Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

一体なぜ、私たちはこの地上に生きているのか?その目的は何なのか?この地上の全ての創られたものの本当の意味と価値とは?諸聖人の大祝日のミサの黙想

2019年11月06日 | お説教・霊的講話
2019年11月1日(初金)諸聖人の祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年11月1日、諸聖人の大祝日で、初金曜日でもあります。

今日このミサの直後に、初金曜日の信心である聖時間を行ないましょう。そして御聖体拝領も、初金の信心で御聖体拝領なさって下さい。

今日は、49年前に、聖ピオ十世会が教会法に従って正式に認可されて、創立された誕生の日でもあります。どうぞ聖ピオ十世会の全ての司教様、司祭、修道士、修道女、そして信徒の方々の為に、皆様のお祈りをお願い致します。


「そして私は天に、誰も数える事ができないほどの大群を見た。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日黙示録で、聖ヨハネが天の荘厳な壮大な様子を描写します。

ユダヤの十二部族の印をされた、選ばれた人々をまず見ます。次に、全ての異邦の民から、全ての民族、全ての国民、全ての言葉、全ての血統の人々、あらゆる階級の人々が、誰も数える事ができないほどのものすごい大群が、何億何十億何百億という人々が、手に棕櫚の勝利の枝を持ち、そして真っ白な服を着て、天に、天主の玉座と子羊の前に立って、讃美の声を大きな声で、轟くほどの声で、感謝を捧げている、「天主に、私たちの天主に、そして子羊に救いあれ!」と。

そしてその大きな天群の、感謝の大群がこの声をあげると、その子羊と天主の玉座の前には、天使たちが、無数の天使たちがやはり同じように、それを取り巻いて、そして老人とそして動物が同じように、その天主に、「祝福と、讃美と、感謝と、栄光と、誉れとが、代々にありますように!」と言って、この顔を額突いて、地に平伏して、その天群の大群と共に、天主を讃美する。

この壮大な栄光の風景を、私たちに語っています。

これが天国での現実です。今日の諸聖人の大祝日は私たちに、遂に私たちが至るべき、私たちの辿るべき目的地を見せてくれています。永遠の救い、永遠の命、永遠の至福。その私たちの創造された究極の目的。それに既に到達されている多くの聖人たちの姿。「私たちもこれに加わらなければならない。これに辿り着かなければならない。その為に子羊が屠られた。天主が人となって、私たちの為に、尊い天主の御血を流された。」

今日、この私たちの母なる聖なる公教会は私たちに、慈愛の心を以て、「さぁ、ごらん、子供たちよ。ここにこそ、私たちの究極の目的があるのだよ」と教えてくれます。

一体なぜ、私たちはこの地上に生きているのでしょうか?何でこの日本の地に生まれて来たのでしょうか?なぜここに今、2019年11月1日に、ここに、今ここでこう生きているのでしょうか?その目的は何なのでしょうか?

私たちの目的は、たった1つしかありません。「永遠に幸せになる事」です。諸聖人のこの大群の前に加わる事です。イエズス様の流された、御血のその目的を完成させる事です。

私はつい最近、ある人にこう質問を受けました、「教皇様が、フランシスコ教皇様が日本に来られるけれども、日本にとって、日本にいる私たちにとって、一番大切なイシューとなる事は何なのでしょうか?何だと思いますか?」

これは私たちに聞くまでもありません。私たちにとって、日本人にとって最も大切なイシュー、最も大切な大問題というのは、「私たちの永遠の救い」です。

日本の国民の霊魂が永遠に救われるか、救われないか、これこそが創造の最も大切な問題であって、私たちの人生の最大の問題であって、私たちの人生の唯一の大事業です。カトリック教会のその創立の目的であって、イエズス様の御託身と贖いの神秘の目的であります。

オリンピックの話ではありません。天皇陛下の跡継ぎの問題でもありません。「私たちの霊魂、国民一人一人の霊魂が、永遠に幸せになるか、あるいは地獄に落ちるか」これこそが私たちの最も大切な問題です。

私たちのみではありません。アマゾンにいる人々にとっても同じです。中国に住んでいる人にとっても同じです。アマゾンにいる人にとっての最も大切な目的は、彼らの霊魂の永遠の救いです。森林の保存とか、あるいは大地の環境とか、それは二の次です。

なぜそういうのは二の次なのでしょうか? それが第2のポイントです。

なぜかと言うと、私たちが今この住んでいるこの地上の全てのもの、創られたもの、被造物は、私たちが永遠の命に到達する為の、「手段」に過ぎないからです、「道具」に過ぎないからです。

日本という国家も、あるいはアマゾンという大森林も、あるいは王様がいることも、天皇陛下をいただいていることも、あるいはこの私たちの今住んでいる、持っている、目に見える全ての財産も、自然環境も、全て手段に過ぎないからです。私たちが永遠の命に到達する為に、上手く使うべき手段に過ぎないからです。

その為に天主は、三位一体の愛を込めて、私たちが永遠の幸せに到達する為の手段として、これを私たちに下さいました、「これを良く使うように」と。

「良く使うように」というのは、これを目的と切り離して、これだけを見て、これを保存する、これだけを、というのではなくて、これを「目的の為に使う」という事が良い使い方です。

一番良い使い方、目的に到達する為の使い方をするのが、一番良い使い方です。ですからこそ私たちは、自然を大切に、清貧の精神で使わなければなりません。

しかし、これをあるいは被造物を、天主を忘れて、あるいは天主とは全く無関係に、自立的に、天主の事を無視して、盲目的に、これを、地上の事を愛する事はできません。それは悪い使い方です。「全ての地上のものは、全ての被造物は、目的ではなくて、手段だ」という事を、私たちは一瞬も忘れてはなりません。

最後のポイントです。

では私たちはどうやったら、この諸聖人の後に加わる事ができるでしょうか?諸聖人はどのように天国に行ったのでしょうか?どのように被造物を上手く使って、天国に到達したのでしょうか?

彼らは、イエズス・キリストの後に従いました。私たちが罪を赦されるには、たった1つしか方法がありません。それは、イエズス・キリストです。イエズス・キリストの流された御血です。イエズス・キリストの御恵みを、超自然の御恵みを、私たちが受け取る事です。

主の流された御血によって私たちの罪が赦され、洗礼の秘跡を受ける事によって私たちが赦され、そして超自然の命に参与する事です。私たちの今生きているこの自然では不完全で、更にそれに加えて、超自然の天主の命に与らなければなりません。

私たちのその超自然の命をいつも保つ事ができる為に、通らなければならない道があります。それがイエズス様が通った道であって、諸聖人がやはり通った道であります。ある諸聖人は、ある聖人たちは、殉教の道を辿りました。でも同じイエズス様の道でした。ある聖人は、貞潔の道を辿りました。童貞女。ある聖人は、王として、イエズス様の掟に従いました。しかし全ての聖人たちが通った道は、「十字架の道」でした。

この十字架の道の最高のレベルが、最高の生き方が、福音の勧告であって、「清貧・貞潔・従順」この三つです。

それにより、この私たちの地上の被造物を愛してしまう、あるいは貪欲、富への欲望、あるいは肉体の欲望、あるいは更には自分を天主として、自分の意志を天主よりも更に重んじようとするその誘惑に打ち勝ちます。

「この諸聖人たちが、十字架の道行きを辿った。そしてこれこそが、私たちに与えられた唯一の道である」という事を今日、もう一度確認致しましょう。そしてその道を通ってこそ初めて、私たちは遂に栄光に、復活に、天国の栄光に達する事ができるからです。

今現在では、2つの問題があります。

1つは、私たちのこの「目的」が、この地上での幸せであるかのように錯覚をしよう、としている事。そして天国での目的を思い出させようとする人がますます少なくなっている事。

第2の問題は、十字架の道を通らなければならない、天国に行けない、という事を、誰も語らなくなっている事。それはあまりにも難しいので、私たちはもう何もしなくても、十字架の道をしなくても、既に天国に行って、復活を味わっているのだ、という事だけを強調しようとする人が多くなっている事です。

私たちは今日、諸聖人の歩んだ十字架の道を、もう一度歩む事を決心致しましょう。

そのこれができますように、マリア様にお祈り致します。悲しみのマリア様、汚れなき聖母マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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