アヴェ・マリア!
キリスト教の核心とは何か? キリスト教創立以来、一貫して変わらない信仰箇条の本質は何か?
キリスト教において、何が最も本質的に啓示された現実なのだろうか? キリスト教が創立以来、キリスト教がキリスト教となさしめている最も本質的な啓示、信仰をもって受け入れられるべきこと(現実)とは何か? それの一つでも否定されてしまったらキリスト教がキリスト教ではなくなってしまう、というその核心は何なのだろうか? キリスト教の本貫であるカトリックの信仰の山とは何なのだろうか?
聖アウグスティヌスは、それは「天主の聖子が人の子になった」ことであると答えている。De Trinitate, I, c. 13, n.28. filius Dei filius hominis factus est.
これこそが、天主から人間に啓示され、人間がそれを信仰をもって受け入れるべき事柄の核心である。
だからといって、その他のことがらは非本質的な事柄であるという意味ではない。信仰箇条にあることは全て信ずるべき真理であるが、それを信ずるべきである根拠はすべて、天主の聖子であり人の子となったイエズス・キリストによって語られたことにある。
ここで私たちが「天主の聖子」という時、比喩的な意味ではない。現実的に、レアルに、文字通りの天主の聖子である。これは人々がナザレトのイエズスにつけた尊称ではなく、まさに「人の子」イエズスご自身が、「天主の聖子」としてキリストを告白することを弟子達に容共なさっている。人の子イエズスは、真実の意味で、レアルに、比喩的な意味ではなく天にまします天主を自分の聖父と呼んだ。司祭長の前で自分が「天主の聖子」であると認めたことが、死刑に処せられる決定的な原因となった。ユダヤ人らがイエズスを殺そうと決意したのは、イエズスが「天主を私の聖父と呼び、自分を天主と等しいものとした」からである。
この言葉の固有の意味での「天主の聖子」が「人の子」となるのであるが、一個の人間としての、人間を親として持ち、この世に生まれ、この世の生活を送り、苦難を忍び、殺され、死んでいる「人の子」である。
キリストは単なる優れた人間や義人、聖人として記念され讃えられる義人の一人ではなかった。それ以上のものだった。
この世に生きて死んだ人の子イエズスは、「人の子」でありながら「天主の聖子」だった。しかも崇高な人間だったといういみでの「天主の聖子」ではなく、真実に天主の聖子なのである。イエズスは弟子達に向かって、この信仰告白を要求している。
イエズスが本当に真実に、人類の救い主であるためには、真実に「人の子」であるとともに、また真実に「天主の聖子」でなければならない。
イエズスが十字架に付けられた時、苦しいふりをしていたのではなかった。苦痛のふりを見せただけではなく、真実に肉体的苦痛をうけた。もしも単なる見せかけや「ぶりっこ」にすぎなかったら、イエズスの苦しみは意味を失う。従って、罪の贖いのいけにえの意味もなくなる。従って、イエズスは救世主ではなくなる。
また同様に、イエズスが単なる「人の子」にすぎないならば、たとえ偉大な預言者であったとしても、有限な「人の子」のいけにえの価値は有限であり、天主に対して犯された罪を贖うことは出来なかった。イエズスが真に救い主であるためには、真に「天主の聖子」でなければならない。しかも尊称としての名目上の、比喩的な意味で「神の聖子」ではなく、真実に天主であり、「父なる天主」と真実に等しい、真実の「天主の聖子」でなければならない。
そしてこの真実の天主の聖子が、真実の人の子となった、ここにキリスト教の啓示の核心がある。
(以上は、山田晶著『トマス・アクィナスの《レス》研究』の中の第5論文「レスとラチオ」を参考にしました。)
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
クリックで応援をお願いいたします。↓↓↓
http://blog.with2.net/link.php?269452
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎