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多賀城市・多賀城跡 苑地跡とみられる護岸施設や創建時の木の柵を確認 現地説明会11/7開催

2009年11月06日 | Weblog
 11月3日の読売新聞朝刊で比較的大きく、「多賀城 創建時ぐるり木の柵」と記事を採り上げていた。その2日後に毎日新聞では「護岸施設を確認」と報じた。
 宮城県多賀城跡調査研究所のサイトで現地説明会開催のお知らせ、そして宮城県教育庁のサイトでは記者発表資料として詳細が出ていたので、簡単にまとめてみた。

■多賀城跡第81次発掘調査
調査箇所: 多賀城市市川字城前地内
 ① 政庁跡南の鴻ノ池地区(政庁の南方250m、政庁中軸線から西へ約50m)
  これまでに、調査区の東方の政庁中軸線上では八脚門と推定される建物跡、その直ぐ東側で積土遺構、さらに東で材木列・丸太列など、外郭東辺部で積土遺構が検出されており、これらは門の東側にほぼ一直線に並んでいる。今回は、この西側延長線上の調査を目的とする。
 ② 政庁南西地区では整地層の南側を東西に延びる材木塀跡2条の西側の状況とその性格の解明を目的とする。
調査期間: 2009年5月12日から ①は8月28日まで(終了)。 ②は11月13日終了予定。
調査成果
 ①-1 区画施設の存在が推定される杭材を敷き並べた筏地業とその上に積み上げた盛土とからなる基礎地業を発見した。このことにより、門を中心として東側だけでなく西側にも区画施設が一直線上に並ぶ可能性が高くなった。時期については特定できないが、多賀城第Ⅰ期と考えられる。
 ①-2 古い基礎地業の高まりを利用して構築された盛土遺構とそれに伴う土留め施設が3時期検出された。これらは池沼の護岸施設で、8世紀後半頃から9世紀末頃まで機能したとみられる。中でも1時期目の盛土遺構は葺石や敷石を伴い、苑地の池部分である可能性がある。
 ② 材木塀跡、石敷遺構、整地層、柱穴、溝跡、土壙などがあり、東部には平場に伴う整地層が残存しており、溝跡や土壙、柱穴が検出されている。また、これらの遺構の下で材木塀跡の存在を確認した。
 ②-1 南側の材木塀跡が調査区東部で途切れることを確認。この場所を西端とみると、東端の門跡からの長さは約56m、門跡東側の塀跡も含めた長さは約84.5mとなり政庁の南側を画することになる。北側の塀は検出されていない。
 ②-2 東西約16m・南北17m以上の範囲を造成し、その上面に径5~15cmの礫と瓦片を敷き詰めた石敷遺構を発見した。多賀城第Ⅱ期以降、灰白色火山灰降灰以前のもので、詳細な年代や性格については不明だが、政庁南西に当たるこの場所は広範囲の石敷を伴う特別な場所として利用されていたことが明らかとなった。__

現地説明会
 平成21年11月7日(土)午前10時30分より 会場:多賀城市市川字城前地内 多賀城跡第81次発掘調査現場
 第81次調査は、鴻ノ池地区と政庁南西地区の2カ所で行っている。鴻ノ池地区は調査が終了しているため、写真パネルでの成果説明となる。
[参考:宮城県多賀城跡調査研究所HP]

■多賀城跡・鴻ノ池地区 奈良・平安時代の精巧な護岸施設を確認
 県多賀城跡調査研究所は5日、かつては池や沼だったと伝えられてきた湿地帯「鴻ノ池地区」で木材や石を使った奈良・平安時代の精巧な護岸施設を確認したと発表した。周辺の地形などから、周囲約400mの巨大な池を有する庭園跡とみられる。中央の都以外の地方の役所(国府)で巨大な池跡が見つかるのは珍しいという。
 多賀城の正門と政庁を結ぶ「南門間道路」西側の調査で発掘された。盛り土部分に木材を数本寝かせ、打ち込み杭で固定。上部の岸面には人の頭程度の扁平な石が張り付けられていた。
 今回の確認で池は人為的に造られた可能性が強まり、最長部分で東西約130m、南北約100mに及ぶ巨大な池だったとみられる。
 庭園は地層や出土遺物から8世紀後半から9世紀末まで機能していたとみられ、多賀城が、蝦夷との抗争などを経て勢力を拡大し、威容を誇っていた時期と重なる
[参考: 2009.11.5毎日新聞]

■多賀城・政庁南西地区 創建時の木の柵
 宮城県多賀城跡調査研究所が今年8月から政庁の南西部を発掘したところ、政庁を取り囲むように太さ約15cmの丸太の柱を並べた柵列の跡が出土した。724年頃の創建時に中心部分を囲んでいたとみられる。
 これまでに盛り土による囲いの跡は見つかっていたが、創建当初は木の柵で囲まれていた可能性が高くなった。
 柵列は、南北に延びる遺跡の中心線から西側に約56mの長さと推定され、古代の一町(約108m)に対応して設計されたことがうかがえるという。今夏には、政庁の中心の南約250mでも、この柵と平行して東西に延びる柵状の遺構が出土しており、二重の柵だった可能性もある。多賀城以前の陸奥国府とみられている仙台市の郡山遺跡でも、中心部分を木の柵で囲んだ遺構が見つかっている。
 多賀城は、盛り土でできた築地によって二重に囲まれていたことが分かっている。だが、続日本紀では、天平9年(737)4月14日の条に「多賀柵」と書かれ、木の柵で囲まれていた可能性が指摘されていた。
[参考: 2009.11.4読売新聞]

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 多賀城跡



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