*暗殺実行の5.14日に自首、7月に絞首刑、ズイブンと早い裁判の判決、死刑執行も早い、裁判記録?
特に首謀者の多くが旧加賀藩士だったことから、石川県の近代史に特筆される事件となりました。この後、政治の主導権は伊藤博文たち長州閥に移ることになり、政府内の権力争いにも影響を与えました。
首謀者6人
島田一良(しまだ・いちろう) 長連豪(ちょう・つらひで) 杉本乙菊
脇田巧一 杉村文一(以上石川県士族)、浅井寿篤(島根県士族)
彼らが掲げた暗殺理由(斬奸状)
「薩長藩閥の専制独裁」「法令の乱用による政府官吏の私利私欲」
「国費の乱費と憂国の士の排斥」
*島田一郎、嘉永元年(1848年)、現在の石川県金沢市に加賀藩の足軽の子として生まれた。元治元年(1864年)、長州征伐で初陣。明治元年(1868年)、北越戦争で長岡藩が遺棄した兵糧の確保等の功で翌年に御歩並(おかちなみ)に昇格。廃藩置県後、陸軍軍人を目指してフランス式兵学を修め、中尉にまで昇進するがその後に帰郷。不平士族の一派三光寺派のリーダー格として萩の乱、西南戦争に呼応し挙兵を試みるが断念。その後、方針を要人暗殺に切り替え、明治11年(1878年)5月14日、長連豪等と共に大久保利通を東京紀尾井坂で暗殺。その後警察に自首し、同年7月何日?に斬首刑に処され、31年の生涯に幕を閉じる。
台湾の役、征韓の時に東西を奔走し、有志を募って征韓論を主張した。
あだ名は「西洋犬」だった。
家督を長男に譲って隠居して、遊歴と称して4月15日に東京へ向かい、その後大久保暗殺の犯行に及んだ。(朝野新聞・明治11年6月9日付)
大久保暗殺当日、島田は無地の羽織姿だった。(東京日日新聞・明治11年5月15日付)
大久保暗殺時、島田は懐中に短銃を所持していたが結局使わなかった。(東京日日新聞・明治11年6月1日付)彼の斬首を行った8代目山田浅右衛門によると、斬首される直前に「愛国の諸君、御先に御免」と共に処刑される仲間達に向かって叫び、「何か申し残すことは」と問いかけても首を振って「ここに及んで申し残すことはない」と淡々と述べたという。
辞世の句は明治18年8月4日発行の「自由燈」によれば「あらうれし 花の都につきにけり 屍を晒す 処と思へば」もう一つ有名な辞世の句は「かねてより 今日のある日を知りながら 今は別れとなるぞ悲しき」
明治8年(1875年)8月23日の土佐立志社が開いた全国愛国社集会に加賀代表で参加する。
*長 連豪(ちょう つらひで、安政3年(1856年) - 明治11年(1878年)7月27日)は明治時代初期の不平士族。初名は此木小次郎。能登国穴水(現・石川県鳳珠郡穴水町)に、加賀藩士・此木(長)連潔の子として生まれる。幼い頃は漢文学者の豊島洞斎に師事。その後、加賀藩の藩校・明倫堂で学ぶ。西郷隆盛を尊敬しており、明治6年(1873年)~同8年(1875年)の間に2度、合計14ヶ月の間鹿児島に滞在し、桐野利秋や別府晋介と親交を結んだ。島田一郎ら5人と共に大久保利通の暗殺を企て、明治10年(1877年)11月に上京。そして明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井坂にて大久保を暗殺した(紀尾井坂の変)。
キャリア
*文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士であった。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町の郷中や藩校造士館で、西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。武術は胃が弱かったため得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという。
*武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩の柏村数馬?(変名)に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結んだ。なお、この三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っている。10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出した大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功した。しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古のクーデターを計画して実行する。王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張した。
*大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれる。明治6年(1873年)以降の大久保存命中の政権は、一般に「大久保政権」と呼ばれる。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。