Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

4.アクション・フランセーズの排斥

2006年04月21日 | ルフェーブル大司教の伝記


第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)

4.アクション・フランセーズの排斥



 「反フランス」を形成するフリーメーソン結社組織、自由主義、その他の陰謀勢力に反対する反動として、1899年に設立されたアクション・フランセーズは、分析と政治活動の学派、そして「民族主義研究の実験室」となった。この学派の首長であるシャルル・モラス (Charles Maurras, 1868年 - 1952年) はこう言った。「実際、私たちが発明するのではなく確認するだけに過ぎない政治的真理がある。だから私たちはそれを確かめよう!」 彼が確認したこととは、革命と民主主義がフランスを崩壊させているということだった。フランスに相応しいことそして復旧されなければならないこと、それは「伝統的な、世襲制の、反議会制度的な、地方分権化した君主制度 」である。


 ここまでは、この健全な政治的現実主義に対抗して反論する筋合いがいささかもない。さらにモラスの自由主義及び革命に対する妥当な非難はビヨ枢機卿 によって承認されており、知識人たちの救いの事業を実現していた。モラスの指導を通じてフランスの全エリートは、誤れる自由主義の信条(ドグマ)を捨て、次に知的な回心、それから道徳的回心を果たしていた。さらに無信仰者たちもそこに信仰の道を見つけさえしていた 。


 不幸なことにそして逆説的なことは、モラスが不可知論者だった、ということである。彼はこう言っていた。「私は信仰を失うという不幸を持った。しかし人々が私について讒言し言い張るような無神論者ではない。私は無信論者であったことは一度もない。」モラスがカトリック教会に対して「知的な道徳的な秩序のこの教会大本堂に向けられる驚歎、尊敬、愛」を言い現していた時、最初はカトリック教会のローマ的な特徴を考察することによるものだった。モラスはこの「ローマ性」こそが、無政府状態の根元であるヘブライの福音を整備し導いた、それに引き替えこの無政府状態はプロテスタント精神において解放されることになった、と考えていた。


 この珍しい誤解は人々をいら立たせ、不幸にもモラスが1914年以前に著作したものの中で多くを台無しにしていた。 彼の闘争の標語の幾つかも、例えば「まず政治が優先だ! 」とか「政治は道徳ではない 」といったような、「その状況では 」謙遜な知恵に満たされていたものも同様に、偏向的なそして悲惨な結果を生む解釈をされる余地を与えていた。


 それにもかかわらず聖ピオ10世はアクション・フランセーズの首脳であるモラスの著作物を断罪するのを拒否した。教皇はこう言った。「アクション・フランセーズはあまりにも多い善行をしている。権威の原理を擁護している。秩序を擁護している。 」


 その12年後、アクション・フランセーズの影響は信者たち及び闘争的な司教の間で絶頂に至った。しかし、それは共和主義政府と良い関係を発展させるのを気づかっていたピオ11世の宗教政策 には障害物だった。さらにアクション・フランセーズの「師匠」が青年に対して持つ影響力は、ピオ11世をして自分のお気に入りであった、青年の信徒使徒職「カトリック・アクション」の利益を損なう虞があると思わせた。信仰の光と超自然的な賢明による方向付けが与えられておらず、熱心に傾聴されているその師匠の精神は、若者達の判断を歪曲させ、弟子たちをして非難を浴びるような行動へと駆り立てはしないだろうか? と 。


 教皇は、或るフランス人枢機卿が警告文を発行し、自分は後にそれを承認するようにしようと決断した。しかしボルドー (Bordeaux) の大司教, アンドリゥ (Andrieu) 枢機卿は、あまりにも不手際な警告をなした ので、それを教皇が承認 するのはあまりにも合理性に欠けるように思われるほどだった。この「あまりにも情けなく始まった 」事件は、アクション・フランセーズのカトリック指導者が抵抗を引き起こし、続いてアクション・フランセーズ紙は禁書目録 に登載され、同紙を頑固に読み続けようとする読者たちに対してはローマの重い制裁措置が下されることとなった。


 例えば, ドュゴン (Dugon) 伯爵の亡骸は、彼が「アクション・フランセーズに固執した罪」と言う理由で教会葬儀を許されず、教会の閉まった門の前で自分の息子であるロベール・ドュゴン神父によって聖水を撒かれただけであった。その若い司祭は父親の亡骸を祝したことをブザンソン (Besancon) の大司教に咎められ、制裁を受けて修道司祭となることを命じられた。彼が入会したのは、・・・聖霊修道会だった 。


 さらに尋常ではなかったことは、アクション・フランセーズの断罪はその敵、すなわち民主主義キリスト者及び自由主義カトリックの凱旋を意味したことだ。ベルト神父はこう書いている。「フランスではアクション・フランセーズが最後にただ一つ残った堅固な反自由主義勢力だったこと、そして、それに代わる"第三の勢力"は存在してなかったこと、はあまりにも残酷な真実であった。アクション・フランセーズがカトリック信者たちに禁止された後は、自由主義者(リベラル派)たちが全てを牛耳るようになった。それ以後それはずっと優位の地位を占め続けている。 」


 アクション・フランセーズの断罪は、教会歴史において一つのターニング・ポイントとなった。今後は、司教職はリベラルな左翼聖職者に委ねられることになり、他方で自由主義に反対する闘いは悔しくも間違ってアクション・フランセーズというレッテルを張られ濡れ衣を着せられることになった。この赤く焼かれた鉄の刻印は、容赦もなくル・フロック神父に押しつけられ、後にはルフェーブル大司教にも押しつけられるだろう。



(続く)


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1 コメント

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彼が確認したこととは、革命と民主主義がフランスを崩壊させているということだった。 (Fr Thomas Onoda)
2006-04-21 21:26:21
アヴェ・マリア!



「彼が確認したこととは、革命と民主主義がフランスを崩壊させているということだった。フランスに相応しいことそして復旧されなければならないこと、それは「伝統的な、世襲制の、反議会制度的な、地方分権化した君主制度 」である。」



 今のフランスを見ていると、モラスのこの分析が当たっていると思ってしまいました。





トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





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