、現在の教皇の持つ基本的な特徴には深く憂慮しています。その特徴とは、あわれみという概念のまったく新しい適用です。まことの回心、恩寵による霊魂の変容、苦行、祈りを推し進めることなく、あわれみは、あらゆる罪に対する万能薬に格下げされているのです。シノドス後の使徒的勧告「アモーリス・レティチア(愛のよろこび)」で、教皇はすべてのキリスト教徒に対して、結婚における道徳的な問題について、個人の良心に従ってケースバイケースで決定できることを許可しています。これは、天主の法によって示された必要かつ明確な方向づけに全面的に反しています。
私たちはここに、ルターの霊性のこだまを見ます。それは、道徳的な更新を必要としないキリスト教、もはや普遍的に有効な真理を認めない主観主義です。これは、信者たちと聖職者たちの間に深い混乱を引き起こしてきました。すべての人が真理を追い求めています。しかし、そのためには、まさに生徒が先生による指示を必要とするように、人は司祭による指示を必要とします。



問い)ルターの記念の年2017年は、この点で何をもたらしましたか?

答え)
16世紀以来、カトリック教会はプロテスタントに対して、彼らを回心させ、彼らをまことの教会に連れ戻すように、呼びかけてきました。ルターの記念の年である昨年は、プロテスタントを連れ戻すというこの第一の目的に有益ではありませんでした。まったくその反対に、プロテスタントに対して、彼らの誤謬に確信を持たせることになりました。その理由は、第二バチカン公会議以来、教会が、すべての人は自分の宗教において天主を見いだすことができると考えているからです。それは、信仰を個人的で内的な経験に格下げする根拠となっています。信仰は、もはや天主の啓示を知的に固守することではないのですから。



問い)他の宗教にも、その心と良心において、道徳的に立派に生きている多くの人々がいます。天主は彼らの功徳をお認めになるのでしょうか?

答え)教会は本質的に宣教的です。私たちの主イエズス・キリストは、「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。人類が救われるのは主によってのみです。主は唯一の教会を創立されました。それがローマ・カトリック教会です。この神学的真理は、道徳性の正しさ、およびトリエント典礼における聖伝のミサの輝かしさと同様に、公に宣言されなければなりません。
他の宗教において真理を真剣に探し求めることは、真理をもたらすのに十分ではありません。ですから、私たちは、それらの霊魂たちが自分自身を救うのを助けなければなりません。もし霊魂がカトリック教会の外で救われ得るとしたら、その霊魂は自ら陥っている誤謬にもかかわらず救われるのであって、その誤謬のおかげで救われるのではありません。どのような場合にも、イエズス・キリストのみによって救われるのです。



問い)あなたの前任者のベルナール・フェレー司教は、ユダヤ教徒、フリーメーソン、近代主義者を教会の敵と呼びました。あなたがたがプロテスタントに対して言うように、ユダヤ教徒もまた、カトリック教会に回心しなければなりませんか?

答え)近代主義は、最も危険な誤謬の一つです。第二バチカン公会議までは、教会はすべての司祭に対して反近代主義の誓いを行うよう求めましたし、私もそれを行いました。
ユダヤ教については、ユダヤ教の人々をカトリック教会の資産および宝から排除することは許されない罪となるでしょう。教会の救済の使命は普遍的であって、教会はどのような人々も除外することはできません。




問い)あなたがたは、宗教の自由やエキュメニズムを含む文書のような第二バチカン公会議の中心となる文書を拒否しています。それは単に解釈が異なるからでしょうか、それともこれらの公会議のテキストを完全に拒否しているのでしょうか?

答え)第二バチカン公会議は、自らを純粋に司牧的な公会議であると宣言しています。しかしながら、あなたがおっしゃったような主要な教義の決定がなされました。これは、信仰を完全に変質させるに至りました。
教皇ベネディクト十六世は、ローマと聖ピオ十世会の違いは公会議のテキストの解釈の問題だと考えました。ですから合意を可能にするためには、これらのテキストをよく考察すれば十分だとしました。しかしながら、それは私たちの立場ではありません。聖ピオ十世会は、第二バチカン公会議のうち、カトリックの聖伝に一致しないすべてのものを拒否します。
教皇は、宗教の自由に関する教令が誤謬のあるものだと宣言し、それに応じた修正をなすべきです。私たちは、いつか一人の教皇がまさにそれを行い、この公会議以前の標準であった純粋な教理に立ち戻ることを確信しています。宗教の自由やエキュメニズム、教会の天主による制定の問題は、第二バチカン公会議以前の教皇たちによってすべて解決されていました。彼らの教えをよみがえらせれば十分です。
教会が二千年の間、思い違いをしていたとか、教会が1962年から1965年という公会議の年月の間にやっとこれらの問題についての真理を発見したなどということはあり得ないことです。



問い)ローマの見解によると、あなたがたは教会の内部で離教の状態にある、ということですが、それはあなたがたの良心の負担ではありませんか?

答え)実際には、ローマは私たちを離教者とはみなしておらず、むしろ「非正規状態」であるとしています。いずれにせよ、もし私がローマ・カトリック教会の中で活動しており、教会のために活動しているという確証が私になかったとしたら、私はすぐにも聖ピオ十世会を去っていくことでしょう。



パリャラーニ神父のザルツブルガー・ナハリヒテンとのインタビュー
(ニュース元:2018年12月15日付ザルツブルガー・ナハリヒテン―FSSPX News)
1945年に設立されたザルツブルガー・ナハリヒテンの部数は8万部(2016年の統計)。
インタビューの聞き手はヨゼフ・ブルックモーザー。表題、プレゼンテーション、翻訳はFSSPX Newsによる。
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It is inconceivable that the Church was mistaken for two millennia

2018年12月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
It is inconceivable that the Church was mistaken for two millennia
December 15, 2018 By fsspx.news


Father Davide Pagliarani, Superior General of the Society of Saint Pius X, gave an exclusive interview to the Austrian daily newspaper the Salzburger Nachrichten, published on Saturday 15thDecember 2018. He explains what every Catholic expects from the Pope: the faithful transmission of the Deposit of Faith, which is the adherence of the intelligence to Divine Revelation and not an individual subjective experience. Unfortunately, recent Roman documents, such as the Exhortation Amoris lætitia, favour a subjectivism that no longer recognises a universally valid truth, which causes great confusion, and shatters the Church’s missionary thrust towards other religions.



The founder of the Society of Saint Pius X, Archbishop Marcel Lefebvre, was excommunicated in 1988 because he had ordained four bishops without permission. In 2009, Pope Benedict XVI lifted these excommunications. What does that signify for you?


For us, this did not change anything, because we always considered these excommunications as baseless. However, it encouraged certain people to join us, who until then had not dared. It has also facilitated our relations with some bishops and a section of the clergy, especially with young priests.



Francis has also made concessions. What more are you waiting for?


We are waiting for what every Catholic asks of the Church at baptism: Faith. Divine Revelation has now ended and it is the duty of the Pope to transmit faithfully the Deposit of Faith. The Pope must therefore put an end to the terrible crisis that has shaken the Church for the last 50 years. This crisis was triggered by a new conception of the faith, centred on the subjective experience of each individual: it is thought that each individual is solely responsible for his faith and can freely opt for any religion, without distinction between error and truth. But this contradicts objective divine law.



To what extent can the Society of Saint Pius X in turn show itself conciliatory towards the Pope?

The Priestly Society of Saint Pius X is deeply attached to the Successor of Peter, even when it opposes the errors of the Second Vatican Council. However, we are deeply distraught by a fundamental characteristic of the current pontificate: a completely new application of the concept of mercy. It is reduced to a panacea for all sins, without pushing for a true conversion, the transformation of the soul by grace, mortification and prayer. In his post-synodal Apostolic Exhortation Amoris lætitia, the Pope gives all Christians, the possibility to decide case by case, according to their personal conscience, the questions of morality in marriage. This totally contradicts the necessary and clear orientation given by God’s law.
We see here an echo of Luther’s spirituality: a Christianity without the need for moral renewal, a subjectivism that no longer recognises any universally valid truth. This has caused deep confusion among the faithful and the clergy. Every man is in search of truth. But for this he needs the direction of the priest, just as a pupil needs the direction of a teacher.



What did the Luther Year 2017 produce in this regard?


Since the sixteenth century, the Catholic Church has addressed Protestants to convert them and to bring them back to the true Church. The Luther Year did not serve this primary purpose of the return of the Protestants. Quite the opposite, they have been confirmed in their error. The reason is, since the Second Vatican Council, the Church thinks that every man can find God in his religion. It is a premise that reduces the faith to a personal and inner experience, since it is no longer the adherence of the intelligence to Divine Revelation.



There are also many people in other religions who live morally well, in their heart and conscience. Will God recognise their merits?

The Church is essentially missionary. Our Lord Jesus Christ said: “I am the way, the truth and the life”. It is only through him that mankind will be saved. He founded only one Church, which is the Roman Catholic Church. This theological truth must be proclaimed, as well as the rectitude of morality and the splendour of the Traditional Mass in the Tridentine Rite.
The sincere search for truth in other religions is not sufficient to yield truth. We must therefore help these souls save themselves. If a soul can be saved outside the Catholic Church, it is despite the error in which it finds itself, and not thanks to it, and in any case, it is saved by Jesus Christ alone.



Your predecessor, Bernard Fellay, labelled the Jews, Freemasons and Modernists as enemies of the Church. Do the Jews also have to convert to the Catholic Church, as you say for Protestants?


Modernism is one of the most dangerous errors. Until the Second Vatican Council, the Church asked all priests to take the anti-modernist oath, which I have also taken.
As for Judaism, it would be an unforgivable sin to exclude the Jewish people from the assets and the treasures of the Catholic Church. The salvific mission of the Church is universal, and she cannot leave out any people.



You reject the essential documents of the Second Vatican Council, such as those on religious liberty and ecumenism. Is it just a different interpretation, or do you completely reject these texts of the Council?

The Second Vatican Council declared itself as a purely pastoral Council. However, major dogmatic decisions, like those you mentioned, were made. This led to a complete transformation of the faith.
Pope Benedict XVI considered that the differences between Rome and the Priestly Society of Saint Pius X were a problem of interpretation of the texts of the Council. It was enough to reflect upon these texts for an agreement to be possible. However, that is not our position. The Society of Saint Pius X rejects, from the Second Vatican Council, all that is not in agreement with Catholic Tradition.
The Pope should declare the decree on religious liberty erroneous and correct it accordingly. We are convinced that one day a Pope will do just that, and return to the pure doctrine that was the reference before this Council. The questions of religious liberty, ecumenism and the divine constitution of the Church were all dealt with by Popes prior to the Second Vatican Council. It suffices to revive their teachings.
It is inconceivable that the Church was mistaken for two millennia and that she found the truth about these questions only during the years of the Council, between 1962 and 1965.




Is it a weight on your conscience that, from Rome’s point of view, you are in a state of schism with the Church?

In reality, Rome does not consider us schismatics, but rather as “irregular”. In any case, if I did not have the certitude of working in the Roman Catholic Church and working for it, I would leave the Society immediately.




Interview of Father Pagliarani with the Salzburger Nachrichten

(Source : Salzburger Nachrichten - FSSPX.Actualités du 15/12/18) Founded in 1945, the Salzburger Nachrichtenhas a distribution of 80,000 copies (2016 statistics). The interview is by Josef Bruckmoser. The title, presentation and translation are from FSSPX.News
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愛する兄弟姉妹の皆様をクリスマスの聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)にご招待します!

2018年12月22日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様をクリスマスの聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)にご招待します!

多くの方々が私たちの主イエズス・キリストがお生まれになった喜びに満たされますように!

来年(2019年)の典礼カレンダーもおわけしております。よろしくお願いします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002)
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

12月22日(土)待降節の四季の斎日 土曜日(2級)紫
         午前10時 ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

12月24日(月)平日の主の御降誕の前日(1級)紫
         午後5時半 ロザリオ及び告解 
         午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)
         午後9時 クリスマスの朝課

12月25日(火)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
         午前0時 ミサ聖祭(歌ミサ)
         午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

12月23日(主)待降節第4主日(1級)紫
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

12月24日(月)平日の主の御降誕の前日(1級)紫
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半[!ミサの開始時間にご注意下さい!]ミサ聖祭

12月25日(火)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
         午後5時半 ロザリオ及び告解 
         午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)
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2019年の聖伝のミサによる典礼カレンダーの印刷が出来ました! 聖伝のミサの時に東京の会場と大阪の聖堂でおわけしております。

2018年12月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2019年の聖伝のミサによる典礼カレンダーの印刷が出来ました!大変お待たいたしました!
今回の聖伝のミサの時に東京の会場と大阪の聖堂でおわけしております。
価格は一部800円です。
今年はより多くの方々に、イエズスの聖心の愛の極みを知っていただくために、割引きも行っております。
3冊で2000円、10冊だと6000円です!

ミサ聖祭に来られることが難しくても、ご連絡をくださればお送りいたしております。
送料は日本国内で三冊までは360円、10冊ですと510円です。
国外でもお送りいたします。

部数に限りがありますので、もしも売り切れてしまった場合にはどうぞご了承ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)では12月24日(月)21時00分からクリスマスの朝課を歌います。

2018年12月22日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002)では、

12月24日(月)平日の主の御降誕の前日、
午後9時(21時00分)から クリスマスの朝課を歌います。
Liber Usualis 368ページから ローマ典礼によるクリスマスの朝課があります。】

スペインのモンセラットの大修道院のベネディクト会修道士たちの聖歌隊(Coro de Monjes de la Abadía de Monserrat)が歌う朝課の「答唱」(Responsus)をご紹介いたします。

Liber Usualis 375ページ

Hodie Nobis Caelorum Matins of Christmas Nocturne I, Responsory I


Hodie Nobis de Caelo Christmas Matins Nocturne I, Responsory II


Quem Vidistis Pastores Matins of Christmas Nocturne I, Responsory III



Liber Usualis 375ページ

O Magnum Mysterium Christmas Matins Nocturne II, Responsory IV


Beata Dei Genitrix Christmas Matins Nocturne II, Responsory V


Sancta et Immaculata Christmas Matins Nocturne II, Responsory VI



Liber Usualis 389ページ

Beata Viscera Christmas Matins Nocturne III, Responsory VII



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2018年12月25日主の御降誕(一級祝日 八日間付 典礼色:白)日中のミサ聖祭(第三のミサ)のミサ聖祭(指定巡礼聖堂 聖マリア大聖堂)のテキストをご紹介いたします。

2018年12月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年12月25日主の御降誕(一級祝日 八日間付 典礼色:白)日中のミサ聖祭(第三のミサ)のミサ聖祭(指定巡礼聖堂 聖マリア大聖堂)のテキストをご紹介いたします。

イエズスの御降誕の日は、いろいろ議論され、東方教会では、一月六日に御降誕を祝っていた。しかしローマ教会(西方教会)では、四世紀からすでに十二月二十五日に決められ、西方教会と同じく東方教会も、のちにこの日に祝うようになった。 われらは、この祝日において、大いに喜び、感謝する。きょう、キリストが生まれ給うた。救い主が現れ給うた。天使らは歌い、大天使らは喜びいさむ。義人たちは、「天のいと高きところ、天主に光栄あれ、アレルヤ」(聖務日課)と歓呼する。われらは、キリストの御降誕を祝うが、同時に、われら自身の誕生をも祝うのである。なぜなら聖レオ教皇は「かしらの誕生は、身体とその肢体の誕生でもある」と言っている。
この大いなる奥義を行うに当たって、もちろん荘厳な典礼が定められた。すなわち、三つのミサ聖祭が行われるのである。
第一のミサは、昔は、雄鶏が時をつくるとき(Ad galli cantum)に行われたが、現在は「夜中のミサ」である。
第二のミサは、あかつきに、
第三のミサは日が昇ってから行われた。
聖グレゴリオ七世教皇のころまで、この第三のミサは、聖ペトロ大聖堂で行われていた。しかし、動乱の世であったし、天候の悪い冬季でもあったので、当時教皇の住まっていたラテラン宮廷に近い聖マリア大聖堂に変えられたのである。だが、夜中のミサは、この聖マリア大聖堂内のうまやの小聖堂で行い、日中のミサは、中央大祭壇で行った。
第三ミサは、主として、メシアなる王の来臨、すなわち、天主が預言者になし給うた約束の成就を祝う<書簡>。人間のみじめな身体をとって生まれ給うた御者は、天主のみことばである。「みことば」は、人類のかしらとして、王として、司祭として、民を救いに導く<入祭文、集祷文、奉献文>。さらに、救霊の奥義をすべて実現し、聖体の奥義への信仰によって、万民は天主が送り給う救いを眺めることも語る<聖体拝領誦>。

Ad tertiam Missam in die Nativitatis Domini 日中のミサ聖祭(第三のミサ)
Statio ad S. Mariam maiorem 指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂
Ant. ad Introitum. Is. 9, 6. 入祭文イザイア 9ノ6
Puer natus est nobis, et fílius datus est nobis : cuius impérium super húmerum eius : et vocábitur nomen eius magni consílii Angelus. 一人の幼児(おさなご)がわれらのうちに生まれ、一人の幼児がわれらに与えられた。幼児は、王の権威を肩に帯び、その名は、大いなる御計画の使者と呼ばれる
Ps. 97, 1. 詩篇97ノ1
Cantáte Dómino cánticum novum, quia mirabília fecit. 主に、新しい歌を歌え。主は、不思議な業を行い給うたからである。
V/.Glória Patri. ℣. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)
Puer natus est nobis, et fílius datus est nobis : cuius impérium super húmerum eius : et vocábitur nomen eius magni consílii Angelus. 一人の幼児(おさなご)がわれらのうちに生まれ、一人の幼児がわれらに与えられた。幼児は、王の権威を肩に帯び、その名は、大いなる御計画の使者と呼ばれる
Oratio. 集祷文
Concéde, quǽsumus, omnípotens Deus : ut nos Unigéniti tui nova per carnem Natívitas líberet ; quos sub peccáti iugo vetústa sérvitus tenet. Per eúndem Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、御独り子の、肉体による新しい御誕生により、古くより奴隷としての罪の軛に縛られているわれらを解放し給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致に
Léctio Epístolæ beáti Páuli Apóstoli ad Hebrǽos. 使徒聖パウロの、ヘブライ人への書簡の朗読。
Hebr. 1, 1-12. ヘブライ 1ノ1-12
Multifáriam, multísque modis olim Deus loquens pátribus in Prophétis : novíssime diébus istis locútus est nobis in Fílio, quem constítuit herédem universórum, per quem fecit et sǽcula : qui cum sit splendor glóriæ, et figúra substántiæ eius, portánsque ómnia verbo virtútis suæ, purgatiónem peccatórum fáciens, sedet ad déxteram maiestátis in excélsis : tanto mélior Angelis efféctus, quanto differéntius præ illis nomen hereditávit. Cui enim dixit aliquándo Angelórum : Fílius meus es tu, ego hódie génui te ? Et rursum : Ego ero illi in patrem, et ipse erit mihi in fílium ? Et cum íterum introdúcit Primogénitum in orbem terræ, dicit : Et adórent eum omnes Angeli Dei. Et ad Angelos quidem dicit : Qui facit Angelos suos spíritus, et minístros suos flammam ignis. Ad Fílium autem : Thronus tuus, Deus, in sǽculum sǽculi : virga æquitátis, virga regni tui. Dilexísti iustítiam et odísti iniquitátem : proptérea unxit te Deus, Deus tuus, óleo exsultatiónis præ particípibus tuis. Et : Tu in princípio, Dómine, terram fundásti : et ópera mánuum tuárum sunt cæli. Ipsi períbunt, tu autem permanébis ; et omnes ut vestiméntum veteráscent : et velut amíctum mutábis eos, et mutabúntur : tu autem idem ipse es, et anni tui non defícient. 天主は、しばしば、いろいろな方法で、その昔、預言者を通じて、われわれの先祖に語り給うたが、この終わりの日々には、御子を万物の世継ぎと定め、また、よってもって万物を造り給うたその御子を通じて語り給うた。天主の光栄の輝き、天主の本性の型である御子は、その御言葉の力によって宇宙を保ち、罪のきよめを行って、高きところの[天主の]霊威(みいず)の右に座し給うた。その受けた名は、天使の名にどれほどまさっていたことか。天使よりはるかにまさる名を受け給うた。天主はどんな天使に向かって、「汝はわが子である。私はきょう汝を生んだ」また「私は彼の父となり、彼は私の子となるであろう」と仰せられたことがあろうか。そして天主は、初子(ういご)をこの世に入れ給うたとき、「天主のすべての天使は彼を礼拝せよ」と仰せられた。また、天使については、「天主はその天使らを風となし、その役者(えきしゃ)を焔となし給う」と仰せられたが、御子については、「天主よ、御身の王座は極まりなく、御身の王国の笏(しゃく)は正義の笏である。御身は正義を愛し悪を憎み給うた。それゆえに、ああ天主よ、御身の天主は、御身の友より以上に、喜びの油を御身に注ぎ給うた」とある。また、「主よ、御身は始めに地を造り、天もその御手の業である。天は亡びるであろう。しかし御身は、存(ながら)え給う。それらはみな衣のように古びるであろう。御身は、それらを上衣(ころも)のように、たたみ給うであろう、それらは上衣のように着替えられるであろう。しかし御身は、いつも変わり給うことなく、御身の年は終わらないであろう」と。
Graduale. Ps. 97, 3 et 2. 昇階誦 詩篇 97ノ3-4, 2
Vidérunt omnes fines terræ salutare Dei nostri : iubiláte Deo, omnis terra. 地上の国々は、われらの天主が遣わし給うた救い主を見た。地よ、主を讃美せよ。
V/. Notum fecit Dominus salutare suum : ante conspéctum géntium revelávit iustitiam suam. V/. 主は、約束の救いを知らせ、その正義を、国々に示し給うた。
Allelúia, allelúia. V/. Dies sanctificátus illúxit nobis : veníte, gentes, et adoráte Dóminum : quia hódie descéndit lux magna super terram. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ、聖なる日は、われらの上に輝いた。民よ来れ、そして主を礼拝せよ。きょう、大いなる光は、地上に下ったのである、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Joánnem. ヨハネによる聖福音の序。
Ioann, 1, 1-14.  ヨハネ 1ノ1-14
In princípio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum. Hoc erat in princípio apud Deum. Omnia per ipsum facta sunt : et sine ipso factum est nihil, quod factum est : in ipso vita erat, et vita erat lux hóminum : et lux in ténebris lucet, et ténebræ eam non comprehendérunt. Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Ioánnes. Hic venit in testimónium, ut testimónium perhibéret de lúmine, ut omnes créderent per illum. Non erat ille lux, sed ut testimónium perhibéret de lúmine. Erat lux vera, quæ illúminat omnem hóminem veniéntem in hunc mundum. In mundo erat, et mundus per ipsum factus est, et mundus eum non cognóvit. In própria venit, et sui eum non recepérunt. Quotquot autem recepérunt eum, dedit eis potestátem fílios Dei fíeri, his, qui credunt in nómine eius : qui non ex sanguínibus, neque ex voluntáte carnis, neque ex voluntáte viri, sed ex Deo nati sunt. (Hic genuflectitur) Et Verbum caro factum est, et habitávit in nobis : et vídimus glóriam eius, glóriam quasi Unigéniti a Patre, plenum grátiæ et veritátis. 元始(はじめ)に御言葉(みことば)があった。御言葉は天主と共にあった。御言葉は天主あった。彼は、元始に天主と共にあり、万物は彼によって造られた。造られたものの中に、一つとして、彼によらずに造られたものはない。かれに生命があり、生命は人間の光であった。光は闇に輝き、闇はかれを悟らなかった。天主から遣わされた一人の人がいた。その名をヨハネといった。彼は証明のために来た、光について証明し、またすべての人が、彼によって信ずるためであった。彼は光ではなかった。光に証明を与えるために来た。すべての人を照らす真実(まこと)の光は、この世に来つつあった。彼は世にあった、世は彼によって造られたが、世は彼を知らなかった。彼は御自分の家に来給うたが、その族(やから)は彼を受けなかった。しかし、彼を受けた者、その御名を信じた者には、天主の子となる権利を授け給うた、これらの人は、血統(ちすじ)によらず、肉の意によらず、人の意によらず、ただ天主によって生まれた。(ひざまずく)御言葉は肉体となって、われらの中に宿り給うた、われらはその栄光を見た、独り子が御父から受ける栄光で、恩寵と真理とに満ちていた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 88,12et 15. 奉献文 詩篇 88ノ12,15
Tui sunt cæli et tua est terra : orbem terrárum et plenitúdinem eius tu fundásti : iustítia et iudícium præparátio sedis tuæ. 主よ、天と地とは主のものである。宇宙とそこにあるすべてを造り給うたのは、主である。正義と公平とは、御身の座のいしずえである。
Secreta. 密誦
Obláta, Dómine, múnera, nova Unigéniti tui Nativitáte sanctífica : nosque a peccatórum nostrórum máculis emúnda. Per eúndem Dóminum nostrum. 主よ、御独り子の新しい御誕生によって、御身に捧げる供え物を聖とし、われらの罪のけがれをきよめ給え。その同じわれらの主・・・・・。
Præfatio de Nativitate Domini. 御降誕の序誦
Ant. ad Communionem. Ps. 97, 3. 聖体拝領誦 詩篇 97ノ3
Vidérunt omnes fines terræ salutáre Dei nostri. 地上の国は、われらの天主が遣わし給うた救い主を見た。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
ræsta, quǽsumus, omnípotens Deus : ut natus hódie Salvátor mundi, sicut divínæ nobis generatiónis est auctor ; ita et immortalitátis sit ipse largítor : Qui tecum vivit et regnat.

全能の天主よ、願わくは、本日生まれ給うた救い主が、われらの霊的誕生のもととなり給うように、われらに不滅の生命を与え給わんことを。御身とともに、天主として、聖霊との一致において、生きかつ治め給う主よ。

1962年版の典礼法規では、最後の聖福音は省略されます。聖ピオ十世会では1962年版の典礼に従っていますので最後の福音を省略いたします。
1962年以前の典礼法規では主の御降誕の第3のミサの最後の聖福音は次のようにご公現の祝日の聖福音を朗読することになっていました。参考までにご紹介いたします。

+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦 
Matth. 2, 1-12.  マテオ2ノ1-12
Cum natus esset Iesus in Béthlehem Iuda in diébus Heródis regis, ecce, Magi ab Oriénte venerunt Ierosólymam, dicéntes : Ubi est, qui natus est rex Iudæórum ? Vidimus enim stellam eius in Oriénte, et vénimus adoráre eum. Audiens autem Heródes rex, turbatus est, et omnis Ierosólyma cum illo. Et cóngregans omnes principes sacerdotum et scribas pópuli, sciscitabátur ab eis, ubi Christus nasceretur. At illi dixérunt ei : In Béthlehem Iudæ : sic enim scriptum est per Prophétam : Et tu, Béthlehem terra Iuda, nequaquam mínima es in princípibus Iuda ; ex te enim éxiet dux, qui regat pópulum meum Israël. Tunc Heródes, clam vocátis Magis, diligénter dídicit ab eis tempus stellæ, quæ appáruit eis : et mittens illos in Béthlehem, dixit : Ite, et interrogáte diligénter de púero : et cum invenéritis, renuntiáte mihi, ut et ego véniens adórem eum. Qui cum audíssent regem, abiérunt. Et ecce, stella, quam víderant in Oriénte, antecedébat eos, usque dum véniens staret supra, ubi erat Puer. Vidéntes autem stellam, gavísi sunt gáudio magno valde. Et intrántes domum, invenérunt Púerum cum María Matre eius, (hic genuflectitur) et procidéntes adoravérunt eum. Et, apértis thesáuris suis, obtulérunt ei múnera, aurum, thus et myrrham. Et responso accépto in somnis, ne redírent ad Heródem, per aliam viam revérsi sunt in regiónem suam. イエズスは、へロデ王のとき、ユダヤのベトレヘムでお生まれになった。そのころ、東の国の博士たちが、イエルザレムに来て、「お生まれになったユダヤの王さまはどこにおいでになるのか。われわれは、その星がのぼるのを見たので、おがみにきた」とたずねた。これを知ったヘロデ王はひどくうろたえた。イエルザレムの人々とても同じことだった。そこで、ヘロデ王は、司祭長たちと民間の律法学士たちをみな呼んで、キリストはどこに生まれるはずなのかとたずねた。かれらは、「預言者が次のように書いていますから、ユダヤのベトレヘムに生まれるはずであります。"ユダの地ベトレヘム、おまえはユダの村々のなかで、もっとも小さなものではない。なぜなら、わが民イスラエルを牧するかしらが出るからである"とあります」と答えた。それからへロデは、ひそかに博士たちをよび、星のあらわれた時のことをくわしく聞きただしてから、「行って、こまかに子どものことをたずね、見つけたら私に知らせてくれ。私も行ってその子をおがもう」といって、かれらをベトレヘムにおくった。かれらがヘロデ王のことばにおくられて出発すると、何と、前にのぼるのを見たその星が先に立って、子どものおいでになる所の上にとどまった。星をみて大いによろこんだかれらは、その家にはいって、子どもが母のマリアといっしょにおいでになるのを見た。(ここで、ひざまずく)そこでかれらはひれ伏して礼拝し、宝箱を開いて、黄金と乳香と投薬とのみやげものを献上した。そののち夢の中で、へロデのところに帰ってはならないとお告げをうけたので、ほかの道をとって故国に去っていった。
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2018年12月24日御降誕の祝日の前日(一級前日 典礼色:紫)のミサ聖祭(指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂)のテキストをご紹介いたします。

2018年12月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年12月24日御降誕の祝日の前日(一級前日 典礼色:紫)のミサ聖祭(指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂)のテキストをご紹介いたします。
 初代教会のころには、十二月二十四日のミサは行われず、今から記すミサは、夜中のミサであった。指定巡礼聖堂が聖マリア大聖堂であるのは、エルザレムの御降誕の大聖堂にならった小聖堂がここにあるからである。<入祭文>の最初の言葉は、「今日」である。御降誕の祝日の前日の今日、典礼はすでに明日の喜びを制しきれないようである。

IN VIGILIA NATIVITATIS DOMINI 主の御降誕の前日
I classis 特権の前日
Statio ad S. Mariam maiorem. 指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂
Ant. ad Introitum. Exodi 16, 6 et 7. 入祭文 出エジプト 16ノ6,7
Hódie sciétis, quia véniet Dóminus et salvábit nos : et mane vidébitis glóriam eius. 今日、あなたたちは、主が来給うてわれらを救い給うのを知るであろう。また、明日、彼の光栄を見るであろう
Ps. 23, 1. 詩篇23ノ1
Dómini est terra, et plenitúdo eius : orbis terrárum, et univérsi, qui hábitant in eo. 地とここにあるすべてのもの、この世とここに住むすべての人々は、主のものである。
V/.Glória Patri. ℣. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)
Hódie sciétis, quia véniet Dóminus et salvábit nos : et mane vidébitis glóriam eius. 今日、あなたたちは、主が来給うてわれらを救い給うのを知るであろう。また、明日、彼の光栄を見るであろう
Oratio. 集祷文
Deus, qui nos redemptiónis nostræ ánnua exspectatióne lætíficas : præsta ; ut Unigénitum tuum, quem Redemptórem læti suscípimus, veniéntem quoque Iúdicem secúri videámus, Dóminum nostrum Iesum Christum, Fílium tuum : Qui tecum vivit et regnat. 天主よ、贖いの期待をもって、毎年われらを喜ばせ給う主よ、われらが今、救い主として喜び迎える御独り子、主イエズス・キリストが審判者として来給うときも、恐れなく迎え得るようになし給え。御身と共に、天主として、聖霊との一致において、世々に生き且つ治め給う主よ。
Lectio Epístolæ beati Páuli Apóstoli ad Romános. 使徒聖パウロの、ローマ人への書簡の朗読。
Rom. 1, 1–6. ローマ 1ノ1-6
Paulus, servus Iesu Christi, vocátus Apóstolus, segregátus in Evangélium Dei, quod ante promíserat per Prophétas suos in Scriptúris sanctis de Fílio suo, qui factus est ei ex sémine David secúndum carnem : qui prædestinátus est Fílius Dei in virtúte secúndum spíritum sanctificatiónis ex resurrectióne mortuórum Iesu Christi, Dómini nostri : per quem accépimus grátiam, et apostolátum ad obœdiéndum fídei in ómnibus géntibus pro nómine eius, in quibus estis et vos vocáti Iesu Christi, Dómini nostri. 使徒として召され、天主の福音のために選び分けられた、イエズス・キリストの奴隷パウロ、―福音は、天主があらかじめ聖書の中にその預言者たちによって約束し給うたものであって、その御子に関するものである。[御子は]肉としてはダヴィドの裔(すえ)から生まれ、聖なる霊としては、死者から復活してより天主の子としての能力を得たもの、すなわちわれらの主イエズス・キリストである。われらは、その御名においてすべての異邦人を信仰に従わせるために、彼から使徒の恩寵と使命とを受けた。その中にあなたたちもいて、イエズス・キリストのものとなるために選ばれた。
Graduale. Exodi 16, 6 et 7. 昇階誦 出エジプト 16ノ6,7;
Hódie sciétis, quia véniet Dóminus et salvábit nos : et mane vidébitis glóriam eius 今日、あなたたちは、主が来給うてわれらを救い給うのを知るであろう。また、明日、彼の光栄を見るであろう。
V/. Ps. 79, 2–3 Qui regis Israël, inténde : qui dedúcis, velut ovem, Ioseph : qui sedes super Chérubim, appáre coram Ephraim, Béniamin, et Manásse. V/.詩篇 79ノ2,3イスラエルを治め給う者よ、御耳を傾け給え。羊のごとくヨゼフを導き給う御者よ、智天使の上に座し給う御者よ、エフライム、ベニヤミン、マナッセに御身を現し給え。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦。
Matth, 1, 18–21. マテオ  1ノ18-21
Cum esset desponsáta Mater Iesu Maria Ioseph, ántequam convenírent, inventa est in útero habens de Spiritu Sancto. Ioseph autem, vir eius, cum esset iustus et nollet eam tradúcere, vóluit occúlte dimíttere eam. Hæc autem eo cogitánte, ecce, Angelus Dómini appáruit in somnis ei, dicens : Ioseph, fili David, noli timére accípere Maríam cóniugem tuam : quod enim in ea natum est, de Spíritu Sancto est. Páriet autem fílium, et vocábis nomen eius Iesum : ipse enim salvum fáciet pópulum suum a peccátis eórum. イエズスの母マリアはヨゼフの許嫁(いいなずけ)であって、同居しない前に、聖霊によって孕(みごも)っていることが分かった。夫ヨゼフは正しい人で、彼女を公に辱めたくなかったので、ひそかに離別しようと決めた。彼がこれらのことを考えているとき、突如、主の天使が夢に現れて言った、「ダヴィドの子ヨゼフよ、マリアをあなたの妻として納(い)れるのを恐れるな、なぜなら、彼女にやどるものは聖霊の業である。彼女は子を生むであろう。あなたはその子をイエズスと名付けよ。なぜなら、彼はおのが民をその罪から救うであろうから」。
Ant. ad Offertorium. Ps. 23, 7. 奉献文 詩篇  23ノ7
Tóllite portas, principes, vestras : et elevámini, portæ æternáles, et introíbit Rex glóriæ. 門よ、枠を上げよ、とこしえの戸よ、開け、栄光の王が入り給う。
Secreta 密誦
Da nobis, quǽsumus, omnípotens Deus : ut, sicut adoránda Fílii tui natalítia prævenímus, sic eius múnera capiámus sempitérna gaudéntes : Qui tecum. 全能の天主よ、願わくは、礼拝すべき御子の御降誕をあらかじめ祝い奉るわれらに、喜んでその永遠の賜物を受けさせ給え。御身と共に、天主として、聖霊との一致において、生き且つ治め給う主よ。
Præfatio communis  序誦  通常の序誦
Ant. ad Communionem. Is. 40, 5. 聖体拝領誦 イザイア 40ノ5
Revelábitur glória Dómini : et vidébit omnis caro salutáre Dei nostri. 主の光栄が現れ、すべての人は、天主の遣わされた救い主を見奉るであろう。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Da nobis, quǽsumus, Dómine : unigéniti Fílii tui recensíta nativitáte respiráre ; cuius cælésti mystério páscimur et potámur. Per eúndem Dóminum. その天の奥義を、われらの糧とし、飲み物とし給う主よ、御独り子の御降誕の記念によって、さらに依り頼みの心をわれらに起こさせ給え。その同じわれらの主、イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給う聖子によりて。
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2018年12月23日待降節第四主日のミサ聖祭(指定巡礼聖堂。十二使徒の大聖堂)のテキストをご紹介いたします。

2018年12月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年12月23日待降節第四主日(一級主日、典礼色:紫)のミサ聖祭(指定巡礼聖堂。十二使徒の大聖堂)のテキストをご紹介いたします。
 昔は、今日のミサを行わなかった。なぜなら、四季の土曜日の典礼と叙品式とが、土曜日の夜から日曜日にかけて行われたからである。それで、本日のミサの典礼のほとんどは、他のミサから取ったものである。<書簡>は、前日の叙品式を思い出させ、司祭たちに向かって、言葉と秘蹟という聖なる奥義を行って天主の下僕となったことを記憶させる。また、一般信者に向かって、司祭たちを批判しないようにと勧める。これはすべて、主の間近き来臨に結びついている。

Dominica Quarta Adventus 待降節第四主日
Statio ad Ss. duodecim Apostolos 指定巡礼聖堂。十二使徒の大聖堂
Ant. ad Introitum. Is. 45, 8. 入祭文 イザイア45ノ8
Roráte, cæli, désuper, et nubes pluant iustum : aperiátur terra, et gérminet Salvatórem. 天よ、汝の露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ、地よ、開かれて救い主を生まんことを。
Ps. 18, 2. 詩篇18ノ2
Cæli enárrant glóriam Dei : et ópera mánuum eius annúntiat firmaméntum. 天は天主の光栄を語り、空は天主の御手の業を告げる。
V/.Glória Patri. ℣. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)
Roráte, cæli, désuper, et nubes pluant iustum : aperiátur terra, et gérminet Salvatórem. 天よ、汝の露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ、地よ、開かれて救い主を生まんことを。
Oratio. 集祷文
Excita, quǽsumus, Dómine, poténtiam tuam, et veni : et magna nobis virtúte succúrre ; ut per auxílium grátiæ tuæ, quod nostra peccáta præpédiunt, indulgéntiæ tuæ propitiatiónis accéleret : Qui vivis et regnas. 主よ、願わくは、御力を起こして来給え。大いなる御力をもって、われらを助け給え。それは、われらの犯した罪のゆえに、妨げられている救いが、聖寵の助力により、御慈悲の恵みによって、早められんためである。聖父なる天主と共に、聖霊との一致において、世々に生き且つ治め・・
Lectio Epístolæ beati Páuli Apóstoli ad Corinthios 使徒聖パウロのコリント人への書簡の朗読。
1 Cor. 4, 1–5. コリント前書 4ノ1-5
Fratres : Sic nos exístimet homo ut minístros Christi, et dispensatóres mysteriórum Dei. Hic iam quǽritur inter dispensatóres, ut fidélis quis inveniátur. Mihi autem pro mínimo est, ut a vobis iúdicer aut ab humano die : sed neque meípsum iudico. Nihil enim mihi cónscius sum : sed non in hoc iustificátus sum : qui autem iúdicat me, Dóminus est. Itaque nolíte ante tempus iudicáre, quoadúsque véniat Dóminus : qui et illuminábit abscóndita tenebrárum, et manifestábit consília córdium : et tunc laus erit unicuique a Deo. 兄弟たちよ、さて、われわれをキリストの下僕また天主の奥義の管理者だと皆は考えよ。管理者に必要なのは忠実ということである。私は、あなたたちや、人間の審判によって裁かれることを意としない。そして自分で自分を裁くこともしない。私の良心は何の責められるところもないが、そのために私は義人とされるのではない。私を裁き給うのは主である。よって、主が来給うまでは、時に先立って裁くな。主は、隠れた闇を照らし、心の企てを現し給うであろう。そのとき、おのおのの天主から誉れを受けるであろう。
Graduale. Ps. 144, 18 et 21. 昇階誦 詩篇144ノ18,21
Prope est Dóminus ómnibus invocántibus eum : ómnibus, qui ínvocant eum in veritáte. 主にこい願い、まことをもって願う者に、主は近くまします。
V/. Laudem Dómini loquétur os meum : et benedícat omnis caro nomen sanctum eius. 私の口は主の誉れを告げ、すべての民は、世々限りなく、その聖い御名を祝し奉れ
Allelúia, allelúia. V/. Veni, Dómine, et noli tardáre : reláxa facínora plebis tuæ Israël. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。主よ、来給え。遅れ給うな、御身の民なるイスラエルの罪を赦し給え、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。
Luc. 3, 1–6. ルカ 3ノ1-6
Anno quintodécimo impérii Tibérii Cǽsaris, procuránte Póntio Piláto Iudǽam, tetrárcha autem Galilǽæ Heróde, Philíppo autem fratre eius tetrárcha Iturǽæ et Trachonítidis regionis, et Lysánia Abilínæ tetrárcha, sub princípibus sacerdotum Anna et Cáipha : factum est verbum Domini super Ioannem, Zacharíæ filium, in deserto. Et venit in omnem regiónem Iordánis, prǽdicans baptísmum pæniténtiæ in remissiónem peccatórum, sicut scriptum est in libro sermónum Isaíæ Prophétæ : Vox clamántis in desérto : Paráte viam Dómini : rectas fácite sémitas eius : omnis vallis implébitur : et omnis moris et collis humiliábitur : et erunt prava in dirécta, et áspera in vias planas : et vidébit omnis caro salutáre Dei. ティベリオ・チェザル在位の第十五年目、ポンシオ・ピラトはユダヤの総督、ヘロデはガレリア分国の王、その兄弟フィリッポはイトゥレアとトラコニティデ分国の王、リザニアはアビレネ分国の王、アンナとカヤファが大司祭だったとき、荒れ野において、ザカリアの子ヨハネの上に、天主の御言葉が下った。そして、ヨルダンの四方の地に行き、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼をのべ伝えた。予言者イザイアの言葉の書(ふみ)に、「荒れ野に叫ぶ者の声、『主の道を備え、その小道を直くせよ。すべての谷は埋められ、すべての山はならされ、曲がったものは真っ直ぐに、けわしいものは平らな道となり、人はみな天主の救いを見るであろう』」と録(かきしる)された通りである。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Luc. 1, 28. 奉献文  ルカ 1ノ28
Ave, María, gratia plena ; Dóminus tecum : benedícta tu in muliéribus, et benedíctus fructus ventris tui. めでたし、恩寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、ご胎内の実も祝せられ給う。
Secreta. 密誦
Sacrifíciis præséntibus, quǽsumus, Dómine, placátus inténde : ut et devotióni nostræ profíciant et salúti. Per Dóminum. 主よ、願わくは、今行うこのいけにえによって、和やかな御目を注ぎ給わんことを。それによって、われらの信心を深め、救いを与え給え。天主として、聖霊との一致に・・
Præfatio de sanctissima Trinitate 序誦  三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Is. 7, 14. 聖体拝領誦 イザイア 7ノ14
Ecce, Virgo concípiet et páriet fílium : et vocábitur nomen eius Emmánuel. 見よ、童貞女(おとめ)は子をやどすであろう。その名は、エマヌエルととなえられるであろう。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Sumptis munéribus, quǽsumus, Dómine : ut, cum frequentatióne mystérii, crescat nostræ salútis efféctus. Per Dóminum. 聖なる賜物を受けたわれらは、御身にこい願い奉る。この奥義にしばしばあずかることによって、われらの上に、救いの実が成長せんことを。天主として、聖霊との・・・
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2019年版聖伝のカレンダーに寄せて

2018年12月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

クリスマス!私たちの主イエズス・キリストの御降誕は、天主の愛をより深く私たちに悟らせてくれます。

「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」

全能の天主が人となる!天主が幼子となって私たちのために与えられる!永遠の天主が時において人となって生まれ、私たちのために苦しみを受ける!

天主と人類とのクリスマス・プレゼントの交換!天主が私たちに永遠の命の喜びを与えるために御独り子をくださる!天主が私たちに天主の命をくださろうとする!私たち人類は、苦しみと悲しみにまみれた惨めな人間の生を天主に与える!天主は私たちが天主を信じ、天主の愛を信じ、天主を愛するならば、私たちの惨めなプレゼントを受け取ってくださる!

私たちを愛するためにお生まれになる幼子イエズス・キリストは、私たちからも愛をお求めになります。最後の晩餐の時私たちの主イエズス・キリストの聖心の上に頭をのせた使徒聖ヨハネが、イエズス・キリストの聖心の愛の招きを福音に書いています。

「私の掟を保ち、そしてそれを守る人こそ、私を愛する人である。私を愛する人は、父にも愛され、私もその人を愛して、自分をあらわす。」

「私を愛する人は私の言葉を守る。また父もその人を愛される。そして私たちはその人のところに行って、そこに住む。私を愛さない人は私の言葉を守らない。」

「父が私を愛しておられるように、私はあなたたちを愛した。私の愛にとどまれ。私が父の掟を守り、その愛にとどまったように、あなたたちが私の掟を守るなら、あなたたちは私の愛にとどまるだろう。」

使徒の時代から、イエズス・キリストの聖心への愛は選ばれた霊魂たちに脈々と伝わっていました。イエズスを愛する人は、聖父にも愛され、イエズスもその人を愛して、御自分をその人々にあらわしました。それは、旧約聖書の雅歌に描かれているような天主と霊魂との清らかな愛の関係です。聖母の汚れなき御心は、イエズスへの愛に完全に応えた心でした。聖フランシスコと聖ジャシンタはそのような霊魂でした。私たちは、ファチマの聖母の御出現の100周年にそれを黙想しました。日本の殉教者たちも、イエズスへの愛に応えた霊魂たちでした。私たちにとって大切な黙想のテーマです。長崎の殉教者たち、津和野の殉教者たち、京都や江戸や東北の殉教者たちは、イエズスの愛に愛でこたえました。

人となりたもうた御言葉(みことば)、イエズスは、聖父の教えを全て、余すところなく、私たち人類に伝えました。「私が聖父より聞いたことはすべてあなたたちに知らせた。」 ところで、旧約時代に天主が選民の信仰と希望を蘇らせるために預言者らを遣わされたように、ご復活の主日の朝、イエズスが聖マリア・マグダレナを遣わして使徒たちに光栄あるご復活の事実を伝えるよう託されたように、しばしば、イエズスは特別な霊魂を選びます。

17世紀には、イエズスは聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647-1690; 1920列聖)やイエズス会士聖クロード・ド・ラ・コロンビエール(1641-1682;1929列福;1994列聖)を選び、イエズスの聖心への愛の秘密を、私たちも知ることができるように計らってくださいました。

近年のイエズスの聖心によって選ばれた霊魂にはシスター・ヨゼファ・メネンデス(1890-1923)がいます。イエズスはヨゼファ・メネンデスへご自分の聖心の愛を私的に啓示され、天主が霊魂をどれほど計り知れなく愛されておられるかをお示しになりました。シスター・ヨゼファの指導者や長上たちは、初めは軽率に信じることなく慎重にことにあたってきたのですが、あまりにも真正なものであることが分かり、彼女の使命を確信するに至りました。

イエズスのシスター・ヨゼファへの語らいの内容が1938年に「愛の招き」(UN APPEL À L'AMOUR. LE MESSAGE DU COEUR DE JÉSUS AU MONDE ET SA MESSAGÈRE. Sœur JOSEFA MENÉNDEZ)という本の形で出版されたとき、カルディナル・パチェリ(後の教皇ピオ十二世)は、その本の第一版を祝福して自筆で序文を書き、これを読むようすべての人々に奨励しています。

イエズスの憐れみとは、罪人の憐れな罪の状態を、罪の無い状態へと引き上げたいという愛です。罪を憎み、しかし罪人を憐れむ愛です。罪を罪であると断罪することは差別ではありません。罪を罪であると言ってあげることこそ愛です。医者が病気を病気でないというのは愛でないと同じです。人間は罪を承諾して犯す時、悪魔の権力の下に身を置くことになってしまいます。罪に対する麻痺や罪の生活の正当化の中に霊魂を呑み込んでしまいます。イエズスはこの罪の暗闇の状態から私たちを引き上げるために、この世に光をもたらすために人となりました。

冷たいこの世は、イエズスの憐れみと愛とを知りません。イエズスは私たちを罪から引き上げたいと、かがんで憐れんでくださっていることを。イエズスは私たちが罪を犯し続けることは望みません。何故なら罪こそが最大の悪だからです。天主の御稜威と天主の権利と人間の義務とに反することだからです。

イエズスは、罪人が罪を罪と認めて罪を憎むことを望んでいます。それができるように、ご自分の十字架を持って罪の結果を見せてくださいました。罪人を愛し罪からの救いのために、イエズスは謙遜と贖罪の一生をお過ごしになりました。イエズスは、ご自分を愛する霊魂たちが、ご自分のようになることを、ご自分に似通ったものになることを望まれます。

イエズス・キリストを愛する霊魂たちは、殉教者たちに見られるように、主の御苦難に非常に近くあずかります。多くの霊魂たちは、「イエズスの聖心のいけにえ」として、「憐れみ深き愛のいけにえ」(幼きイエズスの聖テレジア)として、「イエズスの聖心のなぐさめ」として、霊魂と肉体の苦しみを捧げました。多くの罪人のために、彼らに代わって、償いを捧げ、彼らが罪の生活を放棄し救われるように祈るのです。

イエズスと完全に一致し、イエズスと同じ苦しみをしのび、イエズスの御苦難の奥義に参与し、他人の罪の贖罪的犠牲として、自分の受ける苦しみをイエズスの苦しみに遭わせて堪え忍び、捧げるのです。

イエズス・キリストの至聖なる聖心は、霊魂たちを御許に、愛に、呼び寄せておられます。

クリスマスは、天主の愛をより深く私たちに悟らせてくれますが、それをより良く理解することが出来るように、2019年のカレンダーをイエズスの聖心の私たちへの愛というテーマで作りました。特にピックアップしたのは、イエズスのヨゼファ・メネンデスへの言葉です。

多くの兄弟姉妹の皆様が、この典礼カレンダーをお取りになり、天主の愛を、私たちに対する天主の愛の幅広さと奥行きと崇高な高みと底知れない深みを垣間見ることが出来れば、と願っております。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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2018年11月24日(土) 教会博士証聖者十字架の聖ヨハネのミサ説教 「十字架の聖ヨハネの生涯」

2018年12月18日 | お説教・霊的講話
2018年11月24日(土)教会博士証聖者十字架の聖ヨハネのミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年11月24日、十字架の聖ヨハネの証聖者教会博士の祝日を祝っています。

今日はこのミサの後には、短い御聖体降福式をしようと思っています。そして私たちの家族と、日本と、そして世界の為に、その平和の為にお祈り致しましょう。

来週の金曜日と土曜日にもミサがあります。新しい管区長様が日本にいらして来て下さいます。どうぞいらして下さい。


「あなた達は、世の光である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、そして小さなお友達、今日は十字架の聖ヨハネというとても立派な、カトリック教会が生み出した偉大な神秘家であって、天主様との霊魂の一致を果たして、そしてそれのみならず、ただ自分がろうそくで燃えているだけではなく、あまりにもその光が強かったので、あまりにもその深い体験をしたので、それがどのようなものか、という事を教えて、私たちを強く照らし出して、光出して、私たちに教えて下さった大聖人です。それが十字架の聖ヨハネです。

⑴この十字架の聖ヨハネの生涯、どんな人だったのか?

⑵それからどんな事を言っていたのか?という事を知って下さい。

⑶そして最後に、私たちも遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴十字架の聖ヨハネは、ちょうど日本に聖フランシスコ・ザヴェリオが到着しようとしていた頃、その到着のまだ7年前に、1542年スペインで、スペインのフォンティべロス(Fontiveros)という所に、敬虔なお父さんとお母さんの間に生まれました。家はとても貧しかったのです。しかし立派な両親の家に生まれました。このフォンティべロスというのは、アヴィラ(Avila)という所の近くにありました。

ところで、とても不思議な事が5歳の時にありました。ちょうど小さなお友達のような時に、ちょっとした事から、十字架の聖ヨハネは井戸に落ちてしまったのです。「あぁ!あぁもうダメだ!」と思った時に、その時に、マリア様の手がその子供を救って、水の上で支えてくれたのです。それで、何の怪我もなく助け出されました。

それ以来この子供は、マリア様を特別に愛するようになりました。愛を感じるようになりました。

ところが、この十字架の聖ヨハネにはとても不幸な事が起こりました。お父さんとお母さんがいたのですけれども、お父さんが亡くなってしまったのです。そして十字架の聖ヨハネは片親だけになりました。お母さんはとても生活が苦しくて、どうやって子供を育てていったら良いのだろうかと非常に困りました。その時に、おそらくお母さんの実家かお母さんの何かの関係で、メディナ・デル・カンポ(Medina del Campo)という (やはりアヴィラの近くなのですけれども)村に引っ越ししました。この事が、十字架の聖ヨハネの人生を大きく変えてしまうのです。

そしてそこに行ってから、そこにあった経営していた学校に通ったり、そこで生活をするようになって、十字架の聖ヨハネは非常に熱心に、敬虔に、そしてますますマリア様に熱心に生活するようになりました。特に「これからイエズス様に倣いたい」と思って、柔らかいベッドの代わりに、木の枝を積んで、そこに寝たのだそうです。苦行の生活をしだしたそうです、9歳の時から。きっと生活も豊かではなかったので、色々な必要なものも無かったかもしれません。それでも十字架の聖ヨハネは全てを受け入れて、一生懸命お祈りと、自分の務めを果たしていきました。学校での勉強をしていきました。

そして21歳の時に、そこにあったカルメル会に入会するのです。その時に「マチア」という名前を取りました、ブラザーマチア。優秀な修道士だったので、特にその意図はなかったのですけれども、「司祭になるように」と命じられて、そして有名なサラマンカという所に、そこではスペインとかヨーロッパではサラマンカ大学とは立派な有名な優秀な子供たちが集まる学校でしたけれども、そこに送られて、司祭になる勉強をしました。

そして1567年に、25歳の時に司祭に叙階されて、それから初ミサの時に、お母さんと一緒に引っ越ししてきたメディナ・デル・カンポで初ミサをします。初ミサをした時に、そのやはり「カルメル会の司祭だ」という事で、アヴィラのテレジアもそこに、ミサに与りに来ていたのです。初めて十字架の聖ヨハネ、ブラザーマチアとアヴィラの聖テレジアが出会って、そして色々な話をします。「私たちは修道生活を真剣にしなければならない。カルメル会の初期にあったその原初の、元々の厳しい修道生活を送らなければならない。だから今のカルメル会を改革して、もっと厳しい、もっと清貧、もっと従順の、もっと貞潔の、もっと完徳を目指す修道会へと聖化していこう」という事で、「そうだ。」二人で話がとてもよく合いました。

そこでその時以来、この初ミサ以来、アヴィラの聖テレジアと十字架の聖ヨハネは、ブラザーマチアは友達に、霊的な友達になりました。そしてアヴィラの聖テレジアの修道院の聴罪司祭になったり、アドバイザーになったり、良き援助をするようになりました。

そしてブラザーマチア自身も、他の3人のブラザーたちと、カルメル会のブラザーと一緒に4名で、元々の厳しい戒律を守るカルメル会の発足を申請して、そしてそれが許可を得て、そして祈りと断食、あるいは苦行の生活を始めました。そしてブラザーマチアはその4人の同志と一緒に、その1年後、アヴィラの聖テレジアと会った初ミサの1年後にそれを始めるのですけれども、ドゥルエロいう所で、アヴィラの近くで始めるのですけれども、その時に新しく名前を取りました。マチアではなくて、「十字架の聖ヨハネ」、そして後にはこの名前が全世界に広がるように、知られるようになります。

十字架の聖ヨハネは、この昔のままの厳しい、聖伝の教えの通りの修道生活をしながら、特にイエズス様の玄義について深い黙想をしていきました。アヴィラの聖テレジアと色々な交流がありました。その時に、そしてこの時代に、多くの霊的な本を書いています。これについては後で少し紹介します。

このその後ちょうど10年後、事件が起きました。十字架の聖ヨハネは、いわれもない不当な告発を受けて、そしてトレドにあったカルメル会の修道院の中の牢屋に閉じ込められてしまいました、数ヶ月間。全く不当で、そして十字架の聖ヨハネは弁護する事もできずに、暴力的に牢獄に入れられました。食べ物もほとんど与えられませんでしたし、肉体的な自由もありませんでしたし、霊的にも非常に奪われました。何もしていないにもかかわらず投獄されたこの時に、十字架の聖ヨハネはそれを全て、イエズス様からの愛として受け入れました。

そしてこの時に、大傑作の詩を書くのです。『霊的な暗夜』夜の歌を書くのです。「全てこの地上のこの物質的な、この地上の被造物が私たちに与える慰めや喜びが全くない暗闇の、無い、無い、何にも無い、無い、無い、無い(nada, nada, nada)ところを通して、全て(Todo)である天主にへと至る」という歌を書きます。

そしてその約1年後の8月16日から17日の夜に、ちょうど聖母の被昇天が終わったその夜、ドラマチックに映画を見ているかのように、そこを抜け出す事ができます。そして普通の生活に戻って、アンダルシアで10年、またセゴビアでは修道院長として生活します。その時に、自分の体験を通して霊的な著作を残しています。

1591年には、スペインから新大陸に、メキシコとかアメリカ大陸に多くの宣教師たちが派遣されていました。ですから十字架の聖ヨハネも、「メキシコに行くように」と命令を受けました。そしてその為に色々な準備をしていましたが、その途中、急に病に冒されて、そして非常な苦しみを受けながら亡くなっていくのです。十字架の聖ヨハネはいつも、「自分が死ぬ時には、誰も知らずにひっそりと、苦しみながら息を引き取りたい」と言っていました。

ある時、このイエズス様との霊的な事に関する著作をしている時に、イエズス様がとても喜んで、「おぉヨハネや、お前は非常に私を愛して、よくその事を書いてくれる。報いとして何を望むか?」と言った時に、十字架の聖ヨハネは、「主よ、私は御身の為に苦しむ事と、御身の為に軽蔑される事を望みます」と答えたそうです。

そしてウベダという所で、足に五つの苦しい傷を受けながら、最後の秘跡を受けて終油の秘跡を受けて、告解をして、御聖体を授けられて、そして十字架のイエズス様の像を抱きながら、「御身に我が霊魂を委ね奉る。」そしてまだブラザーたちが朝課を歌っている時に、12月28日幼子殉教者の祝日に、ブラザーたちに、「今日は天で聖務をする」と言って亡くなりました。その十字架の聖ヨハネの体からは、とても良い香りがしたそうです。古来から「聖性の香り高く亡くなった」という表現がありますけれども、「あぁ、まさにこの事だ」と人々は感じた、との事です。

そしてこの十字架の聖ヨハネの体は、今でも腐っておらず、セゴビアの教会にあります。亡くなったのが1597年の事でした。ベネディクト十三世が列聖し、ピオ十一世が教会博士として“Doctor Ecclesiae”神秘的博士、そして教会博士にしました。

⑵十字架の聖ヨハネの書き物は色々ありますが、一番有名なのは4つです。1つは『カルメル山登攀』、第2に『暗黒の夜』、第3に『霊的な歌』、そして『愛の生ける炎』です。

『霊的な歌』というのは特に、牢獄にいた時に書いたものですけれども、「霊魂がどうやって被造物への愛着から清められて、ますます天主様と一致するか、天主へと歩んでいくか」という事を書いています。そしてこの「霊魂が清められて、清められれば清められるほど、天主がその霊魂を愛する愛と同じように、霊魂がその愛で天主を愛するようになる」までの道筋を描いています。

そして霊魂の、『愛の生ける炎』という著作の中では、「霊魂が天主と一致した時にどのようになるか、愛の炎となるか、霊魂が天主への愛に燃えれば燃えるほど、ますます白く輝いて、光を出して、そして清められる、光り輝く、一致する、そして毎日が聖霊の祝日の継続である」という事を描きます。

『カルメル山登攀』では、「霊魂がどのように天主へと一致するか」というその道を、道のりを描くのですけれども、特に『暗黒の夜』では、感覚を奪われ、感覚的な楽しみや喜びを奪われて、受け身的に主によって導かれて、霊魂が主へと一致するまでの事を描いています。

これは私たちに何を教えているかというと、「十字架の苦しみの大切さ」です。イエズス様は私たちのこの世界に福音を、勝利の喜びの訪れを、ニュースを与えました。それは、「罪の結果である死を、復活によって破壊した」そして「私たちの罪を全く赦す」そして「私たちを天国に連れて行く」という良い訪れです、良いニュースです。

私たちにとっての唯一の悪は、「罪」なのです。天主に対して、「嫌だ!」天主の聖心に反対する事です。それで私たちの本当の喜びというのは、命への道というのは、「天主と一致する事」です。「天主の御旨を果たす事」なのです。「しかしそれは、十字架によってなされる」という事を、十字架の聖ヨハネは教えています。


⑶では私たちは今日、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

私たちも十字架の聖ヨハネのように、その御取り次ぎによって、私にとって一番大切なのは何か、「天主との愛の一致だ」という事を、「そこに本当の私たちの喜びがある」という事を、いつも思い出すようにお祈り致しましょう。

それで、「イエズス様はいつも私たちを愛して下さっている」という事を忘れないで下さい。たとえどんな不幸があっても、どこかに引っ越さなければならなくなった、「あぁ、」愛する誰かを失ってしまった、あるいはどうしても何か悪意の為に、投獄された、意地悪をされた、これも全てイエズス様からの愛の表れなのです。私たちをますます清めて、ますます御自分の近くに寄せる為の手段なのです。ですからその事をいつも思い出して下さい。

もしも学校の先生が、「宿題をしなさい」あるいは「こうして下さい」、あるいはお母さんが、「今日はこの仕事を手伝って下さい。」あるいは「さあ、早く寝ましょう」と言ったら、「はい!」と言って下さい。なぜかというと、イエズス様は私たちの日常の色々な出来事を通して、私たちを愛して下さって、私たちの善を計らって下さるからです。辛い事もあっても、それも受け入れて下さい、イエズス様の為に。そうすればそうするほど、私たちはますますイエズス様に近付いて、私たちはますます本当の幸せを、喜びを得るようになります。

最後に、もしもいざとなったら、マリア様の事を思い出して下さい。十字架のヨハネはマリア様によって命を救われました。マリア様はどんな方法でも、私たちを守って下さるからです。

「あなた達は、世の光である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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