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断食のキリスト教的意味

2021年02月25日 | お説教・霊的講話

断食についての説教 2021年2月21日 四旬節第一主日

ドモルネ神父様

はじめに

この前の水曜日に、四旬節が始まりました。典礼年のなかで、四旬節は、特に、祈りと悔い改めの時です。ですから、例えば平日のミサでは、聖体拝領後の祈りの後に、教会は次のような祈りを加えて唱えます。「Oremus, humiliate capita vestra Deo」「祈願しよう、天主の御前に、へりくだって頭を垂れよ」。私たちはこの祈りの間、悔い改めのしるしとしてひざまずいて頭を垂れます。

しかし、ミサの典礼以外にも、四旬節の間、教会は断食【すなわち大斎】をすることと肉を控える【すなわち小斎をする】ことを命じています。今日は、断食についてお話しします。また、その意義と、私たちが断食から得る霊的な利益についても、お話ししたいと思います。

断食のキリスト教的意味

断食という言葉を聞くと、胃の痛みを連想してしまうため怖く感じて、断食をしないための言い訳をたくさん見つけたくなるかもしれません。しかし、霊的生活の大家である聖ベネディクトは、断食は完徳のための強力な手段であり、それゆえ、たとえ良きかつ重大な理由のために実際に断食ができないとしても断食を好むべきだ、と言っています。例えば大聖グレゴリオは、重病を患っていたとき、聖土曜日に断食をすることが許されなかったために泣いたのです。

断食についてお話しするというとき、それはもちろんキリスト教的断食のこと、つまり宗教的な理由によって行う断食のことです。天主を讃美するため、罪の悔い改めをするため、誘惑と戦うため、といった目的からです。医療目的や健康美容のために行われる断食は、私たちの霊的生活には何の価値もありません。

カトリックの規律によれば、断食には3種類あります。

・まず、私たちが「自然の断食」と呼んでいるもの、つまり、どんな食べ物や飲み物も控えることがあります。私たちの主イエズスは、砂漠で40日間の断食をされました。聖体拝領の準備をするときに、私たちは次のような断食を行います。ご聖体を受ける前に少なくとも3時間は何も食べず、水以外は何も飲まないようにするのです。この特定の自然の断食を、私たちは「聖体拝領前の断食」と呼んでいます。

・第二に、年に何日か、教会がすべてのキリスト教徒に命じている断食【すなわち大斎】があります。四季の斎日、四旬節、待降節、【大きな祝日の】前日といったものです。この断食では、十分な食事を取るのは24時間以内で1回だけです。私たちはこれを「教会の断食」と呼んでいます。つまり、これは教会が命じた断食なのです。現在の教会法によると、信者に課せられたこの義務は、灰の水曜日と聖金曜日という2日だけです。

・最後に、断食はまた、私たちが自発的に行う食べ物や飲み物の制限のすべてを意味する包括的な言葉でもあります。私たちは、この断食を「道徳的断食」と呼んでいます。なぜなら、これは私たちの良き道徳を向上させるため、つまり徳を高めたり、欠点を修正したりするためのものだからです。

断食をする理由

さて、なぜ断食をするのでしょうか? 食べ物や飲み物を自ら断つことの意味は何でしょうか? 食べ物や飲み物は、私たちのいのちを維持するために大変必要なものですから、私たちは食べ物【や飲み物】を私たちのいのちそのものと結び付けています。したがって、天主を愛するために自発的に食べ物【や飲み物】を断つということは、天主に自分のいのちを捧げるという一般的な意味を持っているのです。この一般的な意味に、断食の種類に応じた特定の意味が付け加えられます。

聖体拝領前の断食を行うことによって、私たちは、私たちの主イエズスを讃美し、主とともにいるために、自分のすべての財産や自分のいのちさえも捨てる覚悟があることを、主にお伝えしたいのです。さらに、聖体拝領前の断食は、私たちの体から食べ物をなくして体をもっと軽くすることで、私たちの霊魂が罪やこの世への愛着から解放されて清められる、ということを象徴しているのです。

教会の断食を行うことによって、私たちは自分の罪に対する心からの悲しみを示したいのです。私たちの主イエズスは、私たちにこう警告されました。「悔い改めないなら、あなたたちもみな同じように滅びる」(ルカ13章5節)。ですから、教会は、私たちの主イエズスの警告に従って、自分の子どもたちの救いを確実にするために、少なくとも年に数日は断食【すなわち大斎】をし、かつ肉を控える【すなわち小斎をする】よう、子どもたちに義務づけているのです。しばしばあることですが、何かをするよう法で強制されていないなら、私たちは弱さあるいは怠慢のせいで決してそれをすることはないということを、教会は非常によく知っているのです。

道徳的断食をすることによって、つまり、自発的にある程度の食べ物や飲み物を断つことによって、私たちは自分の罪を償いたいのです。実際、私たちが天主の掟を破るとき、その理由は天主よりも何か別のもの(お金、快楽、権力など)をもっと愛しているからです。逆に、天主への愛のために自発的に食べ物を拒否するとき、私たちは、何よりも、自分のいのちよりも天主を愛していることを示したいのです。

断食の霊的な利益

四旬節のミサの序誦には、こうあります。「聖なる主、…身体の断食をすることにより、邪欲を抑えさせ、心を上げさせ、徳と報いとを与え給う」。これは、断食によって私たちが得る霊的な利益を要約したものです。

断食は、私たちの心を上げさせるのに、つまり祈るのに役立ちます。原罪以来、私たちが肉と呼ぶもの、つまり官能、貪欲、高慢に関する乱れた欲望と、霊と呼ぶもの、つまり信仰によって照らされ、恩寵によって強められた私たちの善き意志との間の戦いが、私たち自身の中で行われています。この二つの間には和平はあり得ません。肉の欲望を満たせば満たすほど、霊の活動、特に祈りが困難になるのです。おそらく私たちのほとんどが、たくさん食べた後に祈ることがいかに難しいかを経験したことがあることでしょう。私たちの心は、重い泥に覆われた鳥のようになり、飛び立つことが非常に困難になっています。私たちの霊的生活において生ぬるさを感じ、私たちの祈りにおいて怠惰を感じたときに、適用する最初の治療法は、少し断食を行うことです。断食は、祈りを捧げ、霊的な熱意を維持するのに役立つのです。

断食は、超自然的な現実に関して、私たちの心をより鋭くさせ、より洞察力のあるものにします。なぜなら、私たちの心に、聖霊の霊的な光を受けるためのより良い心構えを持たせるからです。断食は、私たちがこの世の財産の虚しさをよりはっきりと見抜き、罪の悪をよりよく理解するのに役立ちます。その結果、断食は、私たちが、天主や永遠のいのち、偉大なもの、美しいもの、聖なるもの、賢明なもの、善なるものを求めて飢え渇くようにしてくれるのです。旧約において、シナイ山で啓示を受けるための準備として、天主がいかにしてヘブライ人に断食を命じられたかを思い出してください。

四旬節の序誦にはまた、断食は「邪欲を抑えさせ」とあります。断食をするとき、私たちは、何の罪も犯さずに合法的に取ることのできる食べ物と飲み物を自発的に断つのです。そうすることで、私たちは肉の欲望に打ち勝つ意志の力を強めます。実際、私たちが肉体の合法的な欲望を拒否することができるならば、肉体の罪深い欲望が生じるときには、なお一層それを拒否することができるようになることでしょう。私たちの主イエズスは、誘惑、特に清さに反する誘惑を打ち負かすのは、祈りと悔い改め、すなわち断食をすることによってであると言われました。

断食は、私たち自身の霊的生活だけでなく、例えば他の人々の回心させるためにも非常に有益なものです。2人の聖人の言葉を引用してみましょう。

最初の引用は、パッツィの聖マリア・マグダレナの言葉です。「もし禁欲が足りないのではないとしたら、どうして福音宣教者の中に、霊魂たちにほとんど実を結ばない人々がいるのでしょうか?」。

第二の引用は、アルスの司祭、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネーが、多くの罪びとを回心させる秘訣を尋ねた若い司祭に語った言葉です。「私の友よ、悪魔を打ち負かすには、自分の食べ物、飲み物、睡眠を拒否することです…悪魔が非常に恐れているものは他にありません…一人でいるとき、私は何日も何も食べずに過ごすことができました…そのとき、他の人々のためと同じように自分のために、自分が望むすべてのものを天主から得ることができました…」。

結論

霊性の大家たちが一致して言っていることは、断食は真剣で深遠なキリスト教生活を送りたい人に必要なものだということです。聖ベネディクトは、私たちは断食を好むべきだ、と言いました。言い訳をするのに断食を口実にしているのであれば、断食を好んではいないのです。断食は健康に良くないと言う人もいるかもしれません。これは明らかに誤りです。食べ過ぎや飲み過ぎは健康を害しますが、断食は違います。率直に言いましょう。断食は健康の問題ではなく、意志の力の問題なのです。私は、四旬節のすべての日に教会の断食を守っていた、忠実で質素で勤勉な何人かの人々に会ったことがあります。カプチン会士やベネディクト会士が、四旬節のすべての日に教会の断食を行っていることも知られています。私の知る限りでは、断食が原因で亡くなったということは、まったく聞いたことがありません。

ですから、この四旬節の間に断食をしないために偽りの言い訳をしないようにしましょう。勇気を持って、教会の掟に従い、また自分の寛大さと能力に応じて、個人的な断食を付け加えましょう。いくつか例を挙げると、教会の断食【大斎】を(主日と一級祝日を除いて)毎日続けること、毎日肉を控える【すなわち小斎をする】こと、1日3食ではなく2食だけにすること、砂糖やケーキ、スイーツ、スナック菓子などの特定の食べ物を断つこと、などです。具体的な決心を立てて、一日の終わりに確実に「私は自分の罪を償うために、また自分より天主を愛していることを天主に証明するために、あれやこれやを行いました」と言えるようにしてください。

童貞聖マリアが、この四旬節の間、私たちに、断食をする勇気を与えてくださいますように。


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1 コメント

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Unknown (ヨハネ)
2021-02-25 22:40:06
断食って、食べることよりもイエズス様が大事ということを表明する行為なのですね。知りませんでした。初めて知りました。こういうことを神父様たちは教えてくれませんでした。

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