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「ディノイア大司教、第二バチカン公会議、及び聖ピオ十世会」(フランソワ・レネー神父著)

2013年05月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 教会は昨日、三位一体の主日を祝いました。さて聖ピオ十世会司祭、フランソワ・レネー(François Laisney)神父様が、エクレジア・デイ委員会副長官に新たに任命されたディノイア大司教様のしたインタビューに昨年の10月にコメントを投稿し、これがレンムラント誌に「ディノイア大司教、第二バチカン公会議、及び聖ピオ十世会」というタイトルで掲載されました。
 この日本語訳は既に今年の3月にはできあがっておりましたが、遅ればせながら、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。この日本語訳を作って下さった方には感謝を申し上げます!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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ディノイア大司教、第二バチカン公会議、及び聖ピオ十世会


聖ピオ十世会司祭、フランソワ・レネー(François Laisney)神父
二〇一二年十月八日投稿

ディノイア大司教、第二バチカン公会議、及び聖ピオ十世会

問題提起

 一つの問題が解決され得るためには、まず初めにその問題を正しく提起するのが重要です。エクレジア・デイ委員会副長官に新たに任命されたアウグスティン・ディノイア大司教がなさった最近のインタビューの中で、インタビュアーもディノイア大司教ご自身も、八回以上、聖ピオ十世会の「完全な交わり」について触れました。あたかも聖ピオ十世会がどういうわけか「完全な交わり」の中におらず、この問題は聖ピオ十世会を「完全な交わり」へと戻そうと支援することであるかのようにです。インタビューの終わりに、ディノイア大司教は「もう一つのセクト、もう一つの分裂」であるとすら述べています。ですがそもそも初めから、この「status quaestionis 問題提起」は不当に設定されています。さて「完全な交わり」の問題については、去年のレムナント紙に掲載されたフェラーラ氏によるみごとな記事があります。

 ディノイア大司教が聖ピオ十世会の歴史を研究してさえすれば、すぐにわかることでしょう。すなわち、本会はカトリック教会の良い枝として生まれ、完全なカトリック大司教であるマルセル・ルフェーブル閣下により創設され、教区のシャリエール司教に教会法的承認を受け、アダム大司教による承認のもとエコンで最初の神学校を開設し、ライト枢機卿からは賞讃の手紙をいただいてすらいた、ということを、です。

 聖ピオ十世会が、教会法を侵害したやり方でマミー司教によって不当な廃止処分を受けたのは、その後のことです。そこから迫害が始まり、教会法的に不正常な状況という結果となりながらも、聖ピオ十世会はカトリック教会との完全な交わりを決して失っていません。聖職者階級の一部の成員たちによる不正な取り扱いを受けることは、当該組織が教会との完全な交わりを失うことにはなりません。相当数の聖人たちが、聖職者階級の成員たちに苦しめられなければならず、「破門」の宣告を受けさえしました(オーストラリアのアデレードの司教によって荘厳に「破門」された十字架の聖マリアは、後に教皇ベネディクト十六世によって列聖されたばかりです。聖女の破門は「有効」だったのでしょうか? 聖女は「完全な交わりの中にいなかった」のでしょうか? いわばアルクの聖ヨハンナ(聖ジャンヌ・ダルク)のようなものではありませんか?)。

 多くの人々が自らの願望することを現実と思い込んだ、というのが本当のところです。つまり、大勢の聖職者たちは私たちが「あたかも教会の外におり」「完全な交わりの中にいない」かのように扱うほうが簡単で都合がよいと判断したのです。なぜなら、彼らは私たちの異議申し立てに対していかなる真実の回答をも持っていなかったからです。「完全な交わり」という考えは本当の疑問から逃げるためのたやすい道具であり続けています。一部の人々が、一部の非カトリック者たちを「まるで彼らがカトリック信者である」かのように遇し、一部の本当のカトリック信者たち(例えば私たちのような)を「まるでカトリックではない」かのように遇することが出来るようにするからです!


 ディノイア大司教が「ですから、私は聖ピオ十世会に同情の念を抱いています。でも解決策は教会からの分裂ではありません」と言われる時、大司教は間違った第一歩を踏み出しています。私たちが教会から分裂していると仮定、あるいは前提しているからです。それは正しくありません。不正な教会法的状況にあることは、教会からの分裂を意味するものでは決してありません。特にこのような不正は私たちの過ちではなく、むしろ一九七〇年代に聖伝のミサを禁じようとした人々の過ちです(筆者のレムナントの前回の記事を参照のこと。二〇一二年五月三十一日、九~十ページ)。ベネディクト十六世は、聖伝のミサは決して廃止されたことはなかったとはっきり述べたことで、ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の全体的な名誉回復の基本原理を据えました。この基本原理の結論を導き出し、ルフェーブル大司教と彼の創設した修道会を完全に復権させ、私たちは決して教会の外にいたことはなく、決して「セクト」であったことはなく、教会から分裂したことは決してなく、「完全な交わりの中にいなかった」ことは決してなかったと正確に示すことは、ディノイア大司教の仕事となるでしょう。

第二バチカン公会議には誤謬があり得るか

 大司教へのインタビューのほぼ冒頭で、彼は正当なカトリック神学のどこにも見つからない新しい原理を述べています。すなわち「公会議は誤謬へと導けない」と。まるで、すべての公会議の全文書の一言一句は、全誤謬から免れているというかのように。教会はこのような教義を教えたことは決してありませんでした。教会が教えてきたこととは、公会議(general Councils)は不可謬の排斥文(カノン)を制定するための権威を持ち、これらの排斥文が誤謬から完全に免れている、ということです。他の公会議の諸文書は常に権威があるものとして取り扱われてきました。しかし、排斥文それ自身が持つと同じような不可謬性をもつとは決して考えたことはありませんでした。

 私の主張を説明するために歴史的な例を挙げます。フィレンツェ公会議(Dz 701)は、品級の秘跡の質料(マテリア)をカリスの授与としました──これは聖トマス・アクィナスの主張でした──ですが、後にピオ十二世は、叙階の秘跡の質料は司教の按手であると決定的な断を下しました(Dz 2301)。ですから、秘跡の質料は変更できると主張しない限り──そのようなことは正当な神学は主張してこなかったことです。秘跡の質料はまさしくその本質の一部を成すものであり、それに対して変更を加える権能は教会にはありません。秘蹟の本質は、主イエズス・キリストご自身によって打ち立てられたからです──、これは、誤りを犯した公会議の単純な宣言の一例です。

 二つの方法で、聖霊は、誤謬を教えることから教会を防御できるのです。すなわち、一つ目は、「聖霊が、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させて下さるだろう」(ヨハネ十四章二十六節)との聖主のお約束に従って、教導教会の成員たちが自らの義務を果たせるようにし、聖主の教えを正確に表現できるよう導くことです。従って、聖霊は新しい教義を教えることはなく、いにしえからの信仰の遺産を保ち続けることができるよう、彼らを助けるのです。

 二つ目の方法は教義を精密に教えたがらない教会の成員たち、「教義的」宣言を出したがらない人々に対してです。そのような人々に対する時、聖霊は彼らに「信仰の博士」としてではなく、ただ「人間として」語らせます。とりわけ、いかなる方法でも彼らに拘束力を持たせた発言をさせないようにすることによって、です。その単純な一例は文書「ドミヌス・イエズス」の中に見つけられます。この文書の中では二十回に渡って信ずべき義務について何かにつけて断言しています(「信じなければならない」あるいは「これはカトリック教義に反している……」ともあります)このような拘束力を持つ言葉が使われるたびに、これは繰り返し言われている聖伝の教義なのです。その反対に、第二バチカン公会議の新規なこと──「ドミヌス・イエズス」の中でも見受けられます──は、信じなければならないものとして、ただの一度も断言されてはいません!

 この対比は、聖霊がご自分の教会を助けるこの二つの方法を明らかにします。つまり、教会の成員たちが「彼らが受け取ったものを伝える」(コリント前書十一章二十三節)ために自らの義務を果たしている時、そのとき聖霊はこの真理の数々を断言させるため堅固さと明瞭さとともに彼らを力づけます。彼らが義務から離れる時、聖霊は彼らが信者たちに新規なことを押し付けないようにさせるのです。

 聖人たちの内においても、聖霊が同じ方法で働いているのを明らかに見ることができます。数名の聖人たち──教会博士たちですら──信仰のあれこれの論点(まだ定義づけられていません)について間違ったということはよく知られています。彼らは自分たちが擁護した信仰の論点については譲りませんでした。誤ったかもしれない論点については確信がありませんでした。例えばです、聖アウグスティノは一人一人の霊魂は天主によって直接創られたのか、それとも両親によって伝えられたのかについて確信がありませんでした(この二番目の考えを教会は後に拒絶しました)。聖アウグスティノは「霊魂の起源について」という一冊の本を書きましたが、その中で聖アウグスティノは、原罪の教義を回避する手段として、霊魂が両親から伝えられることに反対して議論した、助祭のヴィクトルを叱責しました。

 聖アウグスティノは大筋でこのように言っています。すなわち「私は原罪の起源についての疑問に確かな回答を持ち合わせていない。霊魂は両親によって伝えられるという説に傾いているが、私が重要であるとみなしているのは以下のことである。つまり、霊魂は生まれてくる方法がどんなものであれ、アダムの最初の罪に汚染されているということである」

 聖アウグスティノは、ペラギウス派に反対して、擁護していた(原罪の)ドグマは譲りませんでした。彼が傾いていた誤謬に関しては確信がありませんでした。同じように聖トマス・アクィナスは、聖母が聖主によってあがなわれたと認める限り、可能な限り [原罪の汚れなく] 清らかであったと論じました。つまり、聖母は生を受けた次の瞬間に聖化されたと彼は述べたのです。しかし、聖トマスは納得してはいませんでした。それは、彼が聖母は受胎のまさにその日に、すでに聖化されたと述べつつ、無原罪のおん宿りの祝日を正当なものとして認めたという事実によってはっきりと示されます。…これは明確に聖母の無原罪のおん宿りを認めるやり方です(IIIa q.27 a.2 ad 3m)。

 そこでです。聖霊は第二バチカン公会議を支援していたのでしょうか? はい、そうです、二つの方法によってです。公会議の教父たちが、以前から教えられていたことを教えたときはいつでも、「主が教えたことはなんでも彼らに思い出させてくださるために」(ヨハネ十四章に十六節)聖霊は実際に彼らをお助けしていました。しかし、彼らがみずからを危険に晒していて新規なことを教えた時(公会議に新規なことがあると言っているのは私たちだけではありません──ヨハネ・パウロ二世教皇ご自身が、自発教令エクレジア・デイでそのように述べました)、その時、聖霊は信者たちに彼らがあのような新規なことを押しつけないようにさせることで、教会に助けの手を差し伸べたのです。

 信ずべき義務があるものとして積極的に口にされなかったすべてのことは、新規なことであり偽りである、と言うのではありません。多くの事柄が昔からの教義と継続しており、拘束力を持つ表現なしに述べられています。にも関わらず、それは正しくないどころか拘束力を持っているのです。なぜなら、正確にはそれらが教会が絶えず教えてきた教義と正確に継続しているから──そしてそれらがそうである限りにおいて──です。しかし、正確には「信ずべき義務があると明白に言われ」ていない事柄の数々の中に、そして特に教会の昔からの教えに反している新規なことの数々に誤謬の余地がある、と私は強く言います。いかなる誤謬もあり得ないと先んじて偽ることは、何であれカトリックの基本原理ではありません。


生きている!

前述したインタビューの中で、インタビュアー自身がかなり攻撃的な意見の数々を紹介し、このように断言しています。「一部のカトリック信者たちは『凍結した聖伝』に固執することに決めた」と。今日のカトリック教会の状況を素朴な眼で見れば、新しいミサは一種の無気力へと滑り落ちて行っていると思わざるを得ないでしょう。一方で聖伝の教会は常に大賑わいです。まことの生命は進化で成り立っているのではなく,それどころか、生命は両親たちから受け継がれ、伝えられていきます。つまり、良質で健康な遺伝子は間違ってコピーされないものであるのに対して、突然変異の遺伝子は遺伝子のコピーエラーなのです。良質で健康な遺伝子とは「彼らが受け取ったように伝えられた」ものなのです!

信教の自由

 そこで、ディノイア大司教は「言うまでもなく、聖ピオ十世会は信教の自由に関する教え全体を聖伝から逸脱したものと考えています。しかし、一部の非常に賢明な人々は、信教の自由と聖伝の教えは矛盾のない発展であると指摘しようとしました」と言っています。

 大司教にとっての唯一の問題点はこういうことです。[聖伝と信教の自由は矛盾していないということを証明しようと]試みた人々の中で最も賢明な人、ブライアン・ハリソン(Brian Harrison)神父が、今やはっきりと、聖伝との継続性を教える意志はないと宣言しており、それどころか「寛容される権利」という考えは、第二バチカン公会議の「教義の中の新しいこと」であると認めていることです。ハリソン神父は、単に昔からの教えと矛盾していないということを示そうととしているに過ぎません。彼自身、それは国家当局の側の「寛容の義務」(第二バチカン公会議の前の教義)から、真理とは無関係にある個人の側の「寛容される権利」(第二バチカン公会議の教義)へと移行するための詭弁だと認めています。二つの教義の間には継続性はないのです。


 このインタビューの後に投稿されたコメントの一つは、昔からの教えと第二バチカン公会議の教義との間にある矛盾の、はっきりとした例を挙げるよう要求しています。信教の自由が良い例です。教会は以前から「真理との不一致と道徳律は、存在や宣伝あるいは行動に対する客観的な権利を持たない」と教えてきました(ピオ十二世 Ci riese, 6 Dec. 1953)。さて、第二バチカン公会議は「人間が信教の自由に対して権利を持つ、この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある」と宣言しています。(「信教の自由に関する宣言」2)この権利は、その一般性において(すなわち、いかなる宗教をも含む点において)間違っています。権利はあるか、ないかのどちらかです。断定と否定は矛盾です。

 ある人々は、ピオ十二世が「客観的権利」について話し、第二バチカン公会議が「主観的権利」(人格の権利)について話したと言って、矛盾であるという結論を出すのを避けようとしています。これは無益な擁護です。権利とは個人において常に主観なものであるからです。従って、誤謬には主観的権利がないと言うことは、すなわち、人間には誤謬に対する主観的権利がないということだからです!

 他の人々はこのように言おうとしました──これはHarrison神父の路線です──第二バチカン公会議は偽りの宗教の教えを実践する権利があるとは教えていない、単に偽りの宗教の実践の強要から免除される権利がある、とのみ教えていると。この弁明もまた無意味です。善は報いを受けるに値しますが、悪は罰に値するからです(例えば、正されるべき必要や、矯正されるべき必要のある時)。誤謬とは知性の悪です。同時に、免除される権利を持ち得ず、正される必要があります。免除と矯正は正反対の二つのものです。たとえある人が邪悪な意志はないものとして誤謬を考えるとしても、その人が自らを欺く以上に欺かれる場合の誤謬、そのような訂正されていない誤謬を残しておくことは、依然として善いことではありません(それは罰せられるべきであるとは申しません、正されるべきではあります)。それ故に訂正されないままである誤謬に対する権利は存在し得ません。つまり、誤謬は悪であるだけでなく、誤謬に対する免除もまた悪なのです。つまり、訂正する善が欠けているということなのです。悪であるもの、それ自体は免除される権利を持ち得ないのです。

 実際のところ、大勢の人々は、いかなる押しつけも悪であると考えています。人間の自由は絶対であると思っているからです。しかし、そのような考えはカトリックではありません。これは聖主がご自分のしもべたちを天国の晩餐へと「compelle intrare むりやりに入らせる」ようお命じになっている福音の箇所に明らかに反しています! 人間は、善と悪の最高規範ではありません。従って、人間の自由は、上からの規範なしには、人間のあらゆる選択を管理しなければならない方へと傾く天主の善性に由来する規範なしには、存在しません。その人に正しい選択、天主のため、真理のため、善のための選択をさせるため、助けの手を差しのべる天主の善性は、まさしく助けの手であります。最初、その援助を腹立たしく思うとしてもです。

 聖パウロは馬から振り落とされました。そして彼は天国に永遠におり、そのことを天主に感謝しているでしょう! 従ってある種の強制は善なのです(すべてではなく、一部分がです)。さて、もしも、宗教的領域において、強制から免除される権利があったとするなら、そういった強制はすべてそれ自体が間違っているでしょう(共通善や共通の平和が尊重されない状況においてのみ、そのような強制が許されます。誤謬それ自体ではありません)。「(宗教的領域における)すべての強制はそれ自体で間違いである(これは "すべての強制から免除される権利" に反対するということ)ということと、「一部の強制は善である」との間の矛盾を、理解できない人がいるでしょうか? 第二バチカン公会議は前者を教え、カトリック教会は常に後者を教えてきました。

 矛盾を避けるための最後の努力はこうです。「第二バチカン公会議は、偽りの諸宗教に一切の権利がないことを否定しない、ただ単に宗教的事柄において国家が干渉する権利を否定するだけである」と。これもまた、教会の絶えざる教え、ただ個人をだけでなく、地上のすべての為政者たちとすべての国家の至るところを、キリストが統治しなければならない(コリント前書十五章十五節)という教えに対立しています(ps. 71:11)。個々人がカトリックの教えの真理を認めることができ、認めなければならないだけでなく、為政者たちもまたそのようにしなければならないのです(大聖レオの皇帝への手紙を参照)。そしてこれが政府と国家に対する祝福の最上の源泉なのです。

 その【第二バチカン公会議の】霊的な本性ゆえに、多くの人々は第二バチカン公会議の目新しい教えを把握しようとして悪戦苦闘しています。しかし、この目新しい教えをもっと現実的な物事の上に移してみれば、あっさりと理解することでしょう。実に、カトリック教会は、人殺しと盗みは悪であり、「(人殺しと盗みに)権利はない」と常に教えてきました。さて、ある公会議が開かれて、こう宣言したとします。
「すべての人間が、すべての人間的権力の強制を免れる権利を持っている、それは、何人も、私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で、窃盗や殺人を犯すことを妨げられないところにある」と。こういった「権利」は明らかに間違っており、教会の昔からの教えと矛盾してはいないでしょうか?


第二バチカン公会議の中に聖伝に反するものは何もないのか?

 ディノイア大司教は「聖ピオ十世会がしなければならないのは、公会議の中には聖伝に反するものは何もないと言うことだと…議論を試み」ました。しかしながら、この発言の中で、大司教はベネディクト教皇がラッツィンガー枢機卿時代に、現代世界憲章(ガウディウム・エト・スペス)は 「反シラブスである」と述べたことと対立しています。コンガール(Congar)枢機卿も、世界憲章が「シラブスとほぼ正反対のものである」と言いました。そしてスーネンス枢機卿は公会議を「カトリック教会内部の一七八九年(フランス革命)」と呼びました。こういった反対があるときに、聖伝に反するものは何もないと無理に主張することは、希望的観測を現実に投影していることなのです。

 ディノイア大司教の「私たちが信じなければならないことを、荘厳かつ不可謬的に定義されたことだけに還元するべきではない」という言葉はまったくその通りです。ですが、「荘厳かつ不可謬的に定義されたことを除けば、信ずべきものは何もない」というのと、「すべてのことを信ずべきである」との間には、あるべき正しい態度の存在する余地があります。カトリック的な態度が、つまり、教会の昔からの絶えざる教えと継続していることこそを信ずべきである、という態度、また、教会の絶えざる昔からの教えに反していることは拒絶されるべきであるという態度が存在します。例えば、上で引用されたような宣言文、第二バチカン公会議内部には教会の過去の教えに反するいくつかの宣言がある、ということを示すたくさんの証拠が存在します。

教会の信条と聖職者の信条

 その時、ディノイア大司教は「完全なカトリック信者であるための必要条件」とは、「はい、私は、教会が聖霊によって誤謬から守られるとまことに信じます」と言うことである、と正しく述べています。そうです、聖ピオ十世会もそれをまことに信じています。しかし、聖職者が言うことは何であろうとも「教会の教義である」とは信じておりません! おのれ独自の意見(誤謬や異端すら)を説教壇から教える聖職者たちが──今日では大勢──いるのです。一部の聖職者たちにおいては聖体におけるキリストのおん体とおん血の現存を信じておらず、それについて非常に曖昧な意見を持っています(教理聖省新長官[ミュラー大司教]はこの主題についてかなり不穏当な発言をしていました!)。

 それでは、聖職者たちの言葉の中に、私たちはどうやって教会の言葉を見分けるのでしょうか? 彼らの言葉が、教会から受け取ったものに対して「混じりけがなく透明」である時に、つまり「彼らが受け取ったものを伝えている」とき、昔から受け継がれた教会の教義を教えるとき、その時、正に「あなたたちのいうことを聞く人は私のいうことを聞く人である」(ルカ十章十六節)。しかし、彼らが新規なことを教えるとき、もはや「混じりけがなく透明」とはいえません。彼らを通して語っているのはもはやキリストではないどころか、彼らは自分自身のことを語っています。しばらくの間、教会内に誤謬が──信仰に反することすら──いくらか存在し、広く行き渡るかもしれないでしょうが、例えばアリウス派の危機のときのように、こういった誤謬が勝利を得ることはありません。聖霊がご自分の教会であるローマ・カトリック教会を誤謬から護るため働かれることを、私たちは確かに信じています。聖アタナジオのように真理のために戦い、誤謬を糾弾しなければならないにせよです。間違いなく、聖霊は革新者たちの作り出した目新しいものに対抗して、真理──いにしえからの信仰の遺産──のために戦う、そのような従順な道具をお求めです。彼らを力づけることで、聖霊は積極的に教会を誤謬からお守りくださるのです!

教会の外に救いなし

 さて、ディノイア大司教はこのように──もはや正しくはありませんが──続けて述べています。「教会は常に[非キリスト者の救霊の可能性を]断言してきましたし、これを否定したことは一度もありません」これは偽りであるだけでなく、明白に、"Extra Ecclesiam nulla salus 教会の外に救いなし" というドグマに反してすらいます。教皇ピオ十二世は、これはドグマであるとはっきりと述べ、まさしく教会の創立のときから、そのように──全て一致して──教えられ続けてきました。大司教が混同しているであろうことは、教会が──このドグマの適切な説明の中で──血の洗礼と望みの洗礼[アンジェルス・プレスより出版された拙著をお読み下さい]を教えてきたということですが、教会はこのような(血および望みの)「洗礼」で救われた霊魂たちは「教会の外で」救われたとは教えていません──その反対です!

カトリック教会は、このような霊魂は教会の一部を成していると明白に断言しています。このことは教会の「霊魂」の一部であるものとしてたびたび表現されています(聖ピオ十世の公教要理を参照)。このような霊魂たちが教会の「外で」救われたと言い出したのは、一九三〇年代の悪質な神学者であり、彼らは血の洗礼と望みの洗礼を受けるためには、カトリック信仰と愛徳が必ずなくてはならないと教会が教えてきたことを完全に忘れているのです。大司教様、お言葉ですが、カトリック信仰なしに聖人になることは不可能です。正式に(formally)ルター派或いはアングリカンの信者であり、同時に聖人であることも不可能です。「信じない者は断罪される」と聖主ご自身が言われました。聖主は確かに偽りの信仰に甘んじることはなさいません。だからこそ彼がお求めになるのはまことの信仰なのです。ですから、外見上ルター派信者と見える人が救われるなら、それはその人が霊魂においてカトリック信者であるからです。その人がルター派教会に属していたにも関わらず、救われるのはルター派教会によるのではありません。

 大司教様がエクレジア・デイ委員会副長官としての使命を首尾よく果たせるために、司教閣下が信仰の最も重要な論点についての信条を正されることを私たちは祈ります。

信仰の守り手なる童貞聖マリアが、ディノイア大司教のために、彼が必要とする光と堅固さの恩寵を聖霊から勝ち取ってくださいますように!



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