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ルフェーブル大司教伝記 III. ミサの改革に直面して 15.3.1.行動的な参加と容易な理解

2009年12月27日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. ミサの改革と直面して

行動的な参加と容易な理解

 1963年12月4日に公布された典礼に関する公会議の憲章(Sacrosanctum Concilium 典礼憲章 14)により要求されているように、信徒の“典礼の挙行への、充実した、意識的な、行動的な参加”を促進するという口実で、改革者たちが唱える諸理論は、典礼や、典礼の核心、つまり御ミサの聖なる犠牲を破壊するに至った。1963年3月以降、ルフェーブル大司教は、この曖昧な原理と戦って来た。

「唱えている祈祷文を理解することが祈りの究極目的ではなく、祈りを通して実現する天主との一致にある。時には、祈祷文に精神を集中することが祈りにとって障害となることもあり得る。霊魂は、聖歌や、典礼行為に漂う敬虔さ、沈静、建築様式の美、司式司祭が備える高潔と敬虔、象徴的な装飾、香の香りなどの(外的要素の)中に、天主との一致をさらに見出すものである。」

 1964年2月26日に設立された典礼憲章実施評議会(Consilium)は、レルカロ(Lercaro) 枢機卿を議長とし、ブニー二神父に委ねられ、間もなく公会議(『典礼憲章』§21 )によって要求された“刷新”ではなく、根本的で体系的な典礼とミサの作り直し、とりわけブニーニが口にする(典礼とミサの)“真の創造”が始まった。これを実行する為、ブニーニは既にフェルナンド・アントネッリ(Fernando Antonelli)神父によって公会議前に発表された『典礼憲章』の指針となる原理を適用した。

「すべては一つの目的に向かうようにする。つまり信徒たちが(1)典礼様式を容易に理解する事と(2)信徒が本来のあるべきものであるに再び戻る事、つまり単に典礼の傍観者ではなく、積極的な参加者になる事である。」

 アントネッリやブニーニが合唱して言うところによれば、これら二項目は数世紀の間失われていたということである。

 後年、この所説をブニーニ著『典礼改革(La Riforma liturgica)』に見出したルフェーブル大司教は憤慨してこう言っている。

「これは嘘だ!歴史が本当に教えるところは、まさに正反対の事を証明している。数世紀の間の昔‐ブニーニが存在するよりもっと前に‐生きていた信徒たちが、まるで傍観者や観光客であったかのように、皆黙って御ミサに参加していたなどとでも言うのか!これほどの間違いはあり得ない。信徒の典礼への積極的参加というのは、外面的参加よりはるかに重要な、彼らの霊的な参加ではないのか?」

 ブニーニ著の『典礼改革』を読んだ際、ルフェーブル大司教はこれら間違った原理の背後に、教義的誤謬と表面下にある異端を見破ることが出来た。

「この背後に、もう一度言うとこの「背後に」であって、公式なという意味ではないが‐異端が存在する。つまりこの異端は、信徒の司祭職と司祭の司祭職は同一のものであり、皆が司祭で、天主の民がミサの聖なる犠牲を捧げなくてはならないという異端である。」

 アントネッリ自身、あの典礼憲章実施評議会の「仕事に、有能ではあるが、神学的には進歩的である人々を関わらせ、彼らの傾向に対抗することが出来なかったために彼らに何の抵抗もしなかった」とブニーニを非難していた。アントネッリは“進歩的な思想をもった神学者たちの間で流行の理論は、秘蹟の形相と典礼様式とにふりかかっている。」

 この理論は“新しい神学”の理屈である。

 主眼点を巧妙に変えながら、この新しい神学は、受洗した信徒の共通司祭職を強調し、司祭のうちに、固有の意味の司祭職を実現するモデルをもはや認めようとしなかった。

 そして司祭は今や、大司祭キリストの役務者として自らが犠牲を捧げる人というよりはむしろ、“信徒たちの祈願の捧げものを、彼らの頭であるキリスト犠牲において一致させる”人になってしまった。

 ミサの中で祝われる“過ぎ越しの神秘”は、御受難によって罪を償うキリストというよりは、御復活における凱旋のキリストであった。罪とは、もはや天主と天主の権利に対して犯される不正としてではなく、単に人間と人間の連帯を傷つけるものとしてだけ考慮された。(罪に対する聖父の正義を)宥め満足させるキリスト御自身による贖罪と、聖父の宥められとは、かくしてその実体を刳り抜かれ、キリストの十字架は空しくされたのである。ある象徴主義と秘蹟重視主義の神学は、聖なるミサを、キリストの救霊の業の“記念”に、つまり共同体による典礼行為を「生きる」ことでこの救いの業を現存させる記念にしてしまった。この意味において、ミサは “記念”であったからという理由だけのいけにえとなった。両形色におけるキリストの実体的的現存はこの記念の中に葬られてしまった。パンとぶどう酒の全実体変化は余計なつけたしとなり、意味変化(transsignification)で十分となった。

 論理の筋が通り、広く行き渡った、この多様な形式のグノーシスがもたらす有害な影響は、グノーシスについて知らされていない経験の乏しい人々には気がつかれなかった。ルフェーブル大司教は、巧妙かつ段階的に成し遂げられた典礼の連続した大変動の論理に存在するある印を見抜いた。

 それは、まず祭壇の方向逆転や、聖櫃の脇への移動、そして自国語の侵入、司祭“個人の祈り”(階段祈祷)と十字架の印等の削除、大きな声で唱えるミサ典文(Canon)、さらに、結局はすっかりラテン語に取って代わった自国語使用―これら全ては1964年から1967年の間パウロ六世により認可された刷新である。

 1967年3月25日、典礼用のラテン語とグレゴリアン聖歌の保存のために創立されたウナ・ヴォーチェ(Una Voce)の会は、典礼憲章(Sacrosanctum Concilium no.36,§1)に反する自国語の普及についてパウロ六世に異議を申し立てた。ぺシア(Pescia)のロモリ(Romoli)司教は、イタリア司教会議宛に8月17日それについて書簡を送った。ルフェーブル大司教は、この書簡をフォルテス・イン・フィデ誌 に掲載した。

 しかしながら、この時期まで、典礼改革は単なる暫定的“手直し”でしかなかった。ブニーニと、例の典礼憲章実施評議会 にとって、“それは全典礼様式に新たなる構造を与えるということであり . . . さらに、或る点においては、全く新しいものを創造することであった。”司教たちはこの最終の改革を待ちながら「主導権を握り、適用と実験を提案し」「動員主義」によって、パウロ六世が非常に不満に思っていた独断的かつ個性的な実験によって埋め尽くされなければならなかった。“上層部により”奨励され、さらに“下から”駆り立てられた典礼におけるこの絶え間ない革命に対抗して、デュラック(Dulac)神父は、クリエール・ドゥ・ローム(Courriere de Rome=ローマからの手紙)誌 の中で反対の声を挙げていた。

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