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カントの新しい宗教

2009年07月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖マグダレナ・マリアは、現実を直視し、天主イエズス・キリストと救霊を究極の目的と理解しました。しかしながら、近代になると、人間を神格化しついには絶望させる思想が現れました。それがカントに始まる観念論でした。

 近代主義と呼ばれる異端説の系譜として、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年 - 1804年)の思索をもう一度見てみましょう。

 ケーニヒスベルクの思想家であるカントによれば、私たちが物において置く(=感覚する)ことしか、先験的に(=必然的なやり方で)物を知ることが出来ない(『純粋理性批判』Kritik der reinen Vernunft (第二版への序文)。

 カントによれば、人間は「物自体」(Ding an sich)を認識できない。認識の対象は、感覚に与えられ得るものだけであり、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適応するにとどまる。

 カントによると、人間が物それ自体が何であるかその本性が何であるかその真理が何であるか現実が何であるか、知り得ない。カントは、人間悟性は自分の内部(に映る現象)を知るに留まる、とした。今まで、人間の外部にある物事が、人間の知性を規定してこれが何かを知らしめた、これからはカントによれば、人間の悟性が物を規定する、とした。

 カントによれば、因果性・必然性とは、純粋悟性概念であり、形而上学的な価値を持たない。従って、天主の存在は証明できないとし、創造主である天主と被造物との間にある類比(アナロギア)は知り得ない、とする。従って、天主に関する全ての言説は、神話でしかない。例えば、カントによれば、三位一体とは、善良・聖性・正義という三つの性質が一つになっていることの象徴にすぎない、人間となった天主の聖子とは、英雄的な人間にすぎない(『単なる理性の限界内での宗教』 1793年)。

 道徳において、人間の本性と人間の行動は、常識によれば、その目的によって規定される。しかし、カントは、目的の原理を認めず、善の概念も体験からは得られないとするので、最高の善の存在も知り得ないとする。カントによれば、善なる行為とは、人間の本性に適合する目的・対象をもち、人間を最高究極の目的まで秩序付けるものではなく、ただ純粋な義務による。人間の行為は、全ての対象と目的から独立していて無関係であるからだ。カントは、究極の目的を拒否し、私たちの行為の目的としての善を否定し、最高の善・究極目的としての天主を排除し、「実践理性の自律」を宣言した。これがフランス革命の人権宣言に先立つ、ドイツの天主からの独立宣言であった。

 これが、全てを人間の上に、人間だけの上に築く新しい哲学、新しい宗教、新しい内部からの「啓示」であった。人間の外にある天主もなく、そこからの啓示もなく、全ては人間の上に築かれた。

 カントが幼児に受けた教育は、プロテスタントの敬虔主義であり、これがカントをして文句なしに道徳と宗教の価値を受け取らせた。大学時代にはニュートンの実証科学に影響を受けた。そこで、カントにとって、ニュートンの物理学の明らかさと、自分の心の奥底に道徳律の確実性というこの2つの手を付けて変えることが許されない法則を両立させようとしたのだった(カントの墓碑銘には「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則 Der bestirnte Himmel uber mir und das moralische Gesetz in mir 」と
ある)。

 『純粋理性批判』Kritik der reinen Vernunft では、形而上学は、物それ自体 (Ding an sich) を取り扱うので、不確実であり誤っているとしたが、次の『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft では、自分の敬虔主義を擁護するために、「私は、信仰に場所を与えるために理性を壊した」と言って、形而上学に知の価値を与えている。カントによれば、物それ自体について語る形而上学は、盲目的な信仰に還元されて、道徳生活のために使われるとき有効となる。現実世界の物それ自体は、学問的には間違っているが、生活するために便利である限り道徳的に真であるとする。

 つまり、人間悟性の向こう側の外にある、天主とか世界とかは知の対象ではないが、便利で必要なので存在しなければならない。これらは「そうかもしれない」というレベルであるが、しかし「あたかもそうであるように」生活しなければならない。人間は、物それ自体の知を拒否するが、それについてあたかも知っているかのように行動しなければならない。人間は、悟性の向こう側について決して確実ではないが、しかしこれらが確実であるかのように生活しなければならない。

 カント流の徳とは「尊厳において人間をその人格において維持すること」(『実践理性批判』 Kritik der praktischen
Vernunft)であり、必ずしもこの地上での幸福とは結びつかない。従って、来世における報償者としての天主を要求し想定するのみであり、「天主が人間の理性の外に存在することを断定することが出来ない」(「オプス・ポストムム」コンヴォルートゥム7)。

 カントは、啓蒙とは何かを説明してこう言う。啓蒙とは、罪深い未熟状態から自らを解放することである。未熟状態とは、他人の指導なしには悟性を用いることが出来ないことである、と。天主も宗教も排除して、人間が自分の理性だけで自律し、独立する、それが啓蒙である。フリー・メーソンのレッシングは、「人類の教育」(Die Erziehung des Menschengeschlechts)
で、すでに、天主から解放された純粋な理性の宗教を提案している。啓蒙は、天主がたとえ存在しなかったとしても、有効な普遍の道徳律を築くことを追求した。

 カントの「あたかも天主が存在しているかのように」生活する、という態度が、正に、啓蒙の新しい宗教の態度であった。インマヌエル・カントの神は、観念上の仮定の神、啓蒙思想の寛容の価値を保証する神であった。天主が真に存在し給うが故にではなく、イエズス・キリストが真の天主であるからではなく、もしかしたらそうかも知れないけれども、とにかく天主が存在するかのように(veluti
si Deus daretur)人生をおくらなければならない、と。

 カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ニーチェ、フォイエルバッハ、マルクスなど、ドイツの観念論は、超越する天主を人間の内部に閉じこめようとする闘いであった。カントによって、天主は、人間の道徳の守護者に成り下がり、フォイエルバッハは天主を人間の生み出したものとし、ニーチェはその死を宣言した。その代わりに人間が、全ての基準となり、原理となり、目的となった。


 聖ピオ十世教皇は、回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』(近代主義の誤謬について)において、近代主義をこう説明して排斥している。

不可知論
6.それでは、哲学者としての近代主義者から始めましょう。近代主義者たちは宗教哲学の基礎を一般的に不可知論と呼ばれている教説に置いています。この教えによれば「人間の理性はことごとく現象の領域、即ち現れ見えるもの、およびそれらのものが現れ見える様態に限定されているのであり、理性にはこの限界を越える権利も力もない」とされています。したがって、「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ことになります。この結果、「天主は決して学問の直接の対象たり得ず、そして、歴史学に関しては、天主は歴史的主題と見なされてはならない」ということが導き出されます。これらの前提を前にすれば、誰もが直ちに自然神学
、[カトリック信
仰の]信憑性の根拠 、外的啓示といった事柄がどのようになってしまうかを見て取るでしょう。近代主義者たちは、これらを完全に取り除けてしまい、彼らがばかばかしく、また久しくすたれた体系と見なす主知主義の中に含めるのです。また、教会がこれらの忌まわしい誤謬を正式に排斥してきたという事実も、彼らにいささかの歯止めを利かせることにもなりません。

 しかし、第一バチカン公会議は、次のように定義したのです。『もし誰であれ、私たちの創り主にして主である真の天主が、創られたものを通して人間の理性の自然的な光によって確実に知られ得ない、と述べるならば、彼は[教会から]排斥されるように』。
 さらに、『もし誰かが、人間が天主および天主に対して払うべき礼拝について、天主的啓示を通して教えられることが不可能、あるいは適当ではない、と述べるならば、彼は排斥されるように』。
 そして最後に、『もし誰かが、天主的啓示は外的なしるしによって信憑性を得ることができず、また、したがって人は自らの個人的、内的な体験あるいは詩的霊感によってのみ信仰に引き寄せられるべきである、と述べるならば、彼は排斥されるように』と定めています。・・・


生命的内在
7.しかしながら、かかる不可知論は近代主義者たちの体系の否定的側面にすぎません。彼らの体系の積極的側面とは、彼らが生命的内在と称するところのものです。このようにして、彼らは一つの教条から他の教条へと進んで行くのです。自然的なものであれ、超自然的なものであれ、宗教は他のあらゆる事象と同じく、何らかの説明の余地を有しています。しかるに、自然的神学が排除され、また信憑性を裏打ちする議論の拒否によって啓示に対する道が閉ざされ、そしていかなる外的啓示も完全に否定されれば、この種の説明は人間自身の外には求められ得なくなってしまいます。

 したがって、これは人間の内に探し求められねばならないことになります。そして、宗教とは一種の生命なのであるから、かかる説明は当然のごとく人間の生命の内に見出されなければなりません。このようにして、宗教的内在の原理が定式化されるのです。さらに、あらゆる生命的現象
───上で述べられたように、宗教もこのカテゴリーに含まれ
ます─── のいわば最初の活動は、ある種の必要ないし衝動によるとされます。しかるに生命について特に述べるとすれば、それは心の動きに源を発するのであり、この動きは感覚と呼ばれます。したがって、天主こそが宗教の対象なのですから、宗教全体の土台にして基盤である信仰は、天主的なるものの必要に起因する、ある種の内的感覚に存するのであると結論せざるを得ません。天主的なるものに対するこの必要は、それ自体としては意識の領域に属し得ず、かえって意識の下に、あるいは近代哲学の術語を借りるなら、潜在意識の中に潜んでいるのだとされています。そこで、かかる必要の根源は見つけられずに隠れているのです。

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