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カトリック新聞の記事 『青年らが歴史見る巡礼 「なぜ殉教?」の疑問を胸に』を読んで。

2006年04月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言


アヴェ・マリア!

 カトリック新聞には『青年らが歴史見る巡礼 「なぜ殉教?」の疑問を胸に』という記事があった。
http://www.cwjpn.com/kiji/3856/3p-seinen_jyunrei.htm

 この巡礼は、東京の「真生会館学生センター」が企画したものだ。司祭も2人参加した。しかし、参加者は巡礼しても「どうして殉教しなきゃいけないのか」という疑問への答えは見つからなかった。参加者はむしろ、過去、殉教が「素晴らしいこと」のように考えられていたので、現代と「信仰の表し方が全く違う」ことに驚く。或る参加者は、殉教について「疑問ばっかり増えた」と話す。

 この記事を読んだ率直な感想を述べることを許してもらいたい。

 (1)

 私は、この記事を読んで、 「カトリック新聞」! 「真生会館学生センター」! これの何というダブルスタンダード! と思った。

 少し前まで、そして今でも、外国人登録のための指紋押捺反対、イラク戦争反対、原発反対、憲法改正反対、君が代斉唱・国旗掲揚反対、良心的拒否を声高々に叫んでいるくせに! 指紋押捺反対のために日本国外に追放された外国人宣教師を「殉教者」として賞賛・高揚していたくせに! 共産主義・社会主義に染まった赤い戦闘的プロ市民たちが、「良心の自由」を錦の旗のもとに、命さえ投げ出しているのを、さもうらやましそうに眺めて、彼らに倣えとカトリック信者らにハッパをかけているくせに!


 (2)

 次に思ったことは、この指導者らのカトリック信仰に対する無知だ。(失礼!) 指導者がそうなら、その指導を受ける学生が「何故?」と疑問に思っても不思議はない。

 指導者の二名の司祭らは、豊臣秀吉によってキリスト教が禁止されだした、ということを知らなかったようだ。真理を信じてはならぬ、という悪法が制定発布されたのを知らなかったようだ。
 天主の十戒という全ての人間が遵守しなければならない天主の法があることを教えられていなかったようだ

 私たちの主イエズス・キリストは真理を証明するために生まれた。真理とは好きだから信じるのでも・そのほうが都合が良いから信じるのでも・便利だから信じるのでもない、ということを知らなかったようだ。


 教文館から「殉教者行伝」が出ている。指導者の司祭たちはこれを読んでみたらよい。ドン・ボスコ社から岡神父様の書かれた「戦塵のさなかに ---ある神学生の青春---」という本がある。指導者の司祭たちはこれを読んでみたらよい。

 岡神父様は、日本を愛する愛国心に燃えながらも、愛する祖国のために命すら惜しまない、という情熱に燃えつつも、「クリスチャン」ということで「売国奴」と上官から罵られ、暴力を受けた。「キリスト教の信仰を棄てる方が有利で」便利で、楽チンだった。しかし岡神父様は、イエズス・キリストの御受難を思い起こし、私たちの主にならってじっと堪え忍んだ


 何故、司祭たちがこれを知らないのか? ヒントは学生たちの次の言葉にあるようだ。


 「神様が好きだっていう思いは変わらない」とも感じた。
 「もっと伝えたいことがあるのに、言葉にできないもどかしさ」
 「人が死ぬ話」を聞き、気持ちが「落ち込んだ」。
 青年たちとの交流が、参加者を次の目的地に向かわせる力となった。



 つまり、信仰=感情になっているからだ。司祭たちが指導している「信仰」とは、内的な感情だけだから、言葉にできないし、神様が好きだと「感じる」し、「気持ち」が落ち込むのだ。

 何故か? 何故 信仰=感情 になってしまったのか?


(3)

 司祭たちを責めるのは酷だろう。何故なら、こうなってしまったのは新しい司祭たちのせいではないからだ。彼らは新しいイデオロギーと新しい教えの犠牲者に過ぎない。だれが新しい教えを教え、新しいイデオロギーを司祭たちに植え付けたのか? それは、新しいミサだ。司祭は新しいミサの影響を受けているからだ。


 新しいミサは、皆の食事会であり、信仰の「喜びを分かち合う」人間が中心の集会だからだ。新しいミサの原動力は、「人々との交流だからだ。だから「死ぬ話を聞き」、「気持ちが落ち込ん」でも、「青年達のと交流」が力となったのだ


 岡神父様はこう書いている。カトリック信仰を阻害されるばかりの軍隊生活での厳しい生活の中で、「カルワリオの再現なるミサが捧げられ、最愛なる主イエズスとの親密な一致の甘美さに酔い、諸聖人と語らった朝晩の黙想時間の慰め」を懐かしく思い、「地上における人の命は闘いなり」というヨブの言葉を、来る日も来る日も切実な思いで味わっていた。正に、これがカトリック信仰だ。私たちの主イエズス・キリストの十字架の再現である聖伝のミサの教える信仰だ。信仰は感傷的な感情でも、センチメンタルな意見でもない。


 聖伝のミサでは、「イエズス・キリストの死」が再現される、しかし私たちは「気持ちが落ち込む」どころか、イエズス・キリストとの親密な愛の一致と、諸天使、諸聖人との緊密な一致に酔いしれるのだ。ここから天主の御恵みによって、わが祖国日本からも、イエズス・キリストへの愛のために、真理への愛のために、数多くの殉教者たちが生まれたのだ。



 昨日は、聖金曜日、イエズス・キリストが十字架で真理のために命を失った日だ。しかし、イエズス・キリストはこの世に勝った。私たちの主イエズス・キリストは復活して生きておられる。そしてこの世の最後の日に、生きる人と死せる人々を裁くために再び来られるだろう。天主の御恵みにより、私たちは、主イエズス・キリストに希望をおく。私たちは永遠に辱められることがないだろう。


 だから、ルフェーブル大司教さまは、聖伝のミサを固守した。そしていわばカトリック聖伝の殉教者となったのだ。

 

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