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聖ピオ十世会の長崎・秋田巡礼(4月29日から5月8日)の報告 SSPX JAPAN Nagasaki Akita Pilgrimage

2016年05月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 4月29日から5月8日まで行った、聖ピオ十世会の長崎・秋田巡礼は多くのお恵みの内に終わりました。

 愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、フィリピンからの巡礼者の一部をお連れして、5月9日には一日、東京の巡礼地を巡りました。

 ほぼ、提案をいただいた通りに走るべき道のり(curriculum)を進めましたが、しかし、車を出して下さった方がおり、月曜日は美術館がお休みだったこと、フィリピンの巡礼者の要望や、小雨がぱらついてきたこともあり、それに適用させました。

 私たちは、そこで、次を巡りました。
●シドッチ神父様ゆかりの地である、切支丹山屋敷跡

●カトリック浅草教会と、そこにある浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑

 江戸で最初の聖堂は、家康の許可を得て、八丁堀付近に1599年に建てられましたが、その後、幕府は1612年、直轄領に禁教令を敷き、八丁堀の聖堂も取り壊されました。
そのため、ルイス・ソテロ神父様らは、ハンセン病のキリシタンらとこの浅草の地に隠れて活動することとなりました。(1624年には、ルイス・ソテロ神父様らは、長崎の放虎原で生きながら焼かれて殉教します。)

 1613年8月、キリシタンたちは一斉に捕えられ、小伝馬町の牢屋敷などに投獄されました。その数は3700名、特に1500名は特別な監視下におかれました。
指導的な立場にあった信徒らや、棄教したものの信仰に立ち返った人ら30名近くが、浅草の鳥越刑場で斬首されました。

 浅草は、ヨハネ原主水が身を寄せていた地としても知られています。

(浅草では、日本のお土産を買いたいという要望のために、浅草の仲見世にも行き、近くのおそば屋さんでお昼をいただきました。)

●皇居

●高輪カトリック教会とそこにある江戸の殉教者顕彰碑

 高輪カトリック教会に行く途中で、「札の辻」を通りました。札の辻は、東海道から江戸への正面入口で、高札場が設けられており、切支丹禁教令もこの高札場に掲げられ、札の辻は同時に刑場としても用いられておりました。

 1623年12月4日、第3代将軍徳川家光は江戸にいる諸大名にキリシタン禁制を徹底させるため、伝馬町牢屋敷にいた50人の首に縄をかけ、手を後ろ手に縛り、日本橋、新橋、田町と人目にさらしながら、札の辻刑場まで引き回し、イエズス会のアンジェリス神父様、フランシスコ会のガルベス神父様、ヨハネ原主水らが火あぶりとなりました。これを元和キリシタン大殉教といいます。アンジェリス神父様は、秋田の方に宣教を担当者でした。

 カトリック高輪教会は、江戸の大殉教地である札の辻に近く、殉教者の元后聖母マリアに捧げられています。

 特にフィリピンの方々にとって好評だったのは、高輪カトリック教会の殉教の絵(江副隆愛画伯の筆による「江戸大殉教図」)と小さな資料室でした。江戸大殉教図には、イエズス会のアンジェリス神父様、フランシスコ会のガルベス神父様、ヨハネ原主水らの姿がありありと描かれています。


【感想】
 今回の巡礼者の皆様のご感想をいくつか拾ってみると、次の様でした。

* 高輪カトリック教会の殉教の絵が良かった。(石碑だけだとイメージがわかない。)
* 日本には殉教者が多いことがよく分かった。
* 皇居が広かったが、天国はもっと広いだろうと想像できた。
* 1597年、秀吉が最初の殉教者を出すと、翌1598年に、秀吉も死んでいる。
* 1599年、家康が江戸に教会を建てることを許可すると、翌1600年家康は関ヶ原の戦いで勝っている。
* 江戸でこんなに殉教者の聖地があったことをあらためて認識した。
* キリシタンたちは、病院を建ててライ病人の面倒を見たり、貧しい人を助けたりしていて、政府に逆らったわけでもないのに、何故迫害されたのか分からない。
* 殉教とは関係ないけれども、良き盗賊ディスマスはマリア様の立っていた側で十字架につけられたので、改心のお恵みを最後にもらったと思った。


 私の個人的な感想としては、今回の巡礼では行くことができませんでしたが、「伝馬町牢屋敷」には、1612年のキリシタン禁教令以来、1500名のキリシタンが収容され、拷問を受けたという事実を今回、あらためて認識しました。この牢に、元和の大殉教で殉教したヨハネ原主水が入れられ、ローマまで歩いて行って司祭になったペトロ岐部が穴吊るしにより殉教したのも、ここ伝馬町牢屋敷だったという歴史的事実を知りました。当時のキリシタン弾圧の象徴だったということを知りました。

 今回の東京の殉教聖地巡礼は、一日だけでしたが、私にとってとても意義の深いものでした。

 長崎巡礼では、いろいろなことを思いました。特に、最初から最後まで、聖母マリアさまがこの巡礼を全て心配りをして下さって、導いて下さっていた、ということです。何故なら、天候やその他のプログラムがあまりにも、うまくいって、聖母マリアでなければこれほどうまくは行かないと確信したからです。

 特に、永井博士の亡くなった5月1日の命日に如己堂を訪問したのは、天主の御摂理を感じました。(1951年5月1日 - 2016年5月1日)

[永井隆博士辞世の句]
  白ばらの花より香り立つごとく  
  この身をはなれ昇りゆくらむ


 永井博士の作詞した「ルドビコさま」を皆で歌ったのですが、この歌がとても胸に響き、涙なしには歌えませんでした。

「ルドビコさま」
(作詞・永井隆)

ルドビコさまは 十二才
耳をそがれて しばられて
歩む千キロ 雪の道
ちいさい足あと 血がにじむ

ルドビコさまが にっこりと
笑って 槍を受けたとき
西坂丘の 夕映えに
ほろりと散った 梅の花

 永井博士の作詞した「白百合乙女」という歌のことも知りました。

はんさいの 炎の中に
歌いつつ白百合乙女
もえにけるかも
はんさいの 炎の中に
歌いつつ白百合乙女
燃にけるかも

 それでは巡礼者の方々のご報告を一部ご紹介します。

 最後に、この巡礼のために、陰で手伝って下さった多くの方々に心から感謝します。また、東京では一日、フィリピンの巡礼団とつきあって下さって車を出して下った兄弟に、深く感謝します。

 そのような方々が、聖母マリア様の御手にてお手伝いして下さったので、聖母マリアの思いの通りに、巡礼がうまく行ったのだと思います。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
Dear Father Thomas!
I thank you so much for inviting me to the pilgrimmage, for great organization and ... for being a great Tool of the Immaculata! And Our Lady is obviously beyond any description..wonderful!
Deo Gratias to you and all the great faithful who have been with us.
Pax!!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父さま長崎秋田巡礼を計画して下さり沢山のお恵みをありがとうございます。


信仰のお友だちも沢山できました。トリエントのお話を沢山しました。皆とっても素敵な厚い信仰を持った方々でした。

秋田のマリアさまに5日間毎日お逢いすることができ、嬉しかったです。こんなお恵みはないと思いました。

そして、シュテーリン神父さまが大好きになりました!彼は聖人のようです。最後のごミサでは感動して涙がでてしまいました。

聖母の騎士になることが私の参加の目的でしたので、入会することができたことを天主さまに感謝致します。

どうぞよろしくお願いいたします。


【お返事】
 私も、今回、シュテーリン神父様からのすばらしいお話を伺えて大変感謝しております。
 シュテーリン神父様がアジア管区に与えられたことを天主様に感謝します。シュテーリン神父様は、来る8月に大阪で聖母黙想会を指導して下さいます。
 どうぞ、できるだけ、ご参加を考えて下さい。


【報告】
アヴェ・マリア.・インマクラータ! 小野田神父様

長崎秋田巡礼に参加させていただきましたこと本当にありがとうございます!

御母マリア様はこの出来損ないの私の霊魂をもこのように面倒をみてくださり この2016年の長崎秋田巡礼を通して必要な御恵みをくださいました。感謝に堪えません。小野田神父様と二人の神父様、ヨゼフ家の皆様のおかげです、特に小野田神父様のお仕事ぶりには頭が下がりただただ感謝しお祈りするばかりです。

秋田では、霊的講話を拝聴して「この世はあっという間に過ぎ去るものであり」、「汚れなき御心のマリア様に倣って、霊魂というカリスをいつも空にする」こと、いつも小野田神父様がおっしゃられていることがようやく深く浸み込んでまいりましたことを感じました。

小野田神父様が東京と大阪の巡回教会に付けられた名称を思い浮かべ感慨深く感じ入りました。他にもいろいろなお話が一人修練をするうえでの次の道しるべとなりました、霊的ご指導に感謝です。

それ以上に今何をどのように祈ればよいかが明らかになり、無原罪聖母の騎士会に入会させていただいたことを感謝いたします。本当に 長崎から秋田までの中で、ずっと汚れなき御心のマリア様に守られ抱かれての巡礼だったように思います。この巡礼は霊的にはまだ続いているのですね。

一人でも多くの方々がこのミサに与れますようにお祈り申し上げるばかりです。遅れば
せながらお伝え申し上げます。


【お返事】
 おっしゃるとおり、聖母マリアさまが今回の巡礼を全て導いて下さったと実感しました。
 また、これは予告編で、私たちの人生の天国への旅路も、聖母マリアさまが導いて下さっている、ずっと続けて導かれる、と確信しました。
 聖母マリアさまが、憐れみの母である、ということを、今回、単語の意味だけではなく、その深い内容が理解できて感謝しております。

 聖母マリアよ、我らを憐れみ給え!

【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様、

今年も素晴らしい巡礼をありがとうございました。

小野田神父さまがお疲れになりすぎるのではないかと、大変心配になりました。
神父さまが、お知らせや会計や案内などの雑事から、できるだけ解放されて、御ミサや講話など聖なる働きにのみ専心できるような環境になるようにお祈りしたいと思います。

祈りと感謝のうちに


【お返事】
 天主様の御憐れみと聖母マリア様の御助けで、実は、多くの兄弟姉妹の皆様によって助けてもらっております。あたかも存在していないかのように、慎ましく、あまりにも目立たないやり方なので、私が全部やっているような印象を与えてくれています。天主様に感謝!このような方々にいつも感謝でいっぱいです。このような兄弟姉妹には、天主様が何十倍、何百倍もの報いが与えて下さいますように!


パーフォーマンス課題:一日で周る江戸キリシタン巡礼の旅 Performance task through GRASPS

2016年05月10日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日パーフォーマンス課題を提案しましたが、これは私たちの知識が現実世界につながっていることを理解するために意義があります。先生が教壇の上から講義ノートを読むのを右の耳で聞いて左の耳から出ていくだけではなく、実際に、現実世界のために使われる知識として、理解することを促すからです。

 さて、パーフォーマンス課題にすぐにチャレンジして下さった方があり、その回答が模範的だったので、制作して下さった方の許可を取ってご紹介します。

一日で周る江戸キリシタンの旅

(↑クリックしてパワーポイントを開いて、クリックしたり矢印(→)を押したりして、スライドを進めて下さい。)

 【評価】
(1)これを拝見すると、まず、日本におけるカトリック信仰の伝達から始まって、豊臣秀吉のバテレン追放令、徳川家康のキリシタン禁教令、江戸での殉教の歴史の流れが説明されます。この全体を眺めた上で、訪問場所が選ばれ、日本とカトリック教会とにとってこれらがどれほどの重要性、意義、意味の深さを持っているか、その理由の説明が加えられています。

1549年 フランシスコ・ザビエル 鹿児島上陸
1587年 豊臣秀吉 伴天連追放令
1597年 26聖人殉教(長崎) → 列聖(1862年)
1598年 徳川家康 江戸での条件付宣教許可(江戸)
1603年~1639年 188列福者殉教(八代、萩・山口、薩摩、生月の殉教者、有馬、天草、京都、小倉・大分・熊本、江戸、 広島、雲仙、長崎西坂、その他) 
            → 列福(2008年)(※)         

1612年 徳川家康 切支丹禁教令(江戸) → ③浅草・鳥越きりしたん 
                         ヨハネ原主水 潜伏地 
                         ④伝馬町牢屋敷
                         ヨハネ原主水 収容地
1623年 徳川家光 元和の大殉教(江戸) 
      ヨハネ原主水他全50名       ⑤札の辻にて殉教 → ヨハネ原主水 → 列福(2008年)
                      → ④伝馬町牢屋敷~日本橋新橋~新橋~田町~⑤札ノ辻(元和キリシタン殉教地) → ヨハネ原主水 殉教の道のり
                        ⑥元和キリシタン遺跡
                        ⑦江戸の殉教者顕彰碑、江戸大殉教図、禁教の高札


1633年~1637年 16聖人殉教(西トマス他)(長崎) → 列聖(1987年)

1639年 ペトロ岐部 ④伝馬町牢屋敷にて殉教(江戸) → 188列福者の最後の列福者(※)

1640年 江戸幕府 初代宗門改役に井上筑後守を任命(江戸) 
1646年 井上の下屋敷を切支丹屋敷に転用(転び伴天連の収容場所)(江戸)
1714年 ①切支丹山屋敷にて最後の囚人 ①シドッチ神父死去 シドッチ神父の所持品が②親指の聖母(江戸)


(注1)赤字は江戸関連のできごと
(注2)丸数字は巡礼の順番


(2)こうして選ばれた重要な訪問場所を、出発点から最終地点まで無駄なく移動できる様に考慮されており、物理的・経済的な制限に配慮があります。現実的に可能な提案です。

 次の7つが選ばれた巡礼地です。
①切支丹山屋敷跡
      (シドッチ神父様ゆかりの地)
②東京西洋美術館「親指の聖母」
      (シドッチ神父様の持参品)
③浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑
        (カトリック浅草教会)    
④伝馬町牢屋敷跡
        (十思公園、大安楽寺)

⑤札の辻(高札場、元和キリシタン殉教地)
⑥元和キリシタン遺跡
⑦江戸の殉教者顕彰碑
        (高輪カトリック教会)


(3)特に、日本のみならず、フィリピンからのカトリック信徒の方々にとって、深い意義や重要性を見いだせるものがピックアップされていました。

(4)説明は、一つの巡礼地ごと、ポイントがはっきりしていて、明確で、分かりやすく、説得力がありました。

(5)視覚資料は、写真や地図などが、有効に選ばれていて、説得力を増すものでした。

 この資料を作って下さった方に心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


贖われた人類の遺産、日本のすばらしい宝である長崎、それを生み出した聖母マリア様の憐れみ

2016年05月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会日本による毎年恒例の秋田巡礼ですが、2016年は巡礼10周年を記念して長崎にまで足を伸ばしました。

 今回の長崎巡礼は、秋田巡礼10周年を祝うためのみならず、信徒発見150周年を祝うため、私たちと同じ聖伝の信仰と愛とを持って殉教していった先祖たちの英雄的な証をより深く知って崇敬するため、また、コルベ神父様の無原罪の園を訪ねて無原罪の聖母の騎士創立100周年を準備するため、に行われました。巡礼者の方々が、良き巡礼の時を過ごすことができたことを期待します。

 愛する兄弟姉妹の皆様のしもべにとって、今回の長崎巡礼は特別のお恵みでした。長崎が、イエズスさまから愛され、マリア様から特別に愛された、贖われた人類の貴重な遺産の地であり、カトリック教会の宝、日本の宝であると、思いを深めました。

 無原罪の聖母マリアさまの力の強さ、優しい配慮と親切さを、この身で体験し、目で見ることができました。

 また長崎の偉大さを今回あらためて理解しました。長崎という土地は人類の大切な世界遺産だと思います。また島原半島の素晴らしさを認識しました。

 数十万の殉教の地に赤く染まった長崎。550名以上の司祭・修道士・修道女・信者たちが、敵を赦しつつその聖なる血潮を流した奇跡の連続であるかのような西坂を持つ長崎。

 250年以上にも亘る残酷な迫害の中で司祭がいなかったにも関わらず信仰を忠実に伝え続けた奇跡を生み出した長崎。迫害と差別を受けつづけた後に信仰を捨てなかったために日本各地に追放されながらも、それを「旅」に出ると言って喜んで追放されていった信者たちを生み出した長崎。県庁付近を狙った原子爆弾が天候のため北方に偏り浦上のしかも天主堂の真正面に流れ落ちた長崎。

 原爆を受けて全てを失ったにもかかわらず、信徒代表の永井博士の口を通して「豊臣徳川の迫害に滅ぼされず、明治以来、軍官民の圧制にも負けず、いくた殉教の血を流しつつ四百年、正しき信仰を守り通したわが浦上教会こそは、まこと世界中より選ばれて、天主の祭壇に献げられるべき潔き羔の群れ」「美しきもの、潔きもの、善きものよ」と仰ぎ見て、全知全能の天主の御業に讃美し、浦上教会が世界中より選ばれ燔祭に供えられたことを感謝した長崎。

 無原罪の聖母の忠実な道具である聖マキシミリアノ・コルベが、聖母マリア様の御旨によって6年住み聖化した長崎。長崎は、贖われた人類の宝であり、聖母マリアによって与えられた日本の最も誇る聖なる地の一つであると、しみじみと確信しました。

 長崎には38名の巡礼者がフル参加しました。2名ほどの外国人の方々が巡礼の希望を持ちながら、熊本での地震のために、あるいはその他の理由で、残念ながら来ることができませんでした。

 巡礼団の団長として巡礼のプログラムを組むに当たって、なるべく多くの場所を網羅して見て回るという観光的なやり方ではなく、それらを全てカバーすると本当に見るべきものにカバーが掛かってしまって見えなくなってしまうので、巡礼の目的を達成するために最も効果的な場所を選んで、たとえそれ自体すばらしいものであっても目的のために効果的でないならば行かない、という方針で考えました。あまりにも多くのすばらしいものがある長崎において、何を捨てて行かないかということは難しい選択でした。

【第1日目】
 第1日目をプランするに当たってのターゲットは、聖フランシスコ・ザベリオによって伝えられ始めた信仰、その教えが、聖母マリア様の御取り次ぎによって、最初にどのような実を結んだのか、最初の日本二十六聖殉教者や長崎の16聖殉教者などを生んだ西坂を深く知ることです。

 第1日目には、長崎に到着したその足で、すぐに西坂の丘に向かいました。550人以上(日本二十六聖殉教者記念館の館長レンゾ神父様によると600名)の殉教者の血で赤く染まったこの聖なる地に詣で、その地に接吻をし、祈りを捧げました。記念館の二階には、殉教者たちの聖遺物が納められ、ただただ跪いて祈りを捧げるのみでした。

 帰り際にポーランドからの巡礼団と出会い、一緒にポーランド語で(!)ポーランドの有名な巡礼の歌を歌いました。西坂にある聖フィリポ教会にも行き、日本二十六聖人の聖遺物の前で皆が跪いて祈りを捧げ日本の殉教者をたたえる聖歌を歌いました。その日はみどりの日であり昭和の日でありましたが、昭和天皇が教会の脇にお植えになった樹木を見て、私たちがここに今日この日に来たのは偶然ではないと思いました。

 次に中町教会に立ち寄り、やはり西坂で殉教して列聖された長崎16聖殉教者を崇敬しました。

【第2日目】
 第2日目をプランするに当たってのターゲットは、聖母マリア様の御取り次ぎによって、日本のカトリック教会の誇るべき偉大な聖人達をどのように多く生み出されたのか、特にそれに傑出した島原半島を理解することです。


 巡礼第2日目には、日本二十六聖人の随意ミサを歌ミサで捧げました。

 聖伝のミサの後、私たちは貸し切りバスで雲仙に行き、島原領主松倉重政が考え出したキリシタンを苦しめる拷問、雲仙地獄の地に詣で祈りを捧げました。島原半島の殉教者たちが、御聖体に支えられれ御聖体に全てを捧げたことに、感嘆と賞賛の念でいっぱいになりました。雲仙地獄は、多くの殉教者を生み出しました。

 島原は、大名の有馬義直(大村純忠の兄)が1563年にアルメイダ修道士を招いてイエズス・キリストの教えが伝わりました。貧しい方々や病気の人々を助けるために病院を建て、愛徳を込めて彼らの世話をする「ミゼリコルディアの組」(愛徳の信心会)ができ、日本人のための奉仕と福祉のために働きました。アルメイダ修道士は、ポルトガルの青年医師(外科医)で、天主の憐れみの福音を伝えるために、至る所でやむ人々に手をさしのべていました。

 マリア様へのお祈りをする「ロザリオの組」(ロザリオの信心会)も組織され、「御聖体の組」(御聖体を礼拝する信心会)が特に盛んになり、平和に暮らしていました。義直がセバスチアノという霊名で洗礼を受け、その跡継ぎである有馬晴信夫婦も1579年にプロタジオとルシアという霊名で受洗し、島原の人々はほとんどが信者になりました。島原は、日本のカトリック教会の中心地となり、有馬には立派なセミナリヨ(神学校)が建てられ、有名な天正遣欧少年使節も、有馬のセミナリヨの卒業生です。当時は、セミナリヨは有馬と安土とに二校ありました。この神学校では、天主と人々への愛と奉仕に努めるリーダーたちを生み出していました。


 次にこの松倉重政がキリシタンたちに7年3ヶ月に亘る強制労働を述べ100万人に上る農民の使役と重税を強いて身分に不釣合いに豪華に建てた島原城(森岳城)に行きました。お上に褒めてもらいたい、自分をよく見せたい、自分の保身、自分の利益ということのために、お上のご機嫌伺いをし、虚栄心の塊だったかのような松倉重政は、関ヶ原の戦いで逃げる西軍に勝ったという報告さえする卑しい男で、自分の身分に不相応な城を築き、江戸城修復の時には、四万石ほどの力しかないくせに十万石の賦役負担を自ら進んで幕府に申し出て、格好をつけ、幕府をせき立ててルソン征伐準備し、極めて高価な武器を数多く買い込むために、つけを領民にまわしてこれを圧迫し、それで何も思わない男でした。年貢を払えない者には、容赦のない拷問や処罰を施しました。司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない。」と言っているほどです。

 重政が1618年から作った島原城の外郭は東西に約380m、南北に約1260mと広大で。周囲は3900mの堀に囲まれ、自分の石高に不相応な成金的な大きい城でした。本丸内の天守は五重五階で、本丸の北に廊下橋で二の丸が結ばれ、さらに三の丸を配置し、三の丸の近くの藩士屋敷には牢屋があって、宣教師や信者たちが入れられ、厳しい拷問を受け、堪え忍び、祈り、互いに励まし合い、信仰を守り抜いた場所です。

 重政は57歳で急死します。雲仙地獄の拷問を考え出して三年後の1630年(寛永七年)十一月十六日に小浜温泉で狂死します。何故なら、急病にかかり、病状は日毎に悪くなり、医師たちも手の施しようがなく、重政は小浜温泉に連れて行くよう命じたのです。そこで熱湯を自分の身体にかけさせ、次には冷水をかけさせたのち、自分の身体を割竹で存分にたたけと家臣に命じました。ためらっている家臣たちに、太刀を抜いて命令通りにせよと怒るほどでした。家臣たちは命令のまま重政を叩きつづけ、ついに死に至らしめたのでした。正にキリシタンに加えた拷問を自ら望んで受けたのでした。

 家督を継いだ息子の勝家は、更なる重税を課しました。1634年からの大旱魃による凶作のために、1637年3月から4月にかけて餓死者が続出しました。勝家は憐れみもなく、納税が遅滞するや、家族を人質に取り拷問を加えました。1637年、口之津村の与三左衛門の嫁は、納税を納めるまで、と人質に取られ、妊娠の身で裸で水牢に入れられて、6昼夜苦しめられ、母子ともに殺されました。勝家は、税を納められない農民に蓑を着せ、火をつけ、転げまわらせて、「蓑踊り」と称して楽しみさえもしました。特にキリシタンたちに対しては厳しい残酷な取り扱いをして、島原の乱を起こさせる原因となりました。

 キリスト教を迫害して作られた島原城ですが、明治維新で廃城となり、民間に払い下げら、天守も解体され、本丸は畑となりました。三の丸のあったところは、第一小学校と島原中学校、島原高校となっています。

 今存在している島原城の天守閣は、1964年に鉄筋で復元されたものです。天守閣は、運命の皮肉であるかのように、キリスト教の資料を中心とする博物館と変わりました。この資料館は貴重な資料がよく集められ、訪問に値するものでした。博物館で働いている方々がアトラクションとして昔の武士の衣装で訪問客を歓迎していましたが、その内の一人の方がロザリオを首に掲げておられ、吉利支丹を歓迎して下さっていることをうれしく思いました。

 昔、島原城とは別に「原城」がありました。私たちは今回は時間が無く行けなかったのですが、原城は、天草四郎をリーダーとする島原の乱で有名です。すでに重政は、原城の石垣を全部使って、島原城の築城に利用していました。幕府は、すでに1600年にプロテスタントのオランダと接触を持っていました。何故なら、オランダのロッテルダムを出港した4隻の船隊が難破して、そのうちのリーフデ号が1600年に日本に漂着したからです。この中に、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)が乗っていました。

 1637年10月、農民は代官の林兵衛門を殺害し「島原の乱」が勃発します。農民たち、3万7千余名が原城に立てこもりました。

 幕府は、日本各地から12万7千余の大群を集めて原城を攻撃しました。更にオランダに頼み、デ・ライプ号を使って、原城を海上から砲撃させました。デ・ライプ号の大砲も外させて陸上から原城を攻撃し、籠城軍に深い痛手を与えました。こうして1638年2月28日に陥落しました。

 「細川家記」によると、「年貢の取り様非道なるによりて起こった」と乱の原因を明記しています。司馬遼太郎によると、島原の乱は宗教一揆ではなく、その証拠は、松倉勝家が、切腹ではなく、打首になったからだと言います。

 しかし、実はそのほとんどがキリスト教信者でした。城が落ちて幕府軍が攻め込んできたとき、まだ2万人もの女性や子供達が残っていました。記録によれば、彼らは信仰を捨てないという理由で打ち首になり、堀の中に生き埋めにされました。島原の乱の陣中旗は「御聖体の組」の旗でした。島原の乱の遺跡調査によると、メダイを舌の上にのせて殉教したと思われる多くの遺骨が発見されています。それは、メダイを御聖体の代わりに口に含んでなくなっていったからです。

 原城の発掘調査から出土された十字架は鉛製で、敵の火縄銃の弾丸を溶かして作ったものでした。

 今の私たちは、食べるもの飲むもの着るもの住む家が全てあり、クーラーの効いた部屋でインターネットの記事を読みながら、あるいは暖房の効いた静かな部屋でぬくぬくと本を読んで、「なんだキリシタンはけしからぬ、キリスト信者たる者、忍耐し我慢しなければならない」と、島原の吉利支丹たちを非難するのは簡単です。しかし、彼らは、キリストの教えのままに天主を愛し、天主を愛するがために隣人を愛し奉仕し、平和に暮らそうと努めていたというその罪のために、断罪され、雲仙地獄で拷問を受け、蓑の火踊り、逆さづり、重税、非道で残酷な取り扱いを現実に何十年も受け続け、差別と飢餓と死と隣り合わせになっていつも生きるように強いられていたのです。カトリック司祭の良き指導もなく、キリスト信者たちは、よくぞそこまで堪え忍んだものだと感嘆します。もしもキリストへの信仰がなければ、とっくに反乱が起こっていたことでしょう。

 あそこまで追い詰められた島原の農民の苦悩を思うとき、いわゆる「ABCD包囲陣」に思いが行きました。つまり、アメリカ合衆国(America)とイギリス(Britain)、オランダ(Dutch)による、経済制裁、日本への石油禁輸措置、日本資産の凍結、鉄鉱禁輸措置などを、日本の当時のマスコミが呼んだもののことです。

 その後、今村刑場跡を訪問して、祈りを捧げました。最後には、有明海海岸に行き、この海に捨てられた多くのカトリック信者の殉教者たちの取り次ぎを祈りました。


【第3日目】
 第3日目をプランするに当たってのターゲットは、イエズス・キリストの教えとカトリック信仰の中核である「赦し」と、その教えが聖母マリア様の御取り次ぎによって、原爆の時どのように表現されたかを理解することです。それと同時に主日として、リクリエーション的な要素も取り入れることです。

 第3日目は、5月1日の主日で、まず如己堂、永井博士記念館を訪問しました。5月1日は永井博士の命日で、博士が息を引き取って霊魂を天主様に返したその場所である如己堂に馳せ行き、そこで祈りを捧げることができたのは無原罪の聖母のお計らいでした。

 次に、原爆資料館、グランドゼロ、最後に浦上天主堂を訪問しました。浦上天主堂では、皆でロザリオ一環を唱えました。

 最後は稲佐山に登り、長崎を一望し、長崎市内のレストランでとてもすてきな夕食を味わいました。巡礼者の皆が舌鼓を打ち、最後にレストランを選んだマネージャーに拍手喝采を送りました。

【第4日目】
 第4日目をプランするに当たってのターゲットは、無原罪の聖母の道具であり騎士である聖マキシミリアノ・コルベ神父様の全生涯が、ただ純粋に単純に無原罪の聖母の意志を実行することだったということを理解することです。

 第4日目は、大浦天主堂、無原罪の園(聖母の騎士)を訪問し、記念館の聖マキシミリアノ・コルベ神父様のお部屋で祈り、ルルドに上って無原罪の聖母への奉献の祈りを唱え、聖遺物のある聖堂に行きまた祈りました。

【第5日目】
 第5日目をプランするに当たってのターゲットは、無原罪の聖母は、私たちのために苦しんだ憐れみの母であるということを理解することです。私たちのために必要なら奇跡さえも起こすことができる憐れみの母である、という理解です。


 第5日目は長崎から秋田に向かう日です。

 実は、長崎到着以来、最高の良い天気に恵まれていた私たちですが、無原罪の園からホテルに戻るやいなや天気が崩れだし、なんと夜中の2時には暴風警報のアナウンスが市内の拡声器から流されたのです。私たちは皆、真夜中にその声でたたき起こされたほどでした。

 無原罪の聖母は、私たちのために苦しんだ良き母であるということを理解するために、聖母マリアの七つの御悲しみの随意ミサを捧げました。

 ところで、ハプニングがありました。この日は、夜中から暴雨暴風でした。本来なら最後に、西坂の丘にもう一度行って最後のお別れの挨拶をしてから、飛行場に向かう途中にある放虎原の巡礼の地に詣で、巡礼者に祈りを捧げてから飛行場に着く予定でした。しかし、激しい雨と風のために、無原罪の聖母マリアさまは西坂の丘に登ることも、放虎原に詣でることも、お許しになりませんでした。(ご都合で秋田にはご一緒できないご家族が三名で、夕方に、天候が回復した後に、私たちの代わりに西坂で「さようなら」の挨拶をして下さいました。)

 そこで私たちは、予定よりも早く飛行場に一足先に着いてみると、飛行機のスケジュールが乱れに乱れていて、暴風雨のために到着できずに戻ってくる飛行機や、飛び立てない飛行機などがありました。

 ところで、外国から来られる予定だった方のうちの一人が来られないということは、私たちは突然知らされて、その方の飛行機のキャンセルは本来なら出来ないものでした。また外国から追加の参加者があったために皆が一つの飛行機で行くための予約が満席でできず別々の飛行機になってしまう予定でした。それが、この悪天候のために本来ならできなかったはずのキャンセルができ戻らないはずの飛行機代が払い戻しされました。また、本当なら別々の飛行機になってしまうはずが、皆、一緒に同一機の飛行機に乗って巡礼をすることができるようになりました。私たちは皆、この出来事のうちに、無原罪の聖母の優しいご配慮を理解しました。

 ご都合で秋田までには来られない7名の方々にお別れを告げて、私たちはそのたびに遅延した飛行機に乗り継いで、秋田に参りました。

 5月5日の私たちの主の昇天の祝日には、59名が聖体奉仕会に安置されている聖母マリア様のみもとで祈りを捧げました。そのうち18名がフィリピンの国籍の方々です。天主様に感謝!

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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