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アクション・フランセーズの排斥 (その2)

2006年04月26日 | ルフェーブル大司教の伝記


第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)


4.アクション・フランセーズの排斥 (その2)



マルセル・ルフェーブルの沈黙


 やはり、軍人神学生はその断罪によって極めて辛い思いをした。彼はアクション・フランセーズにおいて自分が願っていたキリスト教秩序のための闘いを見ていたからだ。彼は後にこのときを振り返ってこのように言っている。


「ああ、それはカトリック運動ではなかったけれども、祖国において、フランスにおいて、フリーメーソンがもたらしていた無秩序に対抗する反動の運動だった。健全で、決定的な反動、秩序と規律への立ち戻り、道徳キリスト教的道徳への回帰だった。」「教皇聖下がそれを断罪した事実は、秩序に反対することであり、反革命の両腕を切り取ってしまった。 」


 これが、モラスの本を読んだこともなく、アクション・フランセーズに属したこともない青年が見ていたこと、或いは感じていたことだ。


 それ以外は、彼の軍服務の以前から、「政治について話さないということに忠実たろうとしていた 」と妹のクリスチアンヌは言った。彼の兄ルネはマルセルのような言葉の註意を持たなかった。修練期の間に熱烈なアンリ・ド・モプ (Henri de Maupeou) と友達になった。それは 1924 - 1925年のことだった。二人は同じ修練生のアレクシス・リオ (Alexis Riaud) を誘った。リオはこう語っている。「彼らは私にアクション・フランセーズのことを知らせようと望んだ。彼らは、私たち三人だけで散歩しようと言いながら私を誘ったが、私がその話に乗ってこなかったのを見て取った。 」 アクション・フランセーズの「排斥」があってから、他方マルセルは以前よりいっそう政治について黙りこくった。クリスチアンヌによれば 、マルセルが 1927年にスェビルリにいる兄ルネを二度訪問したが、そのうち一回は、滞留する間に兄ルネが「[盛んに話題になっているアクション・フランセーズに関して] 対話の始める餌を撒こうとしていたけれど、マルセルがそれに対応しないでいるのを見ると、ルネがマルセルにこう言うのがまだ耳に響くようです。 "お前は、俺の知ったこっちゃない主義者だ!" と。いいえ。マルセルは決してそうではありませんでした。」


 それは無関心ではなく断固たる意志だった。彼の神学校の同級生の一人はマルセル・ルフェーブル神学生についてこう証言している。「親密な友達の間では、アクション・フランセーズについて話をしていた。しかし私はマルセルがそれに対して話すことを全然聞いたことがない。マルセルの座右の標語の一つがこれだった。ローマは語った。問題はそれで終わった。 」


 それでも、たしかにアクション・フランセーズに関する禁止令も辛いことではあったが、それはマルセル・ルフェーブルの目にとって、尊敬するル・フロック神父がフランス神学校を去ったことに比べれば何でもないことであった



フランス下院で非難されたフランス神学校


 1925年 1月 25日、サンタ・キアラでの昼休みレクリエーションは活気に満ちていた。新聞を読んでいる司祭の周りに群れができた。「首相エドゥワール・エリオ (Edouard Herriot) は、バチカン大使館の影響力を貶めるために、ブルボン宮(フランス下院)でフランス神学校を攻撃した。」報道によるとフランス神学校では「フランス共和国の法律に違背する政治的教義が花咲き乱れている 。」


 そうこうしている間、3月 10日にはフランスの枢機卿及び大司教たちは、政教分離の法律の不当性に関する宣言文を起草し「この法律に対して闘うために取るべき措置 」を述べた。これが発表されたことは、教皇ピオ11世を激怒させた。何故なら彼はことを丸く収めようと願っていたからだ。


 実際、3月 20日に、フランス下院ではエリオが司教団の宣言文を攻撃し、その宣言文の出所と思われる所を次のように主張して告発した。司教らの宣言文は「ローマにあるフランス神学校から直接的に 」来ている、と。


 そしてエリオはフランス下院で、聖トマス講話会でジョルジ・ミシェル(Georges Michel) がした講話の抜粋を引用した。「国家は、カトリックの宗教を、天主を礼拝する唯一の真の形式として認める義務がある・・・(左翼と極左翼で叫び声が上がる)、カトリック教を公式に国家宗教として宣言する義務があり」そして「もし必要ならば軍事力を行使しても」カトリック教を保護する義務がある(同じ反応)。


 ルシアン・ルフェーブル (Lucien Lefevre) 神学生の講話も攻撃された。「国家は教育に対して一切の権利がない」(同じ反応)。そこでアンリ・ミシェル代議士は「これがまさに世俗法規に対する尊敬心だ!」と大声一喝した。


 4月 30日、外務大臣アリスティド・ブリアン (Aristide Briand) は、教皇庁の元にある自分の大使であるジャン・ドゥルセ (Jean Doulcet) に手紙を書き、ガスパリ (Gasparri) 枢機卿国務長官が「ローマのフランス神学校の管理者たちが司教らに持っている影響力をよく考えてみること、その施設でどんな精神が支配しているかを正確に調査してみること、その場所でアクション・フランセーズのリーダーたちが持っている影響力がどれ程大きいかを調べてみること」を提案した。言葉を付け加えて、これはもしもガスパリ国務長官が「人心を鎮めるように誠実に働くこと」を望んでいるならば、と書いた 。


 これはピオ11世のもっとも敏感な糸に触れた。人心を鎮めることこそ、ピオ11世が就任後初の勅書である『ウビ・アルカノ Ubi Arcano 』で焦点を定めたもっとも主要な課題だったからだ。


 しばらくした 1925年 7月 5日、ル・フロック神父が顧問として多大な影響力を行使していた教区聖省 (注: すべての司教たちの監督、司教任命準備、教区新設・改訂などの事務を引き受けて管理する聖省) は、司教任命権に関して、教会特務聖省 (注: 教区設定, 司教任命などに関して各国政府と交渉する必要があればこれに臨む聖省) と国務省とに統括され、司教任命権を失った。ピオ11世は、自分の「緊張緩和及び和解 」の政策にもっと素直に受け入れる司教、あまり好戦的ではない司教たちを望んでいた。


 ルフェーブル大司教は後に、その時期を回顧しながら、ピオ11世の宗教政策を次のようにかなり厳しく判断するだろう。「教理の次元で (例えば, キリストの社会的王権の教義) ピオ11世は自由主義者(リベラル)ではなかった。 」しかしピオ11世は「惰弱であった、実際的行動の領域では、極めて惰弱であった」「彼はむしろこの世と少し妥協する方に試みた。 」 ルフェーブル大司教は次のように自分の言わんとすることを明確に述べた。教皇ピオ11世は、レオ 13世のように「事実上の (de facto) 政府と友好関係を結ぼうという強迫観念、その政府がフリーメーソン政府であろうと、革命政府であろうと構わないからとにかく関係をという強迫観念」を持っていた。そしてその行動によって、その対話の相手に「極めて重大な幻想の模範」を与えていた

 


ル・フロック神父とアクション・フランセーズ


 ル・フロック神父は、天主が啓示し給うた信仰を教える教師、且つ、天主が助け給うローマ・カトリックの教導職の奉仕者として、アクション・フランセーズという実証的経験主義学派の対立極に位置していた


 ローマ神学校の学頭であるル・フロック神父がアクション・フランセーズに見いだしていた唯一の接触点とは、ル・フロック神父の言葉を借りれば「私たちは教理的観点から、自由主義、政教分離主義及びフランス革命の原理に対立して闘っているが、アクション・フランセーズは政治的観点から、これらのまったく同じ間違いに対立して闘っていることに偶然出会った。


 しかし、学頭神父は1926年 7月に神学生たちが卒業する時、注意深く次のように言葉を加えた。神学校は 「アクション・フランセーズに賛成でも反対でもない。賛成しないのはそれが政治的な組職だからであり、反対しないのも同じな理由のためだ。モラスの幾つかの著作については、私たちはその中でカトリック教義が断罪することを断罪する 」と。

 


(続く)


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