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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

天主教愛国協会は教皇許可のない司教聖別を行う予定

2006年11月30日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


 中国共産党(中共)管理下の天主教愛国協会は、今日11月30日に教皇許可のない司教聖別を行う予定だそうだ。もしこれが行われれば、このような司教聖別は今年に入って3人目。


 カトリック教愛国協会の劉柏年・副主席(Anthony Liu Bainian, vice chairman of the Chinese Catholic Patriotic Association)が語るところによると、
10月21日に行われた江蘇省(Jiangsu province)の徐州教区(Diocese of Xuzhou)新司教の選出選挙で、同地区9人の司祭と9名の修道女と信徒らが満場一致で王仁雷神父(Father John Wang Renlei)を選び、王仁雷神父は愛国協会の司教評議会(中共宗教事務局 Bishops' Conference)に受け入れられた、とのことだ。


 聖座はこの司教聖別について11月21日に初めて知らされた、とのことである。


 王仁雷神父は、1970年6月5日生まれ。上海の神学校で勉強(1989-1992)の後、1996年に叙階され、その後、北京の国立神学校で1999年まで学んだ。


 カトリック教愛国協会は今年4月と5月にも雲南省昆明と安徽省両地区で司教聖別をし馬英林(Joseph Ma Yinglin, 41)と劉新紅(Joseph Liu Xinhong, 41)とが司教となった。ローマ教皇・ベネディクト16世は当時、中共側が信教の自由を違反したと強い抗議声明を発表した。


【参考資料】
CHINA 'Open' Church Prepares To Ordain Third Bishop Without Papal Mandate This Year
    
http://www.ucanews.com/html/ucan/f_dishpatch.asp?ucalang=English_../news_report/english/2006/11/w5/tue/CH01505Rg.txt



【コメント】
 2000年に教皇許可のない司教聖別が行われ、破門がなされたが、そのすぐ後にバチカンはその破門を取り消し、彼らを承認した。


 今年(2006年)の雲南省や安徽省での司教聖別には、その一度破門され承認を受けた司教も聖別の儀式をしに来た。ベネディクト十六世は、ヨハネ・パウロ二世よりも強い言葉で抗議をしたが、本当に「破門」されたのかどうか疑わしいとされている。
 ローマのグレゴリオ大学の教会法学部長マイケル・ヒルバート神父(イエズス会)は、ベネディクト十六世が「遺憾に思った」という発言をした本当の問題点は、教会法に基づく制裁ではなく、中国で信教の自由が阻害されていることを排斥したものだ、という。
「今日の状況からみて、司教が破門されたのかは誰にも言えない。誰にも分からない。」と言っている。


http://www.ucanews.com/html/ucan/f_dishpatch.asp?ucalang=English_../news_report/english/2006/05/w3/fri/ZY00359KA.txt


 しかも、今年4月に中共によって司教になった馬英林は、筋金入りの共産主義者だ。彼はまた、中国天主教愛国会副主席、中国天主教主教団秘書長、河北省天主教神哲学院常務副院長、云南省天主教愛国会主席、教務委員会主任、昆明教区主教,并為十届全国人大代表、中国宗教界和平委員会委員でもある。


 バチカンにとって問題の核心は、残念なことに、カトリック信仰というよりは政治問題と信教の自由になってしまっているのではないか? 中共による別の教会成立も、教皇様の裁治権の否定も、本当の「破門」か分からないとされているのだから。教会法のこの自動破門条項は、毛沢東時代の中共による愛国協会に対する対応として新しく作られたものだったのだが、それは今は全く機能していないようだ。


 現代の唯一の「大罪」は、ルフェーブル大司教様がしたように聖伝のカトリック信仰を守ろうとすることになってしまっているようだ。

 

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教皇様のためのロザリオの霊的花束、全世界から250万環集まる

2006年11月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!



 教皇様のためのロザリオの祈りの霊的花束は、全世界から250万環集まったそうです。天主に感謝! 兄弟姉妹の皆様の寛大なお祈りに感謝します。

http://www.dici.org/accueil.php



 カトリック司祭の偉大さは、まさに聖伝の典礼様式に従って天主・教会・霊魂を思い、十字架のいけにえを捧げること。司祭の苦しみは、この十字架のいけにえから遠ざかること。全世界のカトリック司祭たちが、カトリック教会の宝である聖伝のミサをもう一度、自分の手に取り、天主に「汚れなきホスチア」「救いのカリス」を捧げることができますように!


 聖ピオ5世教皇様の荘厳な大勅令(Bulla) である『クォー・プリームム』を骨抜き・死文化させず、その真理をありのまま、ローマが発表しますように! 全てのカトリック司祭は、聖伝のミサを捧げる義務があること、聖伝のミサを捧げる自由があることを!


 聖ピオ十世会は、もうすぐこの霊的花束をベネディクト十六世教皇様のもとにお届けするでしょう。


 私たちは、カトリック教会のため、私たちの教皇様のため、カトリック司祭、司教たちのため、霊魂の救いのため、祈り続けるつもりです。

 


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ファチマの第4の秘密

2006年11月28日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!



ファチマの第3の秘密はまだ隠されたままと主張する本が出版されたそうです。ご参考までに。


アントニオ・ソッチ著『ファチマの第4の秘密』
http://www.internetbookshop.it/ser/serdsp.asp?isbn=8817009938


メッソーリによる記事
Fatima, c'e un ≪quarto segreto≫ da rivelare
http://www.corriere.it/Primo_Piano/Spettacoli/2006/11_Novembre/21/fatima.shtml


New Italian book claims 3rd Fatima secret still hidden
http://www.cwnews.com/news/viewstory.cfm?recnum=47798

 

 

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ハングル文字の起源

2006年11月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア!

ハングル文字の起源


 私はこの頃いろいろ知らなかったことを教えてもらっています。
昨日は、ソウル大学で研究している学生さんと一緒に食事をしました。
彼は、Hyung Il Pai 教授の主張について教えてくれました。


 韓国語では배형일と姓を先に書きますから Pai Hyung Il と言うべきでしょうが、この教授については次をご覧下さい。
http://www.eastasian.ucsb.edu/content/people_pai.html


 ハングルの起源は、世宗(セジョン)大王が、人間の舌や口の形を元にして、全く人工的で創造的なハングルという韓国語の文字を作ったと言うことになっています。そして『訓民正音』という本を出版して、ハングルを公表したのです(1446年)。


 しかし朝鮮半島がモンゴル帝国の長い支配を受けていたことから、モンゴルの文字との関係が指摘されています。そこで世宗大王の学者たちが参照とした「古篆」というのは、「蒙古篆字」 "Mongol Seal Script" ではないか、つまりモンゴルのパスパ文字 Phagspa alphabet ではないか、ということです。


 パスパ文字は、モンゴル帝国内の文字として13世紀に世祖フビライにより制定されたとされます。

 モンゴルの Phagspa(パスパ)文字については次をどうぞ。
http://www.omniglot.com/writing/phagspa.htm


 パスパ文字は、ギリシア文字、ローマのラテン文字に遡ることができるそうです。


 コロンビア大学の Gari Ledyard によると、ハングルの子音のㄱㄷㄹㅂㅈ (G, D, R, B, S の音に対応) がパスパのその音の文字 ག ད ལ བ ས. に対応し、ギリシア語のその音の文字 Γ Δ Λ Β に関係がありそうです。


 これについては次もご覧下さい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gary_Ledyard


 興味深いですね。

 

 


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新しいミサでは「王であるキリストの祭日が、終末を表す年間最終主日に定められている

2006年11月24日 | ミサ聖祭


アヴェ・マリア!


新しいミサでは「王であるキリストの祭日が終末を表す年間最後の主日に定められていることも意義深いものです」。


兄弟姉妹の皆様、
 何故王たるキリストの祝日が、10月の最終主日から、典礼暦の最終主日に移動したのでしょうか?


 これには「王たるキリスト」という概念の根本的変化という意味があります。



■ 聖伝によれば、キリストは創造主であり贖い主だから万物の王、全ての人間の王です。私たちの主イエズス・キリストを王として認めない人間、家庭、社会は、継続することができないでしょう。亡びるしかありません。「人間のための人間による人間の社会」はその根本原理からしてその滅亡が決定づけられています。全てはキリストの元に集められなければなりません。何故なら、イエズス・キリストは第2のアダムであり、贖われた人々の頭だからです。キリストは「私たちを悪の支配から解放し、まことのいのちへ導く」だけの王でありません。全被造物を天主の掟において指導し、立法、行政、司法の頂点に立つ王なのです。


 ピオ11世教皇様はそう教えました。
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/quasprimasjp.html


 教皇様は「人類が味わっている様々な困難の主な原因がどこにあるか指摘し」、

 「人類の大部分が、個人生活からも家庭や国家からも、イエズス・キリストとその貴い掟を閉め出してしまったために、これ程多くの不幸が世界に広がった」と言います。


「個人と国家が救い主の支配に背き、これを拒み続ける限り、諸国民の間に永続的な平和が打ち立てられる見通しは全くありません。私達が追求しなければならないのは、「キリストの国におけるキリストの平和」なのです。」


「キリストの主権の意味と本質を簡潔に説明しておきましょう。今さら言うまでもないことですが、主権には3つの権能[立法・司法・行政権]が必要です。これを持っていないとその王権は無意味になります。」


 「イエズスが人間の贖い主であるのみでなく、(1)人々が服従すべき立法者でもあるということは信仰箇条として認めなければなりません(トリエント公会議VI-21)。」



 「(2)裁判権も御父から与えられたことをイエズスはおん自ら言明されました。例えば安息日に奇跡で病人をいやしたと言ってユデア人たちがイエズスを訴えたとき「父は裁判なさらず、子に審判のことを全くお任せになった」(ヨハネ5:22)と言われたのです。この権能と一体となって全ての人々に対しても賞罰を与える権利があります。」


 「(3)行政権もキリストに属しています。それは違反者が避けることのできない制裁を命ずるキリストに誰もが従わなければならないからです。」



 「キリストの王国は何よりもまず精神的なものであり、精神的な事柄に関するのです。・・・
 しかしキリストの王職がそうであるからと言ってこの世の事柄について人たるキリストが何の権威もないと考えるのは大きな誤りです。」


 「贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。


 この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。


 キリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。


 キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。


 従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。


 教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。


「天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。


もしキリストの王国が権利として及ぶと同じく実際にも全ての国民に及ぶようになれば、王たるキリストがこの世にお与えになった平和について失望する理由は全くなくなります。この平和の王は「全ての者を和睦させ」るために「仕えられるためではなく、仕えるために来られ」ました。そして全ての者の主であられたのに、自ら謙遜の模範を示し、愛の掟に加えて謙遜の徳を自分の国の第一の法と定められたのです。しかも「私のくびきは快く、私の荷は軽い」といわれました。もし個人や家庭や国家が全てその支配をキリストに委ねるなら、非常に大きな幸福を得ることが出来るでしょう。先任者教皇レオ13世も、25年前、全教会の司教に宛てて次のようにいわれました。


「万民がキリストの支配権を喜んで受け入れ、それに服し、また『全ての舌が主イエズス・キリストは父なる天主の光栄のうちにましますことを公言する』(フィリッピ2:11)時のみ、私達はこの多くの傷を癒すことが出来ましょう。その時こそ、一切の法は昔の権威を取り戻し平和が回復して剣と武器は手放されるでしょう」(回勅アンヌム・サクルム1899年5月25日)。

 

現代の病、それは、いわゆる世俗主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間いろいろな国のうちに隠れていたのです。


 そしていつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったではありませんか。そのため教会がその権利を持って人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために人々を治めることが認められなくなったのです。


 そして、ついにキリストは誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。(=王として退位させられた)


 その上、教会は国家の権力のもとにおかれ元首や為政者が多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちは、更に進んで天主が啓示された宗教を捨てて自然宗教、つまり自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えてきました。


 また国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では邪悪と天主とを疎んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。


 このような個人および国家のキリストに対する反逆はたびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。


 つまり、このような人々と国々の反逆の結果、広範囲にわたる国家観の激しい敵意や憎しみの不和の種を生じ、あらゆる和合と平和を阻害してきました。また共通善とか愛国心とかの美名に隠れた飽くことを知らない欲望やそれによる個人間の争い、或いは過度の盲目的自己愛などを生じ、人々は自分の安楽と利益のみを求め、全ての物事をそれで測るようになってしまいました。そしてまた、義務を忘れたり軽んずることから家庭の不和を生じ、家庭の一致も安定も弛みました。こうして一言でいえば人間社会は揺らぎ、正に滅びに向かっているのです。


 しかし、私はこれから毎年行われる王たるキリストの祝日が社会をして、愛する救い主に立ち戻らせるだろうと言う希望を抱いております。


 そこでカトリック信者は様々の活動や自らの業によって、この復帰を早め準備させるように務めるのが義務でありますが、実際に多くの信者は社会に真理の光を掲げるために当然持つべき地位も権威も持っていません。こういう悪条件は恐らく善良な人々の持つ一種の弱さと臆病によるものでしょう。これらの人たちは、反対するのを断念するか、抵抗はしても余り強くはしないのです。従ってこの当然の結果として教会の敵の厚かましさや大胆な計画は更に力をふるうのです。


 ですから信者が一般に王たるキリストの旗のもとに勇ましく戦い続けねばならないことを悟るなら、使徒的熱意に燃え上がり、主に背いたり或いは主を知らない人々を主と和解させるように努め、主の権利を守るために努力するに違いありません。


 確かに、王たるキリストの祝日を毎年全教会で行うことは世俗主義によりもたらされた社会の諸悪を責め、何らかの方法でそれを癒すのに大いに役立つことでしょう。贖い主のいとも甘美な御名が、国際会議や国会において不当に黙殺されていますから私達はそれに対し一層声を大にして主の御名を称え、王としてのキリストの尊厳と権能を広く確認するように努めなければならないのです。・・・



 そこで、私はここに王である私達の主イエズス・キリストの祝日を設け、毎年、十月の最後の日曜日、すなわち諸聖人の祝日のすぐ前の主日に、全世界でこの祝日が祝われるように定めます。・・・


 十月の最終の日曜日はこの目的のために最も適した日だと思います。なぜならその日が典礼暦の終わりに近いので、その一年を通じて記念されたキリストの御生涯の数々の玄義の上に、あたかも光栄の冠を戴かせるのがこの王たるキリストの祝日ということになるからです。それにまた、諸聖人の光栄を祝う前に、聖人として選ばれた全ての人々のうちに勝利を占めるキリストの光栄を宣言し称揚することにもなるからです。

聖年の1925年12月11日
ローマ、ヴァチカン宮殿において 教皇在位四年目
ピオ11世教皇

 



■ しかし、典礼暦の最終主日に移すことによって、キリストが王であるのは、「天国でのことでありこの地上でのことではない、この地上は多元性を保つべきで、キリストの王国は終末に起こること、再臨の時、栄光の輝きのうちに完成されること」というメッセージを送ることになるからだ。だから今現在は、この世界はキリストを王として認める必要がない、ただ、世の終わりにキリストが適当にそうなさるだろうから、というメッセージです。

 つまり、新しい神学、新しいミサの暦によれば、私たちの主イエズス・キリストは今現代のこの世の王ではないのです。

 だから、王であるキリストの祭日が終末を表す年間最後の主日に定められていることは、新しいミサの「新しいクリスト教」の方針に沿った極めて意義深いものなのです。

http://www.oriens.or.jp/ST061126.htm

 

 


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カストゥリヨン・オヨス枢機卿について

2006年11月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア!


 カストゥリヨン・オヨス枢機卿について



 日本の多くの方にはあまり知られていないようなので、一言。


 ダリオ・カストゥリヨン・オヨス枢機卿(Cardinal Dario Castrillon Hoyos)は、コロンビア出身の高位聖職者で、コロンビアの習慣に従い、その名字は(母方の姓を付けた)カストゥリヨン・オヨス、或いはカストゥリヨンです。ホヨス枢機卿、あるいはオヨス枢機卿と呼ぶのは正確ではありません。


 丁度、オプス・デイの創立者の名前が、ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲル(Josemaria Escriva de Balaguer)で、デ・バラゲルという名前だけで呼ぶのが正確ではないのと同じです。


 一応、ご参考までに。


天主様の祝福が豊かにありますように!

 


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この翻訳の訂正は、万民が必ず救われるという誤りに対する防御の壁になるだろう

2006年11月23日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!



 聖ピオ十世会のシュミットバーガー神父様は、ローマがようやく新しいミサにおける聖変化の言葉の翻訳を訂正することを、良い兆しだと考えている。


 これは全ての人が救われるという誤った考えが流行しているが、これは誤りだ。何故なら、確かにキリストは全ての人々の救いを願って十字架の上で御血を流されたが、人間は救われるためには、キリストの贖いのわざに同意して協力しなければならないからだ。従って、キリストの贖いを拒否する人々がいるために、事実上、キリストは多くの人々のために流されていることになるからだ。

 この翻訳の訂正は、万民が必ず救われるという誤りに対する防御の壁になるだろう。


http://www.kreuz.net/article.4248.html



アリンゼ枢機卿の命令
http://www.kreuz.net/article.4231.html

 



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ニカラグアではいかなる場合でも堕胎は禁止

2006年11月22日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


ニカラグアではいかなる場合でも堕胎は禁止



 ニカラグアでは大統領がいかなる場合でも堕胎は禁止という法律に署名したそうです。 EUや国連からの反対の圧力にもかかわらず、堕胎禁止が法律となりました。


 ニカラグアでは国民の85パーセントがカトリック信者とのことです。


Nicaraguan President Signs Abortion Ban
http://ap.lancasteronline.com/6/nicaragua_abortions

 

 

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ローマはようやく新しいミサの翻訳を訂正する・・・40年経ったあとで。

2006年11月22日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


ローマはようやく新しいミサの翻訳を訂正する・・・40年経ったあとで。

http://www.cwnews.com/news/viewstory.cfm?recnum=47719
http://www.remnantnewspaper.com/Archives/archive-2006-1130-pro-multis.htm



 新しいミサの御血の聖変化の言葉のラテン語 pro multis は、今までいろいろな国の言葉(イタリア語、スペイン語、英語、ドイツ語、韓国語など・・・)で「全ての人々のため」と訳されていた。(日本語では「多くの人のため」と正しく訳されていた。)


 しかし、今回アリンゼ枢機卿はこれを正しく訳さなければならないと指導した

 何故なら、これは重大な神学的問題を引き起こしていたからだ。もしも聖変化の言葉が正しくなれば(意味が改竄されてしまっていれば)、聖変化が行われなくなるかもしれないし、この間違った訳は全ての人間が救われるというメッセージを与えているからだ。「多くの人のため」とは、必ずしも全ての人々が救われているとは限らない、ということを意味しているからだ。


 トリエント公会議の公教要理も、聖変化の言葉を「多くの人のため」でなければならないと、様々な理由でその言葉を解説している。


 またいかなる教皇様も聖変化の言葉のラテン語 pro multis を「全ての人々のため」と訳すように命令したことがなかった。

 

 


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でも、これがカトリックのカレンダーなのでしょうか?

2006年11月19日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!


兄弟姉妹の皆様、

今、メールをいただき「カトリック」の2007年の新しいカレンダーができたということを教えて頂きました。



でも、これがカトリックのカレンダーなのでしょうか?
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/committee/hiv/aids_poster2006_2.htm



 カリタスジャパンHIV/AIDSデスクでは、エイズを自分の問題として意識していただきたいと毎年ポスター募集などを行い、啓発活動をしているそうですが、2006年の標語優秀作品を組み込んだ2007年のカレンダーを作成したそうです。


 この標語をみると、なんだかエイズの検査をして陰性が出れば、あとは何をしても良いみたいですね。天主の十戒や天主への愛はどうなったのでしょうね? 厚生省が選んだ標語のようです。キリストとか、秘跡とか、聖寵とかが無いのですから。



 ところで、

 エイズにかかると、何が自分にとって危害のある細菌とかが判別不能になるので、自分に敵対するウィルスなどを抵抗せずに受け入れてしまい、抵抗力を失った人間は死に至るのです。


 その善意は勿論、承知の上です。しかし、この「2006年の標語優秀作品」をみると残念ですが、カリタスジャパンが、いえ第二バチカン公会議によってカトリック教会が、自分にとって何が本当に危害のあるものなのか、何が異端で何が正統信仰なのか、何が本当の愛(カリタス)なのか、分からなくなりつつあるようです


 ルフェーブル大司教様は第二バチカン公会議をカトリック教会のエイズだと言いましたが、私たちの大切な信仰の遺産を守るためにも、教会の「エイズ検査」をしなければならないのではないのではないでしょうか? 

 


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ミサ聖祭とは何か。1952年の「公教要理」による説明と今の流行の説明

2006年11月19日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


ミサ聖祭とは何か。1952年の「公教要理」による説明と今の流行の説明



● 昭和27(1952)年3月5日発行、昭和33(1958)年7月25日第6版、カトリック中央協議会編集、中央出版社発行の「公教要理」によると、次のようにある。



◎ミサ聖祭


427* ミサ聖祭とは何でありますか。
  ミサ聖祭とは、パンと葡萄酒との外観の下に在し給うイエズス・キリストの御体と御血とを、聖父に献げる祭であります。
   犠牲とは天主を最高の主として礼拝するために献物(ささげもの)をなすことであります。旧約の犠牲は牛、羊などを屠(ほふ)って之を献げることで、すべて新約の犠牲のかたどりでありました。
新約の犠牲はイエズス・キリストが、十字架上に於て、御自ら御生命を献げ給うたことであります。ミサ聖祭はこの犠牲の継続であります。
 ミサ聖祭は司祭によって献げられますが、実はイエズス・キリストの御手を以て、直(じか)に之をお献げになるのであります。



428* ミサ聖祭と十字架上の犠牲とは同じでありますか。
ミサ聖祭と十字架上の犠牲とは、献げ方が違いますが、その実体に於ては全く同じであります。



429 ミサ聖祭と十字架上の犠牲とがその実体に於て全く同じであるとは、どういう意味でありますか。
それは、イエズス・キリストが十字架上でなされたように、ミサ聖祭でも自ら御自身をお献げになるからであります。


430 ミサ聖祭と十字架上の犠牲と献げ方が違うとは、どういう意味でありますか。
  それは十字架上の犠牲と異り、ミサ聖祭では、イエズス・キリストは目に見えては御血を流さず、御死去にならず、司祭の手をもって御自身をお献げになるからであります。


431 信者は、ミサ聖祭に対してどういう役割をもっておりますか。
  信者は、司祭を総代としてミサ聖祭を献げ、又、主を頭とする神秘体の一部分として、キリストと共に己をも献げるのであります。



432* ミサ聖祭を献げる目的は何でありますか。
  ミサ聖祭を献げるのは、
一、天主を礼拝し、
二、其の御恩を謝し、
三、罪を贖い、
四、御恵を求めるためにであります。



433* ミサ聖祭にはどのような功力(くりき)がありますか。
 ミサ聖祭は、聖父に無限の光栄を帰し、且、十字架上の犠牲の功徳を、此の世の人と煉獄の霊魂とに施すもので、その功力には限がありません。



434* 信者は、どのような心構で、ミサ聖祭に与らねばなりませんか。
  ミサ聖祭に与る時には、キリストの御受難、御死去を思い出し、司祭と心を合せて之を献げ、成可(なるべく)聖体を拝領するよう心がけねばなりません。


http://www.d-b.ne.jp/mikami/catech.htm

 



● あるいは、「要理の友」第25課「ミサ聖祭」によれば、


 イエズスは「パンを取り、感謝してさき、でしたちに与えて、”これは、あなたたちのために与えられる私の体である。私の記念としてこれを行いなさい”とおおせられた」(ルカ22の19 )
 
--------------------------------------

ミサ聖祭とは何ですか。
ミサ聖祭とは、救いの犠牲であるイエズス・キリストの御からだと御血とが、司祭の手をとおして神にささげられる教会の祭りです。



   キリストは、ご自分を霊的なかてとして、でしたちに与えるために聖体をお定めになりましたが、もう一つの理由は、それを通じてでしたちがみなご自分の犠牲にあずかることができるようにとのお心からです。                


   犠牲とは目に見える供え物を神にささげることによって、神への人の心の奉献を表わすことです。イエズスは幼いころからご自身や全生活を救いの犠牲と考えられ、聖木曜日の晩、パンとぶどう酒の外観のもとにそれを御父にささげられ、あくる日十字架の上で御血を流されてそれを完成なさったのであります。その後、聖体が聖変化されるたびごとにキリストは祭壇の上においでになって、パンとぶどう酒の外観のもとにご自身をいけにえとしておささげになります。この聖体のよってささげられる犠牲がミサ聖祭です。

   ミサ聖祭の間にイエズスはお苦しみもなくご死去にもなりませんが、十字架上でなさったようにご自身を人類の救いのためにおささげになります。ミサ聖祭と十字架上と犠牲のささげ方は違っても実体において同じです。            


   ミサ聖祭はこのように十字架上の犠牲と同じものですから、司祭と信者はそれをささげることによって、キリストの十字架の犠牲にあずかることができます。信者は成聖の恩恵によってキリストと一致することをよく考え、ミサ聖祭にあずかるときに、自分をキリストとともにいけにえとして神にささげるのです。イエズスがその全生活を十字架の上でおささげになったように、カトリック信者は自分の生活を犠牲と考え、いつも神のために力をつくし、ミサ聖祭にあずかるときに自分の考え、言葉、行ない、苦しみ、喜びなどをすべてささげるのです。


   イエズスの十字架上の犠牲が歴史上最もすぐれた行ないでありその中心であるように、ミサ聖祭はカトリック教会と信者ひとりひとりの生活の中心です。また、犠牲によって神を最もふさわしく礼拝いたしますから、それは祈りでもあります。ミサ聖祭は完全な犠牲ですから、最もすぐれた祈りでもあるわけです。ミサ聖祭の間にすべての罪を償われた犠牲が繰り返されるのですから、信者は特にミサ聖祭の間罪を痛悔し、罪のゆるしを受けるべきです。イエズスはいつも代祷者であり、ご自分を御父にささげるたびごとに、私たちのために恵みをお頼みになってくださることを考え、信者はミサ聖祭の間にキリストと声を合わせて祈願するのであります。


心のともしび-カトリック要理の友:第25課 ミサ聖祭
http://www.tomoshibi.or.jp/tushin/yori/yori25.html



●公教会祈祷文でもこう祈らせていた。


ミサ聖祭に与る前の祈り


 主イエズス・キリスト、我らもし、カルワリオにて主の御苦難を見奉りしならば、我らの腸(はらわた)悲しみのために断たれたるべし。

 ▲今この祭壇にて行われんとする祭りは、十字架の上にて献げ給いしいけにえと異ならざる者なれば、我らをしてこれに適うべき思いを起し、罪の赦しを蒙り、御旨に従う事を得しめ給え。且つ、主の我らに向いて茲にまた新たに示し給う御苦難、御死去の功徳をこうむらしめ給わんことをひたすら願い奉る。

 



● これを見ると分かるように、ミサ聖祭とは、パンと葡萄酒との外観の下に在し給うイエズス・キリストの御体と御血とを、聖父に犠牲として献げた十字架の犠牲の継続だ


● まず、ミサ聖祭とは会食ではない。私たちの主イエズス・キリストは、「私の記念として、これを行え」と言ったのであって、「私の記念を行いなさい」とも「私を思い出すために、このようにして食べなさい」とも言ったのではなかった。


● ミサ聖祭において最も大事なのは、パンとぶどう酒を共に食することでもなければ、会食することによって信者の一人一人がキリストの体につらなり、ひとつの共同体として交わりの中に入れられていることを確認することでもない


● また、私たちの主イエズス・キリストは、パンと葡萄酒との「外観の下に」在し給うのであり、パンとぶどう酒の「中に」おられるのではない。聖変化により全実体変化(「実態変化」ではない)が起こり、パンとぶどう酒との実体は無くなり、イエズス・キリストの実体に変わるからだ。


● ミサ聖祭では、「感謝」をするだけではない。ミサ聖祭を献げるのは、天主を礼拝し、その御恩を謝し、罪を贖い、御恵を求めるためだ。

 


今の流行の説明


■ ところが、今はやりの新しいミサの説明はどうだろうか?


 インターネットで検索してご自分でご覧になってみていただきたい。特に公の性格を持っていると思われるウェッブ・サイトを見てみて頂きたい。勿論、中には信徒有志が作成しており、教会の公式見解ではないものもあるだろう。カトリック教会について全く知らない方々を対象にしているために、難しいことを省いて優しい言葉遣いになっていることもあろう。


 しかし、これを見ることによって、今の流行の説明が分かるだろう。私たちは、これらのウェッブ・サイトを一生懸命作られた方々を非難するつもりは全くない。何故なら、新しいミサの公式の定義が、オッタヴィアーニ枢機卿たちによれば、カトリック信仰を大きく離れているからだ。日本のウェッブ・サイト制作者がその影響をうけて剰りにも当然だからだ。いや、問題は一般のカトリック信徒の方々が、徐々に、ミサ聖祭とは何かを知らなくなり、誤解し、別のものを信じるようになってしまう危険があることだ。



■ 新しい説明によれば、ミサとは、食事であり会食であり、キリストの死と復活の記念である。また最後の晩餐に行われたことの記念とされている。残念であるが、ミサが十字架の犠牲の再現であり現実化であるという説明は一切されていない。犠牲という概念すらない。このようなミサにかんするる概念の変化こそが、新しいミサの実りだ。 ・・・ インターネットだけではなく、信徒の方々のミサに関する概念そのものさえも、影響を受けているのだ・・・。

 



 天主の御母聖マリアよ、我らを憐れみ給え!


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「良き出来事の聖母」 Nuestra Senora del Buen Sucesoについて

2006年11月17日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!


「良き出来事の聖母」 Nuestra Senora del Buen Sucesoについて

 

クレイマー神父はインタビューでこう答えています。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fc8211.htm


 ・・・これは第三の秘密の謎の諸々の断片がそこで一緒になり始める個所です。第一に、ラッツィンガー枢機卿が話された「他の諸々のマリア御出現」について言えば、1634年エクアドルのキトにおける、教会によって承認された「良き出来事の聖母」の御出現があります


*****


 では「良き出来事の聖母」(スペイン語 Nuestra Senora del Buen Suceso, 英語 Our Lady of Good Success)の御出現とは何でしょうか?


 この御出現は教会の認可を受けましたが、あまり知られることはありませんでした。しかしこの御出現において聖母は正確に第三の秘密が預言していること、すなわち、教会における大背教について警告なさいました。


 良き出来事の聖母は福者マザー・マリアナ・デ・ヘスス・トーレス(Madre Mariana de Jesus Torres)に「十九世紀の終わりにそして二十世紀の大部分を通じて教会が一つの大きな異端に屈服するでしょう」と告げられました。

 天主の御母聖マリアは、フリーメーソンの世俗国家が立ち上がること、教皇様の不可謬の教導権が定義されること、そして教会内部での恐るべき背教を預言されました。しかしそれに続く良き出来事、すなわち信仰の凱旋と、カトリック教会の栄光ある復興を預言されたのでした。


 そしてカトリック教会の司祭職の復興のために、天主はある一人の高位聖職者(prelado)を送る、といわれたのでした。二十世紀末に教会に送られたこの高位聖職者とは、いったい誰でしょうか? 私たちは、マルセル・ルフェーブル大司教であったと思わざるを得ません。



 天主の御母聖マリアはこう言います。
「婚姻の秘跡は攻撃されるでしょう、そしてそのとき権力のうちにあるであろうフリーメーソンは、罪の中に生きることをすべての者にとって容易にし、教会の祝福なしに生まれる非嫡出の子どもたちの出産をけしかけながら、この[婚姻の]秘跡を廃止する目的で邪悪な諸々の法律を制定するでしょう」と。


 それから、聖母はこう警告なさいました:「キリスト教精神は、慣習(道徳)のほとんど全体的・総体的に堕落するであろう点に達するまで信仰の貴重な光を消し去りながら、急速に衰退するでしょう、そしてこのことは司祭や修道者の欠乏に終わるでしょう」と。


 「良き出来事」の聖母はさらに「この時期の間に子どもたちのうちにはもはや無邪気さは見出されないでしょうし、また女性たちのうちには慎ましさはもはや見出されないでしょう」と警告なさいました。そして「在俗[教区]の聖職者は望まれるために多く去るでしょう。なぜなら、司祭たちは彼らの聖なる義務において無頓着となるからです。父親の愛、優しさ、強さ、知恵そして賢慮をもって彼らを導く一人の高位聖職者かつ父を欠くために、多くの司祭たちはその霊魂を大きな危険の中に置きながら、彼らの精神を失うでしょう」と。


 「良き出来事の聖母」は、教会の歴史におけるこの暗黒時代が私の時の到来をしるしづけるでしょう、そして神は「教会にその司祭たちの精神を回復させる高位聖職者をお送りになりながら最終的にあの不吉な時代を終わらせられるでしょう」と宣言なさいました。

http://www.d-b.ne.jp/mikami/fc8211.htm



「良き出来事の聖母」の言葉(教会認可済)

「従って、うまず弛まず叫び、あなたたちの心の密かなところで嘆きの涙を以て泣き、天の聖父にこう懇願しなさい。私の至聖なる聖子の御聖体の聖心と、極めて寛大に流された聖子の尊き御血と聖子の残酷な御受難と御死去の深い辛さと悲しみへの愛の故に、天主聖父が教会の聖務者達を憐れみ、これらの悲惨な時代に終わりを告げるように、教会の司祭の精神を復興するかの高位聖職者(単数)を教会に使わして下さるように。」


「私の聖子と私はこの愛された子を特別の愛で愛し、私たちは彼に希な能力、心の謙遜、天主の息吹への従順、教会の権利を守る強さ、優しい同情の心を与えましょう。それは第二のキリストのように、彼が偉大なものにも小さきものにも助けを与え、彼に疑いと困難において光と助言を求める不幸な人々を軽蔑することのないためです。・・・ 彼の手において至聖所の計りが置かれるでしょう。それは全てが天主の栄光のためにふさわしいやり方で行われるためです。」



"Recen con insistencia, pidiendo a nuestro Padre Celestial que ponga fin a tan malvados tiempos, por el amor del Corazon Eucaristico de mi Santisimo Hijo, y para enviar a esta Iglesia al prelado, mi muy amado hijo, a quien mi Santisimo Hijo y yo amamos con amor de predileccion, quien existe para revivir el espiritu de los sacerdotes, por lo que lo dotaremos con habilidades, humildad de corazon, docilidad hacia las inspiraciones divinas, fortaleza para defender los derechos de la Iglesia y un tierno y compasivo corazon para que, como otro Cristo, pueda asistir al grande y al pequeno sin desden por los mas desgraciados que vengan, con dudas y amargura, a buscar la luz de su consejo; y asi, con divina suavidad, el podra guiar a las almas consagradas al servicio divino en los claustros, sin hacer el yugo del Senor pesado para ellos, porque El Mismo dijo: "Mi yugo es dulce y mi carga es liviana". En sus manos sera puesta la jerarquia del santuario para que todo pueda ser echo con peso y mesura, y asi Dios sera glorificado..."


(From Fray Manuel de Souza Pereira, el Provincial Franciscano de Quito, titulado: Admirable vida de la Madre Mariana de Jesus Torres, espanola, una de las fundadoras del Monasterio Real de la Inmaculada Concepcion de la Ciudad de Quito.)

 


【英語文献】
http://www.catholic-sacredart.com/ologs.htm

http://www.ourladyofgoodsuccess.com/frames-3-4-2005/article-ologs.html

http://www.traditioninaction.org/tiabk003.htm

http://www.traditioninaction.org/OLGS/A004olgs_FourthApparition.htm

 


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【質問】「良き牧者会」について

2006年11月16日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


【質問】「良き牧者会」について



【質問】
 フェレー司教様は、Latim Mass Magazine のインタビューでも、日本での霊的講話でも、教会の外で受けた叙階は、カトリック教会に戻っても執行することが許されない、と言っています。もし教会法的根拠があるなら説得力が増すと思うのですが、ローマの慣習に過ぎないのでしょうか。
 また、「良き牧者会」の司祭たちが秘跡を執行できるのは、聖ピオ十世会が離教状態にないという証明の1つになるかとは思いますが、よく考えてみるとローマが聖ピオ十世会と話し合いをしていること自体が、離教が存在しないことを証明していないでしょうか。というのも、もし離教が存在するならば、聖ピオ十世会の聖職者は「帰正」の後直ちに聖職停止になるはずだからです



【答え】
アヴェ・マリア!

 ご質問をありがとうございました。

 その通りです。「良き牧者会」の司祭たちがそのまま秘跡を執行できるのは、聖ピオ十世会が離教状態にないということを証明している現実の1つです。何故なら、もしも聖ピオ十世会が本当に離教状態であったら、聖ピオ十世会において司祭叙階を受けたのだから平信徒にならなければ「帰正」できないはずだからです。しかし現実はローマからの承認後、「良き牧者会」にしても「聖ペトロ会」にしてもカンポスの司祭たちにしても、彼らは例外なくそのまま司祭として活動してるからです。




 兄弟姉妹の皆様の中には、「良き牧者会」の司祭たちとは何かご存じない方がおられるかもしれませんので、説明致します。


 ルフェーブル大司教が創立した聖ピオ十世会に以前所属していた5名の司祭たちのために新しく教皇権による「良き牧者会」が今年の9月8日に、カストゥリヨン・オヨス枢機卿によって創立の教令にサインがされました。


 「エクレジア・デイ」委員会は、1988年に設立されて以来、このような会をたくさん作ってきました。例えば、「聖ペトロ会」、カンポスの「聖ヨハネマリア・ヴィアンネー会」、そして今回は「良き牧者会」です。2003年には1名の司祭と4名の神学生のために教皇権の「聖フィリッポ・ネリ会」をベルリンに作りました。そしてこれらの会のために特別に聖伝のミサを捧げる特権を与えてきました。


 聖ピオ十世会は、聖伝のミサは特別な修道会のためのものではなく、全カトリック教会の司祭と信徒の方々のためのものである、と主張しており、それらの会とは主張を異にしています。


http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1326



 「良き牧者会」の創立のメンバーは、総長のフィリップ・ラゲリ神父(Philippe Laguerie)、ポール・オラニエ神父(Paul Aulagnier)、クリストフ・エリ神父(Christophe Hery)、アンリ・フォレスチエ神父(Henri Forestier)、ギヨーム・ドゥ・ダヌワルヌ神父(Guillaume de Tanouarn)でした。この5名の司祭は、元聖ピオ十世会の司祭でしたが、既に数年前から残念ながら聖ピオ十世会より退会を命じられていた司祭たちでした。「良き牧者会」の本部はボルドーの聖エロワ教会です。

 



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聖伝のミサの自由化のニュース:リベラルな司教様たちは反対、何故か?

2006年11月16日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


聖伝のミサの自由化のニュース:リベラルな司教様たちは反対、何故か?


■伝統的なラテン語ミサの執行を原則的に認める自発教令(モトゥ・プロプリオ)を教皇ベネディクト十六世が準備している、との報道がある。これに対して反対の意思表明をしている司教団がある。何故か? 何故反対をしているのか?


 それは、ミサ聖祭と新しいミサとが全く異なる神学を背景にしているからだ。


 そのことは、既に新しいミサが出た直後からオッタヴィアーニ枢機卿たちがハッキリ断言していたことだ。


「新しい司式は、トレント公会議で宣言されたカトリック神学から逸脱しています。」 (検邪聖省教皇代理長官オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/rappot.html



 詳しくは次の報告書に書かれている。



新しい「ミサ司式」の批判的研究
検邪聖省教皇代理長官オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿のパウロ6世への報告書 【日本語訳】

http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html


【イタリア語原文】
Il Breve esame critico della Nuova Messa,
dei Cardd. Ottaviani e Bacci
http://www.sanpiox.it/messa/messa.html


【フランス語訳】
Bref examen critique de la nouvelle messe
par les cardinaux Ottaviani et Bacci
http://www.fsspx.org/fran/buts/messe/1969-Ottaviani-BrefExamen.htm


【スペイン語訳】
Breve Examen Critico del "Novus Ordo Missae"
http://www.statveritas.com.ar/Liturgia/Breve%20Examen%20Critico.htm



【英語訳】
CRITICAL STUDY of the New Order of Mass
http://www.sspx.org/miscellaneous/critical_study_of_the_new_mass.htm



【付録】
 伝統的なカトリック神学と現代神学とで、司祭職のあり方などがいかに異なっているかを分かり易く示したフライヤーがあります。下のアドレスからダウンロードできます。
http://homepage3.nifty.com/mir/lib/liturgy.pdf

 




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【質問】今の教皇様はピオ10世会をどのように見ておられますか?

2006年11月16日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


【質問】
今の教皇様はピオ10世会をどのように見ておられますか?



【回答】
アヴェ・マリア!


 現教皇様は、聖ピオ十世会は離教でも破門もされていないと判断しておられます。何故なら、ベネディクト十六世教皇様は、聖ピオ十世会と長い関わりを持っており聖ピオ十世会についてよくご存じだからです。


 1991年5月1日、ハワイのフェラリオ司教(Bishop Ferrario)は、聖ピオ十世会のミサに与っている六人の信者を破門しようとしました。しかし、ローマはフェラリオ司教の決定は「根拠のないものであり従って無効」であると宣言しました


 フェラリオ司教がしようとした聖ピオ十世会の信者の破門の試みは、「教義と信仰に関する聖省」の長官ヨゼフ・ラッチンガー枢機卿(現教皇ベネディクト16世)によって1993年6月28日覆されたのです。


「教会法を基礎にすると、この場合の破門からは上記の勅令によって言及されている事実は離教の罪をなしていないのであり、厳密な意味における離教行為ではないと結論付けられる。従って、聖省は1991年5月1日の勅令が根拠がないものであり従って無効であると宣言する。」(Apostolic Nunciature, Washington D.C.)
http://www.sspx.org/Catholic_FAQs/catholic_faqs__canonical.htm#hawaiisix
http://www.sspx.org/diocesan_dialogues/honolulu_&_hawaii6.htm



 従って、現教皇様の判断によれば、聖ピオ十世会は離教でも破門もされていない、ということです。そして聖ピオ十世会のミサに与ることは、離教行為ではない、従って破門もあり得ない、ということです。

 
教皇ベネディクト十六世は、ローマと聖ピオ十世会との関係は、カトリック教会内部での話であり、第二バチカン公会議による革命的な変化に関する神学的論争であると考えておられるようです。聖ピオ十世会はヨハネ・パウロ二世教皇様は勿論、ベネディクト十六世を教皇様としてその普遍的裁治権を認めて教皇様のために祈り続けてきていますから、離教ではあり得ません。ベネディクト十六世教皇様もそのことはよくご存じです。


http://www.sspxasia.com/Newsletters/2006/Jan-Jun/Rome_and_SSPX.htm
http://www.remnantnewspaper.com/Archives/archive-2006-0228-cfn-remnant.htm
http://www.sspx.org/Catholic_FAQs/catholic_faqs__canonical.htm


天主様の祝福が豊かにありますように!

 

トマス小野田神父(聖ピオ十世会司祭)

 

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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