行橋市延永・吉国地区の延永ヤヨミ園遺跡(のぶながやよみそのいせき)で、古墳時代の近畿起源である水の祭祀遺構「導水施設」とみられる、木の表面を刳り抜いた約4mの長大な木樋が出土したことが、今朝の毎日新聞ニュースで報じられた。
この導水施設は昨年12月~今年3月の調査で見つかったようで、行橋市市報「ゆくはし 平成23年7・1号 No.1096」で紹介されているし、7月12日から始まっている「発掘速報展2011」(九州歴史資料館・小郡市)で調査成果が公開されている(~9月11日まで)。
同遺跡は、標高10m前後の高台にあり、県教委が07年から約4万㎡を発掘調査し、弥生末~古墳時代の竪穴住居跡が400軒以上、掘立柱建物跡、井戸、土坑、奈良時代の道路跡が見つかるなど、当時の大規模集落遺跡と判明した。
「導水施設」の木樋は、長さ4m、幅35~70cm、厚さ5~15cmで、一方の端(上側)に2つのくぼみがあり、そこで水を濾してきれいな水を得たとみられる。 時期は古墳時代(3~6世紀)で、詳細な年代は調査中とのこと。
導水施設を表現した埴輪が、全国で約10点の発掘例があり、九州では大分県杵築市の御塔山(おとうやま)古墳で出土している。
先の大規模集落跡は、奈良時代になると住居はほとんどなくなってしまうという。 そのかわり、今回丘陵の北側から、奈良時代頃の1つの柱穴が1m四方ある3棟の建物跡が見つかり、そのうち1棟は3面庇建物であることがわかった。 井戸、道路、墨書土器が見つかっており、周辺には、1km東には古代の主要な港とされる「草野津(くさのつ)」推定地、3km西には椿市廃寺(700年頃建立)があることから、建物は役所のような施設であったと考えられている。
[参考:毎日新聞、九州歴史資料館HP、行橋市市報「ゆくはし 平成23年7・1号 No.1096」]
過去の関連ニュース・情報
2010.8.7 堺市・御廟山古墳 家形埴輪と囲形埴輪の接合作業により形状を確認
この導水施設は昨年12月~今年3月の調査で見つかったようで、行橋市市報「ゆくはし 平成23年7・1号 No.1096」で紹介されているし、7月12日から始まっている「発掘速報展2011」(九州歴史資料館・小郡市)で調査成果が公開されている(~9月11日まで)。
同遺跡は、標高10m前後の高台にあり、県教委が07年から約4万㎡を発掘調査し、弥生末~古墳時代の竪穴住居跡が400軒以上、掘立柱建物跡、井戸、土坑、奈良時代の道路跡が見つかるなど、当時の大規模集落遺跡と判明した。
「導水施設」の木樋は、長さ4m、幅35~70cm、厚さ5~15cmで、一方の端(上側)に2つのくぼみがあり、そこで水を濾してきれいな水を得たとみられる。 時期は古墳時代(3~6世紀)で、詳細な年代は調査中とのこと。
導水施設を表現した埴輪が、全国で約10点の発掘例があり、九州では大分県杵築市の御塔山(おとうやま)古墳で出土している。
先の大規模集落跡は、奈良時代になると住居はほとんどなくなってしまうという。 そのかわり、今回丘陵の北側から、奈良時代頃の1つの柱穴が1m四方ある3棟の建物跡が見つかり、そのうち1棟は3面庇建物であることがわかった。 井戸、道路、墨書土器が見つかっており、周辺には、1km東には古代の主要な港とされる「草野津(くさのつ)」推定地、3km西には椿市廃寺(700年頃建立)があることから、建物は役所のような施設であったと考えられている。
[参考:毎日新聞、九州歴史資料館HP、行橋市市報「ゆくはし 平成23年7・1号 No.1096」]
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