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1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話の続き(4)

2007年12月12日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 1987年9月27日、ルフェーブル大司教様(Archbishop Marcel-Francois Lefebvre, C.S.Sp. †)のアンシーにおける講話の続きをご紹介します。



1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話(フランス語からの翻訳:トマス小野田圭志神父)

Conference of Archbishop Lefebvre at Annecy (France) on September 27, 1987.


 音声ファイル:Mgr Lefebvre: Ils l'ont decouronne

 一部のフランス語
Conference de Mgr Lefebvre - Annecy 1987
J'ai vu des pretres pleurer


 自動翻訳
Conference Archbishop Lefebvre-Annecy 1987
I saw priests cry


(つづき)

(教会は今すこしずつ少しずつ腐敗しているのです。教会は分解しつつあります。ちょうどからだが腐って風化していくようです。これは極めて大変な事態です。そこで、私たちは抵抗しようと試みているのです。もう一度、対抗しているのです。)



 抵抗していた人々のほとんどは排除されてしまいました。一つ例を取りましょう。ダブリンの大司教の例です。私は彼のことを大変よく知っていました。彼は私の友人の一人でした。彼は同時に聖霊修道会(Congregatio Sancti Spiritus sub tutela Immaculati Cordis Beatissimae Virginis Mariae)の会員の一人でしたし、私はその修道会の総長を6年間務めました。私の言うのは、マッケイド大司教Archbishop John Charles McQuaid, C.S.Sp. †)のことです。マッケイド大司教は辞任届けを出し、その二週間後に亡くなりました。大司教様は悲観して亡くなってしまったのです。悲痛のために亡くなったのです。


 大司教は、全身全霊を込めてローマにピッタリと愛着していました。全霊を込めて教皇様に忠実に密着していました。ところが彼は教皇様と謁見することを拒否されたのです。大司教はいわばローマから追放されたように感じました。大司教はこれを堪え忍ぶことが出来ませんでした。彼の健康は崩れてしまったのです。このような司教たちがどれ程、どれ程多くいたことでしょうか。何故なら、彼らは聖伝に愛着していたからです。

 私はもう一つ別の例を挙げたいと思います。マドリッドの大司教、モルシジョ(Archbishop Casimiro Morcillo Gonzalez †)大司教の例です。

 モルシジョ大司教は第二バチカン公会議の事務局の一人でした。事務局の人々はそう多くはなく、公会議には五,六名でした。

 第二バチカン公会議の事務局の員は第二バチカン公会議後すべて枢機卿になりました。ただしマドリッドの大司教モルシジョ大司教だけは別でした。彼も当然枢機卿になって然るべきだったのにもかかわらず、そうでした。何故でしょうか? 何故なら彼は保守派だったからです。何故なら、彼は自分の考えをしっかりと保っていたからです。

 そこで彼も悲痛の内に亡くなりました。もう望まれない人(persona non grata)になってしまったということを、人々が拒否する避けるべき人となったことを感じ取ったのです。その他の司教たちが皆、枢機卿になっているのに、自分だけは枢機卿にならず、枢機卿になりないということを感じ取ったのです。彼はとても謙遜な人間でした。彼が枢機卿になりたかったということではありません。しかしそれにもかかわらず、許されないことなのです。(このような処置に)反対する人々に、公会議の事務局の司教たちが皆枢機卿になっているのに何故マドリッドの大司教が枢機卿にならないのか理解できないスペイン人たちに、こう説明をしていました。私はこう説明を聞かされました。「マドリッドは枢機卿のいる司教座ではないから。枢機卿の司教座は、スペインの主席司教座であるトレドで、マドリッドではないから」と。

 たしかにトレドには枢機卿がいました。しかし待って下さい。私の故郷リール(Lille)では今まで一度も枢機卿がいなかったのに、司教を枢機卿にしました。それなら特別な司教座でなくとも枢機卿になることが出来るはずです。さらに、そのもっと良い証拠には、モルシジョ大司教が消え去ると、彼の後継に任命された大司教は、すぐにマドリッドで枢機卿になりました (Vicente Cardinal Enrique y Tarancón †のこと)。つまり、人々は私たちにウソの説明を与えていたのです。そして何という枢機卿がモルシジョ大司教の後を継いだことでしょうか! 新しい枢機卿は、スペインで二重の婚姻を導入することに賛成だったのです。民法上の婚姻を望む人々には民法婚を、教会での婚姻を望む人々には教会での宗教婚を。カトリック信徒たちは、選択することが出来るとしようとしました。これがモルシジョ大司教の後継者のマドリッドの枢機卿が、スペイン、マドリッドでの枢機卿・大司教たちの会議で提案したことです。これの意味することは、つまり、伝統的な全ての人々に反対する本当の戦争があった、ということです。

 ですから、私がまだ狙われていても、第二バチカン公会議直後から狙われていたとしても、皆さんは驚くべきではありません。明らかです。もしもその時、まだ私に司教座があったとしたら、私もすぐに排除されていたことでしょう。明らかに。しかし私は聖霊修道会の総長であったので、一修道会の総長であったので、それはもっと難しいことでした。何故なら、私の進退は総長選挙にかかっていたからです。私自身が1968年に辞任を提出しました。何故なら、聖霊修道会が自己分解しつつあるのを見たからです。

 聖霊修道会は、全ての修道会に(パウロ六世)教皇が開催を要求した特別総会で、幾つかの提案にサインするように私に求めていました。全ての修道会は、公会議を適応させるために会議を開かなければなりませんでした。私が特別総会で過ごしたそのやり方を見て、全てが修道会内部がしっちゃかめっちゃかとさせているのを見て、私はこう言いました。

「こんなことでは、私は聖霊修道会の歴史において、私たちの修道会を実際上消滅させる文書にサインしたということで名前を残すことになるだろう。そのようなことは私は望まない。私はむしろ立ち去った方がよい、私の代わりに誰かがサインをするだろう、私は自分の修道会を崩壊させることにサインをしたくはない」と。

 そこで私は、修道者聖省にお願いして、総会に参列する義務を免除してもらいました。事務局員は私にこう言いました。

「もちろんです。その方がよろしい。今では第二バチカン公会議とともに、あなたの修道会の神父様たちが自分で修道会を組織する自由を与えることを知らなければなりませんからね。アメリカにでもちょっと旅行に行ってきなさい。そうしたら気が晴れるでしょう!」

 私は総長でした。私の任期は1974年までで、12年の任期で1962年から1974年まで総長として選ばれました。この特別総会は、1968年に開かれました。私はまだ総長であり、私は全総会を聖伝の方へと導びかねばなりませんでした。総長が全てをしていたからです。総長が委員会を任命し、全てについて話し合い、全てを指導していました。

 ところが突然、私は何でもなくなりました。私は最後の場所に身を置かざるを得なくなり、私はいかなる委員会のメンバーでもありませんでした。私は何でもなくなってしまったのです。彼らは私の代わりに3名の議長を望んでいました。それは出来ません。しかも聖職者聖省では、総長を助けようとしたでしょうか? いいえ! 「アメリカにでもちょっと旅行に行ってきなさい。そうしたら気が晴れるでしょう!」というだけです。・・・ 私は理解しました。もう何もすることがない、聖座は自分を助けてくれない、辞任するしかない、と。

 私は辞表を提出すると、もちろんすぐに受理され認可されました。彼らは私を聖霊修道会から排除できて大変喜んだのです。

 これが第二バチカン公会議後に起こった状況です。聖伝を求める人々にとってはとても辛いことでした。迫害でした。それはまだ続いています。皆さんは、そのようなケースを皆、知っていますね。いろいろな司教区のあなたたちの司祭らは迫害されています。何故でしょうか? 何故なら彼らが古いミサ聖祭を守っているからです。何故なら彼らがスータンを着ているからです。何故なら、彼らがまだすこしラテン語を使っているからです。何故ならあれだから、何故ならこれだからです。彼らは、最も小さな村であっても、ホンの小さな病院であっても、どこででも迫害されています。司祭がすこしでも聖伝を守ろうとすると、すぐさま司教によって狙われ、地方の聖職者達によって攻撃を受けます。ひどいことです。分かりますね。私は司祭たちが泣くのを、苦しみのあまり涙を流して泣くのを見ました。

 しかし、私たちが一体何をしたというのでしょうか? 私たちはただ単に、私たちがするようにと命じられたことをしていただけです。私たちが神学校に入学して以来、私たちは教わった通りにミサ聖祭をし続けているだけです。私たちは(このミサ聖祭で)叙階されました。私たちは同じやり方で祈りをしているのです。私たちは同じやり方で使徒職をしているのです。私たちは何も変えませんでした。するとどうでしょうか、突然・・・。以前は私たちはむしろ、自分たちの司教様たちから褒められていました。私たちは司教様たちから(そのままやり続けるようにと)励まされていました。今では突然、この公会議以後、私たちは悪人になりました。迫害を受けなければならない悪者になりました。司教区から排除されなければならない鼻つまみ者となりました。怖ろしいことです。ひどいことです。司祭達にとって辛いことです。

 最後に、聖霊修道会の数少ないアフリカ人司祭の一人が、聖伝のミサを捧げていました (Le père Pierre Bouvet (1919-1987))。 彼は一度も新しいミサを捧げませんでした。彼はこう言いました。

「私はこの古い聖伝のミサで叙階されました。私は死ぬまでこの古いミサを守ります。何をしてもダメです。私は何も変えません。」

 そう言ってこの司祭はジャングルに留まりました。私のよく知っていた宣教師でした。彼はセネガルにいて、私がダカールの司教としていたとき、宣教師として働いてくれました。素晴らしい宣教司祭です。清貧で、アフリカ人としてジャングルの中で清貧に生活していました。現地人として現地の言葉を熟知していた素敵な宣教師です。

 彼は最近、ムラン地方(フランス)にいた自分の姪の結婚式のために来ていました。彼は姪の婚姻の儀式を執り行いました。彼は40年セネガルにいたのです。聖霊修道会のセネガル地区長はかれにこう言ったのです。

「あなたはもうセネガルに行ってはいけません。もう終わりです。」
「何故でしょうか?私が何かいけないことをしましたか?」
「あぁ! 何故ならあなたは聖ピオ五世の聖伝のミサを捧げているからです。」
「ハイ、その通りです。私は聖ピオ五世のミサをたてています。何か悪いことでもしたのでしょうか?私のアフリカ人たちは、私のたてるミサが大好きで喜んでいます。私はいつもこのミサをたててきました。私はいつも同じミサをしてきました。何も変えませんでした。昔のまま続けています。彼らはとても喜んでいます!」
「ノー!それはダメです!あなたはセネガルに行ってはなりません。」

 この宣教師は、心も体もこれらのアフリカ人たちを愛し、その村に愛着していました。そこで骨を埋めたいと願っていました。ところが! 彼は戻ることが出来なくなりました。私は、聖霊修道会の司祭たちから捨てられた彼が友人の一人のところにいることを知らされました。

 私は、かれが苦しみのために、悲痛のために、もうアフリカに戻ることが出来なくなったという苦悩のために癌にかかってしまったのだと本当に思っています。彼は3週間前に亡くなりました。私は、彼の結婚した2名の兄弟と2名の姉妹たちからの死亡通知を受け取りました。彼らは訃報にこう勇気を持って書きました。

「聖ピオ五世のミサを捧げ続けたために死亡」

 私は印刷された訃報にこう書かれたのを初めて見ました。「聖ピオ五世のミサを捧げ続けたために死亡」と。私は彼の妹に返事を書きました。こう書きました。

「何ということでしょうか。少なくとも、あなたは、このかわいそうな宣教師が亡くなった本当の理由を知っているのですね。素晴らしいことです。」

 彼女はこう返事を書いてよこしました。「大司教様、私は自分の兄がこれほど聖なる人であることを知りませんでした。私は彼が亡くなる前に、二日間看病しました。兄は死の床についていました。従って、兄は私のことなど気づきもしませんでした。兄はミサのことで頭がいっぱいでした。それに奪われていました。床につきながら、聖なるミサを捧げていました。兄は、ミサの祈りを最初から最後まで唱えていました。いつもの通り。兄は、死の床で、ホスチアを聖別し、自分で御聖体拝領をしていました。誰も兄を訪問しようとも、良い死を迎えるように助けようともしませんでした。兄の死の前日、兄は聖変化の聖別の言葉を唱え続けていました。繰り返し唱えていました。兄には私が見えませんでした。兄は自分のたてているミサに奪われていました。そして兄はこうして去っていきました。ミサのなかで。素晴らしかったです。私は自分の兄がこれほど聖なる人であると知りませんでした。」

 これは例です。三週間前に起こった例です。迫害というのは昔の話ではありません。今この時代、人々は愛徳について語っています。しかし彼らはこの司祭を遺棄したのです。捨てたのです。かれを励まし、苦しみを和らげ、聖なる死を遂げるようにと来る人は誰一人としていませんでした。厭わしいことです。これは本当に厭わしいことです。

 ですから、あなたたちはびっくりしないで下さい。私たちはリベラルな人々とことを構えているのです。ルイ・ヴイヨ(Louis Veuillot)はこう言っていました。

「リベラルな連中よりもセクト的(党派的)な人々はいない」と。

 本当です。私たちは体験によってそのことを知っています。リベラルな連中よりも党派的な人々はいません。そうです。彼らは、私たちに対して、党派的です。私たちを破壊尽くすためには何でもするでしょう。彼らは、私たちが聖伝を続けることが出来ないように、私たちが信仰において続けることが出来ないように、私たちを妨害するためなら、何でもするでしょう。

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【関連記事】

The Dominican Sisters of Wanganui 聖伝のドミニコ会シスター

2007年12月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ニュージーランドのワンガヌイという町にある、聖伝の教育ドミニコ会シスターのブログをご紹介します。

The Dominican Sisters of Wanganui
http://www.dominicansisterswanganui.blogspot.com/







Dominican Sisters of Wanganui


Blessing of School and New Convent


End of the 2007 School Year


Students of St Dominic's College



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【関連リンク】


The Nativity Story 私たちカトリック信徒にとっては推薦されるべきものではない

2007年12月12日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 お元気ですか。The Nativity Story という映画についてコメントを求められましたが、御返事が大変遅くなってしまいました。

 The Nativity Story この映画は昨年フィリピンに上陸して、私たちの修道院では話題になりました。しかし、私たちの間ではあまり評判はよくありませんでした。

 結論を先に申し上げると、キリスト教を知らない大多数の日本人にとっては無害であっても、私たちカトリック信徒にとっては推薦されるべきものではない、ということです。

 クリスマスがサンタクロースの祝日だと思っていたり、イエズス・キリストの名前は聞いたことがあるけれども、それ以外は全然無知である、というようなキリスト教とあまりなじみのないような(ほとんどの?)日本の方々には、イエズス・キリスト様は聖母マリア様からお生まれになったのだ、と知る機会になるかも知れませんが、使徒達からカトリック教会を通してイエズス・キリストの真実の姿を伝えられたことを知っている私たちにとっては、大きな害になると思われるからです。

 といっても、私自身これを見たわけではなく、この映画を観た方の考察に基づくものです。例えば次のコメントが参考になります。

Don’t Watch This Protestant Nativity
Movie review on The Nativity Story by Marian T. Horvat, Ph.D.


 それによると、

(1)この映画によると、カトリック聖伝によって伝えられた歴史的事実が歪曲化され、ねじ曲げられていること。登場人物である聖家族の気高い、天主的な雰囲気が全くないこと。超自然と喜びのはぎ取られた、悲しさと惨めさに沈んだ御降誕となっていること。

 この映画の映し出す、私たちの主イエズス・キリストの祖父母である聖ヨアキムと聖アンナは、極貧で一文無し、品のない無教養な子だくさんの家庭で、聖母マリアが結婚して口減らしになって喜んでいる。映画では、聖アンナはまだ十代の童貞聖マリアが結婚を嫌がるのに、結婚を強制する。その姿は、まさに共産主義国家におけるプロレタリアの生活そのものである。



しかし聖伝によると、事実は、聖ヨアキムも聖アンナもダヴィドの王家の血筋の子孫で、20年間子どもが授からなかった。奇跡的な天使からのお告げのとおり聖母マリアが授かり、特別の愛情と世話をもって教育を受けた。聖伝によると、既に3歳で、聖母マリアは自分の意志で神殿で奉仕することを望み、両親によって神殿に預けられ、そこで十年を過ごし、聖徳の生活にすすむ。聖母マリアは、神殿での「修道生活」が終わった後に、聖ヨゼフと婚姻する。

 聖ヨゼフも、聖伝によると、ダヴィドの王家の血筋のプリンス、14名の太祖と14名の王と14名のプリンスの子孫である。たしかに財産は失われていたが高貴さは失われていなかった。聖伝によれば、聖ヨゼフも神殿で最高の教育を受け、童貞の誓願をたてていた。生活の必要上、大工の仕事をしていた。

(2) 映画によると、マリアは、ヨゼフと「恋愛」をしていない、と反抗する。この映画のマリアは、カトリックの公教要理とは全く異なる、現代ティーンの反抗的娘。ヨゼフも映画によると、単なる労働者で、下層階級の粗野な青年、恋に恋する青年。映画のヨゼフは、婚約後、マリアがエリザベトを訪問することを知り、大工道具を投げつけて憤り地団駄を踏む。そこには聖性の欠片もない。

 映画によると、ヨゼフとマリアの婚姻は台所で行われる。宗教的意味合いは全くない。普通の服装での結婚。



 聖伝によると、童貞聖マリアが婚姻しなければならないことが決定されると、神殿の司祭らは、ダヴィドの王家の血筋の全ての婚期に適した男性を呼び、特別の儀式をもってそれぞれの男性が杖を祭壇に奉献するように命じた。

 ヨゼフが、祭壇に杖を供えると、それは花を咲かせ、ハトがヨゼフの上に降りてきた。童貞聖マリアはそこで、司祭の定めたように従順にヨゼフと婚姻を結んだ。



 それから童貞聖マリアは、ナザレトの実家に戻った。そしてナザレトで祈っている間に、大天使ガブリエルのお告げを受けた。

(3) 映画によると、マリアが地べたに座り込んで夢想していると、ニュー・エイジ的なバックグランド・ミュージックが流れ、灰色の鷹が突然人間のような姿をとった天使となる。マリアは、単なる普通の女の子。原罪の汚れを免れたということは暗に否定している。

 聖伝によれば、童貞聖マリアは、全ての聖寵に充ち満ちており、聖徳と聖寵にますます進歩し、平和と喜びと謙遜と愛徳に輝いていた。


(4) ローマの人口調査のためにベトレヘムへ行くときにも、映画によれば、ヨゼフとマリアとには超自然的精神は何も見えない。映画のマリアは、占い師に手を見せて占ってもらっている。童貞聖マリアが上智の座であることの否定。

 ベトレヘムにつくと、ヨゼフは気が狂ったように部屋を探す。平和もなければ、天主の御旨に対する信頼もない。超自然の雰囲気もない。


(5) カトリックのドグマによれば、童貞聖マリアは出産前も、出産中も、出産後も、童貞であり、出産により些かの傷も付けられなかった。奇跡的な、痛みを伴わない、平和な出産であった。なぜなら、産みの苦しみは原罪の結果であり、童貞聖マリアにはこれが免れていた。私たちの主イエズス・キリストのご誕生の後、童貞聖マリアと聖ヨゼフとは私たちの主イエズス・キリストを礼拝する。

 しかし映画によれば、マリアは出産の苦しみにもがく。血にまみれた子供が生まれる。そして映画によれば、出産後、マリアとヨゼフはイエズス・キリストを礼拝するわけではない。

 だから、私たちは、この映画を推薦するわけにはいかないのです。残念です。

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