Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

読者の愛する兄弟姉妹の皆様からのご質問に忘れずに答えるために(ベータ版)

2009年05月22日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

 読者の愛する兄弟姉妹の皆様からのご質問に忘れずに答えるためにこのスペースを作りました。もっと改良の余地があるかもしれませんが、忘れる前にとりあえず。愛する兄弟姉妹の皆様も、まだこの質問をしたのだけれども答えをもらってない、あるいは、この質問をしてみたい、という内容がありましたら、コメント欄に書いてくだされば、私も手が省けるので感謝いたします。内容が難しいために、私の能力の不足のために、すぐに、あるいは全くお答えできないご質問がありますので、ご容赦ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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本田神父様の使用される「小さくされた者たち」という言葉は、聖書や聖伝に基づく言葉なのでしょうか。 (Fr Thomas Onoda)
2009-05-22 16:42:42
トマス 小野田 神父様

(以下、緊急性の高い内容ではありません。取るに足りない内容です。)  

 昨日少しお話しした、「解放の神学」や「本田神父様流」の聖書解釈ではないかと思うのは、たとえば次のような谷司教様の説教に出てきます。ここ一年、聖書を読め読めとおっしゃり、「聖書のこの箇所の意味はこうだ」と断定的に書かれます。

 今年の聖香油のミサの説教内容です。(HPからの引用です。)
 http://saitama-kyoku.net/j/bishop/message/

 この中で、

【引用開始】(段落はそのまま、誤植もそのまま。●をつけ、行は空けました。)

清貧の模範はイエスの生きた姿のうちに示されています。それをパウロは誇りをもって次のように宣言しています。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」二コリ8:9

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」フィリ 2:6,7

●また、パウロは、キリストの貧しさを模範として生きようとする初代教会のキリスト者にあててつぎのように教えています。

●「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」ロマ 12:13

●ここでいう「聖なる者たち」(複数形)は小さくされた者たち、貧しい者たちのことをさしています。パウロはさらに次のように信者に語ります。

●「しかし今は、私は聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」ロマ15:25~33

ヨハネ・パウロ2世は「司祭の役務と生活に関する指針」にのなかで「司祭の清貧」について次のように書いています。

「司祭が、自分の快適さや裕福さに気を奪われすぎるなら、兄弟姉妹の僕となり役務者となるのは難しい。司祭はキリストの模範にならってこの世の富や物にたいして自由にならなければならない。司祭は自分が受けた たまものが無償であることを思いだして、いつも無償で与えるようにしなければならない。」

司祭、修道者の清貧は、キリスト者としてのあるべき姿を示すものでもあるのです。その意味では、清貧はすべてのキリスト者のあるべき姿といってもよいでしょう。清貧の精神を、共同体のなかに染みとおらせることが、私たち司祭団の使命の一つでもあります。なぜなら、清貧を生ことはキリストにならって生きることを意味するからです。
 
【引用終了】

 本田神父様の使用される「小さくされた者たち」という言葉は、聖書や聖伝に基づく言葉なのでしょうか。
司教団メッセージにもたびたび現れる、教会のあり方として使われる「特に苦しむ人々と共に」の、「苦しむ人々」の定義は? (Fr Thomas Onoda)
2009-05-22 18:02:57
 一つ以前から引っかかる言葉があります。それは、司教団メッセージにもたびたび現れますが、教会のあり方として使われる「特に苦しむ人々と共に」です。苦しむ方が目の前に現れれば、手を差し伸べようとするのは当然ですが、「苦しむ人々」の定義が、画一的なのです。病気の人や高齢者のお見舞いよりは、不法滞在者や路上生活者の支援をすることを求められます。その時、「良きサマリア人のたとえ」が使われます。

 大阪教区「共同宣教司牧」の「カトリック神戸中央教会」のHPです。
http://www.kobe-chuo.catholic.ne.jp/contents101.html

教会設立の思い:下の方ですが…
「神の国の実現を望み 【とりわけ 社会のひずみに 苦しむ人々と 共に歩むことを 優先する教会】」

 余談ですが、この教会は、震災後、 
①カトリック灘教会
②カトリック中山手教会 
③カトリック下山手教会 
が統合されて②の跡地に建てられました。

② http://holyring.jp/lib/okamoto_tamotsu/nakayamate.html
③ http://holyring.jp/lib/okamoto_tamotsu/shimoyamate.html

③は、時々うかがいました。素晴らしい教会でした。記憶にあります。

 損壊の程度は、②が半壊 ③が全壊 でした。主人の実家は全壊で70万円の修理費、私の実家は半壊で1000万円の修理費、で現在も住んでいます。(半壊・全壊は破損はあるということで、使用できないということではないです。)  

 信者の方々は改築で原形をとどめようと尽力されたそうですが、大阪教区はこの伝統あるゴシックの教会群が憎々しいように、いともあっさりと三つとも破壊しました。カトリック中山手教会の跡地に、名前まで変えて、新しいヴィジョンで「神戸中央教会」を建てました。
ドーム型の教会:麹町→六甲→神戸中央→住吉と続いています。
http://www.kobe-chuo.catholic.ne.jp/
「教導権」と「ご出現主義の間違い」についてもなにか書いていただけないでしょうか? (Fr Thomas Onoda)
2009-05-22 18:11:56
小野田神父さま
・・・
 神父さまにお願いがあるのですが、・・・
また、お時間がとれるときでかまわないのですが「教導権」と「ご出現主義の間違い」についてもなにか書いていただけないでしょうか?


【質問】大岩真のペンネームで書かれた記事を再掲載していただけないでしょうか?
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/aa4f7e996f621ff577ebb70f7d14e8ef
でまだ残っていた質問


◆ 赦され得ない罪 (Fr Thomas Onoda)
2009-06-01 16:36:25
質問です。
◆ 赦され得ない罪
 1月に配信された『聖霊に対する罪』に関して、かなり後になってから質問させていただいたのは、あの配信を読んでからずっと、このイスカリオトの救霊が心にひっかかっていたからです。神父様は、「罪も、痛悔すれば赦されるのです。しかし、死ぬまで痛悔しない人は、赦され得ないのです。知っている真理を故意に否定したり、するなど、悪意のある罪の場合、罪の赦しの前提を得ることが難しいからです。」
 …というお返事をくださいました。
 裏切り者としてのユダの存在が、贖罪の完成に不可欠な要素であったという解釈にスポットをあてれば、ユダがおかした罪は赦されるべきものとなり、「ユダは救われた」という教えも妥当と言えるものなのでしょう。
 それでは、マタイの記述を歴史的な事実として受け止めた場合、ユダの首吊り自殺はどうなるのでしょうか? 殺人の中でも、第三者の殺人、あるいは胎児の中絶の場合、罪をおかした本人には痛悔の時間が残されますが、自殺の場合、罪をおかすのと同時に、本人自らの手で痛悔のチャンスを奪うわけですから、「殺してはならない」という掟を破る行為の中でも、自殺は、他人を殺したり、胎児を殺すのとは全く異なる異質のものだと解釈しています。
 そうなると、中絶や殺人とちがって、自殺は、『赦され得ない罪』の性格を色濃く帯びたものだと思えてくるのですが、ユダの救霊の結論に、自殺は影響していないのでしょうか? それとも、自殺は赦されると、
教会は解釈しているわけでしょうか?

◆ 自殺の解釈
 ついでに、自殺の解釈について知りたいです。どこをどうこねても、ユダの場合は非常に特殊な事例ですから、一般的なケースのことです。
 カトリック教会はかつて、自殺者の葬儀を拒否し、墓地への埋葬も拒んでいた、ということを、ある掲示板への書き込みから知りました。
(プロテスタントに関しては知りません。考えたこともありませんでした。)
 ★ これは、「自殺した者は、永遠に神の救いにあずかれない」というカトリック教会の判断を意味しているものと考えても良いですか? 
 ★ 小野田神父様のサイトで、決闘に関して、「教会法の規定に従って殺人犯として処罰され、争いの途中で死亡した者には、教会による埋葬を完全に拒否される」と書いてありますが、自殺による死は、決闘による死と同じ解釈をされていたと考えても良いわけですか?
 ★ カトリック教会が、自殺者の葬儀+埋葬を受け付けるようになったのは、バチカン公会議による変革のためなのでしょうか?
 ★ もし公会議による影響で自殺者の葬儀が認められるようになったのだとしたら、聖ピオ十世会では、今なお、自殺者の葬儀・埋葬は拒否しているのでしょうか?
Unknown (Fr Thomas Onoda)
2009-06-01 16:38:06
①カテキズムで習った三位一体について、カトリック信者生活4年近くになりますが、全くイメージがわきませんし、理解できません。何かいい方法はありませんか?
Unknown (Fr Thomas Onoda)
2009-06-01 16:39:44
②月一回の子供と供に捧げるミサがいやでいやで仕方ありません。子供達も子供ミサだからといって積極的に参加しているとは思えません。かえって通常のミサよりもうるさいぐらいです。喜んでいるのは父兄の信者だけのように思えます。子供ミサが嫌いな私は、やはりおかしいのでしょうか?
Unknown (Fr Thomas Onoda)
2009-06-01 16:42:32
私の教会の神父様は近所の聖公会の教会の神父様?とたいへん仲がよく、教会相互の交流も盛んです。よく聖公会はカトリックに一番近いキリスト教だと言われますが、先日、聖公会の信者さんと話をして、聖公会は御聖体を信じていないことを知りショックを受けました。私の教会の神父様は聖公会の信者さんに御聖体を拝領させています。御聖体を信じない教派が本当にカトリックに一番近いキリスト教なのでしょうか?
Unknown (Fr Thomas Onoda)
2009-06-01 16:43:56
第二バチカン公会議の典礼刷新で聖務日課も内容が変更されてしまったのでしょうか?
Unknown (Fr Thomas Onoda)
2009-06-01 16:47:39
キリスト神であるのに、なぜ洗礼を受ける必要があったのですか?
教会のほかに救霊はないということの意味 (Fr Thomas Onoda)
2009-06-01 16:48:23
質問 
護教学の本にこういうのがありました。
神父様の「カトリック信者」以外の霊魂は救われない?というお立場と矛盾することだと思われますが、コメントをお願いします。

教会のほかに救霊はないということの意味

神は、いっさいの人に、神の教会のメンバーになることを命じた。この事実を知っているにもかかわらず、神にしたがわない人びとは、永遠にほろびるしかない。しかし、神は、重大な罪がある場合のほかは、けっして、地獄の罰を与えないのであるから、自分には責任がない無知のゆえに、神のおきてに無関心だからといって、そういう人びとにまで、神は、地獄の罰を与えることはない。また、自分の良心にしたがって、神につかえる人たち、神の意志をおこなおうとのぞんでいる人たち、したがって、間接的には、神の教会のメンバーになることをのぞんでいることになる人たちを、神は、地獄におとすことはない。そこで、わたくしたちは、つぎのような場合を考えることができる。
①かれは、プロテスタントの両親から生まれて、洗礼をうけた。そして、プロテスタント教徒として、一生をおくった。自分の信仰的な立場については、すこしの疑問もおこしたことはなかった。死ぬまえに、おかした大罪について、完全な痛悔をおこすか、あるいは、神にたいする完全な愛をおこした・・・こういう人はすくわれる。なぜなら、かれは、恩恵の状態で死ぬからである。
②ひとりの異教徒がいる。かれは、キリストの名前さえ聞いたことがなかった。しかし、かれは理性の光に忠実で、自然法にしたがって生活した。かれは、もちろん、見た目には異教徒として死んだ。こういう人はどうであろうか。愛の神は、こういう人がほろびるのをのぞまない。はっきりわかっている原則がある。神はいっさいの人びとが救われることをのぞんでいるのであるから、最善をつくす人に、神の恩恵をあたえないわけはないということである。自然法に忠実にしたがう人たちに、神はまちがいなく充分なてらしを与え、救雲に必要な信仰と、愛とをおこす助けをくれるであろう。愛徳には、神の意志をはたそうという意志が間接にふくまれている。したがって、洗礼を間接的にのぞんでいることになる。
しかしながら、教会が、人びとの目のまえに、山のうえにたてられた町のように立っていることを考え、また、教会の宣教師たちが、地のはてまでもつかわされていることなどを思いあわせると、以上あげたようなケースが、一般の人びとに相当するとするのは危険である。一方、教会のメンバーになっていても、神のゆたかな恩恵を故意にすててしまう人たちは、救霊がさほどやさしくはない、ということも確言できるわけである。

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