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今日経験している教会の危機は典礼崩壊が原因であると、私は確信する。(ベネディクト十六世)

2007年10月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

今日経験している教会の危機は、典礼崩壊が原因であると、私は確信する。
(ベネディクト十六世)


愛する兄弟姉妹の皆様、
 いつもご愛読をありがとうございます。
 ウィリアムソン司教様の記事を読んで、今は3名の司祭だから力が弱く、司教様から「聖伝のミサはダメだ」と脅迫を受けているけれども、これが100名になり、500名になり、1000名になったら、司教様たちもこれらの司祭を無視できなくなるだろう、と思いました。
 聖ピオ十世会が捧げている日本での聖伝のミサも、40-50名では、力が弱いかもしれません。しかし、これが500名となり、1000名となれば、普通の小教区でも聖伝のミサが捧げられるようになる契機となるだろう、と思いました。

 今回は、教皇様の御言葉の黙想を提案します。

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「黙想 
 重い十字架の下にイエスはまたお倒れになります。三度もお倒れになったということについて、何を言うべきでしょうか。おそらく、人間の一般的なつまずきについて、多くに人のキリスト離れについて、神不在の世俗主義に向かう時流について考えなければならないでしょう。しかし、私たちは、キリストがご自分の教会において苦しんでおられることを考えなくてもよいのでしょうか?
 キリストの現存である聖なる秘蹟(=御聖体のこと)が、どんなに濫用されていることか、しばしば、虚ろな心や悪意に満ちた心の人にも拝領されているのです。
 私たちはどれほど、イエスについて何の意識も持たないまま、ただ自分たちのミサを行っていることでしょう。
 どれほど神のことばがないがしろにされ、濫用されていることでしょう。
 多くの理論・学説にわずかな信仰、何といむなしい言葉。
 何とひどい汚れが、教会の中に、またすべてイエスのものであるはずの司祭たちのあいだに見られることか。
 何という傲慢、自己満足。
 何という、ゆるしの秘蹟に対する尊敬の足りなさ。イエスがそこで、私たちの罪から立ち直らせるために待っておられるというのに。
 これら全てが、イエスの受難の中に現存しているのです。弟子たちの裏切り、イエスの御体と御血の不謹慎な拝領は、確かに、贖い主の最大の苦痛であり、彼の心(=聖心のこと)を刺し貫くものです。
 魂のもっとも奥深いところから主イエスに向かって、主よ、憐れんで下さい、と、叫び声を上げるほかありません。「主よ、私たちを救って下さい」。

祈り
 主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。あなたの麦畑もまた、よい麦よりも毒麦のほうが多いように見えます。あなたの教会の、汚れた衣や顔に驚かされます。しかし、それは私たち自身の汚れです。私たち自身、大きなことを言うたびに、大げさに振る舞うたびに、あなたを裏切っているのです。・・・」
「教皇ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行き」(女子パウロ会)


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私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ)

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「ヨーロッパの文明は、必要なものを全て持ち、あたかも天主が存在しないかのように生きている人々の『沈黙の背教』という印象を与える。」(ヨハネ・パウロ二世 ECCLESIA IN EUROPA 9)


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「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計り知れないもの」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 162~163ページ)だからです。


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「実際に、新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられたからです。この「典礼を創造的に行うこと」は、しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめました。わたしは経験から述べています。わたしもあの希望と混乱に満ちた時期を体験したからです。そしてわたしは、典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々をどれほど深く傷つけたかを目にしてきました。」ベネディクト十六世


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「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」ベネディクト十六世

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■ 何故カトリック教会にとって聖伝のミサがそれほど大切なのか?
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

レオナルド・ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人の肖像」

2007年10月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」を紹介します。

***



 これは、モナリザと並んで、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画の一つである。この絵は、ポーランドのツァルトリスキー美術館(Muzeum Czartoryskich)が所蔵している。
 ふつう、「白テンを抱く貴婦人の肖像」(Ritratto di Dama con Ermellino, Dama con l’ermellino, La Dame a l'Hermine, Tableau de Leonard de Vinci (1483) と訳されている。

 この肖像の若々しい少女は、チェチリア・ガッレラーニと推定されている。チェチリア・ガッレラーニ(Cecilia Gallerani)が抱いているのは白テンだ。

 白貂(ハクテン)と訳される Ermellino という動物は、学名を Mustela erminea と言い、日本語ではオコジョとも言うようだ。ネコ目(食肉目)イタチ科に属する動物である。

 白貂は、極めて獰猛な動物であり、野生のあらゆる種類の動物、鳥、ウサギ、リス、ノネズミなどを始め、トカゲ、カエルなどの両生類や、ハチなどの昆虫でも何でも食べてしまう。気性が荒く、自分の体よりも大きいノウサギやライチョウを捕食することもある。ネズミの巣穴を乗っ取って自分の物にすることもある。動物のみならず、果物も喜んで食べてしまい農家にとっては害を与える動物である。家畜化して馴らすのは極めて困難である。日本では貂はその乱暴さの故に妖怪視されていた。

 そのペストのような獰猛な動物を、この少女チェチリア・ガッレラーニは、おとなしく飼い慣らしている。獰猛な白貂が、人々の自然本性を意味し象徴するとすれば、この少女が自然の本能を自分の理性と信仰との支配のもとに置いているということを象徴している。極めてキリスト教的なメッセージをもつ絵画だ。

【参考リンク】
Ritratto di Dama con Ermellino
レオナルド・ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人の肖像」

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教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日

聖ピオ十世会の日本での活動のために

2007年10月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会の日本での活動のためにカンパは、次のペイパルなどをご利用下さることも出来ます。ご参考までに。寛大なご援助を感謝します。

寄附・カンパ


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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式韓国語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

キリエ・エレイソン! 主よ憐れみ給え! ブログ DINOSCOPUS

2007年10月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 キリエ・エレイソン! 主よ憐れみ給え!

 兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会の「ウィリアムソン司教様のブログ」をご紹介します。
 といっても、ウィリアムソン司教様の書かれた記事を、Stephen Heiner 氏がブログ形式でアップして紹介しているウェッブ・サイトなのですが、DINOSCOPUS
Dinoscopus : A collection of occasional thoughts from Bishop Richard N. Williamson, of the Society of St. Pius X, from his post in Argentina です。

 イタリアのローマに滞在中のウィリアムソン司教様の記事(10月6日)によると、聖ピオ十世会イタリア管区では、聖伝のミサの捧げ方を説明したチュートリアルDVDを、望む司祭に無料で提供していますが、既に600部、もうすぐ700部の注文に到達するそうです。

(因みに、聖ピオ十世会では、聖伝のミサの捧げ方を説明したDVDを制作し、それを望む司祭には無料で提供していますが、ドイツ管区では約1600名の司祭から、フランス管区、約1500名の司祭から、スペイン、約150名の司祭、ポルトガル、約100名の司祭からDVDの申し込みがあったそうです。初版の3000部は全て配布されてしまったそうです。)

 イタリア管区が発送した600部以上のDVDの送り先の九割が司祭あるいは神学生だそうです。草の根の、名も知れないこれらの司祭たちが、聖伝のミサに関心と情熱を持っているのですが、司教様たちは冷たい反応を示しています。

 イタリア北部の三名の司祭は、十年以上前に神学校の同窓生でした。この三名の司祭は数ヶ月前から聖伝のミサの捧げ方を習っていました。そのうち二名は、新しいミサを二度と捧げない、と決心しました。もう一人は、対面祭壇を壊してしまいました。

 この三名は、司教様に教区民のために聖伝のミサを捧げる許可を願いました。司教様の答えは、「ローマが言いといえば良い」でした。

 そこで三名はローマに行ってそれを願いました。エクレジア・デイ委員会の答えは、「対立がないなら良い」でした。

 第二バチカン公会議主義は、聖伝に対して殺すか殺されるかの死闘を繰りひろげているのに、「対立がない」わけがありません。

 三名の司教様は、この司祭たちに「従順」を要求しました。これは昔から何回も繰り返されてきたワンパターンのストーリーです。「新しいミサを捧げよ、さもなければ出て行け」です。聖伝のミサを捧げるかぎり、新しいミサの小教区からは追放される、お決まりのパターンです。

 しかし、ウィリアムソン司教様は、司教様や当局ではなく、救霊のために命がけで働こうとしているこれら草の根の神父様たちに希望の光を見出しています。

 全能の天主よ、御憐れみによりて、この三名の司祭を守り給え!
キリエ・エレイソン!

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■ 第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ 決して廃止されたことのないこの古い典礼を求める新しい刷新された関心 聖伝のミサは廃止されているか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?
■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
■ 新しいミサの神学的な問題点: 新しいミサの基礎になっている考えとは何か?
■ ミサ聖祭とは何か? (『聖ピオ十世の公教要理』による説明)
■ 新しいミサについて(第二ヴァチカン公会議が始まるわずか数年まえのピオ十二世の言葉)
■ 新しいミサに関するベネディクト十六世教皇の言葉
■ 新しいミサについての権威者のコメント
■ ミサ聖祭とは何か。1952年の「公教要理」による説明と今の流行の説明
■ 聖伝のミサの自由化:リベラルな司教様たちは反対、何故か?
■ 「信教の自由」と新しいミサの多くのオプション。「平信徒の声を聞く、開かれた教会、今までの権威主義ではない信徒のための信徒による信徒の教会、手作りの教会、草の根の教会」というモットー。しかし跪いての口での御聖体拝領は厳禁。何故か?
■ 第二バチカン公会議の全ての文書を捨て去らなければならないのか?
■ 聖ピオ十世会は教会認可の正式な修道会と思ってよいか
■ 離離は深刻なことではないか? 聖アウグスティヌスの言葉についてどう思うか。
■ 松浦悟郎司教さまが呼びかけ人になって、良心の自由を理由に「日の丸」と「君が代」の拒否をすすめているが、どう思うか
■ 異端とは何か? 離教とは何か?:ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム
■ ヨハネ・パウロ二世の書簡「エクレジア・デイ」について
■  「聖ピオ十世会のミサは有効であり主日の義務を果たすか」
教皇庁立委員会エクレジア・デイの回答

■ 聖ピオ十世会、聖伝ミサに関する問い合わせ
■ 新しいミサでは「王であるキリストの祭日が終末を表す年間最後の主日に定められていることも意義深いものです」
■ 「王たるキリスト」祝日の根拠
■ 「自身の良心に従う」とは?
■ 第二バチカン公会議とは?
■ 第二バチカン公会議のモットー
■ 新しい「光りの玄義」について
■ 東方正教会
■ カトリックのエキュメニズム運動
■ 過ぎ越しの神秘
■ ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿とその思想は?教皇ベネディクト十六世の考えをよく理解するために

■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

2007年10月13日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 いかがお過ごしでしょうか。
 今月も兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 

(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ五世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエント・ミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、とも呼ばれ、
ベネディクト十六世教皇によれば、「かつての典礼の形式」、「1962年にヨハネ二十三世が発布したローマ・ミサ典礼書」のミサ、「1970年の改革以前のローマ典礼」のミサ、「祈りの法の特別な表現」、「あがむべき古くからの典礼」、「福者ヨハネ二十三世によって発布され、決して廃止されたことのないローマ・ミサ典礼書規範版に従って、教会の典礼の特別な形式としてミサのいけにえ」、「以前の典礼の伝統」、「以前のローマ典礼の形式に従った典礼」・・・などとも呼ばれています。)


 聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 

■何故なら、聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』


■何故なら、聖伝のミサは、ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡によって確認された通り、今迄決して法的に廃止されたことがなく、常に許されていたミサ聖祭だからです。


■従って、「トリエント・ミサはバチカン公会議で廃棄された」という「学者全般の解釈」は、全くのウソだからです。何故なら、これこそ「福者ヨハネ二十三世が1962年に公布した且つ決して廃止されていないローマ・ミサ典書の規範版に従ったミサ聖祭の犠牲(いけにえ)」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)だからです。


■従って、「福者ヨハネ二十三世が1962年に公布した且つ決して廃止されていないローマ・ミサ典書の規範版に従ったミサ聖祭の犠牲(いけにえ)」は、第二バチカン公会議後も、1969年以降も、それ以前と同じいわばカトリック教会における「普通のミサ」としての法的地位を保っているべきであるからです。


■従って、1962年の「ローマ式典礼様式のミサ」は、「聖ピオ十世会のような人たちのため」ではなく、全てのカトリック司祭、全てのカトリック信徒の方々のためのものであり、全世界のカトリック教会で「普通のミサ」としてなければならないからです。


■何故なら「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計り知れないもの」(a breach into the history of the liturgy whose consequences could only be TRAGIC.)」
(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 162~163ページ)だからです。


■従って、「(聖ピオ五世によって公布され福者ヨハネ二十三世によって改訂されたローマ・ミサ典書は)その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)からです。


■何故なら、聖伝のミサは、五世紀以来の教皇たちが使徒聖ペトロに由来するものだからという理由で要求してきた「ローマ典文」をそのまま何も手を付け加えずに使用しているからです。何故なら、教皇たちはこの典礼様式は使徒からの聖伝に基づくと何度も繰り返し述べている事実があるからです。


■何故なら「教皇には教会の最高牧者として聖伝の典礼様式を廃止する権能があると述べられている文章は、カトリック教会法典を含めて一つも存在していない」(モンシニョール・ガンバー)からです。


■一方、日本で現在広く使われている「パウロ六世のミサ」は、ベネディクト十六世(当時ラッツィンガー枢機卿によれば、「捏造された典礼」であり「数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度、制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物」であるからです。
 何故なら、ラッツィンガー枢機卿(現ベネディクト十六世教皇)は、「第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度、制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた」と書いているからです。


■従って、第二バチカン公会議後の典礼改革は、「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それにより典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」(ラッツィンガー枢機卿『典礼の精神』)


■ベネディクト十六世教皇様は、上記のような典礼改革による典礼の崩壊が原因で、現在カトリック教会に危機が存在していると警告しているからです。
「私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いて下さるということは、もはや問題外のこととなっている。」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ)


■何故なら「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされないもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した」(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』166ページ)からです。


■何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。
 そして「新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることがあたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような歌会は既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまう」からです。


 聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 

■何故なら、カトリック教会の危機を解決するために、聖伝のミサを復活させたいという教皇様の願いにもかかわらず、日本では、司教協議会典礼委員会を中心に「バチカン公会議で廃棄されたというのが学者全般の解釈である」とか「日本のようなところでは意味がない」とか、この願いに抵抗しているからです。


■しかし事実は、日本では400年前、聖フランシスコ・ザベリオの来日以来、ラテン語で聖伝のミサを捧げ、多くの実りをもたらしてきました。
 何故なら「ラテン典礼は教会の様々な形式においてキリスト教時代のいつの時でも霊的生活において極めて多くの聖人達を生みだし、そして同時にかくも多くの民族を宗教の徳において強めまた彼らの敬虔を豊かにしたことが認められている」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)からです。
 また「ラテン典礼の司祭が、感謝のいけにえを、これを基準として捧げてきたばかりでなく、福音の宣布者は地球上ほとんど至る所に、これ(=聖伝のミサ)をたずさえて行ったのであります。また教皇グレゴリオ一世が、その大部分を企画編集したローマ・ミサ典礼書にある聖書朗読と祈願を通じて無数の聖徒が、神に対する信仰心を豊かに養ってきた」(パウロ六世『ミサーレ・ロマーヌム』)からです。


■日本で来年列福される188名の福者たちは、皆、この聖伝のミサにより殉教の精神と力とを得てきたからであり、信仰と血筋による私たちの祖先である潜伏キリシタンたちも、その信仰をラテン語のオラショで伝えてきており、日本カトリックの歴史においてラテン語の祈りは深い歴史的文脈を持っているからです。


■日本では、ヴィヴァルディー、バッハ、モーツアルトを始め、更には西洋美術、絵画、建築までヨーロッパのカトリック文化が浸透しており、この原点である聖伝のミサに立ち戻ることは、まさに深い文脈的な意味があるからです。例えば日本においてバッハの声楽曲をドイツ語の歌詞を大切に歌い演奏することは文化的に価値があるように、聖伝のミサをラテン語の言葉を大切に捧げることは大きな価値があるからです。


■ますます交通の手段が発達し国際化が進む現在の日本において、ラテン語というミサの統一言葉が、言語と民族とを越えて、カトリック共同体をより容易に一つにする手段となるからです。各国語のミサは、国際化したカトリック信徒を分断し、留学生・旅行社・巡礼者などいわゆる「谷間」の人たちをミサから遠ざけてしまっているからです。


■また、ベネディクト十六世教皇様も言うように、新しいミサしか知らずに育ったけれども、後に聖伝のミサを知った「若い人々もまたこの典礼の形式を発見し、その魅力を感じ、その中に至聖なるミサ聖祭の神秘との出会いの形を見出し、そして特にその形が彼ら自身に適していることに気づいた、ということが明らかに証明されてきた」からです。


■従って、「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書」(ベネディクト十六世)は、「その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)にもかかわらず、日本で、まだこのカトリック教会の宝を知らない、多くの「若い人々もまたこの典礼の形式を発見し、その魅力を感じ、その中に至聖なるミサ聖祭の神秘との出会いの形を見出し、そして特にその形が彼ら自身に適していることに気づく」恵みを受けていただきたいからです。


■聖伝のミサは、聖ピオ五世の大勅令『クォ・プリームム』によって、永久に義務化された有効なミサ聖祭であったにもかかわらず、また、今迄決して法的に廃止されたことがなく、常に許されていたミサ聖祭であったにもかかわらず、事実上は、法に反して、「トリエント・ミサはバチカン公会議で廃棄された」と主張する「学者全般の解釈」の欺瞞がまかり通ってきました。
 聖伝のミサは、第二バチカン公会議の最中も、1969年以降も、それ以前と同じカトリック教会における「普通のミサ」としての法的地位を保っていたにもかかわらず、その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない典礼様式であったにもかかわらず、「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続ける、それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえない」にもかかわらず、司教たちの権力の濫用によって、事実上禁止されてしましました。
 多くのカトリック司祭たちは、聖伝のミサを捧げているという理由だけで、追放され、捨てられ、排斥され、処罰され続けてきました。
 しかし、ルフェーブル大司教様は、この権力の濫用に対して、「教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与え」続けてきました。ルフェーブル大司教は、聖伝のミサという「当然の敬意が払われなければならない典礼様式」を守ってきました。ルフェーブル大司教がいなければ、エクレジア・デイ委員会も生まれなかったでしょうし、ベネディクト十六世も、今回のスンモールム・ポンティフィクムを出す力が無かったでしょう。


 聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 

■ カトリック教会は、今、教会の歴史始まって以来の信仰の危機を苦しんでいるからです。教区長の許可をとって行われる、或いは教区長自身の捧げるミサとその説教の内容を見て下さい。「戦争反対と憲法9条の話ばっかり」「神父様の説教はいつも戦争反対の話ばっかりで、イラク戦争にしろ、北朝鮮にしろ、結局、説教は政治の話ばっかり。」聖母マリア様が終生童貞であることを否定する司祭も、合法的にミサを捧げています。「新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられ」、「しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめ」ています。
「典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々を深く傷つけて」いるのにもかかわらず、しかし、司教たちの許可によって、事実上推進されています。


■ 聖ピオ十世会のやっていることは、緊急救命作業です。カトリック教会が、その聖伝の信仰を大切にする正常な状態になるのを待っている間、霊的な死の危険にさらされている霊魂に、出来る限りの援助を与えています。カトリック教会で最も大切なのは、霊魂に永遠の命を与える正統な聖伝信仰だからです。


■何故なら、カトリック教会にとって最も大切なのは、信仰であり、救霊だからです。Suprema lex salus animarum. カトリック教会法典の最高法規は、救霊を目ざすものである、ということです。教会法のために霊魂があるのではなく、霊魂の救いのために教会法が存在しているからです。カトリック教会は「法至上主義」ではないからです。この教会の最高の法「霊魂の救い」は、今までは不文律でしたが、カトリック新教会法典にはそれが成文化されています。(Can. 1752 - ... prae oculis habita salute animarum, quae in Ecclesia suprema semper lex esse debet. )



     <2007年10月の予定>

【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」

19日(金)午後5時半 証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白
20日(土)午前11時  証聖者ケンティの聖ヨハネ(3級祝日)白


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

20日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会
     午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課
21日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半  聖霊降臨後第二十一主日(二級)緑
     午後2時半  霊的講話、カトリック教養講座(予定)
     午後4時   グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課
22日(月)午前7時 平日(4級)緑
23日(火)午前7時 証聖者司教聖アントニオ・マリア・クラレット(3級祝日)白

それでは、皆様のおこしをお待ちしております。

 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2007.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
 などをご覧下さい。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2007, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2007" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/

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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

【参考資料】Credidimus Caritati の新着公開コメント のRSS

2007年10月13日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

【参考資料】

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 これを使うと、いちいちコメントの書かれてあるページをクリックして開かなくても、十件の過去のコメントを一瞥できて便利です。ご参考までに。

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■ 第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ 決して廃止されたことのないこの古い典礼を求める新しい刷新された関心 聖伝のミサは廃止されているか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?
■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
■ 新しいミサの神学的な問題点: 新しいミサの基礎になっている考えとは何か?
■ ミサ聖祭とは何か? (『聖ピオ十世の公教要理』による説明)
■ 新しいミサについて(第二ヴァチカン公会議が始まるわずか数年まえのピオ十二世の言葉)
■ 新しいミサに関するベネディクト十六世教皇の言葉
■ 新しいミサについての権威者のコメント
■ ミサ聖祭とは何か。1952年の「公教要理」による説明と今の流行の説明
■ 聖伝のミサの自由化:リベラルな司教様たちは反対、何故か?
■ 「信教の自由」と新しいミサの多くのオプション。「平信徒の声を聞く、開かれた教会、今までの権威主義ではない信徒のための信徒による信徒の教会、手作りの教会、草の根の教会」というモットー。しかし跪いての口での御聖体拝領は厳禁。何故か?
■ 第二バチカン公会議の全ての文書を捨て去らなければならないのか?
■ 聖ピオ十世会は教会認可の正式な修道会と思ってよいか
■ 離離は深刻なことではないか? 聖アウグスティヌスの言葉についてどう思うか。
■ 松浦悟郎司教さまが呼びかけ人になって、良心の自由を理由に「日の丸」と「君が代」の拒否をすすめているが、どう思うか
■ 異端とは何か? 離教とは何か?:ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム
■ ヨハネ・パウロ二世の書簡「エクレジア・デイ」について
■  「聖ピオ十世会のミサは有効であり主日の義務を果たすか」
教皇庁立委員会エクレジア・デイの回答

■ 聖ピオ十世会、聖伝ミサに関する問い合わせ
■ 新しいミサでは「王であるキリストの祭日が終末を表す年間最後の主日に定められていることも意義深いものです」
■ 「王たるキリスト」祝日の根拠
■ 「自身の良心に従う」とは?
■ 第二バチカン公会議とは?
■ 第二バチカン公会議のモットー
■ 新しい「光りの玄義」について
■ 東方正教会
■ カトリックのエキュメニズム運動
■ 過ぎ越しの神秘
■ ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿とその思想は?教皇ベネディクト十六世の考えをよく理解するために
■ 地球交響楽:「ガイア理論」はニューエイジ
■ 薬物(マリファナ、大麻など)の使用について
■ 宗教とは何か?
■ 第二ヴァチカン公会議の「洗礼の秘跡による信徒の祭司職」について
■ 何故、新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのか?
■ 「贖い」ということについて公教要理をみてみます。
■ ピストイア教会会議って知っていましたか?
■ だから私たちは「カトリック新聞」の聖福音の説明を読むとびっくりするのです
■ 第二バチカン公会議の『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?
■ 第二バチカン公会議の文書の曖昧な性格は何に由来するのか?

フランシスコ・カレーロ著「キリシタン時代の聖なるロザリオの信心」井出勝美訳

2007年10月12日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

フランシスコ・カレーロ著 「キリシタン時代の聖なるロザリオの信心」

愛する兄弟姉妹の皆様、
 来年11月には日本の188名の殉教者が列福されるというニュースがあり、また10月は聖なるロザリオの聖月なので、次の本を推薦します。

「日本諸国における聖なるロザリオと聖ドミニコ会の偉業(1617~1624年)」
フランシスコ・カレーロ著
ドミニコ会士 ホセ・デルガド・ガルシア解説・註
井出勝美訳(1997年)


 これによると、日本ではロザリオの信心がまさに迫害の中発展し、私たち祖先を力づけてきたことがよく分かります。この本にはこんな史実が載っていました。ご紹介します。

*****


 ドミニコ会は日本に1602年に入国。日本にはこれ以前に、「ロザリオの聖母」と命名されたフランシスコ会司祭の教会が江戸にあり、また同じく江戸にマニラのフランシスコ会司祭から許可を得たロザリオの組(信心会 コンフラディア)があった。
 しかしドミニコ会が日本に上陸すると、すぐにロザリオの組(信心会)を設立した。1604年、長崎でロザリオの組に入会したものは二万名を超えた

「ロザリオに捧げた彼らの信心が深かったので、手あるいは頸にロザリオをかけないキリシタンはまず見られぬほどであった。日本で教会が破壊された時、聖なるロザリオの信心は信徒の心を弱めるどころか、むしろこの教会の荒廃と破壊の中から、さらに勢いよく若芽を出し信徒の心中に根付いていった。組員は某家に参集してロザリオの祈りを唱え、元気を取り戻し、以下に拷問を加えられようとも必ず信仰を主張することを誓い、少しでも必要があり、いくらか弱くなっていると思われる人々を心から助け勇気づけることに賢明に努めていた。」

「ロザリオと悪魔との戦いはすさまじかった。一つ一つの数珠玉(クエンタス)は悪魔を撃ち貫いて苦しめる弾丸であったので、悪魔はあらん限りの手段を用いて数珠玉を砕こうとした。何故なら教会が皆無となったとき[1616年]、・・・聖なるロザリオの組に対する旋風が巻き起こり始めたからである。」(50ページ)

 ファン・デ・ルエダ神父によると「我々は日本でもロザリオの信心と組に関することを全て日本語に翻訳し、全ての人々はロザリオの大切さを熟知している。こう言うわけで1500枚以上のロザリオの聖母像の絵があり、従って、スペイン、イタリア、その他の国においても、日本ほどロザリオの信心会がうまく運営されているところはない。」(55ページ)と言っている。

「至聖なるロザリオが日本諸国で上げた大成果の一つは、我が主キリストの信仰を貫きつつ、それを守るためには些かも躊躇せず生命をかけるようにと、無数のキリシタンの心中に植え付けた不断の勇気と気力である。それは、かくも聖なる信仰がこの国に入る以前には、極めて欠如していたのである。」(61ページ)

 例えば、長崎のロザリオの信心会の組員であったガスパル上田彦次郎アンドレス吉田との活躍は模範的であった。幕府は宣教師・伝道師・重要人物をことごとく日本から追放しようと1614年11月6日、三艘の船に彼らを載せて追放した。船が沖に出るまで途中まで護送して引き上げた。その後、宣教師たちが長崎に帰還する危険がないと思ったとき、ガスパル上田とアンドレス吉田とはその他の幾艘かの船で陸地からかなり離れた海上に出て、自由意志で帰還したいと希望した宣教師たちを、大胆にも収容して長崎に連れ戻してきた。こうして9名の司祭が戻ってきた。
 将軍の命令に違反して司祭たちに宿を貸すことは、極めて危険なことであったが、彼らは命を奪われることを恐れなかった。

 ガスパル上田は、ドミニコ会のアロンソ・ナバレテ神父(聖ドミニコ会管区長代理)を匿い、アンドレス吉田は、教区司祭で長崎代官の子フランシスコ村山神父と聖アウグスチノ会のエルナンド・デ・アヤラ神父とを匿った。

 ガスパル上田の家は、万民に開放され、近隣の村々から人々が集まり、異教徒は伝道師を、洗礼志願者は洗礼を授けてくれる者を、悔悛者は告解の聴罪師を、離教者は教会に復帰させてくれる者を、そこに見出した。

 しかし聖ドミニコ会のアロンソ・ナバレテ神父と聖アウグスチノ会のエルナンド・デ・アヤラ神父とは3年後の1617年6月1日に殉教した。その後、聖ドミニコ会のファン・デ・ルエダ神父に出会った。ファン・デ・ルエダ神父は、「司祭を泊めるべからず違反すれば死罪」という将軍の命令のために、毎日、宿を変え多くの労苦を嘗めていた。そこでガスパル上田は、ファン・デ・ルエダ神父に自分の家を使うことを懇願さえした。
 ガスパル上田もアンドレス吉田も、1617年8月21日、遂に逮捕され、財産を没収され、見事な広大な屋敷を奪われた。

 奉行が「修道会士を家に泊めることは将軍から厳禁されているにもかかわらず、なにゆえに無謀なことをしたのか」と尋問すると、彼らはキリシタンとしてこう答えた。

「我らはキリシタンであり、聖なる掟を守る以外に救いの方法は他になく、パードレ様がいなければ告解を聞いて下さる方がいないので、掟を守ることが至難だと心得ています。さすれば家にパードレ様をお泊めしてきたのです。」(70ページ)

 奉行は彼らに斬首刑を命じた。この2名のロザリオの信心会の組合員はこの最終判決を感謝して受け入れた。

 その当時はロザリオの聖母の大祝日は10月の第1主日であり、典礼上はその前日の土曜日の夕からロザリオの聖母の荘厳な祝日が始まっていた。彼らが刑場についてのはまさに9月30日土曜日の夜であった。
 1617年10月1日の主日、ロザリオの聖母の祝日早朝に、「祝福された二人の殉教者は地上に跪き、目を天へ心をデウスへ向けて祈りを唱えながら聖なる頸を斬られた。」(72ページ)

 フランシスコ・カレーロ著 「キリシタン時代の聖なるロザリオの信心」のつづきをお読みになりたい方は、発行所にご連絡下さい。


発行 聖ドミニコ修道会
ロザリオの聖母管区日本地区
愛媛県松山市衣山5丁目1646-6

P. Fr. Francisco Carrero O.P.,
Triumfo del Santo Rosario y Orden de Santo Domingo
en los Reinos del Japon
desde el Ano del Senor 1617 hasta el de 1624,
tercera edicion, Madrid, 1993.

「日本諸国における聖なるロザリオと聖ドミニコ会の偉業(1617~1624年)」
フランシスコ・カレーロ著
ドミニコ会士 ホセ・デルガド・ガルシア解説・註
井出勝美訳(1997年)


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ロザリオの祈りについて
レオ13世 回勅「オクトブリ・メンセ」 1891年9月22日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日
レオ13世 回勅『マニェ・デイ・マートリス』1892年9月7日

レオ13世 回勅『マニェ・デイ・マートリス』1892年9月7日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥ』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 使徒書簡『サルターリス・イッレ』1883年12月24日
レオ13世 回勅『アドュトリーチェン・ポプリ』1895年9月5日

レオ13世 使徒書簡『パルタ・フマノ・ジェネリ』1901年9月8日
ピオ11世 書簡『インクリタム・アク・ペリルストレム』1934年3月6日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日

レオ13世 回勅『アウグスティッシメ』1897年9月12日
レオ13世 回勅『アドュトリーチェン・ポプリ』1895年9月5日

レオ13世 使徒書簡『パルタ・フマノ・ジェネリ』1901年9月8日
ピオ12世 回勅『イングルエンティウム・マロールム』1951年9月15日

レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日

レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 使徒憲章『ウビ・プリームム』1898年10月2日
レオ13世 回勅『アドュトリーチェン・ポプリ』1895年9月5日
レオ13世 使徒書簡『パルタ・フマノ・ジェネリ』1901年9月8日
レオ13世 書簡『ヴィ・エ・ベン・ノート』1887年9月30日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日
ピオ12世 回勅『イングルエンティウム・マロールム』1951年9月15日

レオ13世 回勅『オクトブリ・メンセ』1891年9月22日
ピオ11世 回勅「イングラヴェシェンティブス・マリス」1937年9月29日
ベネディクト15世 回勅「ファウスト・アッペテンテ・ディエ」
1921年6月29日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラトゥス』1883年9月1日
ピオ12世 回勅『イングルエンチウム・マロールム』1951年9月15日
ピオ12世 回勅『アド・チェリ・レジナム』1954年10月11日

「祈りと犠牲とによってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。」幼きイエズスの聖テレジア

2007年10月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

祈りと犠牲とによってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。


兄弟姉妹の皆様、
幼きイエズスの聖テレジアは、シスター・ルチアと同じことを言っているので、ご紹介します。 

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉より

1897年7月8日
 シスター・テレジアは、後に、彼女が二人の宣教師とために霊的妹の役割を果たしたことを知ると、多くの若い司祭たちが霊的妹を求めるだろうと警告しました。これはある霊魂にとって危険なことだろうと指摘しました。


「もしも他のシスターが、私が書いたようなことを書き、同じ褒め言葉を言われ、同じ秘密を打ち明けられたとしても・・・。祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。そのような(司祭との)手紙のやりとりは極めて希でなければなりません。そしてこのようなことをすることが全く許されない修道女たちもいます。つまり、それのことで頭がいっぱいになってしまい、自分は素晴らしい仕事をしているのだと思うようなタイプの霊魂がいるという意味です。しかし現実は、彼女は自分の霊魂を傷つけ、もしかしたら悪魔の罠に陥ってしまうでしょう。修母(はは)様、私が今言っていることはとても重要です。後々忘れないで下さい。」
「カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」


1897年7月11日
 シスター・テレジアは信仰に反する誘惑にひどく苦しみ、肉体的にも大変弱っていました。そんな時、彼女は聖母マリアのために作った Pourquoi je t’aime, ô Marie! (聖母マリアよ、何故私は御身を愛するか)という自分の歌のこの節を唱え始めるのでした。

天国の御稜威の王の御旨なり、
その母の心の苦悩。

感覚の暗夜のうちに苦しまれ、
御母は深く悲しみ給う。

おお聖母、苦しむことは良きことか、
さすらいの身のこの世において?

愛しつつ苦しむならば、その通り、
最高の幸、大いなる善。

主のわれに給うたものはこれ全て
御旨のままになし給うべし。

わが母よ、主に言い給え、わが思い、
我が身について遠慮は要らぬ。

望むなら御旨のままに身を隠し、
われを暗夜に置き給えかし、

御姿をしかとま見ゆるその日まで
われを自由に扱い給え。

その日こそ、顔と顔とを相合わせ、
陰ることなく映え輝く日、

信仰は用がなくなり消え失せて
ありのままに御身を知る日。

Puisque le Roi des Cieux a voulu que sa Mère
Soit plongée dans la nuis, dans l’angoisse du coeur,
Marie, c’est donc un bien de souffrir sur la terre?
Oui, souffrir en aimant, c’est le plus pur bonheur!...
Tout ce qu’Il m’a donné Jesus peut le reprendre.
Dis-lui de ne jamais se gêner avec moi…
Il peut bien se cacher, je consens à attendre
Jusqu’au jour sans couchant où s’étentdre ma foi…
(Poèmes N. 54 verset 16)


Since Heaven’s high King has willed it so,
His Mother and His dearest
Should know the anguish of that night, the torn heart’s deepest woe,
Then are not those who suffer thus, to Mary’s heart the nearest,
And is not love in suffering God’s highest gift below?
All, all that He has given me, oh! tell Him He may take it.
Thell Him, dear Mother, He may do whate’er He please with me:
That He may bruise my heart to-day, and make it sore and break it,
Sothat only through eternity y eyes His Face may see!
(Navissima Verba: Enlish translation by the Carmelite nuns of New York, 1953)

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【推薦図書】
小さきものよ,われに来たれ
神との親しさ(6)
小さき聖テレジア自叙伝―幼きイエズスの聖テレジアの自叙伝の三つの原稿 ドン・ボスコ社

小さき花の聖テレジア最後の言葉 By 東京カルメル会
幼きイエズスの聖テレジアの教訓と思い出 From 中央出版社
テレジアの詩 By 幼きイエズスの聖テレジア 伊庭 昭子訳
Mon Chant d'Aujourd'hui

第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日

「この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」(シスター・ルチア)

2007年10月11日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

「この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」(シスター・ルチア)

 兄弟姉妹の皆様、
 数日前にアップした記事で、有名な内容ですが、10月13日はファチマの聖母マリアの太陽の奇蹟90周年ですので、もう一度お伝えするのをおゆるし下さい。


 今から丁度50年前、1957年12月26日にメキシコの司祭、フエンテス神父(Padre Augustin Fuentes)は、コインブラのカルメル会修道院にいたシスター・ルチアを訪問した。フエンテス神父は、フランチスコとジャシンタの列福推進者(postulator)、また同時にフリーメーソンの迫害(1924-28年)のもとのメキシコ殉教者たちの列福推進者となる準備をしていた。

 フエンテス神父はメキシコに戻り、1958年5月22日に聖心とガダルーペの聖母の宣教シスター会本部(Casa Madre de las Misioneras del Sagrado Corazon)で講話し、シスター・ルチアの言葉が報告され、後にこの講話の内容が公表された。

 ファチマの公式文書保管者アロンソ神父(Padre Joaquin Maria Alonso)は、このインタビューの真理を検証し「正真正銘性の全ての保証とレイリアの司教認可を含めて、当然の司教認可(サンチェス大司教)の出版許可のこと)を持っている」と強調した。

 フエンテス神父は、これがシスター・ルチアの「まさにその唇から」受けた内容であると断言している。アロンソ神父の公表したスペイン語原文は Veridad sobre Fatima (pp. 103-106)に掲載され、英語訳は、ライアン神父(Father Ryan)によって Fatima Findings, June 1959 誌に発表された。Frere Michel de la Sainte Trinite, The Whole Truth About Fatima, Vol. III: The Third Secret, Part One, Chapter X にも掲載されている。

 それが最初にフエンテス神父によって公表されたとき、それは世界中の信徒の多くから広範な関心を呼び起こした。しかしながら、この重大なメッセージの勇敢な公表の結果として、フエンテス神父は、シスター・ルチアが1948年以来住んでいたコインブラ司教区における何人かの匿名の当局者たちからのまったくそれに値しないそして前例のない迫害を受けた。

 第1と第2の秘密の本質を語りながら、シスター・ルチアはフエンテス神父に新しいテーマを語っている。聖母マリアと悪魔との決定的な闘いというテーマ、天主に捧げられた聖職者や司祭たちに対する悪魔的な攻撃の計画、償いへの呼びかけと招きを期待し待つことなく自発的に聖なる生活を送る信徒の義務、である。

 聖職者達は悪魔の攻撃を受けて、罪の償いの生活・祈りの生活の重要さを疎んじるだろう。(それよりも「人類の連帯」「人間の尊厳」のために活動するようになる? 「神父様のお説教は、貧しい虐げられた外国人の方に真っ先に手を差しのべられる活動はすばらしい、「キリストを着る」と言うことは、過去の典礼にこだわることではなく、私のそばにいる小さな人を大切にすることだと、いう内容」となる? 「毎年8月15日の「お盆ミサ」は夕刻に始まり、その後反戦パーティーとなり、神父様のミサは戦争反対の話ばっかりで、選挙になると憲法9条の話になって、社民党か共産党へ投票しましょうっていうこと」になる?)


 だから信徒たちは「ローマから教皇様から全世界のために改悛への呼びかけがくると期待しないようにしましょう。その呼びかけが司教区の司教様がたから、あるいは修道会からくると期待しないようにしましょう。今は私たち一人一人が自分で自分の霊的改革を始めなければなりません。一人一人は自分の霊魂を救わなければならないばかりか、その道に天主様が置かれ給うたすべての霊魂をも救わなければなりません。」

 ファチマのシスター・ルチアは、既に1957年、教会の重大な危機を予知していた。

フエンテス神父とシスター・ルチアとの預言的インタビュー

+++


「昨年(1957年)12月26日に私がシスター・ルチアとした最後の会話についてあなたたちに告げることだけを私は望んでいます。私は彼女の修道院で彼女に会いました。彼女は非常に悲しんでおり、非常に青ざめそしてやつれていました。彼女は私にこう言いました。」

「誰一人何の注意も払いませんでした」

「神父様、聖母は、よい人も悪い人もだれもそのメッセージを重大視しないので悲しんでおられます。善人は彼らの道を続けていますが、しかし聖母のメッセージには何らの注意も払っていません。悪人は、彼らの上に実際に降りかかってくる天主の罰を見ずに、メッセージについては注意を払うことさえせずに、彼らの罪の生活を続けています。しかし、神父様、私を信じてください、天主は世界を罰しようとしておられます。そしてこの懲罰は恐るべき仕方で為されるでしょう。天からの懲罰は間近に迫っています。


秘密は明らかにされなかった

「神父様、1960年が来る前にどれだけの時間があるでしょうか?もし前もって世界が祈り償いをしないならば、そてはすべての人にとって悲しいことでしょう、一人も喜ぶ人はいないでしょう。私はさらに詳しいことを言うことはできません。なぜなら、それはまだ秘密だからです。聖母マリア様の御旨によれば、ただ教皇様とファチマの司教様だけが、秘密を知ることをされています。しかし彼らは、影響を受けないように、それを知らないことを選びました。」

「これは1960年まで秘密のままにとどまるであろう聖母のメッセージの第三の部分です。」


天主の鞭、ロシア

「神父様、聖母マリア様は、私のいとこであるフランシスコとジャシンタ、そして私自身に、多くの国々(many nations)が地の面から消え去るだろうと告げられたということを、皆に告げてください。聖母はもし私たちが前もってロシアの回心を勝ち取らないならば、あの哀れな国(ロシア)が世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具となるだろうと言われました。・・・」


マリアとサタンとの間の「決定的な戦い」: 奉献された霊魂たちと司祭たちの堕落

「シスター・ルチアはまた私にこう告げました:神父様、悪魔は聖母マリアに対して決定的な戦いを挑もうとしています。悪魔は天主を最も侮辱することが何か、また最も短期間にどうやったら最も多くの霊魂らを地獄に落とすことが出来るか知っています。だから悪魔は天主に捧げられた霊魂(=聖職者たちのこと)を勝ち取ろうと全てのことをしています。何故なら、こうすることによって悪魔は、指導者によって捨てられた信者らの霊魂たちが取り残され、いとも簡単に彼らを餌食にすることが出来るからです。」

「聖母の汚れ無き御心とイエズスの聖心を悲しませることは、修道者、司祭の霊魂たちが堕落することです。悪魔は、自分の美しい召命の道から堕ちた修道者と司祭らが、多くの霊魂を地獄に引きずり下ろすことを知っています。・・・ 悪魔は、天主に捧げられた霊魂たちを奪いたいと望んでいます。悪魔は、彼らを腐敗させるように試みています。それは彼らが平信徒の霊魂たちを眠り込ませる子守歌を歌い、彼らが最終的に罪を痛悔しないように導くためです。悪魔は修道生活へ入ることを遅らせる暗示を与えるところまで行きさえして、あらゆる計略を採用します。このことから結果することは内的生活の不毛であり、そして平信徒の間では、諸々の快楽の断念や天主への全面的献身ということがらに関する冷淡さ(熱意の欠如)です。」


ジャシンタとフランシスコを聖化したこと

「また皆に告げてください、神父様、私のいとこのフランシスコとヤチンタは、聖母マリア様のすべての御出現において、彼らが常に聖母が非常に悲しんでおられるのを見たがゆえに、自己犠牲を行いました。聖母は私たちに決して微笑まれませんでした。私たちが聖母のうちに認めたこの悲しみ、この苦悩は私たちの霊魂を貫きました。この悲しみは天主に対する諸々の背きと罪人たちを脅かす罰によって引き起こされています。そしてそのように、私たち子どもたちは祈り、犠牲をするさまざまの方法を発明する以外に何を考えるべきか、知りませんでした。」

「これらの子どもたちを聖化したもう一つの事柄は地獄の幻視を見ることでした。」


ルシアの使命

「私の使命は、この世界が祈らず、償いを果たさなかったら必ず受けるであろう物質的な天罰について、この世界に指し示すことではありません。いいえ、違います。私の使命は全ての人々に、もし私たちがこのまま罪に頑なにとどまるなら、永遠に私たちの霊魂を失ってしまうというその身に迫る危険を指し示すことにあります。」


回心の緊急性

「シスター・ルチアは私にこうも言った。神父様、ローマから、教皇様の方から全世界のために改悛への呼びかけがくると期待しないようにしましょう。その呼びかけが司教区の司教様がたから、あるいは修道会からくると期待しないようにしましょう。今は私たち一人一人が自分で自分の霊的改革を始めなければなりません。一人一人は自分の霊魂を救わなければならないばかりか、その道に天主様が置かれ給うたすべての霊魂をも救わなければなりません。・・・」

「悪魔は私たちの気を散らせ、私たちから祈りに対する愛を取り去るために力の及ぶ限りあらゆることをします。私たちは一緒に救われるか、それとも一緒に地獄に落とされるか、でしょう。」


この世の最後の時

「神父様、聖母マリア様は、私たちが世の終わりの時にいると私に告げられませんでした。聖母はこのことを三つの理由で私に理解させてくださいました。」

最終的な戦い

「第一の理由は、聖母が、悪魔は聖母マリアに対する一つの決定的な戦いに従事しようとしていると私に告げられたからです。そして決定的な戦いとは、そこで一方の側が勝利し、他方の側が敗北を喫する最終的な戦いです。また今からは、私たちはどちらかの側を選ばなければなりません。私たちは、天主の側に付くか、それとも悪魔の側に付くか、そのどちらかです。他のいかなる可能性もありません。

最後の救済策

「第二の理由は、聖母がいとこたち並びに私自身に、天主は世界に二つの最後の救済策をお与えになっていると言われたからです。これらの救済策とは、聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心に対する信心です。これらは他の救済策はないだろうということを意味する最後の二つの救済策です。」


聖霊に反する罪

「第三の理由は、天主の摂理の御計画において、天主は、世界を懲罰しようとなさる前に、常に他のすべての救済策を使い尽くされるからです。ところで、天主が世界は何であれいかなる注意も払わないということを御覧になるとき、そのとき、私たちが不完全な話し方で言うように、天主は『ある虞』と共に私たちに救いの最後の手段、すなわち、御自分のいとも聖なる御母、を提供なさいます。それは『ある虞』と共にです。なぜなら、もしあなたがこの最後の手段を軽蔑し退けるならば、私たちはもはや天から許しを得ることはないでしょうから。なぜなら、私たちは福音書が聖霊に反する罪と呼ぶ一つの罪を犯したことになるでしょうから。この罪は完全な知識と同意をもって、天主が提供なさる救いを公然と拒絶することに存します。イエズス・キリストが非常に善なる御子であり、イエズスのいとも聖なる御母に背き御母を軽蔑することをお許しにならないということを思い起こしましょう。私たちは教会史の多くの世紀を通じて、われらの主イエズス・キリストが御自分の御母の栄誉をどのように常に守られたかを、御母の栄誉を攻撃した人々に下されてきた恐るべき罰によって証明された明白な証言を記録してきました。」


祈りと犠牲、そして聖なるロザリオ

「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。
「シスター・ルチアはこう言いました、聖なるロザリオに関しては、神父様、ご覧ください。私達の生きるこの最後のときに当たって聖母はロザリオを唱えることに新しい効果を与えてくださいました。たとえそれがどんなに難しくとも、この世的なあるいは、特に霊的な問題、私たち一人一人の個人的な生活上の問題、家族の問題、この世のすべての家族の問題、修道会の問題、民族の問題、国家の問題などなど私たちがこの聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。もう一度言います。それがどれほど困難であろうとも、私たちが聖なるロザリオの祈りによって解決し得ない問題はありません。ロザリオを唱えることによって私たちは自分を救い、聖化し、我らの主を慰め、多くの霊魂の救いを勝ち取るのです。ですから私たちのいとも聖なる母、マリア様の汚れ無き聖心への信心をもたなければなりません。そして聖母を仁慈・善良さ・赦しの座であると考え、天国への確かな門であると考えなければなりません。」


聖母の汚れなき御心への信心

「最後に、私たちのいとも聖なる御母、マリアの汚れなき御心に対する信心は聖母を慈悲、善そして許しの座として、そしてそれによって私たちが天国へと入る確実な扉として考えることに存します。」


La conversacion de Sor Lucia con el Padre Fuentes (26 de Diciembre de 1957).

LA ULTIMA ENTREVISTA PUBLICA DE SOR LUCIA
Por el Padre Joaquin Maria Alonso, C. M. F. - Archivero oficial de Fatima.


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第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ 決して廃止されたことのないこの古い典礼を求める新しい刷新された関心 聖伝のミサは廃止されているか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?
■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
■ 新しいミサの神学的な問題点: 新しいミサの基礎になっている考えとは何か?

「キリストにならいて」 第一巻 第一章 キリストにならうこと

2007年10月10日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、有名なトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」は、実はラテン語原文では、リズミカルな韻文で書かれています。そのことはあまりよく知られていないので、ご紹介致します。

THOMAS À KEMPIS:
DE IMITATIONE CHRISTI

Liber Primus
Admonitiones ad Vitam spiritualem utiles.

Caput I

De imitatione Christi et contemptu mundi omniumque eius vanitatum.

1. Qui sequitur me non ambulat in tenebris,
dicit Dominus.
Hæc sunt verba Christi, quibus admonemur
quatenus vitam eius et mores imitemur,
si volumus veraciter illuminari,
et ab omni cæcitate cordis liberari.
Summum igitur studium nostrum, sit
in vita Jesu meditari.

2. Doctrina Ejus omnes doctrinas Sanctorum præcellit,
et qui spiritum haberet
absconditum ibi manna inveniret.
Sed contingit quod multi ex frequenti auditu Evangelii parvum desiderium sentiunt,
quia spiritum Chrisi non habent.
Qui autem vult plene et sapide verba Christi intelligere,
oportet ut totam vitam suam illi studeat conformare.

3. Quid prodest tibi alta de Trinitate disputare,
si careas humilitate unde displiceas Trinitati?
Vere alta verba non faciunt sanctum et justum,
sed virtuosa vita efficit Deo carum.
Opto magis sentire compunctionem
quam scire definitionem.
Si scires totam Bibliam, et omnium philosophorum dicta
quid totum prodesset, sine charitate et gratia?
Vanitas vanitatum et omnia vanitas
præter amare Deum et illi soli servire.
Ista est summa sapientia
per contemptum mundi tendere ad regna cælestia.

4. Vanitas igitur est divitias perituras quærere,
et in illis sperare.
Vanitas quoque est honores ambire,
et in altum se extollere.
Vanitas est carnis disideria sequi,
et illud desiderare unde postmodum graviter oportet puniri.
Vanitas est longam vitam optare,
et de bona vita modicum curare.
Vanitas est præsentem vitam solum attendere,
et quæ futura sunt non prævidere.
Vanitas est diligere quod cum omni celeritate transit,
et illuc non festinare ubi sempiternum gaudium manet.

5. Memento illius frequenter provrbii:
quia non satiatur oculus visu,
nec auris impletur auditu.
Stude ergo cor tuum ab amore visibilium abstrahere,
et ad invisiblia te transferre.
Nam sequentes suam sensualitatem maculant conscientiam,
et perdunt Dei gratiam.

トマス・ア・ケンピス著
キリストに倣いて

第一巻
霊的生活のために有益な助言

第一章 キリストにならうことと、この世とその全てのはかないものを軽蔑すること


1.「私にしたがう者は闇をあるかない」(ヨハネ8・12)と
主はおおせられる。
これはキリストの御言葉である。
私たちが、まことの光に照らされ、
心のくらやみをぬけ出たいなら、
そのご生涯と行いにならわなければならない、とおすすめになる。
だから、私たちの第一のつとめは、
イエズス・キリストのご生活を黙想することにある。
キリストの教えは、全聖人の教えにまさる。
その教えの精神をくみとれば、
そこにかくれたマンナを見出すだろう。
ところが、人は、しばしば福音のことばをきいても、そのわりには敬虔の念を起さない、
それは、キリストの精神から遠ざかっているからである。
キリストのみことばを十分理解して、
それを味わおうとする人は、
自分の全生涯を、キリストに一致させるようにと、努めねばならない。

2.あなたに謙遜の心がなく、そのため三位一体によみせられないなら、
三位一体について議論して、何の役に立つだろう。
人をきよい者、正しい者、とするのは、ふかい言葉ではなく、
徳にみちた生活であり、それが天主にとって人を愛しい者とする。
私は痛悔の定義を知るよりも、
むしろその心を感じたい。
もしあなたが、全聖書と全哲学説を知ったとしても、
天主への愛と天主の恵みとを持たなければ、それが何になるだろう。天主を愛し、天主に奉仕する以外は、
「むなしいことのむなしさ、すべてはむなしい」。
世間を軽んじて天の国に向かうことこそ、
最高の知恵である。

3.だから、はかない富を求め、
それにのぞみをかけることは、むなしいことである。
名誉をのぞみ、
高い地位をのぞむことも、むなしいことである。
肉の欲にしたがい、
将来重い罰を受けるにちがいないことを望むのも、またむなしいことである。
長い寿命を望むばかりで、
よく生きることを心がけないのも、またむなしいことである。
今生の生活だけに気をうばわれ、
未来のことに備えないのも、むなしいことである。
ただちに過ぎゆくものを愛し、
永遠のよろこびのある所に、のぞみを向けないのも、むなしいことである。

4.「目は見るだけで満足せず、
耳は聞くだけで満足しない」
という諺をしばしば思い出すがよい。
あなたは、地上のものへの執着から、心をたち切り、
見えないものに心を移すように努めよ。
実に、肉の声にしたがう者は、良心を汚し、
天主の恵みを失うのである。

(おまけ:タガログ語)
Ang pagtulad kay Kristo
UNANG AKLAT
MGA MAHALAGANG PAYO SA BUHAY NG KALULUWA

I Kabanata: Ang pagtulad kay Kristo, at pahamak sa mga lamambayan ng daigdig

1. "Ang sumusunod sa akin ay hindi lalakad sa kadiliman,"
wika ng Panginoon. (Juan 8:12)
Ito ang mga salita ni Kristo, na nagpapayo sa atin
kung paano natin dapat tularan ang kanyang buhay at salita
kung ibig nating tunay na maliwanagan
at makaligtas sa lahat ng kabulagan ng puso.
Kung gayo'y pagpilitan nating
pag-aralan ang pagninilay-nilay ng buhay ni Hesukristo
Ang aral ni Kristo ay higit sa lahat ng iniaaral ng mga Banal;
at ang nagaangkin ng kanyang Espiritu
ay makakatagpo rito ng lihim na biyaya.
Dapatwa't nangyayari sa marami na, sa malimit na pakikinig ng Ebanghelyo, ay di gaanong napupukaw ang kanilang kalooban,
sapagka't wala sa kanila ang diwa ni Kristo.
Dapatwa't ang sinumang nagnanais makaunawa nang lubusan ng mga salita ni Kristo ay nararapat munang matutong tumulad sa kanya.

2. Anong mapapakinabangan mo sa mahigpit na pakikipagtalo tungkol sa Trinidad,
kung ikaw naman ay nagkukulang sa kababaang loob at dahil dito'y di ka nagiging kalugod-lugod sa Trinidad?
Ang totoo'y hindi ang matataas na salita ang ipinagiging banal at matuwid ng isang tao;
daptwa't ang isang banal na pamumuhay ang ikinamamahal ng tao sa Diyos.
Ibig ko pa ang makaramdam ng pagsisisi
kaysa matutuhan kong ipaliwanag ang kahulugan ng pagsisisi.
At kung nalalaman mo man ang buong nilalaman ng Bibliya at ang mga bungang-isip ng mga pilosopo,
anong mapapala mo kung wala kang pag-ibig at biyaya ng Diyos?
"Walang kakabu-kabuluhan, at ang lahat ay walang kabuluhan," (Ekles. 1:2)
maliban sa umibig sa Diyos at maglingkod sa kanya lamang.
Ito ang pinakamataas na larunungan
ang mapalapit sa kahariaan ng langit sa pamamagitan ng pagtalikod sa daigdig.

3. Kung gayon ay walang kabuluhan ang humanap ng mga kayamanang lumilipas
at magtiwala sa mga ito.
Walang kabuluhan din ang maghangad ng puri at karangalan.
Walang kabuluhan ang sumunod sa mga pita ng katawan,
at ang maghangad ng mga bagay na magbibigay ng mabigat na parusa sa kabilang buhay.
Walang kabuluhan ang maghangad ng mahabang buhay,
at di magsikap sa ikapagtatamo ng isang mabuting pamumuhay.
Walang kabuluhan ang magpakaabala sa buhay na ito
at magwalambahala sa bagay na darating.
Walang kabuluhan ang umibig sa mga bagay na madaling lumipas,
at hindi magwalang-hanggang katuwaan.

4. Tuwina'y isaloob mo itong kawikaan:
"Hindi masiyahan ang mata sa pagtingin ni ang taynga sa pakikinig." (Ekles. 1:8).
Kung ngayon ay pagpilitan mong iwalay ang iyong puso sa pag-ibig sa mga bagay na nakita,
at ibilang mo ang inyong loob sa mga bagay na lingid sa paningin;
sapgka't ang mga sumusunod sa mga aliw ng kanilang mga pandamdam ay dumudungis ng kanilang budhi
at nag-aalis ng biyaya ng Diyos.



【天主に感謝!】長崎にて来年2008年11月24日188名の殉教者、列福予定

2007年10月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
長崎で来年2008年11月24日に188名の殉教者が列福される予定だそうです。
天主に感謝!

「ペトロ岐部と187殉教者の列福式」開催日、決定
 によると、「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式は、2008年11月24日(月・祝)に長崎において行われるそうです。

関連ページ
ペトロ岐部と187殉教者の列福式 記者会見(動画)

Nagasaki, November 24 188 Catholic martyrs beatified

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第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日

ベネディクト十六世教皇様は、ロザリオの祈りをすることを求めている

2007年10月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ベネディクト十六世教皇様は、家族と世界の平和のためにロザリオの祈りをすることをお求めになりました。

 10月7日に聖ペトロ大聖堂で「私は特に90年前に起きたファチマでの御出現について考えています。聖母は御自分をロザリオの聖母としてお示しになり、毎日戦争の終結のために祈りなさいと強調しました」と言われました。


【関連記事】Pray Rosary for Peace, Benedict XVI UrgesVATICAN CITY, OCT. 7, 2007 (Zenit.org).- Benedict XVI asked that the rosary be prayed for peace in families and in the world.

"This is something that Mary has also offered in various apparitions," the Pope explained today to the thousands of pilgrims gathered in St. Peter’s Square for the midday Angelus.

"I am thinking especially of her appearance at Fatima which took place 90 years ago," the Holy Father said from the window of his study. "To the three little shepherds, Lucia, Jacinta and Francisco, presenting herself as 'the Madonna of the Rosary,' she insistently recommended praying the rosary every day to bring an end to the war."

"We also desire to welcome the Virgin’s maternal request, committing ourselves to saying the rosary with faith for peace in our families, in countries, and in the whole world," he added.

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ロザリオの祈りについて
レオ13世 回勅「オクトブリ・メンセ」 1891年9月22日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日
レオ13世 回勅『マニェ・デイ・マートリス』1892年9月7日

レオ13世 回勅『マニェ・デイ・マートリス』1892年9月7日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥ』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 使徒書簡『サルターリス・イッレ』1883年12月24日
レオ13世 回勅『アドュトリーチェン・ポプリ』1895年9月5日

レオ13世 使徒書簡『パルタ・フマノ・ジェネリ』1901年9月8日
ピオ11世 書簡『インクリタム・アク・ペリルストレム』1934年3月6日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日

レオ13世 回勅『アウグスティッシメ』1897年9月12日
レオ13世 回勅『アドュトリーチェン・ポプリ』1895年9月5日

レオ13世 使徒書簡『パルタ・フマノ・ジェネリ』1901年9月8日
ピオ12世 回勅『イングルエンティウム・マロールム』1951年9月15日

レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日

レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 回勅『ユークンダ・センペル』1894年9月8日
レオ13世 使徒憲章『ウビ・プリームム』1898年10月2日
レオ13世 回勅『アドュトリーチェン・ポプリ』1895年9月5日
レオ13世 使徒書簡『パルタ・フマノ・ジェネリ』1901年9月8日
レオ13世 書簡『ヴィ・エ・ベン・ノート』1887年9月30日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日
レオ13世 回勅『フィデンテム・ピウムクェ』1896年9月20日
ピオ12世 回勅『イングルエンティウム・マロールム』1951年9月15日

レオ13世 回勅『オクトブリ・メンセ』1891年9月22日
ピオ11世 回勅「イングラヴェシェンティブス・マリス」1937年9月29日
ベネディクト15世 回勅「ファウスト・アッペテンテ・ディエ」
1921年6月29日
レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラトゥス』1883年9月1日
ピオ12世 回勅『イングルエンチウム・マロールム』1951年9月15日
ピオ12世 回勅『アド・チェリ・レジナム』1954年10月11日


【参考資料】
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

【参考資料】国会図書館近代デジタルライブラリーに公開されているカトリック関係の書籍

2007年10月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、国会図書館近代デジタルライブラリーにあるカトリック関係の書籍の多くが公開されていることを教えていただきました。兄弟姉妹の皆様にもお伝え致します。ご参考までに。

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【参考資料】 国会図書館近代デジタルライブラリーで多くのカトリック書籍が公開されています。ラゲ神父様の新約聖書やブスケ神父様の小さき花もあります。ただ、画像ファイルで公開しているので重いです。なお、データは一度に最大10コマ(20ページ)までPDF形式で保存できます。カトリック書籍のリストを添付しましたので御覧下さい。なお、リギョール神父様の著作は数が多いため詳細情報は省略しています。

国会図書館近代デジタルライブラリーが公開しているカトリック図書のリスト

タイトル : 〓瑰花冠記録  (記号は聖の字)
タイトルよみ : ロザリヨ キロク
責任表示 : じわん・で・るえだ訳,ベルナルド・プティジアン編
出版事項 : 〔長崎〕:ベルナルド・プティジアン,明2
西暦年 : 1869

タイトル : ル丶ドの洞窟 
タイトルよみ : ルルド ノ ドウクツ
責任表示 : ドルワ-ル・ド・レゼ-著
出版事項 : 東京:林寿太郎,明44.5
西暦年 : 1911

タイトル : るゝどの姫君
タイトルよみ : ルルド ノ ヒメギミ
責任表示 : ヘンリ・ラッセル著,水主増吉重訳
出版事項 : 大分:天主公教会,明25.8
西暦年 : 1892

タイトル : 聖人物語 1・2月之巻
タイトルよみ : セイジン モノガタリ
責任表示 : シルベン・ブスケ著
出版事項 : 大阪:シルベン・ブスケ,明43
西暦年 : 1910

タイトル : 日本西教史
タイトルよみ : ニホン セイキョウシ
責任表示 : ジアン・クラセ著,太政官翻訳係訳
出版事項 : 東京:坂上半七,明13.12
西暦年 : 1880

タイトル : 日本西教史
タイトルよみ : ニホン セイキョウシ
責任表示 : ジアン・クラセ著,太政官翻訳係訳
出版事項 : 東京:博聞社,明27
西暦年 : 1894

タイトル : 黙想路引
タイトルよみ : モクソウ ミチビキ
責任表示 : 外松謙著
出版事項 : 東京:東京浅草天主堂,明26.3
西暦年 : 1893

タイトル : 旧新両約史略
タイトルよみ : キュウ シン リョウ ヤク シ リャク
責任表示 : 長塩軍治編
出版事項 : 長崎:長崎天主堂,明25
西暦年 : 1892

タイトル : 基督信者の要務
タイトルよみ : キリスト シンジャ ノ ヨウム
責任表示 : 浦川和三郎編
出版事項 : 長崎:天主堂,明44.6
西暦年 : 1911

タイトル : 聖母マリアの七の悲傷
タイトルよみ : セイボ マリア ノ シチ ノ ヒショウ
責任表示 : 聖アルホンソ著,浦川和三郎訳
出版事項 : 長崎:天主堂,明43.7
西暦年 : 1910

タイトル : 完全なる痛悔
タイトルよみ : カンゼンナル ツウカイ
責任表示 : ラゲ編
出版事項 : 東京:前田長太,明35.9
西暦年 : 1902

タイトル : 公教会祈祷文
タイトルよみ : コウキョウカイ キトウブン
責任表示 : 天主公教会編
出版事項 : 神戸:天主公教会,明42.2
西暦年 : 1909

タイトル : 公教釈義
タイトルよみ : コウキョウ シャクギ
責任表示 : 堀江幸治編
出版事項 : 東京:天主公教会,明30.12
西暦年 : 1897

タイトル : 公教要旨
タイトルよみ : コウキョウ ヨウシ
責任表示 : エルネス・オグステン・ツルペン著
出版事項 : 名古屋:天主公教会,明29.12
西暦年 : 1896

タイトル : 公教要旨
タイトルよみ : コウキョウ ヨウシ
責任表示 : 天主公教会編
出版事項 : 東京:三才社,明39.9
西暦年 : 1906

タイトル : 公教要理
タイトルよみ : コウキョウ ヨウリ
責任表示 : 天主公教会編
出版事項 : 東京:天主公教会,明29.7
西暦年 : 1896

タイトル : 天主公教要理
タイトルよみ : テンシュ コウキョウ ヨウリ
出版事項 : 東京:天主公教会,1911 3版
西暦年 : 1911

タイトル : 公教要理図解
タイトルよみ : コウキョウ ヨウリ ズカイ
責任表示 : ワグネル等訳,増本寅吉記
出版事項 : 大阪:ペ・マルモニエ,明43.7
西暦年 : 1910

タイトル : 幸福之道
タイトルよみ : コウフク ノ ミチ
責任表示 : 天主公教会編
出版事項 : 東京:天主公教会,明33.7
西暦年 : 1900

タイトル : 御苦難之黙想
タイトルよみ : ゴクナン ノ モクソウ
責任表示 : アルホンス・リゴリ-著,脇田登摩訳
出版事項 : 東京:三才社,明41.8
西暦年 : 1908

タイトル : 修徳指南 巻之2
タイトルよみ : シュウトク シナン
責任表示 : アルフホンソ・ロデリゲス著,長岡謙輔訳
出版事項 : 長崎:私立羅典神学黌,明35.6
西暦年 : 1902

タイトル : 聖教理緒
タイトルよみ : セイ キョウリショ
責任表示 : 安治川漁徒訳,小島準治編
出版事項 : 大阪:小島準治,明16.2
西暦年 : 1883

タイトル : 聖教理証
タイトルよみ : セイ キョウリショウ
出版事項 : 名古屋:名古屋天主教会,明26.10
西暦年 : 1893

タイトル : 聖母崇敬の道
タイトルよみ : セイボ スウケイ ノ ミチ
責任表示 : ルマルシャル著,村上春一訳
出版事項 : 東京:村上春一,明38.5
西暦年 : 1905

タイトル : 聖福音書
タイトルよみ : セイ フクインショ
責任表示 : 高橋五郎訳
出版事項 : 横浜:天主公教会,明28,30
西暦年 : 1897

タイトル : 聖母月
タイトルよみ : セイボゲツ
責任表示 : 天主公教会編
出版事項 : 大阪:天主公教会,明44.5
西暦年 : 1911

タイトル : 聖ヨゼフの月
タイトルよみ : セイ ヨゼフ ノ ツキ
責任表示 : 天主公教会編
出版事項 : 大阪:ペ・マルモニエ,明45.3
西暦年 : 1912

タイトル : 善終の準備
タイトルよみ : ゼンシュウ ノ ジュンビ
責任表示 : ペ・マルモニエ著,増本寅吉校
出版事項 : 大阪:聖若瑟教育院,明43.11
西暦年 : 1910

タイトル : 小さき花
タイトルよみ : チイサキ ハナ オトメ テレジヤ ノ ジジョデン
責任表示 : シルベン・ブスケ訳
出版事項 : 大阪:聖若瑟教育院,明44.9
西暦年 : 1911

タイトル : 天主公教小略
タイトルよみ : テンシュ コウキョウ ショウリャク
出版事項 : 名古屋:名古屋天主教会,明27.2
西暦年 : 1894

タイトル : 天主公教之頑固
タイトルよみ : テンシュ コウキョウ ノ ガンコ
責任表示 : ドルワ-ル・ド・レゼ-著,教学研鑽和仏協会訳
出版事項 : 東京:教学研鑽和仏協会,大正3
西暦年 : 1914

タイトル : 天主実義
タイトルよみ : テンシュ ジツギ
責任表示 : 利瑪竇(マテオ・リッチ)著,小島準治点
出版事項 : 東京:開世堂,明18.3
西暦年 : 1885

タイトル : 基督之復活
タイトルよみ : キリスト ノ ヨミガエリ レキシ ノ ロンテン ニ ヨリテ アカス
責任表示 : ラゲ著
出版事項 : 福岡:公教会,明23.10
西暦年 : 1890

タイトル : 公教会羅甸歌集         
タイトルよみ : コウキョウカイ ラテン カシュウ
責任表示 : エ・ラゲ編
出版事項 : 東京:三才社〔ほか〕,明36.6
西暦年 : 1903

タイトル : 信仰之法則 上
タイトルよみ : シンコウ ノ ホウソク
責任表示 : ラゲ著
出版事項 : 福岡:福岡公教会所,明23.5
西暦年 : 1890

タイトル : Waga Shu Iesus Kirisuto no Shin-yaku seisho.
タイトルよみ : ワガ シュ イエスス キリスト ノ シンヤク セイショ
責任表示 : エ・ラゲ訳
出版事項 : 鹿児島:公教会,明43.7
西暦年 : 1910

タイトル : 我主イエズスキリストの新約聖書
タイトルよみ : ワガ シュ イエズス キリスト ノ シンヤク セイショ
責任表示 : エ・ラゲ訳
出版事項 : 鹿児島:公教会,明43.7
西暦年 : 1910

タイトル : 我主イエズスキリストの新約聖書
タイトルよみ : ワガ シュ イエズス キリスト ノ シンヤク セイショ
責任表示 : エ・ラゲ訳
出版事項 : 鹿児島:公教会,明43.7
西暦年 : 1910

タイトル : 救霊
タイトルよみ : キュウレイ コウキョウ エンゼツ
責任表示 : 前田長太述
出版事項 : 東京:前田長太,明34.6
西暦年 : 1901

タイトル : 心戦
タイトルよみ : シンセン
責任表示 : スクポリ原著,ラゲ転訳,加古義一記
出版事項 : 東京:三才社,明40.5
西暦年 : 1907

タイトル : 耶蘇基督真蹟考
タイトルよみ : ヤソ キリスト シンセキ コウ
責任表示 : 斯定筌述,久米邦武記
出版事項 : 東京:岩崎重雄,明30.8
西暦年 : 1897

タイトル : 聖人伝
タイトルよみ : セイジンデン
責任表示 : 斯定筌著
版表示 : 2版
出版事項 : 東京:武市誠太郎,明36.2
西暦年 : 1903

タイトル : 日本聖人鮮血遺書
タイトルよみ : ヤマト ヒジリ チシオ ノ カキオキ
責任表示 : 加古義一編
版表示 : 訂正増補6版
出版事項 : 大阪:聖若瑟教育院,明44.12
西暦年 : 1911

タイトル : 危難
タイトルよみ : キナン
責任表示 : 聖若瑟教育院訳編
出版事項 : 大阪:聖若瑟教育院,明44.9
西暦年 : 1911

タイトル : トラピストの精神
タイトルよみ : トラピスト ノ セイシン
責任表示 : リギョ-ル著,山口鹿三訳
出版事項 : 大阪:聖若瑟教育院,明45.4
西暦年 : 1912

タイトル : 未来の希望
タイトルよみ : ミライ ノ キボウ
責任表示 : 石橋中和訳
出版事項 : 大阪:聖若瑟教育院,明43.9
西暦年 : 1910

タイトル : 解疑
タイトルよみ : カイギ
責任表示 : ドルワ-ル・ド・レゼ-述,林寿太郎記
出版事項 : 東京:三才社,明34,35
西暦年 : 1902

タイトル : 真理之本原
タイトルよみ : シンリ ノ ホンゲン
責任表示 : ドルワ-ル・ド・レゼ-述,林寿太郎記
版表示 : 増補訂正7版
出版事項 : 東京:林寿太郎,明43.6
西暦年 : 1910

タイトル : 真理之本原
タイトルよみ : シンリ ノ ホンゲン
責任表示 : ドルワ-ル・ド・レゼ-述,林寿太郎記
出版事項 : 東京:前田長太,明30
西暦年 : 1897

タイトル : 学問の破産
タイトルよみ : ガクモン ノ ハサン
責任表示 : ドルワ-ル・ド・レゼ-著,教学研鑽和仏協会訳
出版事項 : 東京:教学研鑽和仏協会,明44.1
西暦年 : 1911

タイトル : 社会主義と自由思想
タイトルよみ : シャカイ シュギ ト ジユウ シソウ
責任表示 : ドルワル・ド・レゼ-著,教学研鑽和仏協会訳
出版事項 : 東京:教学研鑽和仏協会,明44.8
西暦年 : 1911

タイトル : 真正之新教
タイトルよみ : シンセイ ノ シンキョウ
責任表示 : ドルワル・ド・レゼ-述,林寿太郎記
出版事項 : 甲府:林寿太郎,明37.4
西暦年 : 1904

タイトル : 道徳と文明
タイトルよみ : ドウトク ト ブンメイ
責任表示 : ドルワル・ド・レゼ-述,林寿太郎記
出版事項 : 東京:林寿太郎,明41.3
西暦年 : 1908

タイトル : 幸福
タイトルよみ : コウフク
責任表示 : ドルワ-ル・ド・レゼ-著
出版事項 : 東京:林寿太郎,明44.6
西暦年 : 1911

タイトル : 羅瑪教皇と現社会
タイトルよみ : ロ-マ キョウコウ ト ゲンシャカイ
責任表示 : リギヨル著,前田長太訳
出版事項 : 東京:石川音次郎,明32.11
西暦年 : 1899

タイトル : 黒衣婦人
タイトルよみ : コクエ フジン
責任表示 : 前田長太編
出版事項 : 東京:文海堂,明30.12


タイトル : 信徒之宝盒抄略
タイトルよみ : シント ノ ホウゴウ ショウリャク
責任表示 : レオナルド・ゴフヰネ著,工藤応之重訳
出版事項 : 東京:三才社,明32.1
西暦年 : 1899

タイトル : 貞徳宝鑑
タイトルよみ : テイトク ホウカン
責任表示 : 前田長太訳
出版事項 : 東京:和田粂三〔ほか〕,明27.9
西暦年 : 1894

タイトル : 特別糺明要理
タイトルよみ : トクベツ キュウメイ ヨウリ
責任表示 : アンリ・ルボン著,山口鹿三訳
出版事項 : 東京:ヨゼフ・グ-ドレ-ベン,明45.2
西暦年 : 1912

タイトル : 名古屋の夕話 第1席
タイトルよみ : ナゴヤ ノ セキワ
責任表示 : 藤本精一郎編
出版事項 : 名古屋:藤本精一郎,明24.2
西暦年 : 1891

タイトル : 黙想余滴
タイトルよみ : モクソウ ヨテキ
出版事項 : 東京:土岐正紀,明27.8
一般注記 : 聖保禄公教会の信徒一般黙想修行の黙想の略方と明治27年5月6-13日の黙想中説教の大略
西暦年 : 1894

41. 文明之華 / リギヨル著他,石川音次郎, 明33.6
42. 文明之武士 / リギヨル著他,前田長太, 明34.6. - (倫理叢書 ; 1)
43. 法理哲学 / リギヨル著他,石川音次郎, 明33.5
44. 無主義無人物 / リギヨル述他,教友会, 明35.5
45. 唯物論と霊性論 / リギヨル著他,文海堂, 明31.3
46. 四ツ目屋事件と現今の学説 / リギヨル述他,三才社〔ほか〕, 明35.6
47. 余の家庭観 / リギヨル著他,三才社〔ほか〕, 明35.5
48. 理想之家庭 / リギヨル著他,石川音次郎, 明33.11
49. 理想の青年 / リギヨル著他,石川音次郎, 明31.12
50. 羅瑪教皇 / リギヨル著他,石川音次郎, 明32.5
21. ジャンダ-ク / リギヨ-ル著他,教学研鑽和仏協会, 明43.8
22. 人物の理想 / リギヨル他,前田長太, 明35.12
23. 正義 / リギヨル著他,前田長太, 明34.7. - (倫理叢書)
24. 世界管見 / リギヨル著他,石川音次郎, 明33.5
25. 節制 / リギヨル著他,前田長太, 明36.4. - (倫理叢書)
26. 洗礼堅振及聖体 / リギョル著,昌平館, 明40.7. - (神学綱要)
27. 対人之義務 / リギョル著他,昌平館, 明39.5. - (神学綱要)
28. 超自然の寵恩 / リギョル著他,昌平館, 明39.11. - (神学綱要)
29. 貞女の生活 / リギヨル著他,石川音次郎, 明32.5
30. 哲学論綱 / リギョ-ル述他,文海堂, 明30.1
31. トラピスト / リギョル著他,文海堂, 明30.12
32. トラピスト / リギョル著他,三才社, 明40.12
33. トラピストの精神 / リギョ-ル著他,聖若瑟教育院, 明45.4
34. 日本主義と世界主義 / リギヨル著他,文海堂, 明31.1
35. 日本青年の将来 / リギヨル著,洛陽堂, 明45.2
36. 秘密結社 / リギョル著他,石川音次郎, 明33.3
37. 品級及び婚姻 / リギョル著他,三才社, 明41.11. - (神学綱要)
38. 福音の門 / リギヨル著他,教友会, 明35.12
39. 婦人之赤心 / リギョル著他,石川音次郎, 明33.7
40. 武勇 / リギヨル著他,前田長太, 明34.12. - (倫理叢書 ; 〔4〕)
1. 愛国の真理 / リギョ-ル述他,文海堂, 明29.6
2. 悔悛及び終油 / リギョル著他,三才社, 明41.9. - (神学綱要)
3. 学理無能論 / リギョ-ル著他,文海堂, 明31.4
4. 学界の偉人 / リギヨル述他,教友会, 明35.12
5. 教育界之流行病 / リギョル述他,石川音次郎, 明32.9
6. 教育哲学講義大綱 / リギヨル述他,東洋社, 明35.5
7. 教界の権利主義と自由主義 / リギョル著他,文海堂, 明31.7
8. 希露離教論 / リギョ-ル述他,文海堂, 明30.6
9. 金書 / リギョ-ル訳他,公友社, 明21.6
10. 警醒時論 / リギョル著他,文海堂, 明31.2
11. 賢明 / リギョル著他,前田長太, 明34.7. - (倫理叢書)
12. 公教の子供 / リギヨル著,聖若瑟教育院, 大正7
13. 古事新論 / リギョル述他,石川音次郎, 明29.5
14. 国家盛衰之原理 / リギヨ-ル述他,文海堂, 明30.2
15. 社会問題 / リギョル他,昌平館, 明36.3
16. 照闇の燈 / リギョル述他,文海堂, 明30.2
17. 処世哲学 / リギヨル述他,文海堂, 明30.7
18. 事蹟以前以後之歴史 / リギョ-ル述他,文海堂, 明29.8
19. 事蹟以前以後之歴史 / リギョ-ル著,三才社, 明41.11
20. 実験界と迷信界 / リギョル著他,石川音次郎, 明34.2

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【参考資料】2000年6月にバチカンが発表した「ファチマの第3の秘密」日本語訳

2007年10月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、
【参考資料】 2000年6月にバチカンが発表した「ファチマの第3の秘密」と言われているものによると、日本語訳は次の通りです。
(私たちはこのヴィジョンより他に、今まで通常『ファチマの第三の秘密』と呼ばれてきたものがあると考えます。)


“J.M.J.

 天主よ、私は御身への従順のためにこれを書きます。御身はレイリアの司教様と、いとも聖なる御身の御母にして私の母なる聖母マリアとを通して、私にそうすることを命じ給います。

 私がすでに説明した2つの部分の後で、聖母マリアの左の少し上に、私たちは、左手に炎の剣を持つ一位の天使を見ました。この剣はこの世を火で焼くことができるかのように見える炎を出して燃えていました。が、これらの炎は聖母マリアがその右の手からこの天使へと向けて輝き出す輝きに触れて消されてしまいました。天使は、右の手で地上を指し示しながら大きな声で叫びました。「償い!償い!償い!」 そして私たちは巨大な光を見ましたがそれは天主様でした。(人々が鏡の前に立つと、自分の姿が鏡に映されるような様子と何かにていることです。)白い服を着た一人の司教様(私たちはこの司教様は教皇様であるという印象を受けました)、その他の司教様たち、神父様たち、男性、女性、修道者たちが山の上に登っています。その頂上には、樹の皮の付いたコルクの樹の幹を荒く切り倒して作った大きな十字架がありました。そこに辿り着く前に、教皇様は、苦しみと悲しみとで半分震えて半分躊躇する足取りで、半分崩壊した巨大な都市を通り抜け、その途上で出会った死体の霊魂らのために祈っていました。山の頂上に到着すると、大きな十字架の元にひざまずき、彼に向けて弾丸と矢を放った一軍の兵士たちによって殺害されてしまいました。そして同じように、その他の司教様たち、司祭たち、修道士、修道女達、そして様々な階級と職種の平信徒の人々も次々にそこで死んでいきました。十字架の二つの腕の下にいた二位の天使たちは、殉教者達の血を集めて水晶で出来た灌(かん)水器に入れて手に持ち、それで聖水のように天主へと道を進む霊魂たちに振りかけていました。


“J.M.J.

The third part of the secret revealed at the Cova da Iria-Fatima, on 13 July 1917.

I write in obedience to you, my God, who command me to do so through his Excellency the Bishop of Leiria and through your Most Holy Mother and mine.

After the two parts which I have already explained, at the left of Our Lady and a little above, we saw an Angel with a flaming sword in his left hand; flashing, it gave out flames that looked as though they would set the world on fire; but they died out in contact with the splendour that Our Lady radiated towards him from her right hand: pointing to the earth with his right hand, the Angel cried out in a loud voice: ‘Penance, Penance, Penance!'. And we saw in an immense light that is God: ‘something similar to how people appear in a mirror when they pass in front of it' a Bishop dressed in White ‘we had the impression that it was the Holy Father'. Other Bishops, Priests, men and women Religious going up a steep mountain, at the top of which there was a big Cross of rough-hewn trunks as of a cork-tree with the bark; before reaching there the Holy Father passed through a big city half in ruins and half trembling with halting step, afflicted with pain and sorrow, he prayed for the souls of the corpses he met on his way; having reached the top of the mountain, on his knees at the foot of the big Cross he was killed by a group of soldiers who fired bullets and arrows at him, and in the same way there died one after another the other Bishops, Priests, men and women Religious, and various lay people of different ranks and positions. Beneath the two arms of the Cross there were two Angels each with a crystal aspersorium in his hand, in which they gathered up the blood of the Martyrs and with it sprinkled the souls that were making their way to God.

Tuy-3-1-1944”.

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■ 聖ピオ十世教皇のと言われている預言と、ベネディクト十六世
■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか
■ 新しいミサに関するベネディクト十六世教皇の言葉
■ ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿とその思想は?教皇ベネディクト十六世の考えをよく理解するために

【参考資料】
『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和1と2
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和3と4
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和5,6,7.8
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和 第二部 9,10,11
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和 第二部 12,13,14,15

朝鮮最初のカトリック司祭、聖アンドレア金大健神父の信徒への手紙

2007年10月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
聖金大建アンドレア(安魯)神父についてご紹介します。


 朝鮮最初のカトリック司祭、アンドレア金大健


 李氏朝鮮末期1821年8月21日に、忠清南道の両班で熱心なカトリックの両親のもとに生まれる。兒名は再福といった。祖父である金震厚は1814年に牢死により殉教し、父親イグナチオ金済俊は1836年フランス人司祭であるモバン(Maubant)神父から受洗、1839年に西門外で斬首の殉教をしている。
 金大建は、15歳の時モバン神父より受洗、その才能を認められ、マカオ(澳門)の神学校で勉強するように推薦を受け、両親の元を離れて、同輩の崔良業、崔方済とともに遼東と満州を経て中国大陸を縦断するマカオまでの旅に出た。神学、ラテン語、フランス語などをマカオ駐在のパリ外国宣教会司祭から学び、6年の勉学の後、1845年8月17日に、上海でフェレオル司教(Ferreol、注:ペレオールではない)からカトリック司祭として叙階される。
 第三代朝鮮教区監牧(朝鮮教区長)であるフェレオル司教を助けるために1845年10月、朝鮮に入り、監牧代理として宣教活動をする。翌1846年6月5日、官憲により逮捕され投獄される。同年9月15日天主教を信じた邪學罪人の反逆罪として軍門梟首による死刑を宣告され、同年9月16日殉教。25歳。

 一年に満たない朝鮮での「司牧活動」のために、若くして家を捨て祖国を離れて留学し、フランス式のカトリック神学教育を受た。神学を学ぶため、また祖国朝鮮で司牧するために数千キロメートルも危険な旅を繰りかえした。迫害の中、朝鮮で迫害を受けているカトリック信徒たちを慰め励まし教えた。

 1925年7月5日、ピオ十一世により韓国69位福者の一人として列福される。
 1984年5月6日、ヨハネ・パウロ二世より103位韓国殉教者の一人として列聖される。
 韓国聖職者の守護の聖人。

聖金大建神父の生涯は次にくわしい。

聖金大建神父の生涯

聖金大建神父の生涯

聖金大建神父の生涯

 ラテン語で書かれた書簡二十三通が残っている。漢文でも一通書簡を書き、獄中で朝鮮で迫害を受けている信徒たちを励ますための回覧状(廻諭文)を唯一ハングルで書き残した。神父は一度も自分の韓国語の名前を署名で使っていない。常に金アンドレアである。

 何故金大建神父は、あらゆる危険、体力の極度の衰弱、重病にもかかわらず、中国大陸を縦断して司祭となり、雪の中でも何百キロを歩き、陸地と海路を通じて命の危険を冒してまで朝鮮に戻ったのか? それは秘蹟を信徒たちに授けるためであった。ミサ聖祭をたて、罪の告白を聞き、祝福するためであった。

 金アンドレア神父様のような危険な宣教の旅は、とても真似できるものではない。迫害の中、飛行機も電車もバスも車もない時代の旅行だ。電話もファックスも携帯のメッセージもメールもインターネットもない。金アンドレアは歩いて歩いた。しかしその気持ちが私には痛いようによく分かる気がする。牧者がその信徒たちを思う気持ち、彼らを愛する気持ちがよく分かる。私はその牢獄での書簡を読んで深く感動した。

 たった二十五歳になったばかりの朝鮮最初のこの司祭殉教者には、どれ程多くのことを信徒の方々に伝えたかったことだろうか!「言うことは限りなくあり」、いくら紙を尽くしても筆を尽くしても書ききれなかっただろう。彼らのことを「心から愛して忘れることの出来ない」気持ちでどれ程一杯だっただろうか!

 聖金アンドレア神父は、彼らに一つのことしか願っていない。これこそ本当の愛から出る願いだった。つまり彼らの救霊だ。聖なる神父は何度もこう繰り返している。

「迫害を耐え忍び、主の栄光のために働き、あなたたちの救霊を全うせよ。」
「天国に行って会おう。」
「天国で会い永遠に至福を享受することを願う。」

 金アンドレア神父様の書いたものは日本語ではあまりよく知られていないので、金アンドレア神父の口を通して私も日本にいる愛する兄弟姉妹の皆様に同じことを言うために、この書簡を是非紹介したいと思う。

 聖なるロザリオの聖母よ、我らのために祈り給え!
 無原罪の御宿りよ、我らのために祈り給え!
 聖アンドレア金大建よ、我らのために祈り給え!

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金アンドレア神父の最後の書簡
獄中にて 1846年8月末
(訳:トマス小野田神父)


교우들 보아라!
信徒たちよ、見よ。

 我が友よ、良く考えて、考え抜くように。天主は何もなかった原初(無始之時)より天地万物を創造し、その中に私たち人間を、御自身の姿に似せて創り給いこの世に置き給う目的(慰藉)とその意味を考えるように。

 全てこの世のことを、じっくり考えてみると、哀れで悲しいことが多い。このように厳しく哀れな世界に一度生まれ、私たちを生まれさせたもう主(임자)を知らないとしたら、生き甲斐もなく、生きていても無益で、たとえ主の恩によりこの世に生まれ、主の恩により受洗して入信し主の弟子になっても、名前はまた尊くとも、実が伴わなければ、名前を何の役にたつのか。この世に生まれ入信した意味(効験)がないのみならず、むしろ主に背き主の恩に背く(背主背恩)ことになり、主の恩寵を受けるだけで主に罪を犯すならば、生まれてこないだけということと何とも同じことだ。

 種を植える農夫を見ると、時に合わせて畑を耕し、肥料を蒔き、暑さに苦労を顧みることなく、美しい種を養い育て、収穫の時に至って、穀物が良く実るなら、汗を流した苦労を心は忘れてむしろ喜び踊り幸福になるだろうし、穀物が良く実らず収穫の時に空籾と殻だけしかならないなら、主人は汗を流した苦労を思い出し、むしろこの畑に肥料を蒔いてやった努力のためにこの畑を冷遇するだろう。このように主は、この地を畑とし、私たち人間をして稲とし、恩寵をして肥料とし給い、贖罪のために御托身し給いて、御血によりて私たちに水を与え、良く育ち実りをつけるようになさっておられる。審判の日に、収穫の時が到来し、恩寵を受けて実りをつけたならば主の養子(義子)として天国を享受するだろうし、もしも実りをつけることが出来なかったのならば、主の養子から主の敵となり、永遠にふさわしい罰を受けることだろう。

 私の愛する兄弟たちよ、よく知るように。私たちの主イエズスは、この世に生まれ、その身に無数の苦難を受け給い、苦しみの中から聖なる教会を建て給い、苦難の中でそれを成長させ給う。しかし、この世の嵐がどれ程激しく戦うとも、勝つことは出来ない。イエズスは御昇天後の使徒の時代より今に至るまで、聖なる教会はあまねく無数の艱難の中を成長し、ただ今では我が朝鮮に聖なる教会が到来して五、六十年の間に、幾度も迫害に信徒たちが今までさらされており、また今日、迫害は炎のように燃え上がり、数名の信徒たちと私までが捕らえられ、更にあなたたちまで困難の中に耐えている。私たちが一つの神秘体となり悲しみの心(哀痛之心)がないとしても、肉体(肉情)にはとても耐えられない離別は、難しくないわけがあるだろうか。しかし、聖書に言われているように、小さな髪の毛の先でさえも主は御覧になり給う、と。主にはご存じないことがなく全てを御覧になる、と言われ給うたのだから、どうしてこのようなのかと言うような迫害が、主の御旨(主命)でなかったり、主の与え給う報償と罰(主賞主罰)でないわけがあるだろうか。

 主の聖なる御旨に従うなら、全心で天主イエズスの御稜威の側にたち、既に敗北させられたこの世の悪魔を打とう。このように遑々として慌ただしい時代にあたって、気後れさせることなく、むしろ力を尽くしてますます持てる力を出し、ちょうど勇敢な軍人が武器を携えて戦場に立つようにして、戦って勝つように。

 どうか互いの友愛を忘れずに助け合い、合わせて主が私たちを憐れみ給い艱難を終えられるまで待て。万一どのようなことがあっても、どうか気をつけて極めてよく注意して主の栄光のために働き、ますます用心を重ねよ。ここにいる者二十名は、まだ主の御恵みにより元気でいる。もしも死んだ後でもあなたたちがこの人たちの家族をどうか忘れることのないようにせよ。

 言うことは限りなくあるが、今や紙筆が尽き、ここで終える。私たちは遠からず戦場に出かけるだろうから、どうか、着実に功徳を修め、天国に行って会おう。心から愛して忘れることの出来ない信徒たちに、あなたたちはこのような困難の時代にあたり、どうか心を虚実に惑わされずに、夜も昼も主の助け(主祐)を乞い求め、三仇(=救霊を妨げる三つの敵である、悪魔、世俗、肉欲のこと)に敵対し、迫害を耐え忍び、主の栄光のために働き、あなたたちの救霊を全うせよ。このような迫害の時は、主の試練を受け世俗と悪魔に打ち勝ち功徳をますます積むときである。どうか、困難に大きく降伏する心で主に従う救霊の事業(事主救靈事)を途中で放棄してしまわず、むしろ過去の聖人聖女のあとをすべて自分のものと習得(萬萬修治)し、聖なる教会の栄光をいやまし、天主の着実な軍人と養子となったことを証明し、たとえあなたたちの体は多数でも、心では一人となり、愛を忘れずに、互いに忍びあい、憐れみ、主の憐れみの時を待て。

 言うことは無数にあるが、場所が妥当ではなく書けない。全ての信徒たちは、天国で会い永遠に至福を享受することを願う。私の口をもってあなたたちの口に当てて、愛を接吻せよ。

副監牧 金 アンドレア

(追伸)
 この世の全てのことは、些かのことも主のみ旨の通り(莫非主命)であり、些かのことも主の報償であり罰(莫非主賞主罰)である。従って、このような迫害もたしかに天主の許しがあってのことであり、あなたたちは甘受忍耐し、主のために生きひたすら主に悲しく乞い求め、早く平和を下さるのを待て。私が死ぬのはあなたたちの肉体と霊魂の大事に、いかに支障でないわけがあるだろうか。しかし、天主は遠からずあなたたちに、私と比較して、より着実な牧者を報償として下さるだろうから、どうかそわそわせず、大きな愛を起こし一つの体のように主に仕え、死後一緒に永遠に天主の御稜威に会い、ともに至福を享受することを多く願う。元気でいるように。

金神父 贈物謝絶



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